『勇者の帰還 6』
  

「ポップったら、こんな時なのにどこに行っちゃったのかしらね? 誰か、見なかった?」

 ごく当たり前のようにそんな質問をするマァムは、まだ、なにも気がついてはいなかった。それはどこまでも幸せな話だし、その場にいた半数ぐらいの者も同じようなものだったのだろう。

「さぁ、ボクはあの未熟者の姿なぞ見ていませんが。また、ルーラでへばってどこかで休んでいるかサボっているんじゃないですか? まあ、どこかで見かけたらボクからも叱っておいてやりますよ!」

 などと、的外れにも程のあることを言ってのけて元気よく部屋を飛び出していった大ネズミなど、勘の鈍い者はある意味幸せだった。

 普段ならマァムとチウのやり取りは微笑ましいものだったが、その時のヒュンケルはまさに凍りつくような思いを味わった。あと少しで渡りきれると思っていたボロボロの吊り橋が、危険な程に軋みを立て始めたのが聞こえるかのようだった。

 マァムの爆弾発言をきっかけに、一部の人間にはポップの不在を聞いただけですぐに思い当たることがあったに違いない。
 幸か不幸か、レオナもすぐに思い当たった一人だった。

「…………」

 それまでダイのことだけに集中しきっていたレオナは、ようやく周囲へと目を向ける余裕が生まれたらしい。涙すら滲んでいた目元を素早く拭うと、彼女は探る視線を周囲へと向ける。

 その目には、いつもの怜悧さが戻っていた。
 どんな真相でも見極めてみせると言わんばかりの目が、挑む様に周囲に走らされる。

 その時には、部屋の中に勇者一行の全員がいたわけではなかった。ダイの無事を確認した後、情報を他に知らせなければと部屋を出て行った者も少なくはない。ノヴァやクロコダイン、エイミなど、他国への移動手段を持つ者などは先を争うように部屋を出て行った。

 最後まで部屋に残っていたのは、眠ったままのダイ。
 彼のすぐ側につきそうレオナ、アバン、マトリフ。マァムとメルルもいた。それに、アポロにラーハルトもそれぞれ仕える主人のためにか部屋の隅に控えていた。
 ヒュンケル自身も含めて9人の人間がそこにいた。

 レオナの眼力は確かで、全員を一通り見た後で、アバンとマトリフの二人に視線を彷徨わせる。

 なのに、全く怯んだ様子も見せないアバンやマトリフの図太さはたいしたものだが、ヒュンケルにはそれ程の胆力はない。年齢離れした人間観察力を誇るレオナに見据えられた時には、正直、悩んだ。
 いっそ、自分の知っていることを口にした方がいいのか、と。

 理性では、その方がいいとは分かっている。ここまで話が進んでは、もう誤魔化しきれるはずもない。
 しかし、それでもヒュンケルの口に重しをかけるのは、ポップと交わした約束の存在だった。

 弟弟子との約束か、それとも敬愛すべき王女への義理か――心の中の天秤が激しく揺らぐ。 
 しかし、レオナはヒュンケルに話しかけることはなかった。彼女はもっとも簡単に真実を得られる相手に質問をぶつけた。

「そうね、あたしもポップ君がいつからいなくなったか、分からないわ。でも、あなたなら知っているんじゃなくて? ねえ、メルル」

 朗らかなその声に釣られるように、その場にいた全員の視線が占い師の少女へと向けられた。

「わ……私は……っ、わたし……」

 すでにメルルは、可哀想なぐらいに真っ青だった。小刻みに震えているその姿は、私は秘密を知っていると自白しているようなものだ。
 あまりに気の毒な様子に、もしヒュンケルが問いかける立場だったのなら『もういい』と言ってしまっていただろう。

 だが、レオナは毅然とした表情のまま、静かにメルルに問いかける。その目は、既に確信している者だけが持つ気迫に満ちていた。

「あなたは知っているんでしょう? お願いよ。メルル、教えてちょうだい……!」

 重ねてのその言葉こそが、決定打となったのか。メルルは今にも泣き出しそうな顔で、陥落した。

「……姫様、申しわけありませんが、私はポップさんがいつからいなくなったのか、分かりません。ですけど……彼が今、どうなっているかはだいたい分かります。
 ……ポップさんの気配が、薄くなっていますから。おそらく、昏睡に陥ったかと……」

 最後は消え入りそうな声でそう白状するメルルに、ヒュンケルは心から同情した。
 メルルは気弱な外見にそぐわぬ、優れた占い師だ。

 その上、メルルは感知能力に長けている。本来ならば知り得るはずもない情報を、遠方にいながら知ることができる。戦いの中では何度となく助けられた能力ではあるが、今はその能力が彼女の負担になっているのは間違いないだろう。

 聞くだけでショックを受ける情報をいち早く知り、なのに誰にも言えずに抱え込んでいたに違いない彼女の苦悩を思うと、もう黙ってなどいられなかった。

「――その娘の言う通りだ。ポップは今……深い眠りに落ちている。あいつをここに運んだのは、オレだ……ポップは幽閉室にいる」

 そう告げた途端、弾かれたように走り出したのはマァムだった。

「マァムッ!?」

 レオナが彼女を呼び止めようとしたが、とてもとめられるような勢いではなかった。それに、走り出したのは彼女だけではなかった。部屋に残っていてポップの現状を知った者達は、残らずマァムの後を追って走り出した。






 その後の光景は、ヒュンケルにとっては思い出したくもない悪夢の再現だった。
 いや、ヒュンケルだけではなく、ダイを除く勇者一行のメンバーにとっても忘れられない嫌な記憶だ。

 身動き一つしない眠りに落ちたポップの回りに仲間達が集まる。悲痛な声でポップに呼びかける者、辛そうにポップを見つめる者……反応は人によって様々だが、誰も彼を起こせないのには変わりはない。

 先程まではあれ程、勇者の帰還に喜んでいた仲間達の落ち込みは見ていて心が痛む。
 だが、今以上に心が痛む時がこの先にあることを、誰もが知っていた。

「……ダイに、なんて言えばいいのかしら……」

 途方にくれたように呟いたマァムの言葉は、誰かに話すための言葉ではなかっただろう。だが、他意のない独り言だからこそ、ヒュンケルの胸も深く抉る。

「とにかく、ダイが目を覚ましたらこのことを教えてあげないと――ああ、そうだわ」

 何かを思いついたように、マァムが顔を上げる。

「ダイをここに連れてきたらどうかしら? このベッドは広いし、ダイとポップが並んで眠らせてあげられるんじゃないかしら」

 マァムがそう言い出したのには驚いたが、それは十分に納得できる思いつきではあった。

 大戦中も、ダイとポップは一つのベッドで眠ることが多かった。それは戦時中で部屋数やらベッドの数が足りないせいでもあったが、並んで眠っている彼等は見るからに微笑ましくて、一行にとってはなごむ光景だった。

「……ええ、それもいいかもしれませんね」

 静かに、アバンが首肯する。
 昏睡はいずれにせよ、治療方法など全くない現象だ。
 伝染性の病気でもないし、眠る二人を一緒に寝かせても何の支障もないだろう。

 それに――それはダイやポップに対しての思いやりでもある。
 目覚めが保証されたダイと違って、ポップの方は最悪の場合、このまま目覚めない可能性もある。ならば、せめて少しでも一緒に居させてやりたいと思う気持ちは、マァムだけでなくこの場にいる多くの人間も同じだった――。






「え……? でも、おれが起きた時、ポップの側じゃなかったよ?」

 つい、ダイはそう口を出していた。
 言ってしまった後で、ヒュンケルの話を遮って悪かったかなと思ってしまったが、それでもこれは看過できない大問題だ。

 だからつい聞いてしまったにすぎないが、これまでダイのどんな質問にも答えてくれたヒュンケルは、そこで初めて口ごもった。

「いや、それは……」

 よほど言いにくいことでもあるのか、言いよどむヒュンケルに凜とした声がかけられる。

「待って、ヒュンケル。そこからは、あたしが説明するわ」






「レオナが説明してくれるの?」

 きょとんとした表情で自分を見返すダイに、レオナの心の奥がちくりと痛む。無邪気に自分を見つめるこの目が、これから話す説明を聞いた後には侮蔑や嫌悪のものに変わるかも知れないと思うと、怯みそうになる。
 だが、それを承知の上でレオナは大きく頷いて見せた。

「ええ、そうよ、ダイ君。あたしから話すわ」

 いつもに比べれば曇りのある表情ながら、それでもレオナは多少の無理をしながらも普段通りの口調で宣言した。
 実際、それから先の話をするのならば、自分以上の適任はいないとレオナは自負している。それに、それはヒュンケルへの思いやりでもあった。

 ヒュンケルはああ見えて、なかなかのフェミニストだ。戦いの中でも女性を尊重していたこの戦士は、平和になった今、その傾向にますます拍車がかかった。女性の失敗を口にするのは男らしくないと考えているのか、明らかに女性に非があったとしても、非難がましいことを言ったりはしない性格だ。

 そして、レオナは自分自身の犯した罪の深さも、自覚している。告白するのに、迷いはなかった。
 一つ、息をついてからレオナは語り始めた――。






「待って!」

 あの時も、レオナはそう叫んだ。
 全員の注目が自分に集まったのを感じながら、レオナは尋ねた。

「その前に、マトリフ師にお尋ねしたいことがあります。ポップ君の昏睡の限度期間は、どれぐらいでしょうか?」

 努めて冷静さを保ちながら、レオナはいかに自分が非道な質問を口にしているか理解していた。
 限度期間と言えば聞こえがいいが、今の質問はポップがいつ死ぬのかと聞いたも同然だ。

 マトリフにとって、ポップは手塩にかけた愛弟子だ。それを知っていながら、こんな酷な質問の答えを求める自分に、レオナは軽く嫌悪を感じる。
 だが、どうしても知っておきたかった。それに、その答えを出せるのはマトリフを置いて他にいない。

 ダイが行方不明になった直後にも、ポップは数日間の昏睡に陥ったことがある。その際、ポップの体力や限界を冷静に見極めたのがマトリフだった。そして今回もこの老魔道士は、情に流されることなく淡々と回答する。

「そうだな……せいぜい持って丸五日ってところか。ただし、これは発熱しなければの話だ。前も説明したと思うが、昏睡状態で発熱し始めたのならそいつの寿命はさらに縮まる」

「……前は、一週間以内ならば平気だと言っていなかったか?」

 口調こそ物静かだったが、ラーハルトの目つきは敵を目前にした戦士のそれだった。ほんの少しの嘘やごまかしも受け付けないとばかりに、咎める視線をマトリフに向ける。
 だが、マトリフは動じさえしなかった。

「ああ、あの時にはそう言ったさ。若くて体力のある奴なら、それぐらいは持つ。だがよ……今のこいつの体力があの頃と同じだと、本気で思っているのか?」

 皮肉めかしたマトリフの言葉に、部屋の中に沈黙が落ちる。
 この場にいる者ならば誰もが、ポップがダイを探すために無茶を繰り返してきたことを知っている。ポップの体調について詳細に知っているわけではないが、それでも大半の者が彼の衰弱を肌で感じ取っていた。

 それだけに、誰もマトリフに反論などできない。
 胸に突き刺さるような重苦しい沈黙――それを断ち切ったのは、レオナだった。

「――なら、四日目までは時間をちょうだい」

「レオナ? それ、どういう意味なの?」

 当惑したようにそう問いかけていたのはマァムだったが、疑問を感じたのは他の連中も同じだったのだろう。全員の視線を感じながら、レオナは極力平静を保ちながら言った。

「ポップ君が目覚めないまま四日が過ぎるか、それとも発熱し始めるか……それまでの間、ダイ君にはこのことを伏せておいて欲しいの」

 人はあまり突拍子も無いことを言われると、驚きが強すぎて咄嗟に対応できないことが、ままある。
 この時の彼等もそうだったらしい。

 呆気にとられたような顔、信じられないとばかりに自分を見る顔など、反応は人によって様々だったが、レオナは敢えて彼等から視線をずらして己の忠臣に命じる。

「アポロ、悪いけれどこれから、勇者帰還祝いのためのスケジュールを組んでくれるかしら? ただし、予定がどう変わっても問題がないように、臨機応変なゆとりを持たせて欲しいの。
 ダイ君が目覚め次第、いつでも実行できるように。ああ、予定はできるだけ多めに詰め込んでちょうだいね。忙しくて、他のことを考える暇がないぐらいに」

「姫様、それはいくらなんでも……」

 抗議と言うにはあまりにもか細いその声を掻き消す勢いで、喧嘩腰に声をかけてきたのはラーハルトだった。

「貴様……ダイ様を騙すつもりなのか?」

 王女に対して不遜すぎる態度だったが、レオナにとってはその剥き出しの敵意がかえって心地よかった。それがダイを案じているからこその敵意だと分かっているからこそ、反感も起きない。

「騙すなんて、そんなつもりはないけれど、そう言いたければお好きにどうぞ。あたしはただ、ダイ君に束の間でも平和を味わって欲しいだけよ」

 落ち着き払った口調で、レオナは自分の望みを口にする。

「ダイ君は地上を救ってくれた勇者なのよ? なのに、今までそれを実感することもないままだった……。ううん、それどころかこんな姿になってまで……」

 眠っているダイの姿は、ボロボロだった。
 デルムリン島にいた時よりもよほど野生児のようなひどい身なりは、彼が生存してきた環境がいかに過酷だったかを雄弁に物語っていた。

「あなたも知っているでしょう、ラーハルト。
 ポップ君がダイ君をあれだけ必死に探したのは、ダイ君に地上に戻ってきて欲しかったからよ」

 そして、それはレオナの望みでもあった。
 人間のためならば地上を去ってもいいとまで言ってくれたあの勇者に、伝えたかった。知って欲しかった。
 あなたの帰還を望む者が、こんなにも大勢いるのだと。

 地上に戻ってきてよかったと、ダイに思って欲しい――それがポップとレオナの共通の望みだった。それが痛いほどよく分かるからこそ、レオナはここで引く気などなかった。

「ダイ君を騙すことになっても、構わない。あたしは……ポップ君の意思を尊重するわ」

 たとえ、そのせいで後々、ダイや仲間達から非難され、恨みを買うことになるとしても。
 それでも、レオナは同じ結論を出すだろう。

 ポップが目覚めると分かっているのなら、マァムの提案通りにしてもいい。
 だが、ポップがこのまま目覚めない可能性は――悲しいことに、決して低くはないだろう。

 もし、ダイが目覚めてすぐにポップの昏睡を知ってしまったのなら、地上に戻った喜びもなにもかも、一瞬で消し飛ばされてしまうだろう。ダイとポップの間には、それだけの絆が存在するのだから。

 だが、それはレオナはもちろん、ポップ本人も望むまい。
 遠からず真相を知り、より深い悲しみや苦悩を味わうことになったとしても、それでもレオナはダイに、帰還の幸せを味わって欲しかった。

「五日目の朝が来たら……いえ、その前にポップ君が発熱したのなら、その時はあたしから本当のことをダイ君に教えるわ。
 だから……お願い。それまで、時間をちょうだい」

 レオナのその言葉に、もう誰も反対はしなかった。
 その後、いろいろと細かな雑務を終えてレオナがダイのいる部屋に戻ってこられたのは、深夜になってからのことだった。

 ダイは、よく眠っていた。
 ひどい格好にも拘わらず、ひどく安らかそうに眠っているダイの姿を見ているだけで、涙がにじみそうだった。だが、それは感激の涙とは言い切れない苦みが混じっていた。

 ついさっきまでは、弾むような思いでダイの目覚めを待っていたのと同じ場所に座り、レオナは正反対のことを祈る。

「ダイ君……お願い、まだ目を覚まさないで……!」

 ついさっき、一刻も早い目覚めを祈ったのと同じ強さで、レオナはそう望まずにはいられなかった――。






「ごめんなさい、ダイ君……! どんなに謝っても、許されることなんかじゃないけれど……」

 レオナがそう話を締めくくるまで、ダイは何も言わずに黙って聞いていた。
 正直、いろいろと一度に聞き過ぎて混乱している感じだ。だが、それでもダイには一つだけはっきりと分かることがあった。

「レオナ、謝らなくていいよ。っていうか、謝らないで」

 気丈にしようと気を張っているレオナが、辛い思いをしているのは明らかだ。だが、そんなのはダイには全然嬉しくない。それに、会わなくてもはっきりと分かる。

「ポップだって、レオナに謝って欲しいなんて思わないよ、きっと」

 そう――ポップは、最初から承知していた。
 ヴェルザーと戦うために最善の準備を尽くし、いざという時の切り札となる呪文まで用意してきたポップが、自分の身の負担について全く知らなかったはずがない。

 バランとの戦いの中で、命と引き換えに自爆呪文を唱えた時と同じように覚悟は出来ていたはずだ。魔界で会った時に、すでにダイはその可能性は察していた。

 ポップのためを思うのなら、無理矢理にでも追い返した方がいいと分かっていたのに、そうはできなかった。

 ポップが、あまりにもポップのままだったから。
 一緒に戦おうと手を伸ばす自分の魔法使いの手を、振り払うなんて到底できなかった――。

 少し、目を閉じてから、ダイは間違えないように指を折って数えてみる。
 今はダイが戻ってから四日目の昼だ。つまり、それはポップが昏睡に陥ってからも四日目だということになる。

 このままでも、レオナは明日の朝には真相を打ち明けてくれただろうし、ダイがここにいようがいまいが結果は変わらないのは知っている。
 だが、それでもダイは言った。

「レオナ。おれ……、ここでポップが起きるのを待ちたいんだ」

 昏睡状態の人間に対して、できる手当などない。
 普通の眠りと違い、昏睡に陥った魔法使いは仮死状態に近い状態で眠り続ける。一旦、寝床に安置さえしてしまえばもう周囲の人間がしてあげられることなどないのだ。

 後は昏睡に陥った魔法使いが、自力で回復して目覚めるを待つしかない。
 だが、そうと分かっていても、そうそう割り切れるものではない。たとえできることが何一つなかったとしても、側で付き添いたっていたいと思う。ダイ自身、魔王軍との戦いの最中にポップが昏睡した時は、欠かさず一緒にいた。

 ポップがちゃんと目を覚ますまで、心配で心配で側を離れるなんてできなかったし、眠るのさえ怖かった。いつポップが目を覚ましてもすぐに分かるように、いつだって一番近くで待っていた。
 それしかできないのなら、せめてそうしていたかった。

「ええ、ダイ君。そうしてあげて」

「……そうだな。その方が、ポップも喜ぶだろう」

 レオナだけでなく、ヒュンケルも即座に頷いてくれた。それにホッとした後で、ダイはやっと気がついたことがあった。

 よくよく見れば、ヒュンケルはずいぶんと疲れている様子だ。本当に今更ながら、ダイはヒュンケルの顔色の悪さに気がついた。ぎらつく目の光の強さとは裏腹に、その目の下のクマがはっきりと見える。
 あまり寝ていないのかもしれないと、ダイはなんとなく感じ取った。

「ヒュンケル、もしかして……ずっとポップに付き添ってたの? あんまり寝てないんじゃないの?」

 ダイの問いかけに、ヒュンケルは頷きはしなかったがその代わりに苦笑を返す。

「……こいつは、すぐに起きると言ったからな」

 言い訳のようにそう言うヒュンケルの気持ちが、ダイにはよく分かる。
 いつもよりもずっと深い眠りについてしまったポップが、いつ目覚めるかも知れないと思えば、側を離れたくないだろう。もし、ポップが目を覚ましたのならすぐに声をかけてあげるために。そして――不吉な考えだが、ポップに何かが起こったらすぐに気がついて対処できるように。

 そうそうすぐには目を覚まさないと分かっていても、ずっと側についていたくなる気持ちも理解できる。
 しかし、ヒュンケルはポンと軽くダイの頭に手を乗せていった。

「だが、オレはもうお役御免だな。後はおまえに任せるぞ、ダイ」

「……うん!」

 こっくりと、ダイは大きく頷く。

「おれ……ポップに、言いたいことがあるんだ」

「――奇遇ね、あたしもよ」

 レオナの顔に、小さく微笑みが浮かぶ。それはいつもより弱々しく見えたが、それでもレオナはポップに向き直り、いつもの気丈さを発揮して冗談めかせて言ってのけた。

「っていうか、ポップ君ってば全然分かってないんだから! いっつも無茶ばかりして心配をかけまくって……っ、目を覚ましたらうんと言ってやりたいことがあるわ!」

 そこまで言ってから、レオナはしばらく返事を待つようにポップを見やる。当然のように反応はなかったが、それでも少し間を置いてから、レオナはダイを振り返っていった。

「……でも、今は譲ってあげる。じゃあ、後はお願いね、ダイ君」






「ポップ。聞こえる?」

 レオナもヒュンケルも立ち去り、静かになった部屋の中でダイはそっとポップに呼びかける。
 もちろん、昏睡状態のポップが答えてくれるはずもない。でも、それは構わなかった。
 返事がないのを承知で、いろいろと言いたいことがあったから。

「おれ、じいちゃんに会えたよ。マァムやみんなもそうだけど、ロモスの王様とか、テランの王様とかにも会ったし、バダックさんとかアポロさんとか。あ、マリンさんとかエイミさんにも会ったし、いっぱいいろんな人に会ったよ。
 他にもね、名前も知らない人達にも会ったよ。みんな、うんと喜んでくれた。勇者様、お帰りなさいって」

 指を折って数えようとしても、数え切れないぐらい沢山の人達が、ダイの帰還を祝福してくれた。みんなが口を揃えて祝ってくれた。

 だが――ポップだけが、いなかった。
 魔界までダイを迎えに来てくれて、一緒に地上に戻ってきてくれたのは他ならぬポップなのに、彼だけは祝宴の中に混ざってはいなかった。

「変なの……帰ってこられたのはおまえのおかげなのにね、ポップ」

 みんなはダイを褒めてくれたけれど、本当に褒められるのはポップの方だ。帰る方法を見つけてくれたのも、躊躇うダイの背中を押してくれたのも、冥竜王ヴェルザーを説得してくれたのも、全部ポップだった。
 
「ポップ……いなくなったり、しないでよ……!」

 言いながら、ダイはポップの手を握りしめる。いつもは手袋に包まれているはずの手だが、今は素手のままだ。なのに、体温の暖かみではなく冷たさを強く感じてしまう。

 それが恐ろしくて、たまらない。
 バーンやヴェルザーと相対した時とは全く違う、心臓を冷たい手で鷲づかみにされているような恐怖に、息が詰まりそうだった。

「……ポップ……っ!!」

 じわりと目頭が熱くなってから、自分が泣いているのに気がつく。頬に涙が流れる感覚を、ダイはとっくの昔に忘れていた。泣くことさえ出来なくなったと魔界でおののいた記憶も、既に霞んでいる。前に泣いた時のことなんて、もう覚えてもいない。

 だが、今は涙を止められなかった。嗚咽が、勝手に喉を突いて出る。もう、あれから二年も経つのに、あの時のように子供に戻ってしまったようにダイは泣いていた。

「……ップ、…なら……やだっ、……えぐっ、う、…!!」

 ポップがいないなんて、嫌だ。
 心の中で渦巻くその言葉は、嗚咽に遮られて意味不明な声に成り下がっている。だが、それこそがダイの本心だった。

 ポップがいなくなるぐらいなら、ダイは地上に戻ってくる気はなかった。
 ポップの命と引き換えにするぐらいなら、魔界であの結界の中に籠もっている方がまだマシだと思えた。

 ポップがいないのなら、地上も魔界も同じことだ。
 帰ってきた時にあれ程嬉しかったのは、ポップがいたからだ。だが、それを失ってしまえば、緑の地上も魔界の荒野以下の地獄となる――。

「う……そ、つき……っ、いっしょ、に帰るって……っ言った…じゃ、ないか、ポップ……ッ」

「…………だ……れが、嘘、つき……だって……」

 不意に耳に飛び込んで来たのは、弱々しい、だが不満げな声だった。ハッとしたダイは、焦って視界を歪ませる涙をゴシゴシと拭う。強く擦りすぎて目尻が痛くなったが、そんなのを気にする余裕はない。
 いつの間にか、ポップがぼんやりと目を開けているのが見えたから。

「ダ……イか?」

 疑うように、ポップが問う。
 顔すら起こせないぐらい弱っているように見えるのに、それでもポップの声は感情豊かだった。

「う、うん……」

「マジで、ダイか? マァムとかじゃ…ねえよな……?」

「違うよ、おれだよ」

 いくらなんでも、ダイとマァムでは違い過ぎる。見間違うはずもないのにと不思議に思いながらも強く否定すると、ポップは目を閉じてなぜかため息をつく。

「……マァム、かと思った……」

 そう聞いて、ダイはぼんやりと思う。

(まだ、おれはマァムの次なのかなぁ)

 それはちょっぴり残念な気もしたが、不満などない。それどころか、ついさっきまでの不安や苦しさが一気に消えて、わくわくするような嬉しさが込み上げてくる。

 意識が戻ったのなら、昏睡はもう心配がない。
 ポップは死なない――そうと分かった途端、身体中から力が漲る気分だった。とてもじっとしていられない嬉しさのまま、ダイは声を弾ませる。

「なら、ちょっと待っててよ、ポップ! すぐにマァムを連れてくるから!!」

 マァムがどこにいるかは分からないが、彼女もしばらくはパプニカにいると言っていたし、探せば見つかるだろう。それにマァムもポップを心配しているに決まっているし、連れてくればポップだけでなくマァムも喜ぶに違いない。
 そう思ったのだが、部屋から飛び出そうとした声を弱々しい声が止めた。

「……って……!」

「え? なに、ポップ?」

 意識は戻ってもすぐに大きな声は出せないのか、ポップの声はボソボソとしていて聞こえにくい。なので、一度ダイはポップのベッドの側に戻る。ちょいちょいと指で招かれるまま顔を近づけると、ポップは小さな声で呟いた。

「そのまま、動くなよ……」

「? うん」
 ふらつく手を握り占め、やっとのように持ち上げるポップに、ダイは何をする気なのかと思いながらもじっとしている。と、ポップはその手をダイの頭の上に落とす。

「いたっ!? 何すんだよ、ポップ!?」

 痛いと言うよりはびっくりしてそう言うダイに、ポップは口端をちょっとだけ上げる。どうやら、笑ったつもりらしい。

「おれは……嘘つきじゃねーから、言った通りにしたんだよ……。覚えてねえのかよ、殴るっつったろ……」

 言われてから、ダイはようやく思い出す。

『会えたら絶対に一発ぶん殴ってやるって決めてたけど、二、三発追加してやろうかな、まったく』

 魔界で聞いた、軽口めいた言葉。
 てっきりポップ特有の軽口かと思っていたのだが、どうやら思っていたより本気だったらしい。

(……でも、今のじゃポップの手の方が痛くなったんじゃないのかな?)

 むしろ、ポップの手を心配してしまったが、ポップはまだ物足りないらしい。眠そうに目を瞬かせながら、また、指でダイを招く。

「……逃げんな……、起きたら、追加分殴るから……、ここにいろよ……」

 殴るから逃げるな、なんて言われれば世間の人は100人中99人は逃げるだろうが、ダイは逃げなかった。

「うんっ」

 むしろ嬉しそうに返事をし、ふと思いついたようにベッドへと潜り込んでポップの隣に並ぶ。ポップはなぜか嫌そうな顔をしたが、文句を言う様子もなかったので遠慮なく抱きつく。

 まだ体温は低めのようだが、わずかに身じろぎするその動きに安堵する。もう、ポップが眠ったまま目覚めないかも知れないと不安を感じなくていい。
 ただ、ポップが元気になって目覚めるのを待っていればいいだけだ。ならば、一番近くにいたいと思った通りにダイは実行した。

 ちらりと、レオナ達が心配しているだろうからこのことを教えてあげたいなと思ったが、思いがけずポップもダイを抱き返してきたのに驚いて、そんなことはコロッと忘れてしまう。

「……言い忘れてたけどよ、お帰り、ダイ……。よく、帰ってきたな……」

 すぐ耳元で囁かれたせいで、ダイにはその時のポップがどんな顔をしているのか、見えなかった。
 だが、それでもダイの胸に喜びが広がる。

 大観衆に帰還を祝ってもらった時以上の感動を味わいながら、ダイもポップにしっかと抱きついて言いたくてたまらなかった言葉を口にした。

「ありがとう、ポップ。――ただいま!」






 こうして、勇者ダイは地上への帰還を果たした。大魔王バーンが倒されてから、二年後の話である――。   END 

 

《後書き》

 魔界編の最終話に当たる話となる勇者の帰還です♪
 もう何年も前から、ダイが帰還した直後にポップが寝込んだネタをあちこちで書いていたので、そこはどうなっているのかと拍手コメントで聞かれることが多かったのですが、やっと話として書けました!

 読んでもらえれば分かると思いますが、これは『夜明け前』と対を為すお話になっていたりします。
 実はあの話を書いた頃から、この最終話につなげたいという希望はあったのですが、気まぐれに書きたい順番で書いているとは言え、まさか書き上げるまでにこんなに時間がかかるとは思いもしませんでしたよ(笑)

 でも、書きたかった話をちゃんと書き上げて満足です!
 しかし、一つ話を仕上げる度に、一、二個新しいネタを思いついたりするので、全然目標が減じている気がしないのですが(笑) 


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