『黄泉路への撤退』
 

 そこは、鬱蒼とした森の奥。
 遠目からは緑豊かな瑞々しい森を見える場所も、実際に生い茂る木々や茂みの中に入り込んでしまえば美しいばかりではない。特に、人の手がほぼ入っていない原生林ならば尚更だ。

 整えられていない木々は好き放題に枝を伸ばし、また、倒れたり立ち枯れた木はそのまま捨て置かれている。
 道すらないそんな森の中を、驚くべき巨体が蠢いていた。

 もし、人間がその姿を見たのなら、大熊かと肝を潰すことだろう。だが大きさこそは大熊に匹敵しても、よく見れば熊ではないことは一目瞭然だ。

 毛皮の代わりに分厚い鱗に身を包んだ巨大なワニ――リザードマンが、そこにはいた。
 鎧を身に帯びたその姿は、本来ならば彼が二足歩行を可能とする知的種族だと示している。

 しかし、今の彼は立ち上がることもできずに地べたを這いずっていた。それこそ本物のワニのように地べたに伏せた姿勢のまま、ほぼ腕の力のみで前へ、前へと前進していた。

 その動きは、お世辞にも速いと呼べるようなものではなかった。
 むしろ、亀と競争できるのではないかと思えるようなのろのろとした動きにすぎない。そして、そうやって地を這う彼の後にはべったりとした血糊の道が作られていく。

 その血の量が、そしてバラバラにならないのがいっそ不思議なぐらいヒビの入った鎧の無残さが、リザードマンの負っている怪我の重篤さをそのまま指し示している。

 背中側には傷らしい傷はないが、おそらくは伏せている腹側には酷い裂傷があるに違いない。

 直接傷を見なくとも、その血の量と徐々に緩慢になっていくリザードマンの動きを見ているだけで、彼の命の火が燃え尽きようとしているのが一目で分かるだろう。

 彼の名は、獣王クロコダイン。
 百獣魔団を率いる魔王軍六団長として勇名を馳せた男も、戦いに負ければただの敗残兵に過ぎない。そして、戦いに敗れた者の末路とは、いつも、悲惨なものだ。

 致命傷を負い、味方から遠く離れた場所で倒れた者の運命は分かりきっている。遠からず、彼はそのまま地に還ることだろう。
 なのに、クロコダインは致命傷を負いながらも地を這いずり、動いていた。

 そして、その行き先も不可解だった。
 通常、怪我を負った者は助けを求めるものだ。少しでも助け手もらえる可能性がある方に動く――その方が自然だ。

 だが、クロコダインの動きは明らかに道を外れていた。むしろ、森の奥へ行こうとしているのか、木々や茂みの濃い方向へと進んでいる。無理矢理、身体を押しやるように進んでいるせいで、木の枝が彼の身体の傷をさらに深めているというのに、クロコダインは気にする様子も無く、ただ、森の奥へと進んでいる。

 地に倒れたままの瀕死の男が、何を求め、何のためにそこまで必死になって這いずっているのか……その答えは、彼の胸中にあった――。






(まだ、生きていたのか……!)

 真っ先に浮かんだのは、それだった。
 勇者との戦いに敗れ、自らの意志で城壁から飛び降りたことまでは覚えている。その際に味わった、それこそ身も心もグシャグシャに押しつぶすような激痛の記憶も。

 到底助かるような高さでは無かったはずだが、まだ生きている自分の頑丈さに驚かされる。そもそも勇者から受けた傷だけでも、生き延びられるような怪我ではなかったはずなのに。

 勇者ダイ。
 まだ子供でありながら、驚くほどの潜在能力を秘めたあの少年の実力は、確かだった。相手が子供だと侮り、最初の戦いで手傷を負った自分の見る目のなさに呆れてしまう。

(その意味では……あの小僧の目の方が、確かだったというわけか……)

 勇者ダイの隣にいた、魔法使いポップ。
 ダイのために、自分の身を投げ出してまで助けようとした。いかにも頼りなさそうなあの少年が見せた勇気は、クロコダインに大きな感銘を与えた。

 だから、だろうか。
 敗北を、そして遠からぬ自分の死を悟ったクロコダインは、自らの手で命を絶つ道を選んだ。

 ダイ達の手では無く、自分自身の意思で自分の命を終わらせようと望んで。
 だが、どうやらその試みは失敗してしまったらしい。

(まったく、身体が無駄に頑丈だというのも、時に不便なものだな)

 緩慢にそう思い、クロコダインは思考以上に遅い速度で腕を前に伸ばす。だが、ただそれだけの動作でも身体全体に苦痛が広がる。

 そもそも、身体がひどく重たかった。
 血を失いすぎたせいか、嫌な感じに身体が冷えていくのが分かる。苦痛の感覚が段々と間遠くなり、苦痛が薄れかけていることも。

 だが、それが歓迎できる事では無いことだと、クロコダインには分かっていた。

 重傷を負ったのに、痛みを感じなくなってくるのは決して良い兆候ではない。痛みとは、生き残るために身体が上げる警告だ。痛みから逃れるために無意識に取る行動こそが、その生命体を生き延びさせる。

 しかし、もう回復の見込みが無くなったのなら、警告は無意味だ。
 重傷を負い、苦痛を訴えている内はまだ見込みがある。しかし、痛みなど感じていないようになったのなら、そいつはもう――長くはない。

 戦場で幾多の戦いをくぐり抜けていた獣王は、それを嫌と言うほど知っていた。

 その意味では、自分はもう長くはないだろうという覚悟など、とっくに出来ていた。手っ取り早く死にたいというのなら、あの場でそのまま倒れてもよかった。

 そうすれば、ダイ達か……でなければ、ロモスの兵士達がクロコダインに止めを刺したことだろう。ロモスを襲った罪を問われ、見せしめのために処刑されたとしても文句を言うつもりなどない。
 敗者の処分を決めるのは、勝者の特権だ。

 だが――ダイ達は、まだ子供だった。
 敗者の命を冷静に刈り取るだけの非情さを彼らが持っているとは、クロコダインにはとても思えなかった。身内を人質に取られ、あれだけ動揺するような甘さを持った子供に、敵に対して最後の鉄槌を下せるはずもない。

 あの年齢から見て、戦いの経験は浅いだろう。いっそ、止めを刺すことが慈悲となる戦場の流儀を心得ているとも思えない。

 そして、他者の命を絶つ行為とは、心を変えるものだ。
 良い意味であっても悪い意味であっても、他者の命を奪ったことで、戦士は心構えが変わる。それはある意味では、戦士として生きるための通過儀礼とも言える。

 それは、これまで多くの戦士達が経験したことであり、争いがこの世に存続する限り、この先も繰り返されることだろう。
 クロコダイン自身、乗り越えてきた道だ。

 だが、そうと分かっていても、敵とは言え他者の命を終わらせる体験を、あの少年達に味合わせるのは忍びなかった。彼らのあの友情が、あのまっすぐな正義感がわずかなりとも損なわれるのは、耐えがたいと思った。

 戦士として生きる以上、この先、彼らの手が血と無縁のまま過ごせるとは言えないだろう。いずれ、敗者の死をも背負い、戦いの結果を受け止めるだけの心の強靱さを備えていくことになる。

 しかし、せめてこの戦いだけはそうあって欲しくないと思った。
 勝利の喜びだけを感じ、敗者の死の苦さなど知らぬままでいて欲しい。クロコダインにとっても、この戦いは特別だった。

 クロコダインがそうだったように、戦いの誇りと、輝かしさだけを記憶していて欲しい――そう思えたのだ。

 だからこそ、クロコダインは自分自身で己の始末をつけようと思った。
 ダイ達に勝利の喜びだけを残し、敗者への止めは自ら行おう、と。ロモス城から身を投げる最中、クロコダインは一声、大きく吠えた。

 それは、部下達への撤退命令だった。
 魔王ハドラーの復活により凶暴化した怪物達だが、それぞれの軍団に所属する怪物達は基本的に軍団長の命令に従う。両者の命令に矛盾が生じた場合、直属の上司の命令が優先されるのだ。

 ハドラーの影響で凶暴化していたとしても、森へ帰れと命じたクロコダインの遺志が反映される。
 ロモスの町は、今頃、平和を取り戻したことだろう。

 クロコダインがその気ならば、最後に怪物達に徹底抗戦を命じることも可能だったが、そんな無様な引き際など御免だった。
 勝負に負けた以上、潔く敗北を認めたい。

 人間達を襲った怪物達は、全て森へと帰る。それは、クロコダイン自身も同じだ。
 魔王軍・百獣魔団軍団長、獣王クロコダインは勇者ダイに敗れ、止めを刺されたのではない。

 勇者ダイと戦い、敗北の末に撤退した。
 その撤退の挙げ句、人知れずに死亡した――それでいい。

(……ああ…………そろそ……ろ、か……)

 緩慢になっていく意識の中で、クロコダインはそれでもなお、手を前に伸ばそうとしていた。
 それは、生き延びることを目的とした物ではない。むしろ、目的は逆だ。

 命の残り火を全て使い切り、自ら望んで黄泉路に行くための足掻きに過ぎない。そして、その苦労はそろそろ報われるはずだった。
 だが――思いも寄らぬ声が、頭上から降ってきた。

「ヒョーッヒョッヒョ、これは驚いた……! まさか、まだ生きておったとはな」

 ザラついた耳障りな声は、聞き覚えがあった。
 魔王軍六団長の一人、妖魔司教ザボエラ。

 クロコダインにとって同僚とも言える相手であり、今回の戦いに置いては手を組んだ仲でもあるのだが、だからと言って親しいわけではない。どちらかと言えば、クロコダインはザボエラを嫌っている。

 戦いを嫌って色々と策を弄する性根が気に入らず、積極的に関わりたいとは夢にも思えない相手だ。よりによって、そんな相手に見つかってしまったことにクロコダインは歯がみする。

 地を這うことだけに専念していたクロコダインが知るよしも無かったが、移動したせいで悪魔の目玉のテリトリーに入ってしまったのが彼の不運だった。

 情報収集を重視するザボエラは、無数とも言える悪魔の目玉を世界中にばらまき、彼らの得る情報をリアルタイムで察知できるようにしている。なまじ、森の奥へ這いずったせいでその情報網に引っかかってしまったらしい。

 こんなことなら、あの場でじっとしていた方がマシだったとチラッと思ったが、もう遅い。
 蜘蛛の巣に引っかかった虫のように、今のクロコダインは悪魔の目玉の視界から逃れる術など無くしていた。

「ヒヒヒッ、安堵するがいい、今、助けを遣わせるからな。ヒョーッホッホ、せいぜいワシに感謝することじゃな……もっともその状態じゃ結局は助からんかもしれんが」

 どこからか聞こえる声は恩着せがましく、そんなことをほざく。
 もし、口が利けたのなら、そんなものはいらんと言い返したことだろう。だが、今のクロコダインには口を開く力どころか、声の聞こえる方角を見やる力すら無かった。

 動く力も失われつつある中、周囲にユラユラと揺れる影が現れる。とらえどころのない動きで宙に揺らめく死神達は、ザボエラ率いる妖魔士団の一員だ。複数の死神達は、引きずってきた棺桶の中に苦労しつつもクロコダインを運び入れる。

 一見棺桶に見えるその箱は、実は一種の治療器具だ。
 魔王軍で愛用されている蘇生装置ほどの効き目はないが、それでも中にいる者の傷の悪化や死体の劣化を防ぎ、内部に揺れを伝えないように移動も可能という高性能な担架である。

「や……め…………」

 クロコダインの制止の言葉を最後まで聞かずに、疑似棺桶の扉は閉められた。鈍く響くその音を聞きながら、クロコダインの不運を自覚する。
 どうやら、彼の望みだった黄泉路への撤退は失敗したらしい。代わりに待っていたのは、悪魔からの手招きか。

(できれば――もう一度、ダイ達に会いたかったものだな……)
  
 そう思ったのを最後に、クロコダインの意識は暗黒へと陥った――。

END 

 
 

《後書き》

 サイト13周年企画『6つの行き倒れストーリー』の最初のお話、クロコダインの行き倒れ話です。

 これは9周年企画の行き倒れアンケートを基にして、上位3名と筆者の好みと気分で選んだ3名と合わせて6名の行き倒れ話を書くという企画です。場所や助ける人、もしくは罠にはめる人もアンケートから選択しています♪

 ところで、この話は二次小説道場の『獣王の行方』とも対になっている話でもありますので、そっちにも載せておきますね。
 見ての通り、これは本編の隙間埋め話でもあって、クロコダインがダイのとの対決後、自殺同然に身投げした理由をテーマにしています。

 原作では手厚く死神らに棺桶に入れられていましたし、リメイクアニメに至ってはガルーダ君の見事な活躍で地面に激突前に救われているのですが(笑)、自分なりのイメージと好みでクロコダインには行き倒れてもらいました♪

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