『目覚めた時は、いつも』
  
 

 目覚めた時に真っ先に感じるのは、いつだって違和感と戸惑いだった。見慣れぬ天井を見あげ、首を捻らずにはいられない。
 まるで記憶が不自然に途切れてしまったかのように、一瞬、自分がどこにいるのかを見失う感覚。

 だが、その戸惑いはそう長くは持たない。
 覚醒と共に、理性と記憶が戻ってくる。

(ああ、そうだわ、ここは……)

 ここは、テラン城。
 より正確に言うのであれば、テラン城の離宮であり後宮だ。そして、自分はメルル――正式名は、メルローズ=マリー=ド=テラン。
 テラン王女となった今、テラン城で目覚めるのは当然のことだ。

 きちんと目を覚ましてさえしまえば、戸惑いは淡雪のように消えていく。見慣れないと言うよりも、見覚えのほとんど無い天井の正体が昨晩泊まった部屋の天井だと気がついてしまえば、恐れも感じない。起きると同時に忘れる夢のように、現実感を失って不安は解ける。

 寝起きの時だけに感じるほんの短い時間の、空間認識のズレ。
 いつもと違う場所で寝起きをした場合、それを感じる人は多いかも知れない。

 しかし、メルルにとってその感覚は毎朝のように感じる慣れ親しんだ物だった。すでにテラン城で暮らし始めてから一年以上経っていると言うのに、一向に慣れる気配もない。
 細やかではあるが、それがメルルの悩みと言えば悩みだった――。






 思えば物心ついた頃から、メルルはすでに『自宅』と言う概念を持たなかった。メルルの一番古い記憶は、祖母のナバラに手を引かれながらテランを旅だった日のものだ。

 両親と別れる悲しみに加え、故郷から引き離される不安と、強烈な喪失感――それらの記憶はメルルの原典として、深く胸に刻み込まれている。その思いがあまりにも強すぎるせいか、メルルはその他の記憶はよくは思い出せない。

 後に成長してから、メルルの両親が亡くなった日と、ナバラがテランから旅立った日が年単位で離れていることを知った。最初に母が病死し、そして一年後に後を追うように父が同じ病に倒れて亡くなった後、ナバラはメルルの面倒を見るために、しばらくの間テランで暮らしてくれていたらしい。

 しかし、両親の死の衝撃が深かったためか、メルルはなかなか立ち直らなかった。そんな孫娘の気鬱を案じて、ナバラは故郷を一度離れた方がいいと判断してくれた。

 占い師として優れた能力を見せ始めた幼いメルルを養子へと望む者も多かったので、それらの誘いを振り切る意味もあったのだろう。

 今となっては、祖母のその思いやりや慈しみの気持ちが身にしみるほどによく分かる。優れた占いの能力を持ってはいても、幼いメルルにはその力を制御などできなかったし、予知を平然と受け入れる精神力もなかった。

 ましてや、予知で知った未来を他人のために有効利用する術など、微塵もなかった。もし、メルルの能力を目当てにした養子縁組が成立していたのなら、それは双方にとって不幸な縁組みになったに違いない。

 当時のメルルは望んだ自分の意思で予知を引き寄せるどころか、夢という無意識状態で予知を垣間見るのがやっとだったし、また、その夢を他人にきちんと伝えることなどできなかった。

 ただでさえ人見知りをする性質で、他人に心を開くことが苦手なメルルは、知ってしまった未来の欠片や自分の悩みをどうすることもできず、ただ持てあますだけだった。

 当時のメルルは予知に怯え、せいぜい泣くしかできなかった。
 そんな役立たずの孫娘に対して、ナバラは常に公平だった。泣くメルルを慰めることはなかったが、だからといって泣くなと叱ることも一度もなかった。

『それは、占い師ならば誰もが負わなければならないものさ。誰にも言わず抱え込むも、誰かに話すのも、自分でお決め』

 祖母のその言葉を、今も覚えている。
 それを聞いた時には、突き放されたような寂しさを覚えたものだが、今にして思えば分かる。ナバラの言葉は、占い師としてこの上なく公平なものだった。

 それに、ナバラは占いを持てあましたメルルが祖母に打ち明けると言う選択を選んでも、文句一つ言わなかった。突き放しているようで、やんわりと孫娘を守ってくれるナバラに支えられながら、メルルは旅の中で成長していった。

 旅路の忙しさは、メルルに悲しみを感じさせる暇を奪ってくれた。あまり体力のある方でもなく、人見知りの激しいメルルにとっては旅は大変ではあったが、辛くはなかった。

 特に当てもない旅だったが、根無し草というわけではない。
 メルルとナバラの旅は、行き当たりばったりのように見せかけて、数ヶ月に一度は必ず故郷のテランに戻るという旅路を辿っていた。

 たまに帰る静かな故郷はいつだって優しくメルルを迎えてくれた。賑やかだがどこか馴染みにくい、見知らぬ町や村に比べて、常に静かで穏やかな故郷は帰る度にホッとできる場所だった。

 普段は旅をしていても、年に何度かは故郷に帰るという生活パターンはメルルの心を徐々に癒してくれた。
 だが、それでも――目覚めた時の違和感ばかりは消しきれるものではない。

 いくら故郷であり、かつてメルルが暮らしていた生家だとは言えど、滞在時間がこれ程短ければ馴染みきれないのは必然だ。結局、テランに帰郷している最中であっても、目覚めた時にメルルが感じるのは違和感だった。

 それが、不満だというわけではない。
 だが、時折、どうしようもなくそれを心細く感じてしまうだけだ。

 旅をしている以上、泊まる宿屋はほぼ違う場所だ。
 時として親切な村人の家にお世話になったり、天候のせいで足止めされて同じ宿屋に連泊した経験が全くなかったとは言わないが、旅の占い師だったナバラに付き添って旅をしていたメルルは、大抵は毎日違う宿に泊まることが多かった。

 毎日、本来なら自分がいるべき場所ではないと思う場所で目覚めるのはメルルにとっては、ごく当たり前のことであり、日常だった。

 その感覚は、未だに続いている。
 とうの昔に旅を止め、一箇所に腰を据えて住むようになってからもう一年以上も経っているのに、それでも寝起きの違和感や戸惑いは未だに消えてはくれない。

 おそらくは、これからもそうなのだろう。
 それは仕方がないことだと、すでにメルルは諦めていた――。





「ふぅん……目覚めた時の混乱の感覚、ねえ。あたしも魔王軍との戦いの時には時々寝起きに戸惑ったことがあったけど、今はもうそんなことないわね」

 ティーカップを手に、優雅に小首を傾げている絵のように美しい王女は、納得しきれないとばかりにそう呟いた。

 天与の宝冠のごとき栗毛が美しい彼女は、パプニカ王女レオナ。
 生まれながらの王女ならではの品の良さが、彼女にはある。お茶を飲む仕草の一つ一つにも、華があった。

「うーん……悪いけど、私もそうかも。そりゃあ旅に出たばかりの頃や、カールに移り住んだばかりの頃は少し戸惑うこともあったけど、でも、長い間じゃなかったわ」

 ピンと背筋を伸ばした姿勢と、生真面目に人を見つめる目が印象的な女騎士は、強さと美しさが見事に調和している。
 凜々しさを感じさせるのに、女らしさも身に備えている淡い赤毛の女騎士は、マァム。

 メルルにとっては数少ない女友達を二人は、メルルの零したちょっとした愚痴を聞き流さずに、自分の身に置き換えて真剣に考えてくれている。それはとても嬉しいことだが、少しばかり寂しいことでもあった。
 たとえ友達であっても、この感覚を共有できないと分かってしまったのだから。

(……いいんです、分かってはもらえないと思っていましたから)

 口には決して出さないが、メルルは心の奥でそう思う。
 レオナやマァムには悪いが、メルルには二人の反応は予想できた。
 普段と違う場所で眠った場合、人は寝起きに混乱することは多い。だが、多くの人にとってそれは長引かない感覚だ。

 なぜなら、人は慣れる生き物だからだ。
 引っ越した当初は戸惑いを感じても、しばらくそこに住むうちにいつの間にかそここそが『家』に変わる。そこが見知らぬ場所から家に変わった時点で、人は寝起きの混乱から解放される。

 つまり、どこかに定住さえすれば問題はないはずなのだ。
 旅の占い師だった頃ならいざ知らず、今のメルルにはれっきとしたテランの王女だ。義理とはいえ、父親や兄と呼べる存在も今のメルルには存在する。それなのに、未だに『城』を自宅と認識できない自分が、ひどく薄情な人間なような気がしていた。

 それだけに、こんな薄情な自分に共感してくれる奇特な人がいるなどとは、期待もしていない。
 それだけに、

「あっ、その感覚、分かる、分かるー!」

 と、ポップが言い出した時の驚きは深かった。

「え……!? ポップさんが?」

 驚きのあまり、不躾にもついそう言ってしまったがポップは全く気にした様子もなく、うんうんと頷く。

「それ、めっちゃ実感できるぜ! あれだよな、野宿ならまだましなんだけど、宿屋とかで起きると自分がどこにいるのか気づくまで、ちょっと時間がかかっちまうんだよな、不思議なもんだけど」

 腕を組んでしみじみとそう語る言葉が、まさにメルルが思っていたことと同じで目を丸くせずにはいられない。

「ポップさんもそうなんですか?」

 そう尋ねる声に、どうしても嬉しさが混じる。
 旅から旅の暮らしをしていたメルルは、自分の生い立ちがかなり特殊だと理解している。少なくともメルルは、自分と同年代の人間で似たような生活を送っていた人と出会ったことがない――そう思っていた。
 だが、ポップは力強く頷く。

「ああ、だっておれもアバン先生について、結構長く旅していたもんなー。旅自体は面白かったし、次々知らない所に行くのもよかったけど、寝起きの混乱ばかりはどうしようもなかったなー。
 未だに、その癖って抜けないしさ。おれも未だに城で起きた時、ちょっと混乱する時あるし。自宅に帰っても、起きた時にピンとこない時もあるしよ」

 あっけらかんとそう言ったポップの言葉に対して、メルルの胸の喜びは驚くほどに強く、深まっていく。

 決して共感してもらえないと諦めていたのに、自分と同じ感覚を持っている人が、いた――それだけでも、心強くて嬉しいのに、その相手が恋焦がれてやまない相手だったのだ。

 世界で一番、心をつなげたいと思っていた相手と、実は同じ感情を持ち合わせ、共感し合うことができたと知った喜びは大きかった。それがポップにとってはたいして意味もない、些細なものであったとしても、メルルの胸は勝手に躍り上がる。

「ええー、ポップ君ったら、今までそんなこと言ってなかったじゃない」

 と、いささか不満と言うか、呆れたようにそうに言ったのは、レオナだ。
 ポップがパプニカ王国に居住するようになってから、そこそこの時間が経っていることを思えば、彼女がそんな風に言うのも無理もない。内気とは正反対の気質のレオナは、さらになにか不満を言おうとした気配があったが、それをあっさりと断ち切ったのは勇者の一言だった。

「でも、レオナ。おれも起きた時、どこにいるのか訳わかんなくなることあるよ。たまに、まだ魔界にいるのかなって思う時もあるし」

「えっ、ダイ君も!?」

 ポップの発言に対するよりも、明らかに反応が大きかったりするが、その点をメルルは責める気などない。だって、メルルも同じ気持ちなのだから。

 ダイとポップ、二人そろって同じ感想を持っていたとしても、メルルが気になるのは思い人であるポップの方だし、ダイのことは気にはなっても、ポップ以上の感情や心配を抱きはしないだろう。
 レオナの場合、思いを向けている人がダイだと言うだけの話だ。

「それって大丈夫なの……?」

 ポップに向けたのとは比較にならない思いを込めた目でダイを見つめるレオナは、いかにも心配そうだった。
 その気持ちは、分からないでもない。

 二年という時を魔界でひとりぼっちで過ごしたダイが、心に大きなダメージを負ったのは想像に難くない。今でこそ大分慣れた様子だが、地上に戻ってきたばかりの頃は戸惑っている様子が手に取るように分かった。

 それからずっと、レオナはダイが地上に馴染むように心がけているのだから、心配するのも当然だろう。
 だが、ダイは屈託のない笑顔で言った。

「うん、大丈夫だよ! そんな時は、ポップのとこにいくから!」

 ごく当たり前のことのように、堂々とそう言い切ったダイに、ポップは苦笑じみた笑みを、そしてレオナはいささか引きつった笑みを浮かべる。

「そ、そお……それならいいんだけど」

 口ではそう言いつつ、レオナの内心が穏やかならざぬことは、一目で見て取れる。

 ダイが安心感を覚えるのは嬉しいが、それを与えられるのが自分ではないことがもどかしく、ちょっぴり悔しい――乙女心とは複雑怪奇なものである。
 メルル自身とて、そうだ。

(ダイさんが、羨ましいです……)

 目覚めた時に感じる違和感は、この場所に自分がいていいのかどうか、迷う気持ちがあるからこそ生まれるものだとメルルは解釈している。だからこそ、住んでからの日数に関係なく城という存在に馴染めないのだろう。
 自分の居場所がそこにあると、確信を持つことができないのだから。

 ポップにも、同じ思いがあるのだろう。
 メルルと違い、ポップは自分の意思で旅立ったとはいえ、飛び出した実家への戸惑いやわだかまりもあるだろうし、庶民出身の彼が城に馴染めないのもよく分かる。

 だが、ダイは違う。
 ダイも、居場所には馴染めていないように思える。その思いは、メルルやポップとは比べものにならないぐらい深刻なはずだ。

 大戦中、自分が人間ではないと悩んだ小さな勇者の姿を、メルルは今も覚えている。出生の秘密を知った後、彼は生まれ故郷がとっくに消滅していた事実も知ってしまった。

 それを考えれば、ダイこそが一番、自分がこの場所にいてもいいのだろうかと不安感を抱いても不思議ではない。
 だが、ダイは居場所を『土地』には求めなかった。

「ったく、しょうがねえ奴だなー」

 呆れたような口調で笑う魔法使いの隣こそが、ダイが求めた自分の居場所なのだろう。
 土地ではなく、大切な人を基準に居場所を定めたダイの迷いのなさが、メルルには目映く、羨ましく思える。

 そう思いながら、メルルはそっとお茶を飲む。
 多少冷めたとはいえ、まだ暖かさを充分に残したそのお茶は、豊かな香りと共にメルルを満たしてくれた――。  END 


《後書き》

 勇者帰還後の、メルルをメインとした女子系お茶会なお話です♪ ま、女子ではないのも約2名ほどおまけに入っていますが(笑)

 寝起きに、自分がどこにいるのか分からなくなる感覚ってのは、引っ越した後など感じるので以前から不思議に思っていました。以前とほぼ同じ間取りの家に引っ越して、荷物も前と同じように配置しても、それでもここは自宅ではないと思う感覚が発生するみたいです。

 飼っていた猫もずいぶんと戸惑っていましたし、どうやら生物にすり込まれた縄張りへの安心感というのは意識しているよりも根深いみたいですね。

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