『決めていること』 |
「ポップ。この字、なんて読むの?」 本を片手に質問するダイを、ポップは不機嫌さ丸出しの目で睨みつけた。 「それぐらい、自分で調べろ」 できるだけ、素っ気なく突き放す。 「いやだよ。どうしても、ポップに教えてほしいんだ」 一歩も引かないぞとばかりに頑として動かないダイを見て、ポップは内心溜め息をつく。ダイは、基本的にはおおらかでこだわりを持たない。 些細なことですぐに怒ったり怒鳴ったりするポップとは対照的に、ダイは大抵のことは笑って受け流してしまう。 ポップがからかったり、ワガママを言ったり、果ては八つ当たりしたところで、めったなことでは怒らない。 だが――それだけに、一度怒りだすと厄介としかいいようがない。 「……安静、だよ」 「へえ。なんて意味?」 「体を動かさないで安らかにしていること」 ポップの答えを聞いて、ダイのよせられた眉はますます険しくなる。 「じゃあ、これは?」 指し示された文字を見て、ポップはさっき以上に顔をしかめ、そっぽを向く。 「ねえ、教えてよ、ポップ」 「…………」 「ポップ、聞こえているんだろ? 教えてくれよ」 ポップとて、強情さには自信がある。口の達者さで言えば、どちらかといえば口下手なダイとはそれこそ大人と子供ほどの差があるつもりだ。 だが、他の人間と違って、ダイはポップの調子のいい口先になんかごまかされてくれない。 ただの意地の張り合いになってしまうと、今は自分の方が分が悪いとポップは知っていた。 「療養! 意味も聞きたいなら、言ってやるよ。病気や怪我の治療をしながら休養することだよ!」 自棄っぱちで怒鳴り返すと、ダイは深々と溜め息をついた。 「やっぱり知ってるんじゃないかー」 「おめえじゃあるまいし、知らないはずないだろ、そんな常識」 「うん、ポップは知ってるはずだよね……でもさ、それならどうして守れないんだよ、ポップ?!」 「う……っ」 痛い点を突かれて、ポップはつい言葉につまる。 「レオナから聞いて、おれ、すごくびっくりしたんだよ! ポップが倒れたって聞いて……しかも二度も…!」 実際にその通りなのだから、言い返しようもない。 (くそっ、ダイにだけは言わないでくれってあんなに口止めしといたのに、あの女チクリやがったな……!) ポップの脳裏に浮かぶのは、見目麗しくしかし心は鬼よりも厳しいパプニカ王女の姿だった。 もちろん、今、口に出しても、隠し立てのできないダイが漏れなくバラしてしまうだろうから、やっぱり言えはしない。 「ポップ……! どうして、具合悪いのに無理ばかりするんだよ…?!」 ダイの声が震えているのを感じて、ポップはまずいなと焦りを感じる。 心配をさせたいだなんて、これっぽっちも思っていない。 「あのよ、ダイ。姫さんが何を言ったか知らないけどよ、ホント、たいしたことないんだって。ちょっと風邪気味だったのに油断してたから、立ちくらみしたがしただけだ。倒れたなんて、大袈裟なんだよ」 言い訳ではなく、本心からポップはそう思っている。 だが、たまたまレオナやヒュンケルがいる目の前で起こったのが、不運だった。 大丈夫だと本人が言っているのに、最初っから嘘と決めつけて一向に信じてくれないのは、仲間としていささか薄情な態度ではないだろうか? ポップとしてはそう思うのだが……しかし、どうやらダイの意見は親友に味方するものではなく、レオナ達に近いらしい。 「でも、その後で『アンセイ』にしているように言われたのに、なんか無理したんだろ? じゃなきゃ、倒れるわけないじゃないか」 「…………」 図星だった。 自分で思った以上に疲れが溜まっていたのか、書類を集めている間にどんどん具合が悪くなってきた。 仕方なく早めに戻ろうと考えたのだが、執務室から自室に戻る途中で激しく咳き込んだのを最後に、意識がぷっつり途絶えている。 気がついたら自室のベッドの上に寝かされていて……、そして、目の前にはダイがいた――。 「ポップ〜ッ、ちゃんと聞いてる?!」 顔を上げると、泣きそうな顔で怒っているダイが目の前にいた。 「ん? ああ、聞いてるって。で、次は何の字を聞きたいんだよ? 面会謝絶か?」 「全然、聞いてないじゃないか! いいかい、約束してくれよ、もう絶対に無茶はしないって! で、ちゃんとアンセイにキュウヨウ、とってくれよ」 「それはいいけど、おまえ、発音と使い方がちょっと変だぞ。ちゃんとその字は覚えたんだろうな?」 「ポップ!」 怒るダイをどうはぐらかせようかと考えていたポップは、ノックと共にドアが開く音を聞いて天の助けとばかりにそっちを向く。 「げ……っ」 非の打ち所のない美貌に、張りついたかのような氷の微笑を浮かべたパプニカ王女。 「あら、ポップ君! 大丈夫? ベッドから降りようとするなんて、少しは気分がよくなったのかしら?」 「あー、ポップ、ダメだよ、ちゃんと休んでないと!」 レオナの言葉に素早く反応して、ダイががっちりとポップの腕を掴む。 「分ぁーったよ、どこにも行かねえから手を離せっつの!」 そう言ってもなお、じっと自分を見ている黒い目に気づき、ポップは降参とばかりに自由な方の手を軽くあげた。 「……ホントに、分かったって。もう無茶はしないし、ちゃんと安静にする。約束してやるよ、それならいいんだろ?」 「…………」 その言葉の真偽を見定めようとするように、ダイはポップをじっと見つめる。 「……うん、それならいいよ」 「ところでよ、ダイ。なんか、暖かい飲み物持ってきてくれないか。喉、乾いちまった」
元気良く頷くと、ダイは足音も高らかに大急ぎで走っていく。 「で、ポップ君。一応、聞いておいてあげるわね。何か言い分があるのかしら?」 涼やかな声音に反する、絶対的権力者の響き。 「……その…悪かったよ。ごめん」 「あら、こっちが何か言う前に反省するなんて、珍しいわね」 いつもそうだと文句も言わなくてすむのだけど、と表情を少しばかり和らげたレオナだったが、それもポップの次の台詞を聞くまでだった。 「書類……何枚かなくしちまったみたいだ。今、数を数えたけど、合わなくって」 申し訳なさそうに言いながら、ポップはサイドテーブルにおいてある数枚の書類を手に取った。 クシャクシャになったり染みがついてしまったりしている書類を、恐る恐るといった様子で差し出してくる。 「……やっぱり、くどくど文句を言わせてもらおうかしら? ほんっと、いつだって君は根本が分かってないのね、ポップ君! なんならメルルやマァムも呼んで、三日三晩ぐらいぶっ通しでその辺をレクチャーしてあげましょうか?!」 「い、いや、お手柔らかに頼むよ、姫さん〜。ただでさえ今、ダイにめっちゃくちゃしつこく絡まれていたんだからよ〜」 首を竦めながらも、ポップはそれでも控え目に文句を言い返すのは忘れない。 「だいたい姫さん、人が悪いや。あれほどダイには黙っていてくれって頼んだのによ」 「何言ってるのよ、ポップ君。断っておきますけどね、あたしはなんにも言ってないわよ? 「え? ……ダイ、だったのかよ?」 「そうよ! ダイ君、気の毒なほど驚いていたわ。真っ青になって、誰よりも心配していたのよ? ポップ君が倒れるの、初めて見たんだから無理もないけど」 「そっかぁー、なるほどな……。道理で、しつこく心配するわけだ」 ダイに余計な心配をかけたくないと、ポップは自分の体調についてはいっさい話していなかった。 少し前……ダイが行方不明の間は、倒れるのもよくあったと予備知識があれば、そうはならなかったもしれないなと、ちらりと思う。 「でも……よかった。ポップ君が無事で…、ダイ君が、いつものダイ君に戻ってくれて……」 小さな、だが深い溜め息をつくレオナを、ポップは見逃さなかった。 「なあ、姫さん。おれが気絶していた間……何か、あったのか?」 それは、ずっとタイミングを見計らっていた質問だった。 二人っきりになればレオナに厳しく文句を言われると承知の上で、絶好の盾となってくれるダイを部屋から出したのは――彼の耳を憚る話題になるかもしれないと看破したがゆえだ。 「…………まずは、君が気絶したということ自体が『何か』以上に問題なんだって、自覚して欲しいものなんだけど」 忘れずに嫌味を言いながらも、レオナはふと真顔になった。 「…さっき……その…」 ちらりと、揺らぎがレオナを迷わす。 「正直に言うわ。倒れた君の側にいたダイ君を見て……恐かったわ。まるで、…バーンと戦っていた時のダイ君みたいで……あたし…一瞬とはいえ、あの時のダイ君に怯えてしまった…」 レオナの顔に、自嘲気味な笑みが浮かぶ。 だが、その一瞬が許せないのだろう。 どこまでも毅然と真理を貫く正義の使徒は、他者を裁く時以上に厳しく自分を律しているのだから。 「最低ね、あたし。ダイ君の一番の味方になろうって決めているくせに……ダイ君が一番望まないことをしてしまった」 ダイの苦悩の根源。 彼にとって最大の恐怖は、大魔王でも地獄に等しい魔界でもなく、人間に化け物扱いされることだ。 見知らぬ人に化け物と恐れられて傷ついていたダイは、親しい人間に嫌われるのをひどく恐れている。 それを知っていながら、ダイを傷つけてしまったことを悔いている少女――。 「……おれも恐かったぜ」 意外だとばかりに目を見開く彼女の顔を楽ししみながら、ポップはわざと軽い口調で言葉を続けた。 「恐くて恐くて、顔を合わせたくもないって思った。心底怒っていると思ったからな――姫さんは」 「……な…っ?! …もうっ、よくも言ってくれたわね、ポップ君」 反射的に怒りの色を見せてしまった後で、鮮やかなまでに他人の感情を一転させてしまったポップの手並みに、レオナが苦笑じみた表情を見せる。 「恐いものを恐いって思うのの、何が悪いんだよ?」 無責任な口調ほどには、ポップの本心は軽くない。 そして、それを増長させてしまった彼女の苦悩とて、人事じゃない。 「恐くても、ダイはダイだぜ」 その言葉に、レオナは少し間をおいてから頷いた。 「……そうね。ダイ君は、ダイ君ね」 彼女が落ち着きを取り戻した頃を見計らってから、ポップは控え目に頼んでみる。 「なあ、姫さん。急がなくていいから……一度、師匠とアバン先生に連絡とってくれないかな」 ポップの言葉に、レオナは目を丸くした。 「あら、どういう風の吹き回し? 君が、自分から進んで診察を受ける気になるだなんて」
診断して安静と治療を薦めるのは、師であるマトリフとアバンの役回りだったが、ポップはそれを嫌がって逃げ回るのが常だ。 ましてやダイ帰還後は無茶な魔法の使い方もしなくなったし、体調もずっと安定していたから、面倒だとなおさら逃げていた。 「ん〜? これを最後の診察にするためだよ。もう無茶をする予定はないし。後、どのくらいの期間療養したらいいのか、無理していい範囲の仕事量の限界とかをきっちり確認しておきたいんだ」 「いい心掛けではあるんだけど。なんだか……逆に不安になっちゃうわ。ポップ君がそんな殊勝な態度になるなんて。……よく、物語なんかであるじゃない? こーーゆー状況で心を入れ替えた途端、あっさりと儚く天に召されてしまうだなんて話が」 「あのな、姫さん……どっちが不吉なこと、言ってるんだよ?」 文句を言いかけて、ポップはレオナの表情に気がついた。 ダイがそうだったように、レオナもまた、ポップの体調を心配してくれているのだろう。 「それこそ冗談じゃないぜ。おれはね、サボりつつ適当に仕事をやって後任を育てたら、早めに引退して細々とセコく長〜く、悠々自適の生活を送るのが夢なんだ。師匠よりうんと長生きして、あの世で会った時に『この若造め』って、師匠を笑ってやる予定でいるんだから」 いささか誇張混じりだが、これはこれでポップの本音だ。 「……残念だけど、そう簡単に引退なんかしてもらっちゃ困るわ。長生きの決意は嬉しいけど、私としては生涯現役を望みたいわね?」 「げ……っ、最低100歳過ぎまで城勤めしろってのかよ?!」 「安心して、長くこき使う代わりに休暇は増やしてあげるわよ。先生達への連絡もすぐに手配するわね」 にこりと笑って、レオナは力強く請け合ってくれた。 「体調が安定するまで、特別休暇も出すわ。君の休暇の分の仕事量をこっちで調整するから、心置きなく休んでね。仕事に復帰した後も、調整は続けるから」 さっきまでの不安げな表情はどこへやら、てきぱきと指示を出す様はいつものレオナだ。
「頼むのは、こっちよ。ダイ君をよろしくお願いね」 それだけを言い残して、レオナは部屋から出て行った。 ダイやレオナの前では気を張っているから割と平気だが、一人になるとダルさや疲れを強く感じてしまう。 『ポップ……!』 思い詰めたような固い声で呼ばれ、目が覚めた。 一瞬、バランがいるのかとさえ思った。 だが、それはレオナの感じた感情とは多分、違う。 自分では引き止められない所まで、一足飛びに遠ざかってしまいそうに見えたダイが、心底恐かった。 魔界で、ようやく再会できたダイを見た時を思い出す。 殺戮と暴力、裏切りと悪意に満ちた魔界が、純粋で無邪気なダイにとって暮らしやすい場所であるはずがない。 竜の騎士の本能だけを残して、ダイは心をほとんど閉ざそうとしていた。 今も、そうだった。 「……させねえからな、絶対」 一人、ポップは呟く。 ダイと共に、大切な人達のいるこの地上で、笑ったりケンカしたりしながら楽しく暮らすと決めたのだ。 不幸にもまた、戦わなければならない日が来たとしても……その時は、竜の騎士がただ一人で戦うんじゃない。感情を押し殺し、心を削ってまで孤独に戦う必要なんかない。 勇者ダイとその仲間が、力を合わせて戦う。その時はポップも、全力で力を貸すつもりでいる。 竜の騎士の使命なんて、すっぽかさせてやる予定だ。 自分の体調が目的の妨げになると言うのなら、これからは充分に自重する。 不安のあまり心を押し殺させるような真似など、させはしない。 (さて……今度はなんて言ってやろうかな?) 一人で含み笑いしつつ、ポップはダイが戻ってくるのを待つ。 「ポップ! 飲み物、持ってきたよ! ホットミルクでいい?」 ドタドタと走る音と同時に、ノックもせずに飛び込んできたダイを見て、ポップはゆっくりを身を起こした――。 《後書き》 |