『そして、彼は賢者になった ー中編ー』
  

「ふん、一応、礼は言っておくぜ。ありがとよ」

 とても礼を言っているとは思えないぶっきらぼうさで、マトリフはアポロの差し出したかごを受け取った。

 これで、用事は終了した。
 マトリフがそのまま背を向けたのを、アポロは引き留めなかった。

 これでポップとの約束は果たしたのだし、人間嫌いのマトリフが愛想良く振る舞ってくれることなど、期待もしていない。それに、マトリフに問わずともアポロの確かめたいことは、知ることができた。

「……!」

 ある程度心構えをしておいたため声こそは上げなかったが、それでも息をのむのは避けられなかった。

 アポロが目にしたのは、その『呪文』の痕跡だった。
 マトリフの洞窟から少し離れた場所に、忽然とあったその跡――いや、なくなった跡と言うべきだろうか。
 その部分だけ、岸壁の形が変わっていた。

 人間の身長の数倍もの直径の大きな穴が、ぽっかりと開いていた。その痕跡につられるように、アポロはふらりとそちらに近づいていた。
 近づけば、その痕跡の異様さがはっきりと分かる。

 ぱっと遠くから見ただけならば、そこは変わった洞窟だとでも思って見逃してしまうだろう。岸壁の土手っ腹に大穴が開く形の洞窟など不自然もいいところだが、自然の造形は人間の思慮を超えるものだ。

 不自然で奇異な自然の風景など、いくらでもある。変わっているがそんな物だと認識してしまえば、誰もいそれ以上の興味を持たなくなるだろう。実際、アポロも意識せずにここに来たら、あんなところに洞窟などあったかなと疑問に思っても、特にそれ以上関心を持たずに見逃したに違いない。

 しかし、近くに寄ったおかげで、アポロはその痕跡の凄まじさに気づけた。
 その洞窟は、新しかった。それこそ、たった今、岩を切り取ったばかりとしか思えないほどスッパリと断ち切られた岩壁だった。爆弾や一般的な魔法……火炎系呪文や爆裂呪文を使った時と違って攻撃の痕跡などは、一切残っていない。

 たとえるなら、それは超巨大な型抜きで抜かれた跡、とでも言おうか。
 クッキーを作る際、型抜きを使って型の形に生地を切り取ったのにも似た、見えざる型抜きで切り取られた跡が、そこにはあった。それこそ、魔法とでも思わなければ説明のつかない痕跡だ。

「やっぱりメドローアか……!」

 背筋が震える思いだった。
 それは、単に自分の推測が正しかったことから生まれた興奮だけではない。かつて、焦がれるほどに憧れた幻の呪文を、再び目の当たりにした歓喜によるものだ。

 そうやって魔法の痕跡に見入っていたアポロの背後から、嗄れた声が聞こえてきた。

「……ふん、気がつきやがったか。まあ、おまえさんには見せたことのある呪文だったから、当然と言えば当然か」

 ぎくりとして振り返った先にいたのは、マトリフだった。
 自分の洞窟に戻ったと思っていたマトリフがいつの間にかここに来ていたことにも驚いたが、彼の言葉にも驚かずにはいられなかった。

「まさか……覚えておいでだったのですか?」

 信じられない――というよりは、信じたくないから否定して欲しい気持ちで問い返した言葉だったが、現実は非情だった。

「まぁな。単に助けただけってんならまだしも、ここに押しかけてきて弟子にしてくれなんて抜かしていたガキなら、さすがに忘れっこねえよ。まあ、さすがにずいぶん成長しやがったから、思い出すのに時間がかかったがな」

 そう言ってニヤリと笑うマトリフを前にして、アポロは言うに言われぬ恥ずかしさを味わった。だが、目の前の老魔道士はそうそうアポロを解放してはくれないらしい。

「にしても、その言いっぷりだと、そちらさんはオレのことに気づいていたみてぇだな。なのに、今までだんまりを決め込んで挨拶もしねえとは、ちとつれねえんじゃねえのか?」

 久しぶりに会った親戚に、子供の頃の恥ずかしい失敗談を暴露されたかのような羞恥心に身を焼かれながら、アポロは深々と頭を下げる。

「ご無礼をお許し下さい。何せ数ならぬ身ですので、わざわざ名乗りを上げてまでご挨拶をするのも僭越かと思いましたので……本当に、あの頃はまだ子供だったとは言え、不躾なことをして申し訳ありませんでした」

 まさに、顔から火が出る思いだった。
 顔を真っ赤にして、アポロは懐かしくもほろ苦い過去を思い出していた――。





 それは、今から十数年前のこと――。
 当時、アポロは孤児だった。

 それは、当時としては大して珍しくもない境遇だった。15年前に魔王ハドラーが侵略してきたせいで多くの人が被害を受け、その結果、多くの孤児が溢れていた時代だったのだから。

 だが、アポロが普通の孤児と違う点と言えば、彼が魔法を使えるということだった。

 誰に習ったわけでもなかったが、アポロは物心ついた頃から初級火炎呪文を使うことができた。それこそ魔法契約をしたこともなく、魔法書の一冊も読んだこともないのに、いつの間にか自然に使えていた。

 そんなアポロを周囲の大人達は天才だの神童だのともてはやしてくれたし、彼自身もそう思っていた。
 自分は普通の人間とは違う、特別な……言うなれば、選ばれた存在なのだと。

 今思えば、全く思い上がりも甚だしいというものだ。
 後に知ったことだが、パプニカ王国では洗礼代わりに精霊神ルビスの祝福を授ける地方があるらしい。簡易的とは言え、それも一種の精霊との契約ではあるので、魔法の才能のある子ならば成長すればそのまま魔法が使えるようになる。

 とは言っても、無制限ではなく、術者が最も得意とする魔法一種類に限られるようだが。
 なんのことはない、自分はただ、単に他の人間よりも早く魔法契約を済ませていただけに過ぎない。

 後に調べたところ、ルビスの祝福による魔法契約の場合、本人が魔法使いになりたいと思うよりも先に魔法力が暴走する場合も多々あり、危険だと言うことで現在ではほぼ廃れてしまった習慣だったようだ。

 おそらく、アポロが生まれた頃でさえ辺境でごく僅かにしか行われていない、特殊な習慣だったのだろう。だからこそ、何の事情も知らない人達は素直にそれがアポロの素質と買いかぶってくれた。

 真実を知らぬまま、孤児院で暮らしていたアポロはある意味で幸せだったのだろう。
 他の子供達と違って、生まれつき魔法の使える特別な子として扱われていたのだから。

 孤児の子を見学にくる大人達も、この話を聞くと決まってアポロに注目してくれた。誰かに言われる度に、得意げに火の魔法を使って見せた記憶は、今となっては思い出すのも恥ずかしい黒歴史に近い。

 そんな風に調子に乗っていたツケは、思っていたよりも早く払わされることになった。






「よぉ、坊主。ここの孤児院に、生まれつき魔法を使える子がいるんだってな。それって、どの子なんだい?」

 そんな風に声をかけてきたのは、見知らぬ男だった。
 今思えば、男の崩れた身なりや口調から、子供が関わらない方がいい相手だと気がついていいはずだった。

 孤児ではあっても、面倒を見てくれた神父やシスター達は普通の親と同じく、知らない大人について行ってはいけないと教えてくれたのだから。
 だが、その時のアポロは軽はずみだったとしか言い様がない。

「ぼくだよ! おじさんも魔法を見たいの? 見せてあげようか」

 頼まれもしないのに、喜々として自ら魔法を使って見せたアポロに対し、その男は大げさに褒めてくれた。

「ほう、すごいすごい! なかなかやるじゃねえか。こりゃあ、たいしたものだ!」

 多少でも世間を知っていれば、そんな褒め言葉などは社交辞令だと分かっただろう。
 だが、当時のアポロは子供だった。

 それも、褒められることに飢え、孤児であることが嫌で嫌でたまらず、養子になりたいと思い続けていた子供だった。だからこそ、散々褒められた後で、男が言い出した言葉を疑わなかった。

「すごいなぁ、坊やは。どうだい、おじさんの知り合いで、坊やのように魔法を使える子供を欲しいって人がいるんだけどよ、そこの家の子になる気はねぇか? そこの家には子供がいなくって、坊やのような子供が欲しいってるんだがよ」

 それを聞いて、ぱぁっと周囲が輝いたような気分になったことを、アポロは今でも思い出せる。

「それ、本当……!?」

 孤児にとって、『養子』は垂涎の夢だ。
 孤児院の居心地が悪いわけではないが、どんな孤児も多かれ少なかれ普通の家に憧れを抱く。みんなを平等に世話してくれる神父やシスターではなく、自分だけを我が子として愛してくれる両親を欲しがらない子など、いないだろう。

 大勢が暮らす孤児院ではなく、家族だけで暮らす一軒の家。もし、運が良ければその親はお金持ちで、自分だけの部屋や自分だけの服などをもらえるかもしれない。

 それは、みんなと物を共有しなければならない孤児院の子供にとっては、のどから手が出そうな程に憧れる生活だ。

 だからこそどんな子も、養子を選ぶために見物人がやってくる時には、落ち着きをなくす。自分こそを選んで欲しいと望み、出来るだけいい子に見えるようにと振る舞う。

 アポロも、その例外ではなかった。
 と言うよりも、誰よりも焦っていたと言った方が正解かもしれない。
 養子になるには、年齢制限がある。

 まあ、建前上では年齢が幾つであろうとも、養子縁組は可能とされているが、少なくとも孤児院の子供にとって、『子供』でいられる期間は短い。

 孤児を欲する養父母に最も人気があるのは、なんと言っても物心つく前の子供だ。それも、若ければ若いほどいいようで、赤ん坊は引っ張りだこと言ってもいい人気っぷりだ。

 その気持ちは、アポロにも分からないでもない。
 犬や猫を育てた経験があれば分かるが、成長しきった大人の犬猫を懐かせるのは、なかなかに大変だ。だが、乳飲み子の頃から育てた動物は、容易く懐かせることができる。

 だからこそ、養子を欲しがって孤児院を訪れる大人達は、決まって小さな子から注目していく。

 その次に重視されるのは、容姿だ。
 やはり目鼻立ちが整っていて健康な子ほど、人気がある。そして、次は性格。素直で、人なつっこい子ほどもらわれやすいのは、その辺も犬や猫と同じだ。

 勉強が出来るだとか、何らかの特技があるだのに注目されるのは、ようやくその次ぐらいだ。

 つまり、アポロの自慢である魔法は、養子になる上ではほとんど役に立たないも同然だったのだ。むしろ、魔法にあまり縁のない一般人ならば、面倒な特技と思って忌避しがちな特徴と言えるだろう。

 だが、当時のアポロはそれに気づいてもいなかった。
 なぜ、魔法を使える自分が養子に選ばれないのかと、不思議でならなかった。

 純粋に養子として引き取られるのは、せいぜい10歳そこそこぐらいまでの話だ。それ以上育ってしまえば、可愛がる対象の子供としてではなく、労働力を当てにして引き取られることになる。

 農家などに引き取られた孤児の少年が、可愛がられるどころか、それこそ牛馬のように重労働を強いられるなんてのは、よく聞く話だった。

 それが本当の話だったか、あるいは単に先輩だった孤児達がふざけ半分に脅しただけだったのかは、今となっては分からないが、当時のアポロはその話を本気で信じていた。

 だからこそ、アポロは焦っていた。
 当時の年齢は正確には覚えていないが、多分、7、8歳ほどだったか……なんとしても10歳になるまでに、養子になりたいと切望していた。

 農家に引き取られ、一日中働きに追われる生活などごめんだと思っていた。お金持ちに引き取られ、ちゃんとした勉強をしたいと思っていた。

 孤児院でのように、簡単な読み書きすらできない子供達に合わせて、いつまでもごく初歩の授業を受け続けるのではなく、お金持ちの子がそうしてもらっているように家庭教師に習いたいと。

 それならば自分のペースで、知りたいと思うことをたくさん習うことができるだろう。それに、本だっていっぱい読みたいし、文字を書く練習に使う石版や蝋石だって欲しかった。

 今、アポロが使っている石版は古くてどんなに拭いても曇りが拭えないし、大きなヒビが入っていて使いにくい上に、一人ではなく隣の席の子と共同で使っている代物だ。

 だが、お金持ちの子になれば、新品の石版や蝋石――いや、それどころか紙さえも自由に使えるようになるかもしれない。
 そんな希望に取りつかれたアポロにとって、怪しげな男からの申し出は渡りに船だった。

「ああ、本当だとも。おじさんは、その家の人に頼まれてここに来たんだ。よければ、坊やが来てくれるかい? 坊やならきっと、そこの家の人達に気に入られて、うんと可愛がってもらえるぜ」

 そう言われて、アポロは一も二もなく頷いた。

「じゃ、ぼく、荷物をまとめてくるから。それに、神父様に言わないと!」

 興奮した気持ちのまま、アポロはとっさにそう口走る。
 孤児院での生活で、養子としてもらわれていく子供が荷造りをするのを、何度も見てきた。それに、養子になる子のためにお祝いをするのも、恒例だ。

 時間に余裕があるのなら、神父やシスターだけでなく孤児院のみんなも、孤児院を巣立つ子供への細やかな餞を用意する。いつもの夕食が、少しだけ豪華になったりとか、いつも着ている服ではなく、少し良い服をあつらえてくれたりとか。

 孤児の子供達も、それぞれが思いのこもったプレゼントを選ぶ。ほんの僅かでもお金がある子なら、村の道具屋で買える物を。お金のない子や小さな子なら、摘んだ花や木の実、絵など、それぞれなりに心を込めた物を選んでくれる。

 そんな風に、自分も皆に祝福されて孤児院を旅立てるのだと、胸が弾む思いだった。
 急いで孤児院へ戻ろうとしたが、男に引き留められた。 

「おっと、それには及ばねぇ。その家の人はすげえお金持ちでよ、坊やが欲しいものは何でも買ってくれるから、荷物なんていらねえよ」

「え……?」

 そう言われて、全くためらわなかったと言えば嘘になる。
 孤児ではあっても、自分だけの荷物や宝物はある。細やかな物には違いないが、それはアポロだけの物だ。それを手放せと言われれば、迷わないわけがない。
 だが、男は早口にたたみかける。

「それに、この話は急ぐんだよ。今すぐに行かないと、この話はナシってことになっちまうんだ。なにせ、そこん家はお金持ちでよ、他にもそこに行きたいって子はたぁっくさんいるんだ、急いで行かないと間に合わないぜ」

 そう言って、男はアポロの腕をとって歩きだす。
 これには、さすがにアポロも驚いた。だが、男は重ねて心配はいらないと言った。

「なぁに、神父さんにはすでに話してあるから、心配はいらねえって。こんなところでグズグズしてたら、せっかくのいい話が台無しになっちまうんだ、魔法を使えるような子なら、どうすんのが賢いのか、分かるだろ?」

 そう言われて、アポロは考えた。少なくとも、考えたつもりだった。
 賢い方法を。
 今まで持っていた物を全部手放しても、また新しく欲しいものを買ってもらえるのなら、損をするわけではない。

 そして、孤児院に戻って時間を無駄にしてしまえば、めったにないチャンスを逃してしまう。ならば、このまま男と行った方がいい。
 それが賢いやり方だと本気で考えた過去の自分に、アポロは苦笑を通り越して呆れずにはいられない。

 もし、当時の自分に会えるのなら、なんて愚かなことをしているんだと、小一時間説教したいところだ。
 だが、当時のアポロは『賢く』振る舞った。

 おじさんのいいなりについて歩き、乗り合い馬車に乗せられた時も、大人しくしていた。
 気づくチャンスは、充分にあったはずだった。

 たとえば、おじさんの言う「お金持ちの知り合い」は、どんな人か聞いても曖昧にしか答えない上、訊く度に微妙に言うことが変わっていたし、行く先だって同じだった。

 いつ訊いても、もうすぐ着くとしか言わない男に、不信感を覚えてもよかったはずだった。
 途中で逃げるチャンスも、他の大人達に助けを求めるチャンスも充分にあったのに、それら全部を無視して大人しくついて行った。

 アポロが育った孤児院から遠く離れ、人里離れた場所にまで、賢い子供に相応しい従順さでついて行った。
 そして、その挙げ句辿り着いたその先は――今にも泣き出しそうな顔の子供達がぎっしり詰まった檻の中だった。





 その先は、絶望しかなかった。
 魔法が使えるからと誘拐されてきた子供達がひしめき合う檻は、孤児院よりもはるかに劣る場所だった。

 そこは、薄暗い場所だった。後で思えば、おそらく洞窟の奥に檻を置いてあったのだろう。檻からは決して手の届かない場所で、頼りない松明が揺れているだけが唯一の明かりだったが、それは返って暗さを強調しているようにしか見えなかった。

 ろくすっぽ食事も与えられなかったし、なによりも、大して広いとは言えないその檻の中では、魔法が使えなかった。

「へへっ、あばよ、坊主。あんなに大人しくついてきてくれて、ありがとよ。へっ、全く賢いガキだったぜ、てめえは。せいぜい、魔族に可愛がってもらうこったな」

 さも、アポロを馬鹿にしたようにそう言いながら、札束をポケットにねじ込んで去っていた男に対して、言い返す言葉すら思い浮かばなかった。
 泣くだけの気力もなく、アポロはその場に蹲るだけだった。
 今度こそ、逃げ出せる余地はなかった。

 そこで子供達の面倒を見ていたのはフードを深くかぶった男達だったが、
彼らは一言も口を利かなかった。

 面倒を見ると言っても、食事の時間になると食料をまとめて放り込むという雑な物で、子供達がそれを奪い合って騒いでも、外に出しても泣き叫んでも、知らん顔を貫いた。

 と言うよりも、全くこちらの言葉など聞こえていないような徹底っぷりだった。

 奇妙に無機質なその男達は、誘拐した張本人と言うよりも、その手下という印象を受けた。だが、そんなことを気にする余裕など、どの子にもなかった。
 一体、これから自分たちがどうなるのか……その不安だけで、手一杯だった。

 今はまだ、檻の中とは言え水も食事ももらえるし、ひどいこともされていない。だが、この先もそうだとは限らない。
 もしかしたら、殺されるか……あるいは、もっとひどい目にあわされるのか――そんな不安に苛まされながら過ごしたのは、そう長い日数ではなかったらしい。

 少なくとも、成長後に調べた結果、せいぜい3、4日、最長でも一週間はいなかったと分かった。

 しかし、当時のアポロには、それは永遠の地獄に思えた。
 悪夢以上の悪夢の中で、ただ、ただ、絶望に浸っていた日々。その終わりは、唐突にやってきた。





 
 その日、いつものように夕食が檻に投げ込まれた。
 いや、もしかするとそれは夕食ではなく朝食だったのかもしれない。どちらにせよ、食事が差し入れられるのは一日に一度っきりだったので、どちらでも同じことなのだが。

 なにせ洞窟の奥なだけに、日の光が全く指さないため時間を測れない。堅くなりかけたパンやチーズをバラバラと放り込み、長い柄杓を使って水桶に水を補充する。
 それが、彼らのいつものやり方だった。

 それは、人が鳥に餌をやる方法に似ていた。人によっては、注意深く観察し、一羽、一羽がきちんと餌を食べるか確かめるだろう。だが、彼らは義務的に食事は与えてくれるが、その分配まで気にすることはなかった。

 そのため、素早い子や身体の大きな子が、真っ先にパンやチーズを拾い上げる。小さな子は、最後の方の余り物を拾えればいい方だった。
 誘拐された子の中では、小さい方に入るアポロにとっては、辛いシステムだった。

 それでも、その日は幸運だった。
 運良く、アポロのいる所にパンが転がってきてくれたおかげで、なんとか食糧を確保できたのだから。
 ほっとして、パンを抱え込んで、ちびちびと食べる。

 本当は一気に食べたいところだが、これは一日分なのだ。何の考えもなく全部食べてしまえば、後で空腹に泣くことになる。
 そうやって、パンを食べている時のことだった――その、足音が聞こえてきたのは。

「……?」

 不安げに、そちらに顔を向けたのはアポロだけではなかった。
 これまで、フードの男達以外の者がやってきた試しはない。
 これまでにないことに戸惑いや不安を感じるのか、アポロだけでなく他の子供達も食事の手を止めて、ざわめく。

 それに比べれば、フードの男達は落ち着いていた。
 無言のまま足音の方に向き直り、身構える。片手を開いたまま突き出す姿勢は、魔法をいつでも放てるぞと言う意思表示だ。つまり、言ってしまえば、臨戦態勢である。

 そんなことは、まだ魔法使いとも言えないアポロにさえ分かるのに、近づいてくる足音の主は気にした様子もない。
 ズカズカと無造作に進んできたのは、一人の老人だった。

 杖を手にしたその老人がかなりの年齢なのだろう、背がエビのように曲がっている。だが、その足取りはしっかりしたもので、何の迷いもなくこちらへと向かってくる。

 はっきりと、その顔が見分けられる距離まで近づいてきたのを見て、初めて、フードの男達が声をあげた。

『警告スル、ソレ以上近ズクナ。サモナクバ、攻撃魔法ニテ排除スル!』

 不気味な程にきしんだ、耳障りな声。
 だが、老人は全く怯む様子もなく、ニヤリと笑う。

「ヘッ、木偶人形ごときに、それができるとでも?」

 まるで、面白がっているかのように余裕たっぷりの声と同時に、老人の掌の上に炎が躍る。林檎ほどの大きさの火炎を、まるでお手玉のように掌の上で遊ばせる様を、アポロは呆然としたまま見ていた。

 それは、まるで手品のようだった。
 老人がお手玉を――炎を掌で弾ませる度に、炎の固まりは一つ増える。ひょいひょいと炎を数度跳ねさせた結果、いつの間にか炎の球は5つまで増えていた。
 と、それを待っていたように、老人は強く手を横に振る。

 途端に投げつけられた炎の球は、それぞれが別のフードの男へと向かう。ちょうど5人いた男達は、全く同じタイミングでそれぞれが別の炎を喰らう。
 その途端、フードが一斉に燃え上がった。

「……!?」

 アポロは、見た。
 焼かれたフードの中に、不格好な人形がいたことを。それは、人間ではなかった。

 のっぺりとした顔には目鼻や口などの部品はなく、巨大な操り人形のように見えた。苦痛の悲鳴を上げなかった彼らは、炎に焼かれながらもなにか、魔法を打ち返した。
 光の矢が、一直線に老人を襲う。

「危ないっ!」

 とっさにそう叫んだ――つもりだったが、実際に叫んだかどうか、アポロはよくは覚えていまい。ただ、その老人に避けて欲しいと思ったことだけは、確かだった。

 5人のフードの男……いや、五体のパペットマンからの魔法攻撃を一度にくらっては、ただで済むはずはない。

 しかし、老人は避けるそぶりさえ見せなかった。
 そんな無防備な老人が、魔法の矢で滅多打ちにされる――そう思った瞬間、閃光と共に金属音に似た音が響き渡った。

「え……っ!?」 

 何が起こったのか、アポロにはよく分からなかった。
 老人に当たったと思ったはずの攻撃魔法は、光に弾かれてしまった、らしい。らしいというのは、肝心の所でアポロが思わず目をつむってしまったせいで、よく見ていなかったからだ。

 いずれにせよ、老人はびくともしなかった。
 何事もなかったかのように、矢継ぎ早に魔法を放つ。それは、確実にパペットマン達を貫き、その動きを完全に止めた。

 人間大の人形が、文字通り糸の切れた操り人形のように地べたに転がると、老人はゆっくりと檻の方に近づいてきた。

「おう、おめえら、無事か? って、やれやれ、またずいぶんといやがるな」

 ため息交じりにそう言うと、老人は檻に軽く触れる。檻の柵にしがみついていたアポロは、その手がほのかの光を発していることに気づいた。

「チッ、これまた、厄介な魔法をかけてやがるな……おい、ガキども! 今から助けてやるから、言うとおりにしな。
 しっかりと床に伏せて、目をつぶってな。そのまま、動くんじゃねえぞ」

 不機嫌そうなその声に、子供達は慌てて従った。
 どうしてとか、理由を聞くだけの勇気や気力を残している子供はいなかったし、言葉遣いは乱暴でも、この老人が助けてくれる人だと漠然と感じていたせいもある。

 だからこそ、誰もが言われるままに従った。アポロももちろんそうしたが、それでも一つだけ守れなかった命令があった。
 目を瞑れと言われたが、好奇心には勝てなかった。
 床にしっかりと伏せながらも、アポロはそれを見てしまった。

「――――!!」

 それは、まさに魔法だった。
 両の手でしっかりと引き絞られた、光り輝く魔法の弓。背筋をしゃんと伸ばし、魔法の弓をその手に携えた老人は、鋭い目で檻を睨みつけている。
 射貫くようなその目に、アポロは慌てて顔を伏せた。

 と、その頭上を一瞬の烈風が掠めていく。
 だが、考えるまでもなく、ここは洞窟の奥だ。風など吹くはずもないのに……そう思う傍らから、今度は後ろの方から風が吹いてくるのを感じた。

 今度は烈風でもなんでもない、普通の風だ。それに、目を閉じていてもはっきりと分かる明るさが、自分たちを包んでいた。

「う、うわぁあっ!?」

「な、なに、どうしてっ!!」

 驚きの声をあげる子供らにつられるように目を開けたアポロは、思わず声を上げていた。

「ええ……っ!?」

 自分の見たものが、信じられなかった。
 それぐらい、目の前の光景は一変していた。まず、自分達を閉じ込めていた檻は、上半分が無くなっていた。

 くみ上げた積み木を、半分だけ取り除いてしまったように、檻の天井部分が綺麗さっぱりなくなっている。
 そして、無くなっているのはそれだけではなかった。

 洞窟の壁も、綺麗さっぱりなくなっている。ぽっかりと大きな円型の穴が空いていて、そこから日の光が差し込んでいた。
 信じられない光景に驚き、ざわめく子供達に向かって、老人はまたもニヤリと笑う。

「だから、助けてやるって言っただろ? さあ、そこから出てきな。親御さんのところへ、帰してやるぜ」  

 

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