『姫君の見る夢』 |
それは女の子ならば、誰もが一度は見る夢だろう。 レースとリボンに覆われた綺麗な絹のドレスを着て、身を飾るのはきらびやかな宝石。 光に包まれた華やかな舞踏会では、素敵な王子様とダンスを踊る。 ほとんどの女の子達にとっては、あまりも現実感のないものとして成長と共に忘れてしまう、幼い夢想で終わる夢だ。 なぜならお姫様になれるのは、ごく一握りの限られた者にだけ許された、特権なのだから――。
そう言った少女を前にして、メルルは小さく微笑んだ。 前パプニカ国王と正妃の間に生まれた第一子にして、今となってはパプニカの国主であるパプニカ王女、レオナ。 本来ならば、一介の占い師であるメルルが差し向かいでお茶をするなど不敬もいいところだろう。 だが、身分に関わらず気さくなこの王女は、メルルを友人としていつも気軽に遇してくれる。 今も、連絡もしないで突然訪れたにもかかわらず、まだ執務時間内であろうにレオナの私室に招き、手ずからお茶を用意してくれた。 香り高いお茶の入ったカップを両手で包み込む様に持ちながら、メルルは香りと味だけでなく、その温かさをも楽しんだ。 「不躾な質問をして、すみません。でも、どうしても聞いておきたかったものですから……姫様は、姫として生まれたことを後悔なさったことはありませんか?」 「さっきとは逆の質問ね」 くすっと笑い、レオナはかき混ぜた紅茶にそっとミルクを注ぐ。 「そうね、正直言えばあるわね。よく思ったわ、普通の女の子になってみたいって。ごく当たり前の女の子の様に町を散歩したり、びっくりするような冒険をしてみたり、素敵な男の子に出会って、恋をしてみたいって思ったりもしたわね」 王女とは思えないような気さくさで細やかな夢を語り、レオナは小さく肩を竦めた。 「でもね、それって良く考えてみれば、ただの女の子じゃなかったとしても、できる夢なのよね。王女だからといって、特別なわけじゃないもの。結局、あたしはあたしなわけだし――王女として生まれ育ったのも、あたしの一部だわ。だから、後悔もしない」 いかにもレオナらしい毅然とした結論……だが、そこに至るまでに彼女の苦悩を全く推し量れないほどメルルは鈍くはない。 自分よりも年下ながら、他者を引きつけて導く術に長けたこの少女の特殊性を思えば、王女という身分が、どれほど希少な存在かは理解できる。 王家と言う見えない圧力のもとで、これ程までに健やかに育ちながらも、王族としての力を身につけた姫を前にして、メルルは畏敬の念を隠せない。 「姫様は、生まれながらのお姫様ですから……。でも、私のようなただの女の子にとっては、お姫様は特別な存在でしたわ」 「あら、メルルが『ただ』の女の子なわけ? あたしから見ると、メルルの方がよっぽど特別な女の子に思えるんだけどな」 からかいめかした言葉は、かなりのレベルで本気の意味合いが混じっていた。 「いいえ、私なんか……。多少未来は見えても、なんのお役にも立てませんし――本当に見たいものなど、見えた試しがないんですから」 メルルの黒曜石のような瞳に、憂いが満ちる。 「見えるのは、望みもしない断片的な未来だけ。しかも、それが最良の未来かどうかさえも分からないんです、私は……!」 俯くメルルの細い肩が、小刻みに震えていた。 「未来が分からないのは、あたしも――いえ、みんな同じだわ」 未来を見通す占い師に、王女は決然とそう告げた。 「でも、進むしかないのよね。欲しいものは、先にしかないんだもの」 そう言ってにっこりと笑い、紅茶を入れ替えましょうかと言って、再びお湯や茶葉を用意してくれる。 「でも、それはあたしの意見だわ。メルルが嫌なら、別にいいのよ? ――なんなら、協力してあげる。あなたの見えた未来が、回避すべきだと思うものなら、力を貸すわよ」 その言葉に、メルルはしばし目を見張り――いとも淑やかに頭を下げた。 「ありがとうございます、姫様。心から感謝しますわ……でも、それには及びません」 メルルは今のレオナの言葉が、どれほど重い意味を持っているのか知っている。 だが、それを承知の上で、本気で助け手を差し延べてくれるこの勇猛な姫に、なんとお礼を言えば伝わるのだろう。 「そう? 遠慮しなくってもいいのよ、メルル」 「いいえ、遠慮じゃありませんわ。少し、怖けついてしまったけれど……私の欲しいものも、多分、先にしかないんです」 朧気にしか見えなかった未来――だが、それでもメルルはその可能性に賭けたいと思った。 ただ、自分一人の問題では済まない決断する前に、少しばかり躊躇してしまっただけだ。だからこそ、生まれながらの姫君である彼女に、勇気をもらいにきた。 「それに……実は、こっちの相談が本命なんですけど、あの、私なんかにも似合うドレスとかってあるでしょうか?」
レオナのたっての懇願により、半ば無理やりこのパーティに招かれたポップも、その例外ではなかった。 宮廷魔道士見習いになってから1年以上経つし、ましてや今留学中のベンガーナでは、宴席を好む王の意向でしょっちゅうパーティに出る関係上、美姫には見慣れているはずだった。 ……まあ、見た目はずば抜けていても、漏れなく『政治的配慮』というおまけが付いてくる女の子が相手では、うかつに声をかけるわけにはいかない。 そんなわけでポップはどんなに見栄えのする女の子でも、姫と名のつく以上は涙を飲んで無視を決め込むのが通例だったが、今ばかりは目を離せなかった。 降る様な称賛と、次々と申し込まれるダンスの誘いを軽やかに交わしながら、その姫君は緑衣の少年の前にやってきた。 「メ……ルル?」 「はい。お久しぶりです、ポップさん」 優美に挨拶するその姿を見て、彼女が生まれながらの姫ではないと疑う者などいないだろう。 いつの間にか現れたレオナが、悪戯心を押し殺した済ました笑みを浮かべ、作法にのっとって正式に紹介する。 「ポップ君、紹介するわ。こちらはテラン王国の第一王女、メルローズ・マリー・ド・テラン」 その挨拶に併せ、メルローズ姫と呼ばれた黒髪の占い師はわずかに悪戯な光を宿した瞳を淑やかに伏せて、初対面の男性に対するしぐさで一礼した。 「メルローズ姫、こちらの方は当然ご存じだと思うけど、紹介するわ。彼はアバンの使徒にして、二代目大魔道士ポップよ。今は遊学中の身で、各国の王宮を渡り歩いている最中なのよ」 その紹介自体は、ポップにとっては耳慣れたものだ。 「メ、メルル……? いや、メルローズ姫?」 呼び掛けに戸惑っているポップに、メルルはくすくすと小さく笑う。 「今まで通りメルルでいいですよ、ポップさん。その名前は、正式に王家の養女になるからという理由でもらったばかりの名なので、正直、まだ馴染んでいませんし」 「養女って、メルル、本当に王女になったってわけ?」 「ええ。元々、この話って、私が物心ついた頃にも一度持ち上がっていた話なんです。テランでは、特殊な才能を持つ者が高い身分の家に養子に行くのは珍しくない話ですから」
物心ついたメルルが、祖母譲りの能力を持っていると知った頃から、彼女を養女へと望む声は幾つかあった。 王侯貴族の一員になるよりも、普通の市井の娘である方がどんなに幸せか――そう考えたからこそ、ナバラは両親を早くに亡くした彼女を連れて旅に出たのだ。 王族の姫として育つよりも、旅の占い師の娘として育って幸せだったと、メルルは本心から思っている。 だからこそ、いつの間にか勇者一行の一員と見なされ、昔以上の熱心さで養女へと勧誘を受けるようになり、迷惑だと思いこそすれ、嬉しいとはかけらも思えなかった。
レオナにせっつかれ、ポップは少しばかり迷ってからメルルに向かって手を差し伸べた。 本来なら、社交界にお披露目を飾る少女は、後見人に当たる人物か、でなければそのパーティの主催者に当たる人物と最初に踊るのが通例だ。 ――が、レオナだけでなく、ベンガーナ王やテラン王までもが、こちらを冷やかすような視線で見ているところをみると、最初から仕組まれているとしか思えない。 今日も、ポップは賢者として参加している。レオナとのダンスのお役目もすんだことだし、誰と踊ったからと言ってもう問題はないだろう。 まだ、マァムが参加していれば彼女の目を意識して考えたかもしれないが、今日はマァムは不参加だ。 なんだか、完全に乗せられている気もするが、それならそれで逆らったって同じことだろうからと、ポップは進んでメルルに誘いをかける。 「一曲、踊って頂けますか?」 そう声をかけると、メルルの色白の頬がポと明るい薔薇色に染まった。 「ええ、私でよろしければ喜んで」
軽やかなワルツの曲に併せ、緑衣の賢者と白いドレスの姫君は静かに踊る。 しかし――初々しい若い恋人同士のように見える外見と違って、ダンスに紛れて話していることは色気のかけらもない固い内容だった。 「メルル……本当に、お姫様なんかになっちまったのか?」 一見、失礼に思える疑問だが、ポップの声には驚き以上に労りの響きが混じっていた。 通常、王女という身分は王の娘のみに与えられる称号のように思われているが、厳密には違う。 王家の血筋を引き、王位継承権を認められた女性のみが名乗ることを許される称号であり、他国との駆け引きの場でも立派に通用する身分でもある。 言い換えるなら、姫と名乗って表舞台に出るということは、否応なく政治の場に関わると同義だ。 その苦労を察するからこそ、ポップの聞き方には否定を望む響きすらある。 「ええ、本当ですわ。この養子縁組により私は王位継承権五位を獲得し、正式な王家の一員として承認を受けましたから」 さらに言うのなら今夜の社交界のデビューにより、メルローズ姫という存在は世界に向けて公証されたと言える。 しかも、彼女はただの名ばかりの姫とは言えない。 政略結婚の箔付けに持たせるにしては、少々高すぎる地位だ。 それにカール、パプニカ、テランの三国では女性による統治権も認められることを考えれば、将来的にはメルルが王位に登る可能性も充分に考えられる。 魔法の血統を何より重視するパプニカやテランでは、血筋よりも才能に秀でた者を優遇し、王家に迎えいれてきた歴史的背景を持つ。 それを視野に入れれば、この淑やかで可憐な姫君が、テランの今後を左右する重要な役割をおっているのだと看破するのはたやすかった。 宮廷魔道士見習いという地位にいるポップには、それが理解できる。 「ポップさん……遠慮は、無用です」 白く、たおやかな腕にギュッと力が込められた。 「私も、マァムさんと同じです。ポップさんに力を貸すために、この身分を得ました。時が来たなら、必ず、お役に立てる様に」 マァムが、武闘家という職業に誇りを持っていたのをメルルは知っている。 だが、マァムはそれをあっさりと捨て、並ならぬ努力と引き換えに騎士になった。 それと同じ行動は、メルルには取れない。 「私は、あなたが何を考えているのか、何を望んでいるのか分かりません。ですけれど、それが一人では困難なことだけは分かります」 少し前に見た、予知の光景が脳裏に浮かぶ。 一つ一つのかけらだけでは、見通せない未来。 未来など見えないはずのポップは、メルルでさえ見通せない未来をしっかと見据えて立っていた。 たった一人で、小さなかけらをとり逃さないように丁寧に集めながら、先に進もうとしていたポップ。 「手助けが、必要なのでしょう?」 その質問に、ポップは答えを返さなかった。 「ただのメルルとしてでも、テラン王国の姫としてでも、いつでも力をお貸します。その時が来たなら……ためらわないでください。私達も、ダイさんを救うためにできることをしたいんです」 少しだけ混じる嘘に、メルルはそっと許しを請う。 だが、それはポップを助けたいと思う気持ちとは比べ物にならない気持ちだ。 自分の身も顧みずに一途に親友を助けようとする、この魔法使いの少年を助けたい。 それに、怪物でさえ差別をしないこの少年にとって、一介の少女の身でいるのと、王女となるのとで、どう違うと言うのだろう。 「どうか、お手伝いさせてください……!」 祈りににも似た想いで、メルルは必死で願う。 親友を助けるためになら、手を貸すどころか身を投げ出してしまいかねないこの少年を、繋ぎとめたい一心で。 「マァムさんから聞きました。ポップさん、ベンガーナの留学が終わったら、旅に出るつもりがあるって。それに手助けさせては、頂けませんか?」 息すら忘れて、メルルは返事が戻ってくるのを待った。 「旅の助けは、いらないよ」 「…………」 拒まれたショックよりも、深い哀しみが胸に広がる。 「でも、『その時』に力を貸してくれるんなら、喜んで」 「――え?」 理解しきれず、メルルはきょとんと彼を見返した。 「なんだ、分かってなかったんだ。メルルなら、当然占いで分かっていると思ったんだけどな」 苦笑しながら、ポップは内証話を打ち明ける口調で囁いた。 「『その時』は、旅のもうちょい後だよ。言っちゃなんだけどさ、旅はただの通過点――準備をするだけの時間だよ。おれにとっちゃ『その時』の方が本番で、よっぽど手助けが必要なんだ」 その言葉を聞いて、メルルの中で張り詰めていたものが、緩む。 助けを差し伸べる手を、ポップはちゃんと受け止めてくれるつもりでいる。 「その時に、王家の人間がおれに手を貸してくれるなら、そりゃもうありがたい話だし、願ったり叶ったりだけどさ」 そこまで言ってから、ポップは困ったように眉をしかめた。 「でも……おれ、なんにも礼なんてできないぜ? それにちょっと……つーか、かなり、危険かも、だし」 「危険だなんて」 思わず、メルルは笑ってしまっていた。 その姿を間近で見ていたと言うのに、なぜ危険を惜しんで怯んでなどいられるだろう?
そう言いながら、メルルは心持ちポップに身を寄せ、繋いだ手にわずかに力を込めた。
絹のドレスを、望みはしない。 ましてや、権威や財産などなんの価値があるものだろうか。 本当は、ポップを助けたいと望む気持ちよりも、この想いの方が強かったのかもしれない。 お姫様として、大好きな人に腕の中で踊る、この一瞬。 だが、この一瞬。 《後書き》 |