『手のひらの上の温もり』

 

 耳につくのは、いかにも苦しそうに咳き込む、引っ掛かるような咳の音。
 目が妙に潤んでいるように見えるのも、顔がやや赤らんで見えるのも恐らくは微熱のせいだろう。

 いつも元気良く跳ね捲っている癖っ毛さえ、心なしか力なくパサついているようだ。
 どこからどう見ても完全な病人の姿を目の前にして、パプニカ王女レオナが投げ掛けたのはひどく冷淡な一言だった。

「――自業自得よね、まったく」

「ひでっ!? 姫さん、冷たいなぁ、それが病人に言う言葉かよ?」

 咳き込みつつも減らず口を叩く魔法使いの少年に対して、しかし、誰一人として味方をする者はいない。
 むしろ、レオナの意見に賛同するがごとく一丸となって、ポップに向けてどことなく非難がましい視線が集まる。

「あら、完全に体調が治りきってもいないくせに、ちょっと目を離した隙にこっそり部屋を抜け出すような無茶な人に対して、他にどう言えって言うの? ぜひ、君の意見を聞きたいものだわね、ポップ君」

 皮肉たっぷりにそう言ったのはレオナだが、この場にいる誰もが同感に近い感想を抱いていた。

 鬼岩城戦が終わり、ダイとポップが無事に死の大地から戻ってきた翌日から、ポップは風邪を引いてしまった。

 まあ、氷海に浸かったのだから当然だろう。
 むしろ、その程度ですんだのを感謝してゆっくりと休むべきだ――と、誰もが思った。

 ポップのここのところの成長ぶりも、頑張りも群を抜いている。その反動も、少なからずあるのは想像に難くない。
 この機会にポップが休養を取るのを誰もが納得し、そう望んでさえもいた。

 が、肝心の本人がまるでそう思っちゃいない。
 仲間達の心配も気にも止めず、当の本人は『たいしたことないから』と、ちょっと楽になるとベッドから抜け出してしまう。

 その揚げ句、体調を崩してしまって夕方になると熱が上がり、夜に良く眠れないせいで朝にはさらにひどくなっているという悪循環を繰り返している。
 それを心配するからこそ、この場にいる全員の顔つきも険しくなるというものなのだが、ポップときたらそれに全く気がついちゃいない。

「だってよぉー、ダイだってヒュンケルだってもう修行してんのに、おれだけいつまでも寝てらんないじゃないか」

 見当外れな言い訳を言うポップに、全員の眉間の皺は深くなる一方だ。
 確かに昨日までは、この部屋には三人の傷病者を収容していた。
 凍死寸前にまでに衰弱したダイや、重傷を負って伏せていたヒュンケル。それに比べれば、単に風邪を引いただけのポップは一番の軽症だっただろう。

 が、基礎体力の化け物のような二人は、治療する者がびっくりするような早さで回復してしまい、今朝には床払いしている。

 だが、そんな人外とも言える屈強な戦士と、体力のない魔法使いが張り合ったところで虚しいだけだと思うのだが。
 しかし、誰もが認めると思えるその事実さえ、この意地っ張りな魔法使いは認めようともしなかった。

「それにおれ、別に無茶なんかしてねーよ。魔法だって使ってないし、城の外にだってでてないぜ? ちょっと中庭で瞑想してただけだよ」

 ポップのその言葉に、珍しく憤慨した様子で食ってかかったのはダイだった。

「瞑想なら、この部屋でやればよかったじゃないか!」

「ばっかだなー、ダイ、おまえ、瞑想の基礎も忘れたのかよ? あれは、自然の中でやった方が効果があるんだって」

 心を静めて精神を集中させ、自分の中の魔法力を認識するために行う瞑想は、魔法使いにとっては基本の修行だ。

 ごく初歩に習う物でありながら、どんな大魔法使いの成長してからでも行うそれは、戦士にとっては素振りにも等しい日常で欠かせない修行だ。
 特に、精霊の存在を密接に感じ取れる自然の中で行えば効果が高い。

 それを知っているポップにしてみれば、戸外で瞑想するのは当然の選択だった。
 が、魔法使いとしてはともかくとして、病人としては完全に間違った選択だ。

「馬鹿を言っているのはあなたの方でしょ、ポップ! まだ治りきってもいないのに何時間も外に出たりするから、すっかり風邪が悪化しちゃったじゃないの!」

 カンカンに怒りつつも、面倒見のいいマァムは咳き込んでいるポップの背中を叩いたりと、こまめに世話をしている。……まあ、その力が少しばかり強すぎるせいか、よりひどく咳き込んでいる気もするが。

「悪かったよ、でもよ、すぐ戻るつもりだったんだって。……ゴ、ゴホッ、も、もう、いいよ、マァム、へーきだから」

「あまりそうは見えんがな。どれ、もっと薪でも用意してくるか」

 そう言って、クロコダインは暖炉の脇の薪の量を確かめてからのっそりと立ち上がる。
 とにかく、戦乱の最中であるだけにパプニカ城は物資も人手も足りていない。

 朝夕はやや肌寒い季節になってきたとはいえ、今や薪は貴重品であり、王女であるレオナでさえ使用を節約している有様だ。

 が、この部屋では薪を惜しまずにガンガン燃やして、快適な暖かさを保っている。
 暖炉にたっぷり水を張った大きな鍋をかけてあるのは、湯を沸かして部屋に適度な湿気を与えるためだ。

 それをもったいないと文句をつけているのも、本人であるポップだけだ。

「いいよ、おっさん。別に薪なんか用意しなくても」

「いいわけないでしょ、いいから君はおとなしく寝ていて! いざという時のために、ちゃんと体調を整えるのだって、大切なことなのよ。もし、どうしてもおとなしくできないって言うのなら、今度こそこっちにも考えがあるわよ!」

 腰に手をあて、胸を張ってのレオナのその宣言に、ポップは思わず身をすくませる。
 勇猛果敢なパプニカ王女は、有言実行の人だ。
 彼女の気迫に押し切られるように、ポップは頷かざるを得なかった。

「あ、ああ、分かったって、おとなしく寝ているよ」








(けど……退屈なんだよな、正直言って)

 ベッドの上で、ポップは何度となく寝返りを繰り返す。
 喉の奥がざらついているような感覚がどうしても抜けず、寝入るのを邪魔するからだ。そのせいで気怠さを感じているのに、どうしても眠れない。

 じっとしていると喉の奥の圧迫感が強まって苦しいので、少しでも楽になれる姿勢を求めて、ひっきりなしに寝返りを繰り返す羽目になる。

 睡眠を取れてもごく浅いせいか、おとなしく横たわっていても、ほとんど好転しない。
 自分でも情けないぐらいジワジワとしか回復しない体調に、焦りを感じずにはいられない。

 これなら、まだ多少無理をしても瞑想でもしていた方がマシなように思える。
 だが、そうもできない理由があった。

「ピーッ、ピピピッ、ピーッ!!」

 ポップが身体を起こしかけた途端、すぐ側にいた金色のスライムが鳴き始める。

(ったく、これだもんなー)

 どうやら、ポップはこの件に関しては、とことん仲間達に信頼されていないらしい。
 ポップが勝手にどこかに行かないようにと、見張りまでつけられてしまった。

 見張りとして付き添うのは、おもにゴメちゃんだ。
 素直で無邪気なこのスライムは誰に言い含められたのやら、やたらと熱心にポップを見張っている。

 今も、ポップが手近にあった本に手を伸ばそうとすると、ぷるぷると全身を使ってまで首を振り、止めようとする。

「なあ、ゴメ。おれ、退屈なんだよ。ちょっと本を読むぐらい、いいだろ?」

「ピピーッ!! ピッピ、ピーッ!」

 とんでもないとばかりに激しく首を横に振るスライムに、ポップは思わず溜め息をついた。

「……おめえも、そーゆー頑固なとこはダイそっくりだよなー。ああ、分かった、分かったから、もう鳴くなっつーの」

 ゴメちゃんの役割は、文字通り見張りだ。
 ポップが何かしようとすれば、それこそサイレンのようにけたたましく鳴き出して誰かを呼び寄せる。

 一度、ゴメちゃんを出し抜いてこっそり部屋から抜け出しかけた際、身をもってそれを味わったポップは、二度とそれを繰り返すまいと思った。

 ポップがおとなしく横になっている分には、ゴメちゃんも不満はないのか一緒にちょこんと枕元で寝ている。
 眠くもないのに横になるのは時間の無駄なような気がしてかえって焦るが、仕方無くそうしている時、ドアの外から聞き慣れた声が聞こえてきた。

「ポップ、ポップ、入っていい? って、いうか、ドア、開けてよ」

 ダイの声に反応してポップがベッドから降りようとする時は、ゴメちゃんも止めなかった。
 ドアを開けると、両手で大きなトレイを持ったダイがそこにいた。

「ごはん持ってきたよ、ポップ! さ、いっぱい食べてよ」

 にこにこと嬉しそうに笑うダイは、吹き出してしまうぐらい慎重な足取りでそれを運び、テーブルの上に乗せる。

「んなの、わざわざ持ってきてくんなくても、食堂まで食いにいったのによ」

 実際、ポップは昨日……というか、今朝までは普段通り食堂まで行って、食べていた。それなのにいくら具合が悪くなったとはいえ、ここまで徹底的に重病人扱いされるとは納得いかない。
 が、ダイの方はなんの疑問も持っていないようだった。

「でも、レオナとマァムとメルルとエイミさんとマリンさんが、言ってたよ。風邪を引いた時は、とにかく栄養をとって、おとなしく寝ているのが一番なんだって。さ、ポップ、いっぱい食べてよ! 足りなかったら、もっともっと持ってくるから!」

 と、熱心に言うダイだが、今でさえその量は尋常な物じゃなかった。
 足りないどころか、ポップが元気いっぱいで腹ぺこだったとしても食べきれずに有り余るような量だ。

 まず、目につくのは暖かな黄色のが豊かなコーンスープ。
 わずかに浮かんだパセリの緑色が鮮やかな色の対比を見せていて、とても美味しそうだった。

 ぷーんと一際いい匂いをたてているのは、パンの香ばしさだ。ご丁寧にも、バターの他にも二種類の色の違うジャムが添えられている。
 メインのおかずとして用意されたのは、蒸し鶏にレモンバター味のソースをかけたもののようだ。

 他にも、軽く火を通して食べやすくした温野菜のサラダまでもが用意されている。
 甘い香りの源は、こんがりとカラメル状の焼き目をつくまで表面を焼いた、暖められたプリンだった。

 ここまで手が込んでいて、さらには口当たりがさっぱりとしていながら消化が良く、なおかつデザートまでつく大盤振る舞いな食事など、普段の食事には有り得ない。

 育ち盛りの、しかも戦士系の多い勇者一行にふるまわれる食事は、とにかく量が最優先でどっしりと腹にたまる感を重視したメニューが多い。
 わざわざ病人用に用意されたと一目で分かるその料理は、しかも、どれも出来立てなのか湯気が立っているものばかりだ。

「え〜と、そうだ、食べる時はポップにちゃんとこれを着せるようにって言われたんだ!」

 そう言いながら、ダイはベッドの近くにおいてあるサイドテーブルから、ストールを持ってきて肩にかけようとする。

「いーよ、そんなの。いらないって、邪魔っけだし」

 身体を起こしている間は必ず肩にかけるようにと渡されたそのストールを、ポップは全然使用していなかった。

 太めの毛糸でざっくりと編まれたそのストールはとても軽くて暖かかったが、いかにも病人という風情をかもしだすのが嫌で、ポップとしてはわざわざ使いたくはない。

 それに、基本的にストールなんてものは女物だという認識もある。
 本来なら夜着の上に一時的に羽織るのならガウンの方が相応しいのだが、以前ならともかく戦時下の現状ではとにかく品不足がひどい。

 成人男性用や女性用の物ならばともかく、あいにくポップに合うサイズの物がなかった。

 それで仕方無くストールで代用されたわけだが、それはポップにはありがたくもなんともない。
 が、ダイは譲らなかった。

「ダメだよ、ちゃんとあったかくしなきゃダメだって、レオナとマァムとメル……」

「ピピピッ、ピピッ!」

「ああ、分ぁーった、分ぁーったっつーの! 着りゃいいんだろ、着れば」

 しつこいダイ&ゴメちゃんと、背筋辺りに感じる寒気に負けて、ポップはストールを肩に引っ掛けてテーブルに向かう。

 そのまん前にダイが座るのと同時に、ゴメちゃんも飛んで来てちょこんとテーブルの上に止まる。
 その一人と一匹の目が、あまりにも熱心でうっとりとしたものなので、ポップは苦笑して食事の乗ってトレイをダイ達の方へと押しやった。

「おまえらも、食うか?」

「えっ、いいのっ!?」

 パッと目を輝かせ――それから、ダイはハッとしてぷるぷると強く首を振った。

「……って、ダメだよ、ポップ! これ、ポップのなんだから、ちゃんと食べなきゃ」

「ピピーッ!」

 と、言っていることこそは立派だが、いかにももの欲しげに生唾をごっくんと飲み干しながらでは、説得力も半減である。

「いいから食えよ、おれ、悪いけどあんま食欲なくってさ」

 ずっと寝ていたせいか、それとも喉が思ったよりも腫れてきたせいか。
 今のポップはなにかを食べたい気が、まるでしなかった。せめてスープだけでも思ったが、それでさえ喉に詰まるような気がして、なかなか飲み干せない。

 いつもよりやたらと遅く、持て余すようにスプーンでスープをかき回しているだけのポップを、ダイもゴメちゃんも心配そうに見ている。
 それがうろたえに変わったのは、ポップが激しく咳き込みだしたせいだ。

「ポップ!? ポップッ、大丈夫っ!?」

 おたおたと慌てふためくダイは、なまじ風邪の経験がないだけに咳き込んでいる間はろくすっぽ返事もできないものだと、知るはずがない。
 それだけに返事がないのにうろたえて、ダイはポップを強く掴んで揺さぶりだした。

「しっ、しっかりしてよっ!? 死んじゃやだよっ!?」

(バカか、たかが咳ぐらいで死んでたまるかっつーのっ!!)

 と、言い返したいのは山々だが、なにぶん咳が止まらない。ただでさえそうなのに、ダイが揺さぶるせいでなおさら苦しい。

 さらには騒ぐダイに影響されたのか、ゴメちゃんがサイレンそこのけの声でわめき立てだしたからたまらない。
 ドヤドヤとした足音が聞こえてくるまで、そうはかからなかった。

「どうした、何かあったか!?」

「また、ポップ君が脱走でもしたのっ?」

 思った以上に素早く、しかも大勢駆けつける大袈裟さに、ポップは本気で目眩がしてきた。
 特にレオナのセリフに対して言いたいことがないでもなかったが、やっと治まってきた咳の合間に、ポップはなんとか声を張り上げた。

「へ、平気だったら! いちいち、……ゲホッ……大袈裟に騒がなくっても、大丈夫だよ……ゴホッ、ゴホ……ッ」

 大丈夫と言う傍らから、咳の発作を起こしていたんじゃ、説得力のかけらもないが。
 ダイは半泣きにならんばかりにポップにしがみついているし、ゴメちゃんは完全にべそをかきながら、ピーピーと泣いている。

「――ちょっとぉ。いったい、これ、どういうこと? 何があったの?」

 訝しげなレオナのその質問に答える前に、ポップは深々と溜め息をついた――。







 目の前に用意されたのは、ほかほかと湯気を立てる深皿だった。
 とろりとしたミルク色のリゾットは、ほのかにチーズの香りを漂わせていかにも美味しそうだ。

 賽の目に刻んだハムや、人参やグリンピースの色合いが単色のリゾットにカラフルなアクセントを与えて散らばっている。

 本式のリゾットは、具沢山でやや固めにしあげるはずだが、今、ポップの目の前におかれたものはずいぶんと水分が多めで、さらりとした出来になっている。

(まーた、手の込んだ料理を……適当でいいっていったのによ)

 内心溜め息をつきつつ、ポップはスプーンを手に取った。
 料理に、不満があるわけではない。
 それに今度の給仕役はマァムだ、喜びこそすれ文句など微塵もない。

 リゾットは喉漉しがよく味も優しい逸品ではあったが、数口食べただけでまた咳き込みが始まったせいで、ポップはスプーンを手放した。

「ごっそうさん。悪いけど、もういいや」

 ポップのその言葉に、マァムはあからさまにがっかりしたような表情を浮かべたが、それでも無理にそれ以上は薦めなかった。

 あの大騒ぎから早二日。
 ポップの具合は、一向に良くなってはくれない。
 なにせ、本人も食べたいと思ってはいても、今のポップは無理に何かを食べようとすると咳込みがひどくなり、てんで受けつけない。

 最悪、戻してしまう有様では、とてもではないが無理を押してまで食事をする気にはなれない。……一度やってみて、食事をした以上に無駄に体力を消耗するだけだと悟り、懲りてしまった。

 作った人にも、わざわざポップの所に給仕に来てくれる人にも悪いとは思うが、大量に残してしまう。
 栄養を取らなければ身体が治らないのに、身体の具合が悪いから食事が喉を通らないという、なんとも腹立たしい悪循環が発生してしまっている。

 だが、まあ、ポップ本人としては、それはたいした問題とは思わなかった。
 確かに咳や喉の痛みはうっとうしいが、どっちにしろ今はほとんど食欲がない。どうせ少ししか食べられないのだから、凝った物など用意しなくても適当でいいと言ったのだが、周囲の意見は大違いだ。

 ほんのわずかしか食べたり飲んだりできないのならなおのこと、栄養があり、喉越しのよい物を――と、手に変え、品を変え、あれこれと用意してくる。

「ねえ、ポップ、デザートにオレンジを食べない?」

 と、気を引き立てるように言いながら、マァムは明るい橙色の果物の入った籠を手に取った。

「オレンジは風邪にいいのよ。ビタミンもたっぷりだし、口当たりもさっぱりしているからこれなら入るんじゃないかしら?」

「いや、悪ぃけどいいよ」

 看護する者は脱水症状や栄養不足を恐れているのかやけに強く水分補給を薦められるが、ポップとしてはたいして欲しいとも思わなかった。
 何かを飲んでも、喉が潤う感覚よりも、ざらついた不快感の方を遥かに強く感じてしまう。

 食事や薬の度に必要最低限の水分補給はしているし、それ以上は欲しくはない。
 だが、それは回りから見ると、足りないように見えるらしい。

「それだったら、ジュースならどう? それなら、喉を通るんじゃない?」

 熱心に進めるマァムに負けて、ポップは気が進まないながら頷いた。

「う〜ん……。まあ、飲み物なら、な」

「良かった! じゃ、すぐ支度するわね」

 そう言ってすぐに台所の方へ戻る――と思いきや、マァムは添えてあった果物ナイフでオレンジを真っ二つに切ったかと思うと、それをコップの上にかざした。
 そして、ギュッと手に力を込める。

 途端にオレンジはクシャクシャに押し潰され、ドシャッと音を立てる勢いで果汁が滴り落ちる。

「……!?」

 唖然とするポップの目の前で、マァムはいともたやすく二個、三個とオレンジを絞っていく。
 オレンジとはいっても、かなり皮の固い種類のそれはそうそう簡単に潰せるようなものではないのだが。

 っていうか、本来なら、絞り機の補助を使って作るものなのであるが。
 しかし、マァムは片手だけで軽々とオレンジを絞りまくり、空のコップをあっという間にいっぱいにしてしまった。

「さ、どうぞ! もっと欲しかったらいってね、いくらでも用意するから!」

 と、言われても――。

(ンなものすげーもん見せられたら、喉の渇きなんてあったって微塵もなくなるやいっ)

 心の中だけでツッコミつつ、ポップはやけに苦く感じるオレンジジュースを恐る恐る口にする。
 まあ、作る過程に目をつぶるのなら、新鮮さには申し分のないジュースだった。

 適度な酸味に加えほのかに甘い。
 絞り方が荒いせいで、果汁の中にわずかに果肉の粒も混じっているが、それがかえって手作り感を醸し出して美味しい。

 もし、それを普段の体調の時に出されたのなら、ポップも喜んで飲み干し、もしかしたらお代わりだってしただろう。
 が、咳で敏感になった喉には、柑橘系の酸味はいささか強すぎた。数口と飲まない内に、また咳が誘発されてしまう。

「ポップ!? ポップ、大丈夫!?」

 いかにも心配そうなその声とは裏腹に、咳を鎮めようと背を叩くマァムの手は相変わらず手荒い。
 その痛みのせいで顔をしかめつつも、それでもポップはなんとか笑顔を返す。
「へ、へーき、へーき。ちょっ……ゴホ……っ、と、むせただけだからさ。でも、やっぱ喉渇いてないみたいだから、悪いけど、もういいや。ジュースありがとな」

 ポップにしてみれば、それは掛け値無しの本音だ。
 だが、無理やり浮かべたような笑顔や取り繕った言葉を、マァムが違う意味に受け取ってしまったとしても無理はない。

 彼女らしくもなく、やけに神妙に押し黙ってしまったその表情に気がつかないまま、ポップは彼女に背を向けてベッドに横になった。

「ごちそーさん。じゃあ、おれ、少し寝るからよ」







 引きつるような喉の痛みに、ポップは目を覚ました。
 正確に言えば、それで起きたというより、起きていると気がついたと言った方が近い。

 マァムが出て行った後、横になってうつらうつらしていたとは言え、それは熟睡とは程遠かった。
 半ば眠っているような、半ば起きているような中途半端な浅い睡眠は、かえって疲労感を深めているようなものだ。

(寝てるだけなのに疲れるって、どーゆーこったよ? ちくしょう、こんなことしてる暇なんかねえのによ……!)

 やけに重たく感じる身体を、ベッドから引きはがすように起こす。
 その動きは緩慢であり、ひどくだるそうなものだったが、本人にその自覚はなかった。 いてもたってもいられない焦りが、ポップの中にある。

 それに比べれば喉の痛みや微熱など、微々たるものだ。
 寝ても、覚めても脳裏をちらつくのは、銀色に輝く魔物の姿。
 ハドラー親衛隊と名乗った敵の姿だ。

 ザボエラの放った超魔法でさえものともせず弾き返した、勇姿とさえ呼べるその姿――全く歯が立たない敵の存在が、ポップを焦らせる。
 ザボエラはああ見えても、相当な魔法の使い手だ。性格はおいておくとして、魔法の腕だけならポップを遥かに凌駕しているだろう。

 それでさえ効かない身体を持つ敵に対して、物理攻撃力を持たないポップはあまりにも無力だ。
 魔法の効かない敵を前にしては、今のポップにできることはない。
 今のままでは戦うどころか、みんなの足手まといになるのが関の山だ――。

(なにか……何か、手はないのかよ……!?)

 激しい焦燥感のままに起きあがったポップは、その時、やっと気がついた。

「ん? あれ、ゴメ?」

 ポップがみじろぎするだけで、大騒ぎしてよってくるはずの金色のスライムの姿は、どこにも見当たらなかった。
 ベッドから降りても、鳴き声一つ聞こえてこない。

(そっか……おれが寝たと思って、どこかで休んでいるのかな?)

 ゴメちゃんは怪物とはいえ、特殊能力など全くない。ほとんど人間と同じペースで食事を欲しがるし、疲れたり、眠くなったりもする。
 24時間態勢で、ずっとポップを見張っていられるはずがない。

 今までだって、誰か他の人が付き添っている間、ゴメちゃんが別室で休むのはよくあった。
 今がそうだとしたら――。

(ラッキーッ! チャンス到来っ)

 迷わず、ポップは窓に駆け寄って厳重に締められた鍵を開けにかかった。
 ――実に、懲りない性格だった。
 ここが二階なのは承知していたが、窓さえ開ければ移動呪文でどこへでも飛んでいける。

 大きく窓を開けると、風が部屋の中に吹き抜けた。
 普通の体調なら、気持ちのいい風と思えるその大気の流れは、今のポップには寒く感じられてちょっと身震いしたが、怯む気なんてなかった。

 ポップが寝ていたのは、それほど長い時間ではなかったのだろう。
 夕方までにはまだまだ間がある昼下がりで、誰かが夕飯の給仕にくるまでには時間がある。
 肌寒いが、着替える時間を掛けるのが惜しい。

 瞬間移動する際、天井に頭をぶつけないように、窓枠から十分に身を乗り出そうとした際――思いがけないくらいすぐ後ろから、声が聞こえた。

「何をしている、ポップ」

「う、うわわわぁっ!?」

 その声に驚いたのと、とっさにバランスを崩したせいで窓から落ち掛けたポップの襟首を、力強い腕ががしっと掴んで引き戻した。

 そのまま部屋の中へ突き飛ばされたが、幸いにもベッドの方角だったせいで、尻餅をつく代わりに、柔らかいマットの上に座り込むにとどまった。
 転びそうな体勢を立て直して、自分を突き飛ばした相手を睨みつける。

「危ないだろっ、ヒュンケル!? いきなり、何をしやがるんだよっ!?」

 いきり立つポップを、兄弟子はいたって冷静な目で見下ろしていた。

「――それはこっちの台詞だ。今、何をしようとしていた」

「う……っ!?」
 痛い点を突かれ、ポップは微妙に目を泳がせる。だが、素直に非を認める気などなかった。

「……な、何って、なんにもしてねーよっ! ただ、ずっと窓を閉めっ放しで暑くなったから、ちょっと開けただけだろ!?」

 寒さに震えながらそう言っても、何の説得力もないが。
 その様子を一瞥したヒュンケルは、何も言わずに換気にしては大きく開け過ぎた窓を閉める。

 それからベッドの方に近寄ってくるのを見て、ポップは思わず身構えた。
 だが、ヒュンケルは意外にも、するりとポップの脇を通り抜ける。
 肩透かしでも食らったように拍子抜けしたポップの目の前で、ヒュンケルはサイドテーブルのトレイの置いてあったカップを手に取り、差し出した。

「……な、なんだよ?」

 意図が掴めずにきょとんとしていると、ヒュンケルは聞かれたのが不思議とばかりにそれをポップに押しつけてくる。

「飲め」

 素っ気なくそういうと、ヒュンケルはポップが何か言い返すより早く背を向けて、暖炉の方へと向かう。

 ポップにしてみれば、いきなり押しつけられたカップを持て余してしまう。
 まだ熱いそれは、ヒュンケルが今持ってきたとしか思えないが、その理由が分からないだけに戸惑いの方が先に立つ。

 寝込んで以来、見張りや見舞いがてらにとっかえひっかえみんなが給仕やら飲み物の差し入れに来たが、ヒュンケルが来たのは初めてだった。

 治療手のレオナやアポロが驚く程早くに回復したヒュンケルは、まっさきに修行をし始めたはずだ。てっきり、自分のことなど気にも止めていないだろうと思っていただけに、意外すぎて言葉が出ない。

 ほとんど呆然としているポップに見向きもせず、ヒュンケルは火の弱りかけた暖炉に薪を足しているばかりだ。

(何考えてんだ、こいつ?)

 呆れつつ――ポップは、手の中のカップをまじまじと除き込んだ。
 綺麗な赤茶色の紅茶だが、小さな物が混ざり込んでクルクルと踊っている。そして、ほわりと漂う独特の香りには覚えがあった。

「……!?」

 懐かしい香り――。
 それは、口に含むと、よりいっそうはっきりと分かった。
 それは、ジンジャー・ティだった。

 熱い紅茶に落とした一つまみ程のすり下ろした生姜が、薫り立つ紅茶の香りと味を素朴なものへと変える。
 荒れた喉になんの刺激も与えない優しい甘味は、砂糖ではなく蜂蜜だからこそ出せる味だ。

 身体にしみいるような、素朴で暖かいその味は、ポップにはひたすら懐かしい。

(先生……!)

 それは、時々アバンが作ってくれたものと同じだった。
 ポップが風邪を引いたり体調を崩す度に、アバンはジンジャー・ティを作ってくれた。

『さ、これを飲んでください、ポップ。ジンジャー・ティは体が暖まりますよ? その後で一眠りすれば、気分もよくなりますから』

 優しい師の声が、蘇るようだった。
 普段の旅は野宿専門だったアバンだが、そんな時は決まって宿屋や山小屋に泊まるようにしてくれた。

 勝手についてきた、足手まといな弟子の看病を嫌がる気配なんて、一度だって見せなかった。

『調子の悪い時は、素直にちゃんと休むこと! 頑張る時には頑張ってもらっちゃいますが、休むべき時にちゃんと休むのも大切なんですからね』

 そう笑いながら、頭を撫でてくれた優しい手を思い出す。
 暖かいカップを両手で抱え込みながら、ポップは一口、一口ずつゆっくりとそのお茶を飲み込んだ。

 その温もりが暖めてくれたのは、胃だけではなかった。心の奥、忘れかけていた奥深い部分までもがほっこりと暖められる。
 身を焼くような焦燥感を沈めて、優しい温もりだけが手のひらの上に残る。

 ふと気がつくと、いつものようにむせることもなく、ポップはカップ一杯のジンジャー・ティを飲み干していた。

「全部、飲んだようだな」

 そう声をかけられ、ポップはようやくヒュンケルが側にいたことを思い出した。

「飲んだなら、冷えない内にもう休め。一眠りすれば、少しは具合もよくなる」

 素っ気なく言いながらポップの手からカップを取り上げ、彼はそのまま部屋から出て行った。
 呆気に取られたままそれを見送ってからしばらく経って――ポップの顔にやっと、笑みが浮かぶ。

「……あの野郎め、ホント、分かりにくい奴だな!」

 あんまり唐突でぶっきらぼうだったから、気がつくまで時間が掛かってしまった。まさか、あれが見舞いだったなんて――。
 気がつかなかったから、礼すら言いそびれたではないか。

「あのバカ、他に言うことはないのかよ?」

 ポップが部屋から出ようとしていたのに気がついていたくせに、何も言わなかった。そのくせ、絶対に出るなとばかりに窓にはさっきまで以上にぎっちりと鍵をかけてある。

 時々、妙に饒舌になるくせに、肝心な時には無口で不器用な兄弟子に、ポップは苦笑を抑えきれない。

「あの時は、人をけしかけてくれたくせによ……!」

 死の大地に単独でいってしまったポップのせいで、ダイが氷海で行方不明になった際――ヒュンケルがやけにポップを労った台詞を言って休ませようとした。

 あの時は頭に血が上って気がつく余裕がなかったが、後でそれがヒュンケルなりの挑発だったと気がついた。

 落ち込んで、行動する気力すらなかったポップにやる気を取り戻させるために、わざとあんな言い方をしたのだと――後で気づきはしたものの、礼を言う気にはならなかった。

 ヒュンケルに完全に子供扱いされ、本心を見透かされた上で踊らされたような気がして、悔しかったから。

 その意味では、今だってそうだ。
 ポップが逃げ出す可能性を承知していながらあえて何も言わなかったのは――もう、無茶をする気を無くした本心を見透かされたようで癪に障る。

(でも、今回だけは従ってやるよ)

 そう心の中で毒づきながら、ポップはベッドの中へと戻った。
 少しばかり腹立たしくはあるが、ヒュンケルがヒュンケルなりに自分に気遣ってくれたのは、分かる。

 だから、今回ばかりは従ってやってもいいと思えた。
 それに――口調こそは大幅に違うが、言っていることはアバンとそっくりだった。

 それだけに逆らう気にもならず、ポップは素直にベッドに横になる。
 たかが紅茶一杯とは言え、久し振りに咳やむせ込みに邪魔されずに腹を満たした暖かさは、不思議なくらいの満腹感をもたらして眠気を誘う。

 身体の芯からぽかぽかと暖まる効能は、ジンジャー・ティならではだろう。
 十分に水分を取ったせいか、喉の痛みも薄らいだせいで、眠りは速やかに訪れた。

 暖炉の火が勢いを取り戻し、ぱちぱちとはぜる音が静かに響く。それを聞きながら、ポップは引き込まれるようにぐっすりと、安らかな深い眠りに落ちていった――。 END 


《後書き》
 去年、風邪を引いて難儀していた際、拍手コメントでジンジャー・ティの入れ方を教わって、乗り切ることができました! 当時にもお礼を言いましたが、本当にありがとうございましたっv
 で、その際、浮かんだのがこのストーリー。


 ポップとヒュンケルって、アバンに弟子入りしていた期間が長いだけに、共通する思い出とかは一番多いんじゃないかと思うんです。
 でも、素直に言いそうもない(笑)
 だから、こんな風に間接的に、思い出を分け合うなんてシーンがあってもいいんじゃないかなって思いました。
 
 

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