『一人っきりのサバイバー』 |
目を覚ましたのは、身体に響く痛みのせいだった。 「ぐ……っ!?」 思わず、変な声が出てしまったのと同時に、激しい咳き込みが襲う。そして、自分でも驚くほどの量の水を吐き出していた。自分の中に井戸でもできたのかと思ってしまうほど、その量は多い。 喉を逆流する水に溺れる――本能的に感じたその危機感が、知らず知らずのうちに身体を動かした。ほぼ仰向けだった姿勢をなんとか動かし、横向きになる。たったそれだけの動きを取るだけでも、一苦労だった。 まるで身体が本来の十倍以上も重くなったように、のったりとして動かしにくい。それでも辛うじて横向きになれたことが、彼を救った。 「……ッ、ゴホッ……、ゲ……ッ!」 えずきながら、汚物混じりの水を吐く。 苦痛のみが突出したその時間は、幸いにもそれほど長くは続かなかった。水をある程度吐き出すと、きちんと空気を吸えるようになる。それと同時に、身体に力が戻ってきた。 「……く……っ!」 荒い息を吐きながら、彼は起き上がろうとした。 すぐに立てないのであれば、一つずつ進めば良いだけだ。 そこまでしてようやく、不快な己自身との吐瀉物から距離をとれた。 まだ口内に残る酸味の利いた味を吐き出そうと唾を吐き捨てる頃になってから、やっと息が整ってきた。 (ここは……どこだ?) それは、本来なら目覚めてすぐに感じるべき疑問だったのかもしれない。 (おれは……確か……) 復讐に失敗したのだ。 そう長いとは言えない彼の人生で、最大の熱意を持って挑んだ挑戦だった。それを成し遂げることが出来るなら、自分の命を投げ出しても良いとさえ思っていた。 元々、彼は死ぬはずだった。 なぜ、彼だけが生き延びたのか。 ただ、彼にとっては見も知らぬ両親に興味など無かった。 魔王軍の幹部でありながら、人間味を持った骸骨剣士バルトス……それが、彼にとっては父親だった。世間から見れば、彼もまた魔王軍の一員であり、『悪』であったかもしれない。 だが、彼にとっては優しい父だった。 そんな父、バルトスを殺した者……世間では勇者と呼ばれ、誰からも尊敬を集めていたアバンこそが、彼にとっては『悪』だった。 必ず殺してやる……! 彼にとって重要なのは、剣技を実際に習えたことだ。 そこにどんな意図があるせよ、彼にとってそれは僥倖だった。 卒業の資格があると言い、アバンのしるしを授けると言い出したのだから。 機を選ぶだけの余裕もなく、彼はその場でアバンに斬りかかった。 ヒュンケルの渾身の一撃は、アバンにあっさり返された。 泳ぎは一応習ったはずだったが、あの時はダメージが大きすぎてもがくことも出来ないままだった。 それらの記憶を鮮明に思い出したからこそ、彼は当惑せずにはいられない。 (なぜ、こんな所に……?) まず、目に入ってくるのは押し迫るかのようにそびえ立つ峡谷だった。それこそ見上げるばかりの険しい崖が、周囲を取り囲んだ盆地――そこが、彼がいる場所だった。 ずいぶん変わった場所だと、彼は思う。 そこだけは禿げ山のように小高く盛り上がっているため、周囲がよく見渡せる。もっとも小高いとは言っても、周囲を囲む崖には及ばない。丘の天辺に立っていて出さえ、周囲を閉ざされた閉塞感は強かった。 盆地の大半は、森で覆われていた。 しかし、こんな場所は初めて見る。 さすがに旅の全ての地域を記憶しているわけではないが、ここまで特徴的な風景なら、忘れるなんてことはないだろう。川で流されて辿り着いたと考えるのも、不自然すぎる。 なぜなら、ここには川など無かった。 汚物混じりの水跡が残るのは、彼の周りだけだ。 「……ッ!?」 いつからそこに居たのか――ヒュンケルの頭上に、異形の存在が居た。 なぜなら、その『存在』には顔がなかった。 背格好は長身の男性と大差は無いが、前が大きく開いた長衣の中は漆黒に満たされていた。それでいて、ただの闇ではない証拠として、双眸と中心部だけが妖しい光を放っている。 魔物に育てられ、不死生物に見慣れた彼の目にさえ、異形すぎる存在だった。一目見ただけで、そいつがただならぬ魔物だと直感できる。 (……なぜ、おれはこいつに気がつかなかった!?) 驚愕は、身を燃やす怒りと同時に襲ってきた。 だが、所詮、それらは稽古に過ぎなかった。 しかし、実戦では違う。 いくら溺れていたとは言え気絶し、先程まで無様に吐くことだけに気を取られていた自分の未熟さに、彼は歯がみする。こんな得体も知れない存在がすぐ近くに居たのに、気づきもしなかったとは。 怒りを込めて、ヒュンケルはそいつを睨め上げる。 溺れていた自分を、ここに連れてきたのはまず、そいつだろう。 本気で人を助けるつもりなら、地べたに投げ落とし、声もかけずにじっと観察しているなんて真似をするわけがない。 (こいつは、敵だ……!) 何の迷いもなく、ヒュンケルはそう決めつけた。 無言のまま、そいつがゆっくりと降りてくるのを、ヒュンケルも無言のまま睨み続ける。言いたい文句や疑問がないではなかったが、今はそれらに気を散らす余裕などない。 地面にすれすれまでそいつが降りてきた瞬間に、彼は動いた。 何度となく修行で繰り返した動きは、完璧だった。疲れ切った身体から絞り出せる、全ての力をそこに込める。 「な……っ!?」 思わず、驚きの声を漏らしてしまう。 長い袖から伸び出た、異形の爪は容易く剣を受け止め、上回った。 それは、本日二度目……大げさに言うのならば、ヒュンケルの人生で二度目の決定的敗北の瞬間だった。 それは、攻撃でさえなかった。 それが分かったからこそ、ヒュンケルはカッと身を焼く怒りを感じる。自尊心を容易くへし折られた屈辱に、ヒュンケルは今度は我慢できずに叫んでいた。 「貴様……っ、何者だっ!?」 叫びながら、ヒュンケルはそれが意味の無い質問だと理解していた。敵であることは確実なのだから、聞いたところで意味など無い。 ついさっきまでのヒュンケルなら、敵と無駄に言葉を交わすぐらいなら、戦いに専念した方がいいと判断したことだろう。だが、今はもう戦うための刀は折れ、心も折れた。 自分がこいつには勝てないと、嫌と言うほど思い知らされた。 「おまえが、おれをここにつれてきたんだろう!? なんのつもりだ……っ!? なぜ、おれの邪魔をするッ!?」 自分で口にした言葉に煽られ、怒りがさらに荒れ狂う。 確かに、ヒュンケルはアバンへの復讐に失敗した。 しかし、それでもチャンスはある。 「おれを元の場所へ戻せ! それとも、おまえはアバンを庇う気なのか!?」 そう叫んだ時、初めて目の前の男が動きを見せた。 その笑いには、明らかな蔑みが込められていたのだから。 「何がおかしいっ!? 貴様ッ、黙ってないで何か言えっ!」 怒りのあまり、折れた剣で斬りかかる。 剣が触れるよりも早く、白い衣の男はフワリと消えた。それは、比喩でもたとえでもなく、現実だった。 「……っ!?」 思わず、ヒュンケルは動きを止める。 素早く動いて避けたのでは到底説明の出来ない速さで、そいつはかき消えたのだ。 「――!」 とっさに振り向いた時には、真後ろに立っていた白い影はまたもすぅっと消えるところだった。そして、それと同時に、またも己の背後に新たな気配が感じ取れる。 「くっ、くそっ! くそおっ!?」 瞬間移動しているとしか思えない動きを見せるそいつを前にして、ヒュンケルは闇雲に剣を振り回す。皮肉にも折れたせいで速まった剣筋だったが、それでさえ白い影を捉えることはできなかった。 からかうように何度かそれを繰り返した後、白い衣の男はスウッと上へと浮き上がる。 攻撃かと、とっさにそれを躱したヒュンケルだったが、避けた後でその必要もなかったと気づいた。 「……何の真似だ……!? 貴様、いったい何を考えているんだ……っ!」 困惑以上に怒りを載せたその質問にも、白い影は答えなかった。
ヒュンケルがようやく動き出したのは、白い影が消えてからずいぶん経ってからのことだった。 残された剣に、ヒュンケルは慎重に近づいた。 (……アバンは信用はできないが、質問にはいちいち返事をする男だったな……) アバンの行動は、ヒュンケルにとっては理解しきれないことも多かった。 実際に質問したことも何度もあるが、アバンはその度になんだかんだとはぐらかしてきた。運命を感じたからだの、将来の勇者候補の資格があるだの、突拍子もないことを言うアバンの言葉を、ヒュンケルは本気にしたことはない。 だが、アバンは決してヒュンケルを無視することはなかった。 もし、アバンがここにいたのなら、びしょ濡れのヒュンケルを見て風邪を引くだの大騒ぎし、着替えるようにとか、暖かいものを飲むようにと言ってくるだろうなと思い――ヒュンケルは強く首を振った。 そんな風に考えるのは、馬鹿げている。 望みは、アバンへの復讐だけだ。 (そうだ……まずは、生き延びないと) それが、手始めだった。 溺死を免れたとは言え、まだ水に溺れた脱力感の残る身体は重かったし、水に濡れたままの服は容赦なく体温を奪っている。今は肌寒さですんでいるが、日が沈む前に本格的に暖をとらなければならない。冷えは病気や、時として死に繋がることをヒュンケルはすでに承知していた。 そして、あらためてヒュンケルは周囲を見回す。 と言うよりも、おそらく存在すると考えた方が自然だ。 これまではアバンと旅をしていたから、それらのことを気にする必要はなかった。 が――今、ヒュンケルは一人っきりだ。 生き延びてこそ、道は開ける。 (見ていろ……! おれは絶対に、アバンへ復讐する……!) 決意を新たにして、ヒュンケルは目の前にあった剣をその手にしっかりと握りしめた――。 END 《後書き》 捏造の原作以前、ヒュンケル編です♪ 個人的に、ミストバーンがヒュンケルに衣食住を与えて弟子にしたとは思えなくって……ほぼ放置しといて、ある程度強く育ったようならようやく兵士教育を施すという古代スパルタ式教育だったんじゃないかと前々から想像していたんです。 というわけで、剣一本を手にサバイバルしている過去を捏造してみました♪ ポップの過去編と同じく、これからは時々ヒュンケルの原作以前も書いていく予定です。 |