『投げ出せないお荷物』
  

(ん……もう、朝かよ)

 朝を告げる鐘の音を聞きながら、ポップは重たい瞼を無理やりに開ける。だが、そのまますぐに起き上がらないのは眠気のせいではない。
 起き抜けの身体がやけにだるくて、上手く動いてくれないからだ。

 寝起きの爽快感からは程遠い気怠さを感じながら、ポップはゆっくりと身体を起こしにかかる。
 充分に気をつけてそうしたつもりなのにそれでも目眩を感じて、ポップは慌ててベッドボードに手を掛けて身体を支えた。

 だが、しっかりと掴まっているはずの手がふるふると震えていて力が籠もらない。ともすればベッドへと崩れ込みそうになる身体を、ポップはベッドボードに寄り掛かって何とか堪えた。

 少し気を抜くと荒くなる呼吸を抑え、しばらく動かずに目まいが収まるのを待つ。

 ここ数日は、ずっとこんな調子だった。
 季節の変わり目のせいで体調が崩れかけているのか、それとも仕事が詰まっているせいで忙しいのが悪いのか。

 ちゃんと夜は休んでいるはずなのに、なんだかちっとも寝た気がしない。ずっと睡眠不足のままのような寝たりなさを、朝起きた時から感じてしまう。
 まるで水をたっぷりと含んだ泥でも詰まっているかのような身体がやけに重く、倦怠感が抜けきってくれない。

 そのせいで起きてから動けるようになるまで、しばらくの時間がかかってしまう。火付きが極端に悪いストーブかなにかのように手のかかる自分の身体に苛立ちを感じながら、ポップはしばらく待つしかなかった。

(……また、今日も朝飯は食べられそうもないか……)

 そんなことを考えながら、ふと思い出したのは食事に関しては人一倍うるさかった最初の師だった。

『いけませんね、ポップ。育ち盛りの男の子が、朝は食欲がないだなんて言うものじゃないですよ。朝食こそは一日の基本ですよ、ちゃんと食べなくっちゃ』

 あの優しい先生には授業や修行をサボった時よりも、朝食を食べない時の方がよっぽど強く窘められたものだ。朝寝坊で、食事を取るよりも少しでも長く眠りたいタイプのポップは、ちょくちょくそのことでアバンに叱られた覚えがある。

 もし、こんな状況をアバンが見たらさぞや文句を言いそうだなと思いはしたが、お節介にも程のある過保護教師だった彼も、今やカール王国の国王だ。パプニカ王国に居候しているポップの食卓にまで、口を差し挟むことはない。

 今となっては、パプニカ王国の王女レオナの方がよほどポップの食事についてあれこそ言ってくる。早耳の上に非常に勘のいいレオナは、ポップが食事抜きなんて不健康な真似をしているとどこからともなく聞きつけて、口やかましく文句をまくし立てるのだ。

 それが心配してくれているからこそだとは分かっているが、ポップにしてみればありがた迷惑もいいところだ。

(変なとこだけ大袈裟なんだよな、姫さんは)

 確かに魔王軍との戦いの直後などは、禁呪の影響でポップは体調を崩すことが何度かあった。その影響が今も残っていることは、ポップも否定しない。だが、ポップに言わせればそんなのは取り越し苦労という物だ。
 無理をしなければ、特に問題は無いのだから。

 なぜかここ数日はちょっと調子が良くないが、魔法も使っていないのだ。すぐによくなるだろうと、ポップは誰にもこのことは言っていないし、気づかれたいとも思わない。

 たいしたことがないのに病人扱いされたり、大騒ぎされるのはポップの望むところではない。

(だいたい、これぐらいならすぐ治まるんだしよ)

 確かに、最近は少しばかり疲れがたまっているなという自覚なら、ポップにもあった。

 だが、これぐらいならどうってことはないとポップは考えている。魔法を使い過ぎた時の様に、咳が止まらないとか胸がひどく痛むというわけではないのだ。

 起き抜けや寝入る前の目眩や倦怠感を除けば、ごく普通に動くことができる。
 大戦中と違って、今はポップは戦っているわけではない。それに、今やポップは勇者探索の旅をしているわけでもない。

 ダイもやっと地上に戻ってきたし、パプニカの居候としてレオナの補佐をしているところだ。今やっているのは主に書類作業であり、日常生活の延長線上の行動にすぎない……と、ポップは考えていた。
 多少の目まいなど、そのうち収まるだろう。

 実際、昼間は別に何ともない。
 朝と夜にはなぜか体調が悪くてぐったりとしてしまうが、昼間は平気なのだし、そのうちよくなるだろうとポップは高を括っていた。

 だが、今日はいつもよりも回復が遅いようだ。しばらく待っていたポップだったが、とうとう待ちきれなくなった。

(ま、ちょっとぐらいなら、いっか)

 自分の胸元に手を当て、ごく弱い回復魔法をかける。
 途端にすうっと気分が軽くなり、ずっしり重くてたまらなかった身体の重みが楽になったように感じる。

 だが、それが錯覚に過ぎないことはポップはよく承知していた。
 回復魔法とは、その人の身体の中に存在する生命力に働きかける力だ。怪我には劇的な効果を見せるが、元々の身体の弱っている病人には効き目が弱いとされている。

 一時凌ぎにはなるが、根本的な解決にはならないのだ。それどころか、病人に対して回復魔法を多用するのは、根本治療をしないまま安易に痛み止めを多用するようなものであり、長期的に見れば逆効果とされている。

 それを心配されたポップは、アバンやマトリフから具合が悪い時には回復魔法に頼らない方が良いときつく注意されている。

 しかし、魔法とは便利な物だ。
 気分の悪さが自然に回復するのを待っていると、うんざりするほど時間がかかることがあるが、回復魔法の力を借りれば一瞬だ。その便利さを身をもって知ってしまったポップは、ちょくちょく回復魔法の助けを借りるようになった。

 二人の師匠の注意を忘れたわけではなかったが、一度この便利さを味わってしまっては、ただ大人しく気分が回復するのを待つのなんて時間の無駄のように思えてしまう。

 やるべき仕事はいくらでもあるし、一日は短いのだ。ポップは手早く身支度を済ませ、立ち上がった。






「あっ、ポップだ! ポップ、おはよーっ!」

 食堂の近くを通りかかった時、元気いっぱいの声と同時に、人波の向こうにぶんぶんと振られる手の先が見えた。頭一つ分大きい大人達が大勢いるのにも関わらず、その手の主はあっという間にポップに元に駆け寄ってくる。

「よお、ダイ。今日も早いな。また、訓練に参加してたのかよ?」

 本気で感心しつつ、ポップはダイを褒める。
 魔界からやっと戻ってきたダイは、最近ようやく城に馴染んできたらしい。

 ダイの世間知らずを矯正し、一般常識と基礎教育を身につけるために家庭教師がつけられて勉強させられているとはいえ、それ以外には特に義務や仕事はない。

 最初の頃はどうしていいのか分からない様子で、とりあえず城や町の中を無闇にうろついて迷子になったりだの、意味もなくポップの後をついて回ったりだのしていたが、少し前からダイは積極的に兵士達の訓練に自主参加するようになった。

 元々、パプニカ王国は魔王王国と呼ばれるぐらいで騎士団は脆弱だったが、今年からパプニカ騎士団は大いに生まれ変わった。
 ヒュンケルという鬼隊長が、近衛隊長に就任したのである。

 彼はレオナやパプニカへの贖罪の一環として、兵士や騎士達を徹底して鍛えあげようと心に決めているらしく、彼の計画した訓練はそりゃあもう半端ないものであった。……兵士達にとっては、実に気の毒な話である。

 熟練の兵士達でさえ悲鳴を上げるハードな訓練なのだが、ダイはそれが気に入っているらしい。
 ポップにしてみれば朝から目一杯身体を動かす訓練なんて真っ平御免だが、運動好きのダイはこの上なく嬉しそうだった。

「うん、おなかすいちゃった! ね、ポップは何食べる?」

 ごく当たり前のように自分の腕を引っ張るダイに、ポップは苦笑しながら首を横に振った。

「おれはいいよ。もう、食べたからよ」

「えー、もう? 一緒に食べたかったのに」

 ポップの言葉に、ダイは目に見えてがっかりした表情を見せる。魔界から戻ってきて以来、ダイは旺盛な食欲を発揮するようになった。それはいいことだとポップは思っているが、問題なのはダイがやけにポップと食事をしたがる点だ。

 まあ、それ自体は、別に悪くない。
 ポップだって、ダイと食事をするのが嫌だというわけじゃない。と言うよりも、むしろ望むところだ。以前と同じように、ダイと一緒に過ごす日常こそが長い間ポップの望みだったのだから。

 ダイだけでなくレオナと一緒に三人で食卓を囲むのは、ポップだって気に入っている。
 だが、食欲がない日も誘われるのは少しばかり困る。

 ここ数日はどうも食欲がなくって、無理に食べると後で気分が悪くなってくる始末なのだ。そんな様子を、ダイやレオナに見られるわけにはいかない。
 特に、レオナに見られるのはまずいを通り越して、ヤバいのである。

 ダイはポップが食欲がないのを見たら不思議には思うだろうし、もっと食べた方がいいと言いはするだろうが、それだけで済む。物事を深く考えないダイは、お腹が空いていないと言えばすんなり納得してくれるだろう。

 が、レオナではそうはいかない。
 あの、とんでもなく抜け目がなくて頭の回転の速いお姫様は、ポップの言い訳などサクッと看破してしまう。

 大戦後にポップが体調を崩したのを目の当たりにしたレオナは、今もポップの健康管理にはやたらとうるさい。少しでも体調が悪いと見抜かれたら、アバンやマトリフに知らされてしまう。

 二人の師にがっちりとお説教され、念のためだとしつこく健康診断され、挙げ句に苦くてまず〜い薬を飲むようにと言いつけられるのは、ポップとしては極力遠慮をしたい。

 それを避けるためにも、レオナやダイの気を逸らすための策をポップはすでに打っていた。
 レオナに、ダイと二人っきりで食事をするように薦めたのである。

 レオナは大いに乗り気になってくれて、さっそく今日から手配をすると大張り切りだった。そうなれば、放っておいてもレオナはダイにかかりっきりになってポップのことは二の次になるだろうし、ダイだって今までのように頻繁に食事を誘いに来ることもなくなるだろう。

「じゃ、仕事があるから先に行くぜ、今日も忙しいんだ」

 軽く釘を刺し、ポップはダイをその場に置き去りにして足早に立ち去った。 お昼こそ一緒に食べようよと誘うダイの声は聞こえていたが、聞こえなかったふりをしてさっさと離れる。

 本当は、それ程は忙しいわけではない。
 まあ、確かに決して少ないと言えるような仕事量ではないとはいえ、普段のポップなら軽くこなせるぐらいのものだ。

 しかし、ここ数日はエンジンの掛かりが遅いせいで少々仕事が滞りがちだった。それは気分の悪い時間が日に日に長引いているなによりの証拠なのだが、ポップは頑としてそれを認めようとはしなかった――。






「くっそ〜っ、昨日はマジで失敗したよな〜。あーくそ、なんだってバレたんだか……っ」

 思うだけでは足りず口に出してぶつくさ言いながら、ポップは城の回廊を歩いていた。
 ポップにしてみれば、痛恨のミス。

 まさか、よりによってダイにこっそり回復魔法をかけている所を見られていたなんて、思いもしなかった。しかも、それをあんな形で告げ口されることになるとは。

 いや、ダイには悪意どころか意味すら分かっていなかったのだから、厳密には告げ口とは言えないかも知れないが、ポップにとってはまさに最悪のタイミングだった。
 最悪のタイミングと言うのなら、アバンだってそうだ。

(何も、昨日に限って師匠んとこに来なくてもよかったのに)

 恨めしげに、ポップはそう思わずにはいられない。
 王様になっても未だに放浪癖が抜けきらないアバンが、しょっちゅうマトリフの洞窟に来ているのは知っている。

 忙しいはずなのにどうやって仕事をごまかしているのかは疑問が残るが、普段だったらポップもアバンの来訪は大歓迎だ。

 だが、昨日に限っては来ないで欲しかったとつくづく思う。
 おかげでレオナはもちろんのこと、アバンとマトリフに揃って注意されまくり、さらには薬まで押しつけられてしまった。

 マトリフ特製の薬は効き目は確かだが、味もまた並外れている。臭いも色合いも凄まじいが、その上とんでもなくまずいのである。そんなものを数日間はしっかり飲むようにと言いつけられては、テンションだだ下がりもいいところだ。

 不機嫌な気分のまま、わざと足音を立てて歩いていたポップだったが、その足がピタリと止まる。

(あ、まじい)

 また、息が苦しくなってきたのを感じて、ポップは内心焦りを感じた。
 見えない誰かに胸を鷲掴まれたかのような息苦しさを感じるのは、ポップにとっては珍しいことではない。

 だが、寝起きと晩だけだと思っていた苦しさが、比較的体調のいいはずの午前中に現れたことにポップは多少動揺していた。

 昨日はレオナや師匠、それにアバンにまで揃ってさんざん叱られた結果、ポップはこれからは食事はみんなと取ると約束したし、昨夜は早く横になったし、嫌だったが薬もきちんと飲んだ。
 なのに、昨日よりもひどくなっている体調に、少しばかり驚く。

 だが、対処方法は分かっている。
 具合の悪い時にいつもそうしているように、しばらくの間大人しく休んでいればいい。その際、どうやって休めばいいのかもポップはちゃんと知っている。

 貧血の時は、頭を低くして休むのが一番だ。その際、足をやや高く上げると、なおさらいい。

 とはいえ、さすがにこんな城の回廊でそうするのはためらわれる。人が全く通らないのならいいのだが、もし誰かに見つかったのなら大騒ぎになりかねない。

 せめて、人目につかなくて邪魔にならない場所……そこで休む方がいいだろうと、ポップは判断した。
 そのために、一番良いのは自室だ。

 決してポップが望んでもらった部屋ではないが、それでもあの部屋ならば安心して休めるのは間違いない。
 だが、そうするのはなんだか癪だった。そうしてしまうと、何となく、何かに負けてしまったような気がする。

 自室に戻ろうか、それともこのまま執務室に行こうかと迷いだした、ちょうどその時のことだった――。

「ポップ」

「うわぁっ!?」

 軽く肩を叩かれながら呼ぶ声に、ポップは自分でもびっくりするほど驚いてしまう。むしろ、ポップのその声に驚いたとばかりの顔をしているのは、嫌になるほど見知った顔だった。

「な、なんだ、てめえかよ、ヒュンケル。急に驚かせんなって!」

 焦りと苛立ちから、いつも以上につっけんどんに言い返すが、ヒュンケルの表情はいつもと変わらない。小憎たらしいほど、落ち着き払ったものだった。

「ああ、すまない。だが、何度呼んでも、聞こえていないようだったからな」

(え? 呼んでた?)

 思わず、ぎくりとせずにはいられない。
 そんなの、全く耳に入っていなかった。具合が悪くて、とても聞く余裕がなかった――とは思いたくなくて、ポップは必要以上ツンケンと言い返す。

「はんっ、てめえの声の小ささをおれのせいにすんなよな! で、なんか用なのかよ?」

 これでただの朝の挨拶だとか抜かしたら、絶対に文句を言ってやろう。そう思ったポップだったが、ヒュンケルは眉を寄せてこちらをじっと見る。その目が、いかにも観察をしていると言わんばかりのものだったので、どうにも居心地が悪かった。
 そして、ヒュンケルはわずかに眉を寄せて、言った。

「……顔色が悪いようだが、大丈夫か?」

「――!」

 その指摘に、思わず息をのむ。
 普段は無口なくせに、ヒュンケルときたら変なところだけ勘が鋭く、饒舌になる。ポップにとって腹立たしいことに、それはポップの都合の悪い時に限って発揮されることが多かった。

「まだ、アバンがパプニカにいるし、念のため診察してもらった方がいいんじゃないか? なんなら、今日は休んだ方が――」

「うっせえな! だいだい、余計なお世話なんだよっ!! 大丈夫って言ってん
だから、もうおれのことはほっとけよ!」

 兄弟子の言葉を最後まで言わせず、ポップは途中で断ち切った。
 そして、彼に背を向けて歩き出す。逃げ出すも同然の行為だったが、幸いにもヒュンケルは追っては来なかった。

 それにホッとしつつ、ポップは先に進む。
 ここで自室に戻るなんてヒュンケルに従うようで嫌だったし、ポップは引き返すよりも先に進むことを選んだ。

 自室の方が近いとは言え、ポップ専用の執務室もそう遠くはない。それに、一度執務室へ入れば少なくとも昼近くまでは誰も来ない。一人の方が集中できるからと人払いを頼んでいるおかげで、ポップの執務室には他人はほとんどやってこない。

 気分が良くなるまで、仕事をさぼって休んでいても見とがめられる心配もない。

 それとは逆に、ポップの自室へつながる階段には、常に兵士が二人、見張りをしている。執務室に行ったはずのポップが戻ってきたのなら、必ず理由を聞いてくるだろうし、具合が悪いことがバレればレオナに報告されてしまう。
 それを考えれば、ますます執務室へ行った方がいいように思えた。

 だが、それはひどく遠い道のりだった。
 普段は散歩にもならない程度の移動距離が、今のポップには果てしなく遠い旅路のように思えた。少し歩くだけで息が上がり、胸が苦しくなる。どんなに一生懸命呼吸しても、まだ足りないとばかりに肺が悲鳴を上げているのが分かる。

 そんな、まともに呼吸ができないような有様で、身体がまともに動くはずもない。気がつくと、ふらついて歩きにくくなっていて、壁に手をついて支えないといけなくなった。踏ん張ろうにも、足下がまるで綿みたいにふわふわした感じがして、ひどく歩きにくい。

 目眩がするのも、時折、目の前がさっと暗くなる様な気がするのも、貧血のせいだとポップは分かっていた。
 分かってはいたのだが――。







(え……っ!?)

 とっさに、状況がつかめなかった。
 一瞬だけ、意識が途切れたと思ったら、事態はいきなり変わっていた。
 すぐ目の前に広がる床に、ポップはただただ混乱するばかりだった。なぜなら、ほんの一瞬の出来事だったのだから。

 ふっと一回だけ瞬きしたら、世界が反転していた――ポップの主観では、それに等しい。

 ついさっきまで壁にすがりながらもちゃんと歩いていたはずなのに、なぜ自分が横倒しになっているのか理解できなかった。まるで記憶の一部が切り取られたかのように、先ほどまでの状況と今の状況がつながらない。

 なにかの悪い冗談としか思えなかったが、伸ばした手や頬に触れる床の冷たさがこれが現実だと告げている。
 どうやら、自分でも気づかないうちに倒れてしまったらしい。

(マジかよ……!)

 記憶が飛んでいるのもショックだったが、今、自分がいるのが執務室のすぐ前だと気がついたのも、驚きだった。

 全然記憶がないが、どうにかしてここまではやってきたらしい。……ならば、せめてドアを開けてからぶっ倒れればよかったのにと、過去の自分を人ごとのように責めつつ、ポップは起き上がろうとした。

 ここまでくれば、もう大丈夫だ。
 執務室に入って、少しばかり水分を取って、しばらくソファで横になればいい。枕をしないで足を高い位置にして休んでいれば、すぐによくなることだろう。

 そこまで、ポップには分かっていた。
 分かってはいたのだが――。

(……くそ、なんだよ、どうすればいいのかなんて、ちゃんと分かってるのに……っ!) 

 起き上がろうとしても、身体にちっとも力が入ってくれない。骨などなくなったようにぐにゃぐにゃしているように感じられる手足は、少しもポップの意思通りに動いてはくれなかった。

 身体がひどく重たくて、本来の体重の数倍にも増えたような気がする。水から上がった直後の身体がひどく重たく感じるように、ポップも今の自分の身体の重さに驚き、持てあましていた。

(くそ……、重てえ……)

 今までこんなに重たいものを自分の意思で動かせていた方が、不思議なぐらいだ。見えない誰かに重圧呪文をかけられたような気分で、ポップは起き上がろうと必死になって藻掻く。

 だが、それでも身体が全く言うことを聞いてくれなかった。
 どうすればいいのか分かっているにも拘わらず、ポップの身体はポップの意思を裏切って全く動こうとしてくれない。

 それが歯がゆく、もどかしい。
 自分の身体が、ひどく役立たずの重荷に思えてくる。自分自身でさえ持ち上げられない身体の重さが、ひどく腹立たしたかった。

 いっそ、投げ出してしまいたいほどに――。
 どうしようもない重苦しさと、自分自身への苛立ちに苛まれながら、無様に倒れているポップの耳に聞き覚えのある声が飛び込んできた。

「ポップ!? どうした!?」

 いつになく焦った様子で自分に呼びかけてきたのは、ヒュンケルに間違いない。

(この野郎、さっきのおれの言葉、全然信用していなかったんだな……!)

 なぜ、こんな時にはいつもこいつが来るんだと思うポップの苛立ちも知らず、ヒュンケルは何度かポップに呼びかける。

「へ……ーき、だから……」

 だから、放っておいていい――そう言うつもりだったが、どこまで口にすることができたか、ポップ自身にも分からない。
 スウッと吸い込まれるように、意識が闇に飲まれていった――。







 それからの記憶は、妙に曖昧だった。
 誰かに呼びかけられたような気もするし、複数の人のバタバタと走る音も聞いた気もする。まるで舟に乗ったように、ゆらゆらと揺れたような気もした。

 少し、困ったような顔で笑いながら、自分に話しかけていたのはアバン……だったような気もする。

 とにかく、ポップがはっきりと目を覚まして真っ先に目に飛び込んできたのは、見慣れた天井の模様だった。

 不本意ながらも馴染みのあるその模様は、パプニカ幽閉室――すなわち、ポップの自室のものだ。背中に感じるベッドの感触も、普段使っているベッドならではのしっくりとした安心感がある。

 が、それを自覚した途端、ポップが強烈に自覚したのは「失敗した」と言う意識だった。

(ああ、くそっ。また、やっちまったのか、おれ? どんぐらい寝てたんだよ?)

 部屋の中には、ぼんやりとした灯りに満たされている。常夜灯がついているところを見ると、今は夜なのだろう。――最悪、一晩以上寝ていたいう可能性もあるが。

 とりあえず、今が何時か確かめようと起き上がりかけたポップは、毛布が妙に重たいのに気づいた。まるで、重しが乗っているようだと思い、そちらに目をやって、びっくりする。

(ダイ……!?)

 ベッドの側に椅子を置き、毛布の上に突っ伏すように寝ているのは、紛れもなくダイだった。顔を完全に伏せているので見えないが、このボサボサ頭を見ただけでも間違えっこない。

(そっか……また、心配かけちまったのか)

 思えば、これは魔王軍との戦いの時から時々あったことだ。
 ポップが体調を崩した時、特に教えなくてもダイはいつの間にか気がついて、寄り添うようにポップの側で眠ることが多かった。どんなに隠そうと思っても、不思議にバレてしまっていた。

 あれからずいぶん経ったのに、この小さな勇者は未だに変わっていないらしい。

 いや、微妙に成長はしていると言うべきかのか。以前なら、ポップのすぐ隣に潜り込んで寝ていたのに、今は遠慮を感じているのか、こうやって椅子で寝ている。
 パジャマ姿で、上に何も羽織っていない姿を見て、ポップは思わず呟いた。

「……バカだなぁ、これじゃてめえの方が風邪引くじゃねえか」

 そう文句をつけながらも、ポップの中に浮かび上がってくるのはどこか嬉しいような、気恥ずかしいような、そんな感情だった。

(でも、このままじゃまずいよな、やっぱ)

 そう思い、ポップはダイをベッドに寝かせようとした。ポップの部屋のベッドはやたらと大きいし、子供どころか大人が2、3人でも眠れそうな品だ。一緒になるには申し分ないのだが――残念なことに、昔とは違ってしまったことがあった。

(お、重っ!?)

 ダイを起こさないよう、そのままベッドに引き上げようとして……ポップはそれが無理だとすぐに気づいた。

 昔だったら、ポップはダイをおんぶして運ぶことだってできた。が、この2年間で生意気にもすくすくと成長した勇者様は、いまやポップとほぼ同じぐらいにまで背も伸びた。

 比べたことはないが、どうやら体重も同じか、もしくはそれ以上に増えたらしい。ポップの力では、とても持ち上げられそうもなかった。

(い、いやっ、今はおれ、調子悪いからっ! うんっ、だからだよ、絶対!)

 自分で自分にそう言い聞かせつつ、ポップはとりあえずダイを持ち上げるのを断念する。幸か不幸か、その間、ダイは目を覚まさなかった。

 気配には敏感なダイにしては珍しく、よほどぐっすりと眠っているらしい。それを無理に起こすのも憚られて、ポップはダイを移動させるのは諦めて、余った毛布を彼の上にかけてやった。

 正直、ダイのいる場所はかなり邪魔だ。
 ポップがベッドから降りるのにちょうど邪魔になる場所な上、うつ伏せのダイが毛布の端をしっかりと押さえつけているせいで、ポップ自身も毛布を自由に動かせない。

 邪魔と言えば邪魔な存在をしばらく見やり――ポップは一つ、ため息をついた。起きるのをやめて、動かしにくい毛布の中にごそごそと潜りこむ。眠っているダイを起こさないように、気を遣いながら。

 毛布の端にあるダイの頭は、相変わらず重たく感じる。
 だが、ついさっき思い通りにならずに苛立った自分の身体と違って、投げ出したいだなんて思いもしなかった。
 むしろ、その重しがなんとなく懐かしく、心温まる。

(ま、しゃーねえよな)

 どうやったって投げ出せない荷物なら、持ち続けるより他はない。
 そう思い、ポップはダイの規則正しい寝息を聞きながら、自分も目を閉じる。
 なんだか、久しぶりによく眠れそうな気がした――。  END
           

 

《後書き》

 『胸に手を当てて』から『無駄な特訓』の間のポップ視点でのお話です。
 筆者は一つの出来事を、複数の視点を通しながら書くのが好きなのですが、この数作もそんなシリーズの一つです。

 同軸でヒュンケル視点の話も、実は書いているところだったりします。
 体調が悪いけど無茶をするポップと、それを心配する仲間達の話って好きなパターンなんですよ。


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