『勇者の帰還 1』
  

 魔法陣に飛び込んだ後に感じたのは、移動呪文にも似た一瞬の浮遊感。
 次の瞬間に感じたのは、目も眩むような眩しさだった。

「……っ?!」

 思わず、ダイはギュッと目を瞑ってしまっていた。
 眩しすぎて、とても目を開けられない。ずっと前、まだデルムリン島にいた幼い頃、太陽をまともに見つめ過ぎて目が痛くなった時のことを思い出すような痛みと眩しさだった。

 涙が零れそうだと思ったが、実際にはダイの目から水が一滴も流れ落ちることはなかった。
 ずっと水分不足の状態に置かれていた身体からは、涙なんて余剰成分はとっくの昔に消え失せてしまっている。

 また、魔界での乏しい光源に対応して暗闇でも見通せる目になっていた今のダイにとって、周囲の光は余りにも眩しすぎた。しかも、光は周囲一面に満ちている。

 痛みを和らげることができずにダイはただ、ひたすらに目を閉じるしかできない。なのに、瞼越しでも感じることのできる光は圧倒的だった。あれ程焦がれていた地上の光が、今は息苦しい。

 だが、その瞼をそっと塞ぐ感触があった。
 両目を手で覆われたのだと、混乱するダイにも分かる。普通なら視界を奪うその手の方が脅威を感じるだろう。が、ダイの心を満たすのは安堵感だった。 なぜならその手が誰の物なのか、ダイにはすぐに分かったのだから。

「ダイ、落ち着けよ。心配すんな、まだ目が慣れていないだけだ。
 すぐに治るぜ、大丈夫だ」

 優しい声が、何度も大丈夫だと告げる。決して痛くない様に気をつけて目を塞ぐ手から暖かさを感じるのは、微弱な回復魔法だとダイは察した。
 その手の心地好さに、ダイは息をつく。その声を聞くだけで、本当に大丈夫な様な気がしてくる。

「分かるか、ダイ? 今はちょうど、夜明け頃なんだ、だからそんなに日の光も強くないさ。目も癒やしたし、もう大丈夫だって」

 その言葉と同時に、パァッと世界が明るくなった。ポップが、ダイの目を覆っていた手を取り除いたのだ。

 さっきと違って、瞼ごしに感じるその明るさに痛みは感じなかったが、ダイは自分の顔に触れていた温かい手が消えたことにがっかりしていた。
 しかし、そんなダイの背をなだめるように、ポップの手が何度か軽く叩く。

「もう、いいだろ。深呼吸をしてから、ゆっくりと目を開けてみろ」

 また、眩しさに目を焼かれるのではないかという恐怖も、少しあった。だが、ポップがもう大丈夫だと保証してくれたからこそ、苦痛を超えて目を開ける勇気を持てた。

 ゆっくり、ゆっくりと、笑ってしまうぐらい慎重に目を開くダイの目に、再び眩いまでの光が満ちる。この二年間、一度も感じたことのない明るさに満ちた光の中に見えたのは、十数人の人影。
 その中で一際目についたのは、美しい少女の姿だった。

「ぁ……」

 魔法陣のギリギリ外側で、膝をついて座り込んでいる少女は、両手で口を押さえ込んで震えていた。その目からは、ひっきりなしにポロポロと涙がこぼれ落ちている。

 長い栗毛の髪を靡かせたその少女を一目見た途端、ダイにはそれが誰だか分かった。なのに、呼びかける声は頼りなげに震えてしまう。

「レ……オナ……?」

 ごく小さな呼びかけに、レオナは身を動かしかけた。一瞬、ダイは彼女が自分の方に駆け寄ってくれると思ったのだが、レオナはハッとしたように伸ばしかけた手を止め、何度もこくこくと頷いてみせる。
 と、その時、背後から再びポップの声が聞こえた。

「姫さんも、もういいぜ。この魔法陣の役割は終わった……だから、もう我慢なんかしなくたっていいぜ」

 その言葉と同時に、レオナは歓声を上げて飛び上がる。かと思うと、次の瞬間にはダイの身体は温かく柔らかなものに包まれた。

「ダイ君ッ、ダイ君っ、ダイ君ッ!! ホントにダイ君なのよね!? そうなのよね!?」

 泣き叫ぶような声が、何度となくダイを呼ぶ。ほっそりとした腕からは信じられないぐらいの力でダイに抱きつきながら、レオナは声を上げて泣いていた。

「え、えっと、レオナ……?」

 どうすればいいのか分からず、ダイは戸惑いながら彼女を呼ぶ。だが、それさえ耳に入っていないのか、レオナは泣きやまなかった。どうしていいのか分からずにおたおたしながらも、それでもダイはレオナを宥めるためと支えるために手を伸ばそうとする。

 そして、その手にまだ剣を握ったままだと気がついた。このままでは、レオナを抱きしめられるはずがない。

 ヴェルザーとの戦いの時から、決して放すまいとばかりに固く固く握りしめ続けた剣を、自らの意思で手放す。剣がゆっくりと地面に倒れたが、それさえ今ではどうでも良かった。

 やっと武器を手放すことのできたダイは、レオナの華奢な身体を恐る恐る抱きしめ返す。

「ダイ君、ダイ君……っ、本当なのよね……夢じゃないのよね……っ!?」

 何度も繰り返されるその呼びかけが、レオナの必死さをそのまま表現していた。
 思いもかけない柔らかさと、ここ二年間一度も嗅いだことのない良い匂いに驚きを感じながら、それでもダイも必死になって返事をする。

「えっと、レオナ、おれはおれだよ。おれ……帰ってきた、よ」

 それは、レオナに言っているようでダイ自身に言い聞かせる言葉でもあった。

 これが夢ではないと、紛れもない現実なのだと、確かめたくてたまらないのはダイの方だ。こんなにもレオナに強く抱きしめられ、ダイもまたレオナを抱き返しているのに、それでもまだ心のどこかでこれが夢ではないかと不安じみた感情がこみ上げてくる。

 まだ、実感が足りない――そう思うダイの心を見越したようにダイに抱きついてきたのは、レオナ一人だけではなかった。

「ダイ……ッ、よかった、無事だったのね。本当に、帰ってこられたのね……っ」

 レオナよりも控えめに、だけどしっかりと力を込めてダイの腕に手をかけたのは、淡い赤毛のよく似合う娘――マァムだった。そのすぐ後ろには、チウやクロコダインもいる。

「ダイ、信じていたぞ。よく帰ってきてくれたな……!」

「うむっ、さすがは勇者だなっ。ボクからもお祝いを言わせて貰おう!」

 クロコダインの巨大な手がバンバンと背中を叩く感触が、ひどく懐かしかった。それに、元気いっぱいでふんぞり返るような姿勢を崩さないチウも。
 と、そんなチウを押しのけるように、一人の魔族がダイの前に跪く。

「ダイ様、お帰りをお待ちしておりました」

 静かではあるが、堂々とした張りのある声。不遜とも言えるその態度と、あまりにもインパクトのある外見は、忘れようにも忘れられなかったものだった。

「ラーハルト……」

 実際に過ごした時間はごく短かったが、父親の部下でありダイの部下になりたいと名乗り出てきた魔族の男は、満足げに頷く。

「ダイ様の帰還は、元より確信しておりました。あの方も、魔界より生きて戻ってこられましたから……」

 淡々とした口調には、あまり感情がこもっていない様に思える。
 しかし、レオナやマァムの様な手放しの歓待とは形は違うが、この男もまた自分の帰還を喜んでくれているのが分かる。

 それに、後方にいるロン・ベルクやノヴァ、マトリフやアバン、フローラ、メルルなどの姿を見て、ダイの心は徐々に喜びに満たされる。その場にいる人達の名前も顔も、ダイは苦もなく思い出せた。

 日々、薄れていく仲間達の思い出に怯えていたダイにとって、その事実は確かな安堵感を与えてくれる。まして、仲間達の全員がダイの帰還を待ち望んでいたとばかりに喜んでくれているのだから、なおさらだ。
 それを確信して初めて、ダイはようやく自分が地上に戻ってきたことを実感した。

「みんな……っ、おれ……っ」

 言いたいことは山のようにあるのに、ありすぎて何を言っていいのか、分からない。息が詰まりそうな喜びを、胸いっぱいに溜め込んでいるしかないダイだったが、その時、パンパンと手を叩く音が小気味よく響いた。

「はいはい、皆さん、そこまで! 感動の再会は分かりますが、それはあとでもゆっくりできるでしょう? まずは、ダイ君に確かめたいことがありますので、申しわけありませんが場所を譲っていただけますか?」

 そう言いながらこちらに近づいてきたのは、紛れもなくアバンだった。見覚えのある珍妙な髪型に、穏やかな笑顔――が、その口元についているクルッとカールした髭を見て、ダイはちょっぴり疑問を感じる。

(あれ? アバン先生って、こんな顔だったっけ?)

 この時、初めて少しばかり不安を感じはしたが、それはごく微かなものだった。それを聞いて、レオナが渋々といった様子で離れた時に感じたさみしさの方が、余程大きかったぐらいだ。

「さて、ダイ君。どこか、特に痛むところか、具合の悪いところはありませんか?」

 優しい声でそう聞かれ、ダイは少し考え込む。

「えっと……へいき、だと思うけど……」

 もう、ずいぶん長い間、ダイは自分の身体の不調に悩むことなどなかった。回復魔法が一切使えないダイにとって、唯一無二の治療法は竜の騎士特有の自然治癒能力のみだった。どんな怪我をしても、放っておけばいつの間にか治る――その経験から、ダイは多少の傷など気にしなくなっていた。

 実際には、今のダイは深い傷こそないものの、大小の傷を全身に負っている酷い姿なのだが、その認識はまるでなかった。そんなダイを、アバンは一瞬だけ傷ましそうに見つめたものの、すぐに笑顔を取り戻す。

「そうですか、それでは何か欲しいものはありますか? たとえば、何かを食べたいとか、喉が渇いたとか」

 そう言いながら、アバンは手にしていた水筒を軽く持ち上げる。その際に聞こえたチャポンと言う水音に、ダイは一気に引きつけられた。

「みずっ!? 水、欲しいっ!」

 勢い込んで手を伸ばすダイに、さすがのアバンも驚いた様子だったが、彼はすぐに水筒を手渡してくれた。水筒を傾ける手間すらもどかしく、ダイは水を貪り飲む。

(……美味しいっ!!)

 甘い。
 そうとしか、思えなかった。乾くだけ乾ききった土が水を吸収するように、ダイは水を思いっきり飲みこむ。
 冷たい水が喉を通り抜けた瞬間、ダイは咽せた。

「ああ、ダイ君、そんなに一気に飲んでは……」

 アバンが窘める声が聞こえたが、とてもそれに構っていられるどころではない。砂漠で遭難した旅人のごとく、ダイは水を飲まずにはいられなかった。

 これまで、魔界でほぼ飲まず食わずで平気だったのが嘘のように、喉が渇いて仕方がなかった。さして時間もかけずに水筒を全部飲み干すまで、ダイは水を飲むのを止められなかった。

「ふぅ……っ」

 満足したというより、水筒が空になったので仕方がなく手を止めたダイだったが、本音を言えばもっともっと飲みたかった。
 と、そう思うダイの心を読んだかと思えるようなタイミングで、もう一度水筒が差し出される。

「こちらも飲んでいいんですよ。でも、その前に少し失礼しますね」

 アバンの手が優しくダイの背に触れ、ポンポンと叩くように撫でる。その手の温かさにうっとりとしてから、ダイはそれが回復魔法の温かさだと気がついた。

 特に身体の不調は感じていなかったのだが、回復魔法をかけられてスウッと楽になる感覚がしたので、やはりどこか疲れか多少の怪我はあったのだろう。その手に感謝をしながら、ダイは再び水を飲む。

 先ほどよりも大きめの水筒を、今度はダイはさっきよりも時間をかけてゆっくりと飲んだ。先程の倍以上の時間をかけて水を飲み干した頃には、アバンの回復魔法の効果か身体もずいぶんと軽くなる。

 だが、曲がりなりにも喉の渇きが潤った途端、現金なぐらい早くお腹が反応を示す。

 ここ二年近く、何も食べなくても平気だったはずのお腹からグゥと鳴る。同時に、胃がキリキリするような空腹感が蘇ってきた。一度意識してしまうと、それはすぐに耐えがたいほど切なく、腹を責め立ててくる。
 思わずお腹を押さえて俯くと、レオナがすぐに声をかけてきた。

「ダイ君? 大丈夫なの?」

 心配そうな表情を見せるレオナには悪いが、ちっとも大丈夫ではない。ダイは弱々しく首を振って訴えた。

「……おなか、すいた……」

 その一言に、一瞬緊迫しかけた空気が和らぐ。そんなダイに対して、アバンが苦笑しつつ頭を撫でてくれた。

「おやおや、ずいぶんとお腹も空いているようですね。では、まずはこれを口に含んでごらんなさい」

 そう言いながらアバンが口の中に押し込んできた物の正体を、ダイは見なかった。なにせ、いきなり口の中に飛び込んで来た食糧に興奮して、うっかりとアバンの指ごと噛みつかないように抑えるだけでも手一杯だったからだ。

 だが、その我慢と引き換えに、ダイの口の中に蕩けるような甘さがいっぱいに広がってきた。そのあまりの甘さに驚きながらも、ダイは口の中にあるものを噛む。

 一瞬だけ固いと感じた固まりは、すぐに口の中で溶けて、あっけないほどあっさりと消えてしまった。
 しかし、たった一瞬で消えたその甘さが寂しいと思う前に、アバンはもう一度同じ物をダイにくれた。

「はい、どうぞ」

 アバンの手の上に載った、黒くて小さないくつかの固まりをダイはまとめて口の中に放り込む。名前も知らないそのお菓子は、不思議なぐらいにダイの飢えた腹をじんわりと温めてくれる。

 まだ溶けきらない固まりまでゴクンと飲み込む頃には、痛いぐらいに空腹を訴えていた腹具合がマシになったように思えた。まだ足りないと本能は訴えるが、一部だけでも望みが満たされた途端、猛烈な眠気がこみ上げてくる。
 抑えようと思っても我慢できず、あくびが出てしまった。

「おや、ダイ君、眠いんですか?」

 そう訪ねられて、ダイはこくんと頷いた。

「う……ん、ね……むい……。でも、お腹……すいた……」

 まだ何かを食べたいのに、恐ろしいぐらいに眠い。どちらも今すぐ果たしたいのに、どちらを優先していいか分からない強烈な欲求に、ダイはどうしたらいいのか分からなかった。
 迷うダイに道を指し示してくれたのは、やっぱりアバンの声だった。

「安心して下さい、ダイ。すぐにご飯を用意してあげますよ。だから、それまで寝てていいですから」

 場違いなほど暢気に聞こえるのに、不思議と安心できる声。それを聞いて、ダイはオウム返しに呟いた。

「……あんしん……そっか、そう……なんだ……」

 魔界では、それは有り得ない言葉だった。
 魔界に落ちて以来、ダイには安心して眠る時間などなかった。身体を休めるためだけに眠りについても、いつも心の奥は尖っていて、何か異変を感じたらすぐに目覚めなければいけないという緊張感に満ちていた。

 だが、この優しい声は教えてくれた。もう、そんなことなどしなくていいのだと。
 緊張を解いて、眠っていいのだと。

 その誘惑には、耐えがたかった。喉の渇きも潤い、辛くてたまらなかった空腹感が割とマシなレベルにまで宥められた今、ダイの精神も身体も休息を欲していた。

 なにより、あれ程会いたかった仲間達に囲まれているという安心感は絶大だった。
 ここでなら、無防備に眠っても大丈夫。そう思った途端、スウッと意識が薄れる。

「おやすみなさい、ダイ」

 アバンの声を聞いたような気もしたが、それを自覚する前にダイの意識はそのまま眠りに落ちていた――。 《続く》

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