拾伍章 リー・ロンとの決着
 

 

 一対一で向き合ったおいらとリー・ロン――先に動いたのは、奴の方だった。

 だが、それは攻撃ではなかった。
 その前段階……攻撃前の型を取ったのだ。
 スッと片足で立ち、左腕を上に大きく伸ばした独特の構え。手首を曲げた特徴的なその構えは、見覚えがあった。

 右手は軽く腰に置いているだけだが、その立ち姿には得も言われぬ優美さがあった。
 片足を折り曲げて佇むその姿を見たのなら、バレエを連想する者は多いだろう。

 が、少しでもクンフーをかじった者ならばこの構えの名を知っている。
 通常、鶴の構えと呼ばれるこの立ち構えは、その優雅さで有名だ。折り曲げられた手首は鶴の首を表現し、ふんわりと腰に添えられた腕は鶴の身体を表現している。

 動物の動きに強さを追い求め、拳法の中にその動きを取り入れたものを象形拳法と呼ぶ。
 中でも、鶴拳は有名な象形拳法の一つだ。

 動きの優雅さ、ポーズの美しさで知られているだけに、使い手もそこそこ多い。素人に毛が生えた程度の拳法使いが、運動として型をさせることもあるぐらい名の知れた技だ。

 本業が霊幻道士のおいらだって、鶴拳の有名な型は一応知っているし、鶴拳使いと練習試合をした経験だってある。

 しかし、これほど美しい鶴の構えを見たのは初めてだった。
 元々の顔が整っているせいか、恐ろしい程にぴたりとはまって見える。さらに恐ろしいのは、それが見た目だけじゃないってことだ。

 鶴拳は見た目は優雅だが、実際にやるとなるとなかなか習得が難しい拳法だ。

 まず、構えのほとんどが鶴の特徴を模して片足で立った姿勢なのだが、片足でバランスを取ること自体が難しい。きちんと訓練して足腰を鍛えなければ、長時間片足で立ち続けることなど不可能だ。
 訓練を重ねた上で初めて、ブレない体幹が手に入る。

 そして、手の形もただ鳥の真似をしているわけではない。
 優美極まりない曲線で腰に添えられたあの右手は、鶴の身体……即ち、翼の象徴だ。攻撃に入った時はその腕は羽として、激しい羽ばたきにも似た攻撃に転じる。

 その動きが侮れないことは、動く前から分かっていた。
 今、リー・ロンが動きを止めているのは、羽ばたき前の力を溜めているに過ぎない。鳥が、羽ばたきと同時に空高くまで舞い上がるように、リー・ロンもひとたび動き出せば凄まじい動きを見せることだろう。

 実際に戦った経験から言って、リー・ロンは凄腕のクンフー使いだ。攻撃の手数の速さ、鋭さはおそらくおいらより上だろう。口が悪く、気も荒いリー・ロンの戦い方は、性格と同じく荒っぽいものだった。

 だけど――この鶴の構えを見ると、そうではなかったのかもしれないと思える。

 いや、口が悪いのも気が短いのもリー・ロンの一面には違いないだろうが、ヤツの本質はこの構えに現れているような気がした。
 これほどの美しい構えを自然にとれるようになるには、長い修行と強い信念が必要だ。

 動きを抑えた今のリー・ロンは、静けささえ感じさせる。
 そのせいもあって、今のリー・ロンは本当に美しい鶴を思わせた。この美しさは、リー・ロンだからこそ出せるものだろう。

 着ているのが黒いタキシードなのが、惜しいとさえ思った。
 本物の鶴のように、白と黒をベースにした道着を着ていたのなら――いや、女の子ならば逆に、華やかなチャイナ服の方が合っているかもしれない。

 おいらはその姿に、いつしか見とれていたらしい。
 ――その隙を、逃すようなリー・ロンではなかった。

「はぁああっ!」

 気合いと共に、リー・ロンがいきなり飛んだ。
 それはまさに跳ぶというより、飛んだと言いたくなるような跳躍だった。予備動作なしで飛んだのが嘘のような距離と滞空時間で、間合いが一瞬でゼロになる。

 ハッとした時には、すぐ目の前にリー・ロンの顔があった。
 息を吐けば相手に届く距離。それこそ、一歩間違えればキスしてしまいそうなほどの超接近だ。

 思っていた以上に近いその顔にぎょっとして、身を引いたのはほぼ反射だった。

 が、その瞬間、猛烈な勢いの手刀がおいらの首筋をかする。
 翼のはためきのような勢いを込めたその一撃は、もしおいらがわずかにでも顔を動かさなかったら、容赦なく意識を刈り取っていただろう。

 背筋がゾッとすると同時に、おいらはなんとか気を取り直す。
 これは、舞踊に近い見世物鶴拳とは比べものにならない強敵だ。一瞬だって、油断できない。

「くそっ」

 舌打ちをしながら、おいらも構えを取る。
 鶴拳の向こうを張るなら、天敵となる蛇拳としゃれ込みたいところだが、生憎、そんな特殊な拳法なんて使えっこない。

 脱力して軽く立ち、前後左右、どこから来るか分からない攻撃に備える姿勢を取る。

 しかし、構え終わるよりも早く、リー・ロンが攻撃してきた。
 くるり、くるりと、その身体が円を描く。優美極まりない舞のような動きと同時に、翼を模した腕が大きく羽ばたく。

 それは、遠くから見ていたのならさぞや優雅な舞踊に見えたことだろう。
 が、実際に受けている立場からすれば、厳しい攻撃だった。

 円を描きながら振り回される腕は、遠心力を利用してか、恐ろしいぐらいの力がこもっていた。クルクルと回りながらの攻撃は、避ける隙すら与えない連続攻撃となっていた。払うこともできない程重い攻撃をやっと受けたかと思えば、すぐさまもう片手が翼として襲ってくる。

 おいらから見れば、2本の手で攻撃されていると言うより、終わることのない波を相手にしているかのような気分にさせられる。

 とにかく急所だけは庇い、後ろに下がって体勢を立て直そうとしても、リー・ロンは優雅な円で追ってきて、全く逃がしてくれない。しかも、その足取りは狡猾だった。

 おいらの逃げ足を予測しているかのように先に動き、どんどんと狭い部分へと追いやっていく。
 いつの間にか、おいらは店の隅へと追い詰められていた。

 格上のボクサー相手に異種格闘戦をやった時もこんな風にコーナーポストに追い込まれたことがあったけど、リー・ロンはそいつと同じぐらい巧みで、それ以上に優美だった。

「……フン……ッ」

 おいらが完全に逃げ道を失ったのを見て、リー・ロンは軽く鼻を鳴らす。人を小馬鹿にする、そのむかつく態度にさえ華があった。
 リー・ロンが、両手を大きく振り上げる。
 とどめの一撃を放つつもりだと、一目で分かった。

 だが、そのために足を止めたその一瞬こそが、おいらの待ち望んでいたチャンスだった。

「今だっ」

 ここが勝負とばかりに、おいらは思いっきりジャンプする。リー・ロンにではなく、壁に向かって。

「え!?」

 自分と正反対の方向へいきなり跳んだおいらに驚いたのか、リー・ロンが驚いたような声を上げる。その声を背に、おいらは壁を思いっきり蹴飛ばし、その反動を利用して身体の向きを変える。
 いわゆる三角跳びだ。

 リー・ロンのような距離は出せないが、ジャンプ力なら負ける気は無い。目一杯上に向かって飛び上がったおいらは、リー・ロンの頭上を飛び越えた。背後を取ったおいらは、そのまま羽交い締めの体勢に入る。

 絞め技はあまり得手じゃないが、兄弟子に習った技だ。柔道が好きな兄弟子のせいで、なんど絞め落とされて気絶したことか……まあ、そのおかげで絞め技を使えるようになったんだけど。

 拳法家にとっては不慣れな攻撃だけに、リー・ロンが戸惑ったのが分かった。が、そのまま手をこまねいてくれるほど、リー・ロンは甘くなかった。

「させるか!」

 リー・ロンの片足が、ふっと消えるのが見えた。
 その瞬間、強烈に嫌な予感が走る。

 もし、冷静に第三者の視点から見ていたのなら、リー・ロンが後ろに向かって足を蹴り上げたのだと分かっただろう。膝を起点に、足を後ろに蹴り上げる――そんな体勢では、そんなに力は入れられない。
 が、その足の狙いは、おいらの股間だった。

「ひょえっ!?」

 んなことをされちゃ、一撃で悶絶ものだ!
 慌ててその足を躱したものの、そのせいで首を絞める手が緩んだらしい。その瞬間、肩越しに伸びてきた手がおいらの襟首を掴む。
 かと思うと、そのままおいらの身体は背負われる形に投げられた!

「ええええっ!?」

 これは、背負い投げか!?
 なんだよ、こいつも柔道ができるのかよっ!?

 経験上、ここまでキレイに投げられたら、受け身も難しいと分かっている。っていうか、ここっ、道場じゃないっ。

 本来、柔道は日本式に畳みが敷かれた道場か、特殊マットレスの上でやるものだ。道場以外で柔道技を使った場合、ダメージが半端ないから決してやるなと兄弟子に説教された思い出が、ものすごい勢いで頭を巡る。

 え、これって、もしや走馬灯?
 やばい、やばい、やばすぎっ、まずいっ!

 焦るおいらだったが、リー・ロンの投げは甘かった。
 最後まで手を離さずに投げ飛ばされたのなら、おそらくおいらは受け身を取っても気絶か、それに近いダメージを受けただろう。

 が、リー・ロンはおいらを『放り投げた』
 柔道家ならばギリギリまで手を離さず、地べたに叩きつけていただろうが、リー・ロンは放り投げた段階で手を離してくれた。そのおかげで、足掻く余裕が生まれた。

 必死に自分から身体を回転させ、なんとか足から床に落ちるのに成功した。それでも投げの威力のせいで痺れるような痛みを感じたが、デパートから落ちた時ほどじゃない。

 なんとか命拾いしたことにホッとし、おいらは目を上げた。
 だが、そこにリー・ロンはいなかった。

「ど、どこだっ!?」

 しまった、今、投げ飛ばされた瞬間に逃げられたのか――そう思った時、背後から細い腕が素早く巻き付く。

「ここだよ」

 落ち着き払った声が、耳元に囁かれる。
 それを聞いた時ほど、おいらは自分の迂闊さを後悔したことはなかった。

「く……っ」

 柔道の投げ技を使えると言うなら、当然、絞め技も使えると気がついてよかったはずだ。ちょうど、さっきとまるっきり逆の立場になっていた。
 おいらよりも細いリー・ロンの手は、恐ろしい程かっちりと首を固めていた。かんぬきをはめられたように、まったく緩まない。

 まずい、このまま頸動脈をキメられたら気絶させられちまう……!
 おいらは右足を、ヤツの右足に絡みつかせた。そして、そのまま腰を落とす。

 そのせいでますます喉が苦しくなったが、背に腹は代えられない。
 この足絡みは地味なようだが、れっきとした痛め技だ。足の関節が決まれば、肘の薄い部分を痛打された時のように、電流を流されたような痛みが走る。

 痛みに対して、人間は敏感だ。
 よっぽど慣れていなければ、痛みに怯まない人間はいない。

「……っ」

 リー・ロンの腕が、わずかに緩んだのが分かった。おいらは、その瞬間を逃がさない。
 緩んだ腕を逆に掴み、その腕を掴んだまま前に倒れ込むような勢いで引っ張る。崩れた体勢で引っ張られた身体を、背負うように投げを打つ。

 その際、頭から落とさないように気をつけはしたが、手は抜かなかった。地面に叩きつけてからも、腕を掴んだ手からは力は抜かない。

 もし、これ以上抵抗するようならこのまま寝技に持ち込んで押さえ込み、気絶させるつもりだった。そのせいで、腰を落とした体勢でヤツを押さえ込む形になった。

 だが、仰向けに寝転んだリー・ロンは動かなかった。
 投げで気絶したのかと思ったけど、そうじゃなかった。

「……まいった。……オレの負けだよ。あんた、強いね」

 そう言うリー・ロンの表情には悔しさなどは微塵も感じられず、代わりに清々しさに満ちていた。
 どこか、柔らかさを感じさせる表情に戸惑いを感じながらも、おいらは疑問に思っていたことを口にせずにはいられなかった。

「なんで、戦いを変えたんだ?」

 最初に戦った時のリー・ロンは、拳法家くずれのチンピラかと思った。
 チンピラによくあるパターンだが、クンフーをかじる程度だけ習って、手っ取り早く使える部分だけをケンカに応用するタイプだ。

 この手のタイプは、確かに強い。
 正直、道場で真面目に稽古している人よりもよっぽど強いと言っていいかもしれない。正規の拳法家とはとても言えないが、とにかく実戦向けなのだ。

 だが、リー・ロンは最初はそうだったのに、今の対決では鶴拳を使ってきた。
 おそらく、それがリー・ロンが正式に習った拳法なんだろう。

 そして、おいらが柔道技を使った途端、柔道の技を使って見せた。まるで、わざわざおいらに合わせてくれているかのように――。

「……はじめて、だったからな」

 ぽつりと、リー・ロンが呟く。

「オレは……ガキの頃からずっと、男として育てられたんだ。怪盗ウー・ロンの影となるために。キョンシー相手に、クンフーの訓練ばかりしていた。だから、こんな風に同じクンフー使いと戦うなんて、初めてだったんだ」

 そう言って、リー・ロンは不意に笑った。

「だから……こんなに面白いと思った組み手なんて、初めてなんだ」

 その笑顔に、ドキッとさせられる。
 険しい顔でおいらを睨んでばかりいたヤツとは思えないぐらい、その笑顔は爽やかだった。

 ――というか、はっきり言って……可愛い。
 笑うと一気に女の子らしく見えて、戸惑わずにはいられない。

 さっきまでは平気だったのに、よくよく考えたら女の子を押し倒して上に乗っていることに気づいて、とてつもなくいけないことをしている気がして落ち着かなくなった。
 とりあえず、リー・ロンからサッと離れて立ち上がる。

「ま、まあ……こ、これで決着がついたんだから、後は大人しくしてもらうぞ」

 押さえを解いたら、即逃げ出すか抵抗するかとも思ったのだけど、リー・ロンは無防備に横になったままだった。

「ああ、オレの負けだからな。煮るなり焼くなり好きにしろ」

 いや、だから、そーゆー台詞はやめてくれいっ。なんだか、激しくよろしくない気がするからっ。

「そんなひどいこと、しないって! えーと、とりあえずウー・ロン達と一緒にFUTABAデパートに来てもらうけど……」

 ウー・ロン達の方に目をやって、おいらはその異変に気がついた。
 チーの方は大人しくしているが、ウー・ロンの様子が変だった。なんと、完全にバンバンシー化しているはずのウー・ロンが、ポロポロと涙をこぼしているのだ。

「え〜?」

 これまで聞いたことのない反応に、おいらは目を丸くする。
 だが、よくよく考えて見れば、ウー・ロンはただのバンバンシーじゃない。おいらと違って本職の霊幻道士だ、死霊化したとしても一般人とは違う反応を見せても不思議はない。

 階級を高めたキョンシーが、ほぼ人間と変わらない反応を見せるように、ウー・ロンもなんらかの形で意思表示をしようとしているのかもしれない。
 そう考え、おいらは少し考えてからリー・ロンに聞いた。

「なあ、ウー・ロンの持っている荷物にお札とか、ないか?」

「それなら、ここにあるけど」

 ひょいと起き上がって、リー・ロンは片隅にあった荷物から何十枚ものお札を取り出す。

 雑な字に呆れはしたが、どれも確実に霊力が込められているのが分かる。しかも、使用目的に合わせて幾通りも用意されている。ほんと、ウー・ロンって霊幻道士としては一級品みたいだ。

 ざっと調べ、その中で一番目的に近そうな札を選び、おいらはそれをウー・ロンの額に貼り付けて霊力を込めた。

「交代罪行」

 罪を白状せよ。
 そう命じたものの、正直、自信は無かった。だが、札に込められた霊力がしっかりと機能してくれたのか、ウー・ロンが乾いた声を漏らす。

「リー・ロンよ……我が娘よ……、ワシが悪かった……」

「親父っ!?」

 驚いたように、リー・ロンが目を見張る。
 だが、ウー・ロンは動かない。顔に張られた特大の札のせいで、表情も全く見えないまま、静かに語り続ける。

「全ては、ワシの罪じゃ……若い霊幻道士よ、一つ頼みがある――」
                            《続く》
 

☆に続く→ 
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