『春の戦・最終章』
  

 その日、ヒュンケルは不運だった――いや、彼にとってはそれが通常であり、ある意味で日常茶飯事なのだが。
 が、世間様にその日の彼の話をすれば、十人中十人が運が悪かったと言うことだろう。






 まず、目覚めからして不運だったとしか言い様がない。
 なにしろ、ヒュンケルのその日の目覚めはけたたましいベルの音で始まったのだから。

 兵士詰め所にいくつか置かれているベルは、実はただのベルではない。魔法力の籠もった特殊な魔法道具で、普通に振ってもなんの音もしないが、特定の条件でのみ鳴り響く仕掛けになっている。

 王族など重要人物からの緊急連絡や、非常事態に対する警報として使われている品々だ。

 今朝、早い時間に鳴ったのは後者の方だった。
 幽閉室内で魔法が使われた時にのみ鳴り響くベルの音を聞き、ヒュンケルは即座に行動に移った。その時はまだ勤務時間外だったのだが、ヒュンケルの自室は兵士詰め所から割と近い。ベルが鳴れば、聞こえる程度には。

 まだ眠っていたヒュンケルは、ベルを聞くなり飛び起きて即座に走った。向かうのは、もちろん幽閉室だ。

 本来は王族の重罪人を閉じ込めるための部屋だが、今は大魔道士ポップの私室として利用されているその部屋に、ヒュンケルは当直兵よりも早く駆けつけた。

 着替えすらしていなかったが、いざ、何か非常事態が起きた時のことを考え、剣だけはしっかりと構えたまま部屋に飛び込む。

「ポップ!」

 ノックももどかしく、そう呼びかけながらドアを開けた先には……寝ぼけた顔で目をこすっている弟弟子がいた。

「ふわぁ? なんだよ、朝っぱらからそーぞーしいなぁ」

 まだ寝ぼけているのか、文句にもいつもの棘は無い。それに、パジャマ姿のポップは何の異常も無いように見える。暖炉の前にちょこんと座り込み、小さなやかんで湯を沸かしているようだった。
 それを見て、ヒュンケルは真相を悟る。

「……また、魔法を使ったのか」

 抑えようとは思っても、いささか呆れた声音になってしまうのは否めない。なにせ、これは一度や二度では無いのだから。

 この幽閉室では、基本的に魔法が封じられる。並の僧侶や魔法使いならば、この部屋では全く魔法を使えなくなるだろう。

 しかし、ポップは並の魔法使いなどではない、二代目大魔道士だ。さすがに威力は抑えられるようだが、それでもポップはこの部屋でも魔法は使えるらしい。

 が、それは二つの面から禁じられている。
 一つは、警備上の問題だ。
 幽閉室で魔法が使われた場合、それがどんな種類のものであっても、警備室に警報が鳴らされてしまう。

 たとえば、ポップが本棚の高い本を取ろうとして少しばかりトベルーラで身体を浮かしたり、ロウソクに魔法で火をつけたりするなど、些細なことでも警報は容赦なく鳴り響く。

 実際、幽閉室のベルが鳴る原因は、ほぼポップがうっかりと魔法を使った結果だ。何か用があるなら、些細なことでも見張りの兵士に言いつけろとは言ってあるのだが、根っからの庶民のポップは自分のみの周りのことを他人に任せるのはどうにも向いていないらしい。

 暖炉に火が欲しかったにせよ、湯が欲しかったにせよ、兵士に一声かければすぐにでも準備されるのだが、ポップは人に頼むのをおっくうがって自分でなんとかすることが多い。
 正直、警備兵の立場から言えば、その方がずーーっと迷惑なのだが。

 そして、もう一つの問題は、ポップの健康上の問題だ。
 魔王軍との戦いや、ダイ捜索の旅で無茶をした結果、ポップはいささか体調を崩していて、魔法を禁じられている。

 無理に魔法を使うと身体に触ると言う話で、極力魔法を使わないようにとアバンやマトリフ、果てはレオナにまで厳命されている。
 ……が、それでさえポップは時々、忘れるらしい。あるいは覚えていても、たいしたことは無いと高をくくっているのか。

「ん? あー、魔法って言ったって、メラをちょこっとだぜ? マッチをたまたま切らしちゃっててさー」

 全く悪びれた様子も無くそう言いながら、ポップは沸いたお湯で何やらお茶を入れ始めた。紅茶のいい匂いが、その辺に立ちこめる。

「……お茶が欲しいなら、兵士に頼めばいいだろうに」

 そうすれば兵士から侍女へとすぐに連絡が行き、最高級のお茶がすぐに届けられるだろう。へたをすれば、自分でお湯を沸かすよりもそちらの方がよほど早い。
 だが、ポップは全く反省の兆しも見せなかった。

「そんなの、めんどくさいし大げさすぎじゃん。勤務中に迷惑かけちゃ、悪いしよ」

「…………」

 そもそもポップが魔法を使ったせいで、ヒュンケルを初めとする当直兵が現在進行形で緊急任務を実行する羽目になっているのだが。しかも、ヒュンケルに至っては勤務外時間なのに。

 ……が、ヒュンケルはそんなことでグチグチと文句を言うような男ではなかった。

 とりあえず緊急で無かったのならばそれでいいと思い、無言でその場を去ることにした。幽閉室に何事も無かったことを他の兵士にも伝えないと、緊急事態が解除されないのだから。

 この連絡がレオナや三賢者の耳にまで入れば面倒なことになるのが分かっているので、早めに手を打たなければならない。そう思って急ぎ足で幽閉室から出て行くヒュンケルを見て、ポップが不満そうに文句をぶつけてくる。

「あ? なんだよ、黙って出て行くなんて愛想がねーなっ」

 背中越しに文句をぶつけられたヒュンケルは、気がつかなかった。ポップが自分のお茶のついでのように、もう一人分のお茶を用意してくれていたことを――。





 不思議なことに、朝一番の出だしが悪いと後々まで響くものだ。
 普段以上早くから叩き起こされたヒュンケルは、何事が起きたのかと混乱する当番兵達をなだめるのにずいぶん時間を費やした。そのせいで、朝食の時間を取る余裕も無く朝練の時間になってしまった。

 ダイも加わった朝練がいつも以上に盛り上がり、予定より長引いてしまったが、それが終わってもヒュンケルにはまだ休憩は訪れなかった。

「……って言う訳なのよ! ひどいと思わない、これって!? あ、でも誤解しないでね、あたしはダイ君がデリカシーが無いって言っているわけじゃないのよ? ただ、ずーーと朝から晩まで、ポップ君とばかりいなくてもいいんじゃないかって言っているだけなのよ!」

 よくもまあ、そこまですらすらと口が回るものだと感心するぐらいの勢いで、ペラペラと言葉が流れ出す。言葉の本流とも言うべき一方的なおしゃべりに対して、ヒュンケルは口を差し挟む隙すら見つけられなかった。

 相づちもろくすっぽ打てずに無言で話を聞くだけのヒュンケルに対して、パプニカ王女であるレオナは飽きること無く愚痴を垂れ流す。

 これは、数ヶ月に一度ほどあることだった。
 基本的にさっぱりとした気質のレオナは、無闇に他人に愚痴を聞かせるような真似はしない。文句があるのなら、直接本人に言っちゃう性格だ。

 しかし、こと恋愛に関してはさすがのレオナも一少女となるようだ。
 自分よりもポップと遊ぶことを好むダイに対して焼き餅を焼いているのだが、それをダイ本人にぶつけるのはためらいがあるらしい。好きな相手に嫌われたくないと願う、いじらしい乙女心とでも言うべきか。

 それはいいのだが、問題なのはダイに不満を直接ぶつけられない分、ポップやヒュンケルなど身近な存在に言いまくる傾向が強いと言うことだ。

 まあ、とは言ってもこれは結局はおしゃべりの範囲内なので、ポップなどは適当に聞き流しつつ、うまいこと話題をそらして話を早めに終わらせるのが得意だ。

 だが、口下手なヒュンケルにはそんな話術などない。
 しかも、パプニカ王女に絶対の忠誠を誓った彼は、彼女の言葉を遮るなど思いもつかない。

 ただただ、黙って愚痴を聞き続けるのみだ。理不尽とも言えるその時間がどのぐらい続いたのか――レオナの話を遮ったのは、結局、ノックの音だった。

「姫様、失礼します。そろそろ、午後の執務の時間ですが……まあ、ヒュンケル、ずっとここにいたの?」

 書類を手に部屋に入ってきたのは、エイミだった。
 驚いたような彼女の顔を見て、ヒュンケルはそう言えば先程、昼休みの終わりを告げる鐘が聞こえたなと思い出す。思えば、ヒュンケルがレオナの元に報告書を届けに来たのが朝練直後だった。

 ヒュンケルとは逆に、エイミはレオナに命じられて書類をどこかに運ぶところだったようだ。

 ちょうどエイミと入れ替わる形でやってきたヒュンケルが、まさかまだここに居るとは思っていなかったらしい。実際、ヒュンケルにしても長居するつもりなど全くなかったのだが。

「え、うそ、もうそんな時間だったの? やだ、ごめんなさい、ヒュンケル。ずいぶん長く引き留めちゃったわね」

 話していたレオナ自身が驚いたような顔をして、謝罪する。が、ヒュンケルは気にするには及ばないとばかりに軽く首を横に振った。

「いえ……では、失礼します」

 挨拶をして執務室を去るヒュンケルの耳に、パプニカ王女の賑やかな声が聞こえる。

「あ、エイミ、その書類広げるの、少しだけ待って! 悪いけど急いでサンドイッチか何か、軽くつまめる物を手配して欲しいの」

 それを軽く聞き流しながら、ヒュンケルは静かに扉を閉めた――。






(そう言えば、小腹が空いたな……)

 回廊を歩きながら、ヒュンケルはさすがに空腹を実感する。
 朝練の前は、食事を取らないのが普通だ。別に禁止されているわけではないが、満腹だとどうしても身体の動きが鈍くなるため、ほとんどの兵士達は朝食を食べずに訓練に参加し、終わってから食堂でたっぷり食べることが多い。

 ヒュンケルも、その例外ではなかった。
 実際、朝練が終わった時点でそこそこ空腹だったし、そのまま食堂に行こうかと思ったものだ。が、レオナに渡す書類があったことを思いだし、先に済ませてからの方が落ち着いて食べられるだろうと考えたのだ。

 ……その判断こそが大きなミスだったのだが、まあ、それはいい。罪人だった自分を救い、導いてくれたパプニカ王女に絶対の忠誠を誓ったこの朴念仁戦士には、レオナを非難するような発想は最初からないのだから。

 今からでも食堂に向かおうとするヒュンケルだったが、後ろから元気のいい声がかけられた。

「あ、隊長! やっと会えてよかったです! ずいぶん探したんですよー」

 振り向くと、そこにいたのは部下の兵士の一人だった。ホッとしたような表情や、軽く息を切らしている様子から、ヒュンケルを探すためにそれなりに苦労していたのが見て取れる。

「ああ……ご苦労だったな」

 少しばかり申し訳ない気持ちで、ヒュンケルは自分とほぼ同じか、少し下ぐらいに見える兵士を労う。

 そう言えば、すぐに済む用事だと思っていたから、誰にも行く先を告げていなかった。それなのにヒュンケルを探していたのでは、相当な苦労をしたことだろう。

 実際にヒュンケルがいたレオナの執務室は、城の中枢部分にあるだけに一般兵では出入りさえ禁じられている区間だ。それを思えば、当てもなく無関係の場所を探していたに違いない兵士に、悪いことをしたような気分になってしまう。いや、ヒュンケルに責任があるわけではないのだが。

 だが、一旦表情を和らげた兵士は、すぐにきりりと姿勢を正し、規定通りにきっちりと敬礼をする。

 その指の向きを見て、ヒュンケルもわずかに身構える。
 一般人には同じように見える敬礼だが、実は指の向きなどにより微妙に差異がある。挨拶のみで、同じ兵士達に意志を伝えられるサインが隠されているのだ。

 この敬礼の仕方は、伝令兵の作法だ。つまり、この兵士は何らかの伝令を帯びてヒュンケルを探していたと言うことになる。何か、変事でも起こったのかと意識を集中させたヒュンケルの耳に、兵士の元気な声が飛び込んできた。

「昨日、ご命令のチラシは、調練前に兵士詰め所を初めとした各所に貼ったことをご報告します!」

 いかにも『やり遂げ感』に満ちあふれたその報告に対して、ヒュンケルは返答までに一拍の間を空けてしまった。

「…………、あ、ああ、そうか。ご苦労だったな」

 正直、この報告も拍子抜けもいいところだった。気が抜けたあまり、工夫も気遣いもなく先程と全く同じ声かけをしてしまったが、兵士は隊長からの労いと言うだけで満足しているのか、嬉しそうに頷いた。

「はい、ありがとうございます! ああ、それともう一つ、伝言があります。庭師頭が、隊長に面会を求めておりました」

「…………そうか」

 答える声が、ずんと暗くなる。――が、普段から暗く、ぶっきらぼうなことが幸いしてか、それは目立たなかった。

 しかし、ヒュンケル的にはそれは聞いただけでも気が重くなる話だ。
 あれは、つい、昨日のこと……庭師頭が話があると言ってヒュンケルの所に押しかけてきた。

 なにやら大仰に演説をしまくっていたが、要約すれば、兵士達にも草むしりを手伝ってもらいたいと要求しているらしかった。

 確かに、去年はやけに暑かったせいか雑草の生え方が例年以上で、庭師達が次々と熱中症で倒れたこともあり、城の手入れが行き届かなかったと記憶している。……正直、ヒュンケルにはあまり関心のない分野だっただけに、うっすらとした記憶に過ぎないが。

 それに、それを責める者など、この城には一人も居なかった。
 現当主であるレオナは、公平な判断力を持つ王だ。去年の暑さが異常だったことも、まだ魔王軍の戦禍から立ち直りきっていないため城に人手が足りないことも理解してくれている。

 むしろ庭師達の健康を気遣って、来客の目の届く範囲の作業だけを優先しさえすれば、他の場所は後回しでいいと命令を下したぐらいだ。

 屋敷の維持を仕事とする侍女や侍従達さえも、去年の庭師達に対して一言の不満も口にしなかった。

 だが、それでは庭師としてのプライドに関わるらしい。
 今年こそは早めに手を打ちたいと、兵士達への協力を要請してきたので許可し、その旨を命令書に書いて告知もした。ちょうど、この兵士の持ってきた伝言で言っていたチラシがそうだ。

 つまり、庭師頭の望みは叶えたと言っていい。なのに、なぜすぐに面会を申し込んでくるのか、ヒュンケルには分からなかった。

「……何の用事だ?」

 念のため尋ねてみると、兵士がわずかに苦笑する。

「おそらく、チラシの効果がないことに対する苦情かと。ずいぶん、ご立腹って感じでしたしねー」

(…………これ以上どうしろ、と) 

 ヒュンケル的には頼まれたことは確実に実行したのに、そう言われたって困る。当惑するヒュンケルをよそに、伝令を全て伝え終えた兵士は挨拶を残して軽やかに去って行った。

 その背が完全に見えなくなってから、ヒュンケルはとりあえずため息を一つつく。

 件の庭師頭は、レオナの母の代から仕えている仕事熱心な男だ。特に薔薇の栽培には素晴らしい腕前を持っているとかで、レオナからも高く評価されている。だが、いささか頭が固く、話が長いのが欠点だ。

 このままでは、庭師頭が再びヒュンケルの所に押しかけてきて、大演説をかましてくるのは間違いないだろう。それはあまり嬉しくないし、早めに会っておいた方がいいかもしれない――そうは思ったが、今は空腹だった。

 先に、昼食を済ませてからでも問題ないだろう。
 そう思い、食堂へ向かう。しかし、今度もまた、途中で邪魔が入った。緑色の旅人の服を着た魔法使いが、大きく手を振りながらヒュンケルに声をかけてくる。

「あー、いたいた、ヒュンケル! おまえさー、執務室にいないでどこほっつき歩いてんだよ、落ち着かないヤツだな」

 正直、よりによってポップにそう言われるのは不本意だ。
 気分次第でちょくちょく城を抜け出してこっそり遊びに行くポップに、そう言われるなんて軽く屈辱ものだ。

 そもそも、ヒュンケルはついさっきまでレオナの話に付き合って長々と彼女の執務室にいたのに、まるでサボっているかのように言われるのは納得いかない。

 しかし、いつものことだが、ヒュンケルが言い返す文句を思いつくよりもポップの方が早かった。

「まあ、いいや。ちょっと町外れまで行きたいから、ついて来いよ」

 その要求に、ヒュンケルはわずかに疑問を感じる。
 よくよく見ればポップの今の格好は、以前から見慣れた普段着……言ってしまえば一般市民の服装だ。休日やダイと町に遊びに行く時などはいつもそんな服装だが、ポップは城内で仕事をしている時はそこそこの服を着ている。

 今は仕事中の時間のはずなのに、お忍びにしても堂々としているなと思ったヒュンケルの思考を読んだように、ポップが眉を寄せた。

「あ、てめえ、おれがサボるとでも思ったんだろ? 言っとくけどな、これも仕事なんだよ。

 長雨のせいで、少し地盤が緩んでいるっぽい箇所がいくつかあるんだってさ。正式に調査団を派遣する前にちょっと見ておきたいんだけど、それなら護衛ぐらい連れて行けって姫さんがうるさいんだよ」

 ポップの説明を聞いて、ヒュンケルは納得する。
 雨は人間に恵みをもたらすものだが、同時に災厄ももらたす。

 雨があまりにも続けば、川岸や山際などの地盤が崩れることもある。場合によっては、人にも被害のでる大惨事に繋がりかねない。早めに手を打つことが重要なのだ。

 そして、正式な調査団を入れる前にポップが派遣されるのも、割とよくあることだ。

 ポップは意外と、その手の知識にも詳しい。
 聞いた話ではポップの生まれ育ったランカークスでもしょっちゅう山崩れが起きていたそうだし、アバンと旅をしている時も、水害が起こりそうな箇所や危険を見抜く兆候を教え込まれたらしい。

 なにより、飛翔呪文の使えるポップは地面に足をつけないまま、危険箇所のすぐ近くにまで行っての調査が可能だ。しかも瞬間移動呪文も使えるだけに、知っている場所ならば多少距離の離れた場所にも文字通り飛んでいける。

 そんな時、護衛として指名されるのはヒュンケルなことが多い。ポップに言わせれば、一般兵士を連れて行くと気を遣ってかえって面倒くさいらしい。

 ポップからの護衛の指名は突然のことが多く、ヒュンケルにとってはイレギュラーな仕事に当たるが、ヒュンケルは今までそれを断ったことはない。

 ポップのしている仕事が、パプニカにとって重要なこと……即ち、レオナにとって有益なことだと理解しているからだ。
 他の業務を差し置いてでも、優先しなければならない任務の一つだ。
 それを知っているポップは、もちろん遠慮なんかしない。

「ほらっ、行くぞ。んな面倒な仕事なんか、さっさとすませたいんだからよ」

 そう言って、返事を聞く前にすでに城門の方へ向かうポップの背に、ヒュンケルは大人しくついて行く。
 だが、食堂の前を通り過ぎる時に、一瞬、そこを目で追ってしまうぐらいは仕方が無いことだった――。






「あーあ、つっかれたよなー。もう腹ぺこだぜー、今日の夕飯はなんだろうな〜」

 ぼやきながら歩くポップの言葉に、ヒュンケルは相づちも打たない。というか、そんな余裕もない。
 夕食と聞いただけで、腹の虫が鳴りそうだった。

 特に食い意地が張っているつもりはないが、ヒュンケルも若い男だ。成長期は終わったとは言え、まだまだ食欲には成長期の名残がたっぷりと残っている。

 さすがに朝早く起きてから夕方まで何も食べないままでは、お腹が減ってしまう。しかも朝から兵士達の特訓を指導し、夕方近くまで地域調査で動き回っていたのだ、空腹を感じない方がおかしい。

 余裕があればどこかで何かを食べたかったが、生憎と言うべきか今日の調査は店どころか人家などなどまったく無いような場所ばかりだったし、やたらと急いでいるポップの邪魔をするのもためらわれたせいで、結局何も食べられなかった。

(城に戻ったら、とにかく何かを食べよう……)

 ひたすらそう考えながら、ヒュンケルはポップと共に城門をくぐり抜ける。今日は平日なのに、やけに城門内は賑やかだった。

「あっ、ポップ、おかえりー! ヒュンケルも一緒だったんだね!」

 そう言って、真っ先に駆け寄ってきたのはダイだった。
 夕刻の鐘が鳴る直前に城に戻ってきたヒュンケルとポップだが、それを待ち構えるようにダイがすでにそこにいた。

 それは、パプニカでは珍しいことではない。
 ポップがダイを置いて出かけた時には、よく見られる光景だ。主人の帰りを待ち望む健気な犬のように、ダイが城門でそわそわしているのはヒュンケルも何度も見たことがある。

 だが、そのダイの後ろに控えめに立っている戦士の姿を見るのは、珍しいことだった。
 青い肌、尖った耳が特徴的な戦士は、射貫くような目でこちらを見ていた。

 元魔王軍・竜騎衆の陸戦騎ラーハルト。今はカール王国に食客として滞在しているが、主君と定めたダイが気になるのかたまにパプニカにやってくることがある。

 今日も大方そんなことだろうと思い、ヒュンケルは特にラーハルトに注意を払わなかった。まあ、久々に会った友人……とは言えなくもない相手だ、多少の話ぐらいはしたいとは思うが、とにかく今は腹が減っている。

「おう、たっだいまー」

「ねえねえ、ポップ、どこ行っていたの?」

「それより、おまえこそ何やってたんだよ、泥だらけじゃねえか? そんままだと、姫さんが怒るぞー」

 ダイとポップが楽しそうにはしゃいでいるのを横目に、ヒュンケルはラーハルトに軽く会釈し、そのまま通り過ぎようとした。
 が、その時、ガシッと腕を掴まれる。

「……?」

 腕を掴んでいるのは、ラーハルトだった。

「貴様を待っていた」

 押し殺した声。骨まで砕かんばかりに力を込め、ラーハルトはギロリとヒュンケルを睨む。間近でその目を見て、ヒュンケルはようやく彼が怒っているのに気がついた。

 元々、目つきの険しい男だったから気にもとめていなかったが、最初からラーハルトは明確にヒュンケルに怒りを抱いていたらしい。だが、それは分かっても、なぜここまで敵意をぶつけられるのか、ヒュンケルには分からなかった。

「何か、用か?」

 そう聞いた途端、ゆらりとラーハルトから殺気が立ちこめる。

「用か、だと……!? あんな宣戦布告をしておいて、よくもそんなことが言えるな……!」

 突然そう言われて、ヒュンケルは大いに困惑していた。まあ、傍目からは全くそうは見えないだろうが、本人的には大混乱だ。

 宣戦布告もなにも、そもそもラーハルトとはここしばらく会っていない。特に彼を怒らせるようなことをした覚えもないのだが、ラーハルトは大変にご立腹の様子だった。

「話は後だ。修練場に来い」

 有無を言わさぬ力で、腕を引っ張ろうとする。
 それは、普段ならば別に問題は無い。元々口下手なヒュンケルと、ぶっきらぼうで手間を省きがちなラーハルトは、口で語り合うよりも拳の方が早いと考えている点で一致している。

 互いに不満や誤解があるのなら、話し合いで解決するよりも相手を殺さない程度に手加減した模擬試合で決着をつけた方がスッキリするとさえ思っている。

 普段のヒュンケルなら、わけが分からないながらもとりあえずはラーハルトの望みに応じて、そうしただろう。兵士相手の訓練と違い、ラーハルトが相手ならば思いっきり腕を振るえるのでストレス解消にもなることだし。話なら、その後でもいい。

 が、今のヒュンケルは空腹だった。
 とにかく、何か食べたいと言う気持ちが先に立ち、とてもじゃないが模擬試合などやっていられない。

「悪いが、その話は後で――」

 ラーハルトの腕を振り払い、ヒュンケルはとりあえずその場を去ろうとした。しかし、その前に頬を真っ赤に染めた娘が立ちはだかる。

「ヒュ、ヒュンケル、あのっ、姫様から聞いたのだけれど、あなた、昼食を取り損ねたんじゃないのかしら……? それで、サンドイッチとかが欲しいんじゃないのかと思って用意したのだけれど、でも、時間が経っちゃって美味しくなくなったかも……で、でも、これ、手作りだから……っ」

 もじもじと恥じらいながら、熱心に話しかけてきたのはエイミだった。
 だが、惜しむらくは、恥じらいが強すぎるせいで用件をすぱっと話せずに遠回しになっている点だった。それに、手にした食料入りの袋を後ろに隠しているのも、またまずかった。

 いつものヒュンケルならば、エイミの話が多少回りくどくてもきちんと聞いただろう。が、今はとにかく空腹が先に立っているし、ラーハルトから逃げようとしているだけに焦りが先に立つ。

「悪いが、その話は――」

 ヒュンケルはエイミの話も後にしてもらおうと思ったが、その台詞も最後まで言えなかった。エイミを押しのけるように、ひょいっと割り込んできたのは副隊長だった。

「隊長〜、今までどこ行ってたんスか。全く困りますよ、いくら大魔道士様の緊急護衛任務があったからっていっても、大将に何の連絡もナシに居なくなられちゃこっちも商売あがったりですって」

 苦笑する副隊長の横には、手に書類を持った少年兵がいた。

「隊長っ、至急目を通して欲しい書類があるのですが」

「悪いが――」

 再び言いかけた台詞は、年配の文官によって遮られる。

「いえ、こちらが先です。近衛騎士隊長殿、先週提出されたこの書類について、不備がありますのでご確認願いたいのですが」

 ずしっと差し出された書類の厚さに、ヒュンケルは思わずたじろぐ。思わず絶句してしまったヒュンケルに、さらに追い打ちがかけられた。

「近衛騎士隊長、お探ししましたよっ! 例の草むしりの件ですが、どうなっているんですか!? 未だに希望者が一人も来ないんですが! このままではまた去年の二の舞ですよ、ここは一気に人員を集めて攻勢にでるべき時です!」

 鎌をふりふり現れたのは、庭師頭だ。
 一人ずつでも厄介だと思う連中に一斉に詰め寄られ、ヒュンケルは思わず助けを求めるような目を弟弟子へと向けてしまう。

 書類や各官僚への連絡事項に置いては、ポップの方が遙かに優れている。混み合った書類や官僚からの欲求を右から左に裁くのはお手の物だ。
 ダイはその手のことには全く頼りにならないが、彼はラーハルトの主君だ。ダイがやめろと一言命じれば、ラーハルトは必ずそれに従う。

 あの二人が、なにか声をかけてくれたのなら――だが、すがりつくような思いで目を向けた先にいた二人の弟弟子は、こっちなんかまるっきり見ちゃいなかった。

「あのね、あのね、ポップのお気に入りの中庭、すっごくきれいになったんだよ! 明日は、あそこでお昼にしようよ!」

「そりゃあ、楽しみだなー。でも、今日はまず風呂に行こうぜ、夕飯までに泥を落とさないと姫さんに怒られちまうからよ」

 などと話しながら城に向かった二人には、こっちの話など耳に入っていないらしかった。ヒュンケルが声をかけるよりも早く、並んだ二つの影は仲良く城の中へと消えていく。

 そして、ヒュンケルは不満やら要望やらを訴える連中の中に一人取り残されたのである――。






 さて、その後。
 揉めに揉めていた連中をなんとかなだめきり、なんだかんだで全ての騒動が片づき、ヒュンケルがやっと食事を噛みしめることができたのは、普段の夕食の時間をとっくに過ぎて夜食と呼べる時間になってからのことだった――。
                                                      END 
       


《後書き》

 『春の戦』『春の戦・後日談』から続く第三作、これにて完結です♪ いやー、すでに草むしりとは関係ない話になっていますが、ヒュンケルの不幸っぷりを書くのは実に楽しかったです(笑)

 そうそう、これは言っておかないと。
 エイミさんお手製のサンドイッチは、無駄になることなくスタッフ(ヒュンケル)がきちんと食べたそうです。

 ……まあ、エイミさんのお料理は可も不可も無くというレベルで、時間が経ちすぎてパサパサになっちゃったので味的には『ちょっと……』な感じになっていたかもしれませんが、ヒュンケルなら大丈夫でしょう。

 暗黒闘気ワインを飲み干せる男だし、空腹は最大の調味料ともいいますしね♪

 


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