『バレンタイン・デーの悲劇』

 

 バレンタイン・デー。
 それは、年にたった一度っきりの日。

 女の子から男の子へ、好意を込めてチョコレートを渡す日。
 ある者にとっては天国、そしてある者にとっては地獄。
 男にとっては、はっきりと明暗が分かれる日――。





 そわそわ、キョロキョロ、どきどき。
 男どもがどこか落ち着かず、挙動不審を絵にかいたような動きを見せる日ではあった。
 どっちにしろ、いつも以上に浮ついて落ち着かず、騒がしさを増した城の中――ダイは、足音を忍ばせるようにこそこそと歩いていた。

 はっきり言ってこそ泥のごとく、とてもじゃないが世界を救った勇者様とは思えない有様である。

 いつもはおおらかで、誰か知り合いに会うと嬉しそうに自分から挨拶するダイにしては珍しく、今の彼は女性と擦れ違いそうになる度に慌てふためき、ダッシュで逆方向に逃げさえするのだから、不審にも程がある。

 逃げ場を探しているのか、オロオロと城の中庭の辺りをうろついている姿が、執務室にいるレオナからは丸見えだった。
 そのあまりの挙動不審さに、根っからのダイ贔屓の姫君も、小首を傾げざるをえない。

「ダイ君? どうかしたの?」

 声をかけると、ダイは一瞬ギクッとしたものの、レオナを認めてホッとしたように駆け寄ってくる。

「あっ、レオナーっ! ねえ、しばらくここにいてもいいかな?」

「ええ、もちろんよ」

 無論、レオナに意義などあるはずがない。
 というか、むしろ大歓迎だ。

 レオナ的には、ダイさえその気ならば執務室どころか、自分の寝室にだって招き入れるのも吝かではない。
 ――が、ダイはこの究極の据え膳に全く気がついている様子もないが。

 レオナの部屋よりもポップの部屋に行く率の方が高いのが、しゃくの種だ。
 ダイは暇さえあればポップの執務室や自室に入り浸りたがるが、レオナの部屋にはおやつや夕ご飯の誘いにしかこないのが普通だ。

 それだけにレオナの執務室にやってきて、のんびりしてくれる時間など貴重だ。
 書類なんか片付けている場合じゃないと放り出し、レオナはいそいそと手ずからお茶の支度をし始める。

 ここのところ、やたらと仕事が忙しくて書類がたまっている事実などうっちゃって、レオナはダイのために茶菓子とお茶を用意した。

「ありがと、レオナ。忙しいのに、ごめんね」

「ううん、いいのよ。いい息抜きになるし」

「でも、ポップが言ってたよ。レオナ、ここしばらくは忙しいから、あんまり邪魔しちゃダメだって」

(余計なことを言ってくれたわね、ポップ君!)

 舌打ちしそうな勢いで、この場にはいない魔法使いの顔をちらっと思い浮かべる。
 考えてみれば、レオナがここまで忙しいのは片腕であるポップの不在のせいだ。

 ほとんど宰相並の働きをしているポップがいるといないのとでは、書類の仕上がり具合が1・5倍以上ははっきりと違ってくる。

 それだけに忙しい時期はポップには城内にいてほしいのだが、今度ばかりは仕方がない。 カール国王、アバンからの正式な招待を受けて、かの国に親善大使として訪問中だ。

 聖なる日に行う祭りを祝福する司祭が足りないので、しかるべき賢者を数日間招きたい――そう頼まれれば、パプニカとしては断りきれない。
 そして、現在パプニカ最高位の賢者と言えば、紛れもなくポップだ。

(先生ったら、分かっていて呼ぶんだからタチが悪いわよね〜)

 国の威信と友好を考えれば、最高位を送らずに三賢者レベルを送ってお茶を濁すのは得策とは言えない。

 たとえ、アバンの意図がたまには愛弟子に会いたいというワガママさが動機だとしても――まあ、そのぐらいは黙認すべきだろう。ポップの方だって、いい口実ができた上に久しぶりに先生に会えると喜んで旅立っていったのだし。

 今ごろは師弟で楽しんでいるだろうと思うと腹が立たないでもなかったが、レオナはその怒りを巧みに自分の中に沈め込み、にっこりと笑顔を浮かべる。

「あら、忙しいのは忙しいけど、お茶をする時間ぐらいはあるわよ? それに、ちょうど良かったわ。今日中に渡したいものがあったの」

 そう言いながら、レオナは引き出しの中から小さな箱を取り出した。
 パステルカラーの可愛らしいラッピングが施されたこの小箱は、忙しい合間を縫ってレオナが自分で用意したものだ。
 いつチャンスが来てもいいように、ずっと手元に置いておいたのが功を奏した。

「ダイ君。このチョコレート、受け取ってくれる?」

 いつになく、ちょっと恥じらったような笑顔でそう呼びかけるレオナは、実に可憐だった。

 いつもは毅然とした凛々しさの方を強く感じさせる彼女だが、今は年相応の可愛らしさが強かった。

 男たるもの、一生に一度くらいは意中の少女からこんな風にチョコレートを渡されてみたいものである。
 だが、レオナにそう言われた途端、ダイの顔色はサッと変わった。

「……えっ……!?」

 蒼白な顔に浮かぶのは、苦悩の表情。
 目の前に突き出されたチョコレートを、ダイは何度も何度も見返しては、ギュッと眉を寄せて悩み込む。

 ダイらしくもないその苦悶に、レオナは呆気に取られるばかりだ。
 単純明快、シンプルこの上ない思考をしているダイは、あまり悩むということがない。
 もしかすると、大魔王バーンに配下になれと言われた時以上の苦悩っぷりかもしれないと、レオナがそう思った時、ダイはやっと動いた。

「……ごめんっ、レオナ……! おれ、受け取れない……っ!!」

 今にも泣き出しそうな顔で、血を吐くようにそう言ったかと思うと、ダイは身を翻してその場を走り去る。

 そして、その場にはチョコレートを手にしたまま、固まって立ち尽くすレオナの姿があった――。





「……なるほど。それで、レオナはああなっちゃったわけね」

 溜め息混じりで呟くマァムの前で、エイミとマリンが沈痛な表情で頷く。
 ここは、レオナのプライベートな客間の一つだ。
 マァムとメルルは、今日、こっそりとお忍びでパプニカにやってきた。

 これはメルルの提案で、数週間前からこっそり計画していたものだ。
 バレンタインデーに、不意打ちでやってきてみんなを驚かせて、チョコをあげよう――と。

 だが、意表をついて驚かされたのはマァムとメルルの方だった。
 全く、予想だにしていなかった。

 一国のお姫様が、昼間の内から自棄酒としてワインをかっくらっている図など――そうそうお目にかかれる驚きではない。

「でも……ダイさんが、姫様のチョコレートを受け取れない、なんて言うからには、きっと、それなりの理由があったのでは……?」

 疑問を投げ掛けているような、ダイをフォローしているようなメルルのその言葉に対して、マァムは不思議そうな顔をする。

「そうよね。ダイって、チョコレートは好きなはずなのに」

 至って真顔のそのお言葉に、その場にいた女性陣は一瞬絶句してしまう。
 ――天然は、つくづく無敵だった。

「あによぉ! あたしのチョコが、そんなにまずいって言うのぉ!? そりゃあ……っ、時間がなくて手作れなかったけどぉ、でも、ベンガーナで一番チョコの美味しいって評判の店から、わざわざ取り寄せたんだからぁっ!」

 呂律がいささか怪しくなりつつも、そう叫んだレオナに、今度は複数の声が一斉に重なった。

「「「えっ!? 手作りじゃないのに、断られたんですかっ!?」」」

 メルル、エイミ、マリンの声は綺麗に重なったが、幸いにも酔っていたレオナはその言葉をちゃんとは把握していなかった。

「そうよぉ! やっぱ、バレンタインは手作りにすべきだったのよ〜。国家書類なんかより、乙女イベントを優先すべきだったんだわぁ」

「いえいえ姫様、それはちょっと……っ!」

 パプニカの忠実な臣下であり、文官のトップクラスの管理職でもあるマリンが、ついついそれをなだめに掛かる。

 出来れば、レオナには調理よりも国家を優先してほしい――それは、この場にいる約一名を除く全員の総意だった。

 眉目秀麗、頭脳明晰、勇猛果敢と、褒め言葉には事を欠かない程に多数の長所を持つレオナだが、苦手分野は存在する。
 その一つが、調理だ。

 それも苦手なんてレベルじゃない。…………控え目に言って、壊滅的。
 以前、彼女の作ったお弁当を食べたせいで、竜の騎士である勇者ダイ、不死身と異名をとったヒュンケルでさえもが、苦悶の余り身動きも出来なくなった惨事は、忘れがたい。
 ポップなどは食べた直後に昏倒し、数日寝込む程に大ダメージをくらっていたものである。

 その光景を目の当たりにして、原因がレオナの手作り弁当のせいだと思わなかったのは、ご本人である彼女と、超天然派である元武闘家の娘ぐらいのものだ。

「だけど、それならなぜっ!? それなら、姫様のチョコレートを受け取らない理由なんかないじゃないですか!」

 驚きのあまりか、聞き様によっては微妙に失礼に当たる暴言を吐いた自覚など、メルルにはない。
 その上、さらにレオナには理性も聞く耳もブっ飛んでいた。

「そ、そうよねー、やっぱり手作りじゃないってのが、マイナスポイントだったのよね!?」
 そう言って立ち上がったかと思うと、彼女はふらふらと部屋を出てどこかに向かおうとする。

「お、お待ちください姫様っ!」

 ふらつく主君への心配と、このような姿を他の者に見られることを警戒して、エイミとマリンが後を追う。

 急に静まり返った部屋の中に取り残されたのは、マァムにメルル、それにヒュンケルだった。

 律義にもレオナの醜態から目を逸らすような位置で、部屋の隅に彫像のように立ち尽くしていた彼に、マァムが声をかける。

「ヒュンケル……、あなた、なにか心当たりはない?」

 本来なら、ダイ本人か、ダイに一番親しいポップに聞いた方がいい質問だと分かってはいた。

 だが、ダイはいまだにどこかに行ってしまったまま出てこないし、ポップはまだカール王国から戻ってこないともなれば、彼に聞くしかない。

「……」

 無言のまま、ヒュンケルは少しの間、思い出すように顎に手をやり考え込む。
 普通の人間ならそれが単に答えを拒む拒絶かと思うところだが、マァムは彼の態度になれている。
 辛抱強く答えを待っていると、案の定ヒュンケルはぽつりと話しだした。

「心当たりというか……もしかすると、あれが遠い原因かもしれない、という程度のことならあった」

 そう前置きして、ヒュンケルは語りだした――。





「あれ? なんだろ、美味しそうな匂いがするね?」

 と、ダイが言ったのは一月ほど前。
 パプニカに行われた式典の際、ダイ、ポップ、ヒュンケル共にそろって盛装して参加した後のことだった。

 近衛隊隊長であるヒュンケルや今のところ兵士見習いであるダイは、いつもは着ない騎士としての盛装をし、ポップは法衣を着ていた。

 退屈極まりない式典を終え、それぞれが自室に戻ろうとしていた時、ダイが突然言い出したのだ。

 子犬のように鼻をひくひくさせ、ダイはヒュンケルのマントに顔を寄せるのに釣られたのか、ポップも同様のことをする。

「そうかあ? 別に、特になんも臭わないぜ」

 と、ポップは言うが、ダイはマントをしっかと掴んでくんくんする。

「ううん、するよー? すごく甘くて、美味しそうな匂いがする」

 その態度にヒュンケルは気を悪くするどころか、わずかに――本当にわずかに、彼をよく知っている者でなければ分からない微かな笑みを浮かべる。

「ああ、これはずっと箪笥にしまっておいたマントだからな。大方、そのせいで匂いがついてしまったんだろう」

「箪笥で、なんで甘い匂いが付くんだよ? 埃臭くなるってんなら、分かるけどよ」

 納得がいかないとばかりに即座にケチをつけるポップに、ヒュンケルはどう説明をしたらいいのやら、しばし考える。

 だが、彼は説明は不得手だ。
 そこで、短く一言いった。

「来れば、分かる」





「わぁ……っ!!」

 その光景を一目見た途端、ダイが喜びに目を輝かせる。
 確かに、一目瞭然だった。

 実に殺風景で、家具や荷物が極端に少ないヒュンケルの私室で、一、二を争う家具らしい家具である箪笥。

 いかにも使っていなさそうなその扉を開けた途端、中に堆く積まれているのは綺麗にラッピングされた、色とりどりの小箱の数々。

 ほんの申し訳程度に掛かっている服に比べて、あまりにも多いそれらの箱は、ポップにさえ分かる程の豊潤な甘い匂いを漂わせていた。

「これ……っ、チョコレートか、もしかして!?」

 匂いと包み紙だけで、ポップには察しがついたらしい。

「ああ、以前にもらいはしたが、正直持て余していてな」

 昨年のバレンタイン・デー。
 ヒュンケルにとってはある日、突然に、いきなり多くの女性から数えきれないぐらいのプレゼントを渡された。

 それが全部が全部、決まってチョコレートだった事実に当惑せずにはいられなかった。意味もなくプレゼントをもらうのは気が引けるし、第一その理由もない。

 その上、あまりにも自分の好みとかけ離れた嗜好品を大量にもらい、どうしていいやら途方に暮れた覚えがある。

 それで当時、ポップやレオナに相談してみて、ようやくバレンタインデーと言う日が存在するのを知ったのだが、対処方法までは聞かなかったので結局はそのままだった。

「ばっ……馬鹿か、てめえっ!? バレンタインデーの時のチョコなんか、まだ持っていたのかよっ!?」

 怒鳴るポップに対して、ヒュンケルはいたって真面目に答える。

「しかし、捨てるわけにもいかないだろう。一応、もらいものなんだし」

 ――魔剣士ヒュンケル。彼は無駄なところで、律義な男だった。

「あー、てめえって奴はホントにもう……っ、なら、百歩譲ってそれはいいとして! なんで食い物を箪笥なんかにしまっておくんだ!?」「他にしまう場所もなかったしな」

 いらない物をしまっておくのにちょうどいい場所。
 ヒュンケルにとって、箪笥はそういう位置づけになっている。不幸なことに、それが非常識な行いだと教えてくれる人は、今まで誰もいなかった。

 そして、ようやく現れたその人物は、教訓というには余りにも手荒い態度で箪笥をひっかき回しだした。

「アホか、てめえはっ!? 食わないままの菓子を箪笥で一年も寝かしとくなよっ。しまいにはカビが生えるか腐るぞっ!!」

 カンカンに怒りつつも、ポップは結構要領よく箪笥の中から余分な物を引っ張りだしてまとめ上げる。

「あーあ、腐ってるのも結構あるぞ、これ。手作りのケーキとかも混じってたみたいだな、こりゃ――ったく、こんな朴念仁男にチョコを上げた女の子が気の毒になってくるぜ」

 片付けをしながらもぶつくさと言うポップは、ひどく不機嫌そうだった。
 床に引っ張りだしたチョコレートは、文字通り小山となっている。

 しかも、凝ったラッピングやら大きさからみて、若い女の子が送った本命チョコっぽっさがひしひしと漂う。

「で、これ、どうする気だよ、色男さんよ?」

 皮肉たっぷりのポップの問いに、ヒュンケルは少し考えてから答える。

「……仕方ないな、処分する。後で送り主には事情を話し、謝罪しよう」

「そこは嘘も方便ってことで、黙っときゃいいだろーに。融通が利かないよなー」

 そんなことを言い合っているポップのヒュンケルの片割れで、ダイは目を輝かせたままチョコの山に釘付けだった。

「ね、それならこんなにあるんだし、ちょっとぐらいおれが食べちゃだめかな?」

 お菓子を前にして、わくわくして目を光らせている子供に対して、ポップは鼻で笑って言ってのける。

「やめとけってえの。バレンタインのチョコってのは、もらった本人しか食べちゃいけないもんなんだよ」

 その意見は、去年もポップから聞いた覚えがあるので、ヒュンケルも覚えていた。
 女の子からの気持ちが込められているのだから、軽々しく他人に渡していい物じゃない、と。

 まあ――それを律義に守ったからこそ、一年も抱え込む羽目になったのだが。
 が、次の言葉は初耳だった。

「それによ、バレンタインチョコを山ともらうような奴なんか、ろくな奴じゃないって。はっきり言って、敵だね。あーあ、ほんっと女の子達はなんでこんな奴がいいんだか」


 皮肉と刺がたっぷりとこめられたその言葉を、ヒュンケルはあまり気にしていなかった。 ポップが自分に対して突っ掛かるのはよくあることだし、去年のバレンタインデーの時もやたらめったら不機嫌で、さんざん嫌味や文句を言われた覚えがある。

 そういえば、あの日、ポップがもらったとかいうチョコの数は、レオナやマァム、メルルやエイミ、マリンなど、知り合い分しかなかったような気もする。

 しかし、それを言うとポップがますます不機嫌になるのは学習済みなので、ヒュンケルは沈黙したままだった。

 実は、後になってから思い当たる節があるのだが――あの日、ポップに少しでもいいから取り次いで欲しいだとか、荷物を渡して欲しいという依頼が多数あった。

 ほとんどは女性だったが、男性も一部混じっていたものだ。
 だが、当時はポップの護衛をやっていたヒュンケルは、それを全部断った覚えがある。
 その頃はちょうどダイ探しのための短い旅を何度か繰り返していた期間で、ポップはやたらと気を張って他のものなどには目もくれない状態だったし、体力的も精神的にも疲れのピークに達していた頃だった。

 たまにパプニカに戻っている時ぐらいはゆっくり休めるよう、見知らぬ面会人を断ったり、安全を確認出来ない食品の差し入れを密かに処分したのは、ヒュンケルにしてみれば善意の手助けのつもりだった。

 それの事実をも、ヒュンケルはいまだに沈黙し続けたままである。
 ――今更言わない方がいいと思うのは、野生の勘だった。

 そして、ダイはポップの言葉を聞いて、ちょっと心配そうにヒュンケルとチョコの山を見比べていた――。





「――と言うことがあったんだが」

 と、ヒュンケルが結びの言葉を言うか言わないかの内に、バァンとやたら大きな音を立てて扉を開けたレオナが、びしっと指差しながら言った。

「遠い原因もなにも、それ、ド直球じゃない! それが原因ねっ!」

「レ、レオナ、いったいどこから?」

 と、マァムが驚くのも無理はない。先ほど、どこかに行ってしまったと思ったレオナが、いつの間にかこの部屋に舞い戻ってきたのだから。
 が、レオナはそれを説明する気はなさそうだった。

「ふっふっふ、話は全部聞いたわよ〜。これで分かったわ……! やっぱり、真実はいつも一つなのよっ」

 顔がいつもよりも赤く上気しているのは興奮しているせいか、はたまたまだ酔いが残っているためか。
 後者と判断したのか、メルルは心配そうに恐る恐る声をかける。

「あ、あの、姫様、大丈夫ですか?」

「もちろんよ。謎は全て溶けたわっ」

 微妙に発音に問題は残っている気はするが、レオナは長い髪をばさっと撥ね除け、さっきよりは格段に滑らかに言ってのける。

「と、なれば後は実行あるのみ! さあ、本気をだすわよっ、みんなも手伝ってくれるわねっ!?」

 有無を言わさぬ勢いで迫られ、誰もが断る余力もなく頷かざるをえなかった――。





(レオナ……怒っているかなぁ)

 パプニカ城の、裏庭の片隅。
 誰にも見つからないように、ゴミ箱の影なんぞにこっそりと隠れている勇者様は、生ゴミの臭いに悩まされつつも大好きなお姫様のことを考えていた。

 バレンタインデーがどんな日なのか――それは、この一ヵ月の間に兵士達からなんとなく聞いた。
 女の子が、好きな男の子にチョコレートをあげる日。

 正直、ダイにはハロウィンとどう違うのかよく分からないし、仮装しなくてもお菓子をくれるのなら、それはすごくすごく嬉しい話だとも思う。
 だが――ポップの言葉が、問題だった。

『バレンタインチョコを山ともらうような奴なんか、ろくな奴じゃないって。はっきり言って、敵だね』

 チョコレートをもらうのは、嬉しい。
 だが、ポップの敵になるのは、嫌だ。それはもう、物凄く。

 ポップがヒュンケルに突っ掛かるような態度を取るのはいつものことだが、あの時は特にひどかった。

 もし、ポップがダイにあんな態度を取るかと思うと――それは考えただけでちょっとダメージがくるぐらいに、嫌だ。

 なのに、バレンタイン当日が来たら、朝、いつも起こしにきてくれる侍女を初めとして、出会った女の人が次から次へとチョコレートをくれようとする。

 慌てて断りはしたものの、他人の行為を拒絶するのはダイには心苦しくて仕方がない。特に、レオナのチョコを断るのは、すごく辛かった。
 でも、ポップには敵と思われたくはない――。

(う〜〜、おれ、どーすればいいんだろ?)

 あまり頭脳労働が得意とは言えないダイは、頭がショートしそうなぐらい考え過ぎたせいで、頭痛までしてきた。
 と、城へと飛んで来る光の軌跡を発見して、ハッとする。

 城門へと飛んだその光は瞬間移動呪文の軌跡――ポップに間違いない。
 ダイは迷わず、駆け出していた。





「ポップ! 帰ってきたんだねっ、お帰り!」

 門番相手に手続きをしていたポップは、ダイに気がつくと機嫌よく手をひらひらっと振ってみせた。

「お? ダイか。ただいま」

 他国に出張するためにちゃんと礼装を着たポップの周囲には、手荷物がいくつか転がっている。出て行った時よりも増えたその荷物を、ダイは手に取った。

「これ、持って行くの手伝ってあげるよ」

「おー、悪いな」

 一際重そうな紙袋を手に取って――ダイは首を傾げた。
 中に見えるのは、やけに可愛らしいラッピングの小さな小箱や包みだし、それにこの匂いは――。

「ポップ、このチョコレート、どうしたの?」

 思わず聞くと、ポップは途端にヘラヘラと相好を崩す。

「そりゃあもう、バレンタインチョコに決まってるだろ! いやー、まいったぜ、次から次へと可愛い子ちゃんが『大魔道士さまぁ、どうか受け取ってください▽』って渡しにくるんだもんなーっ」

 どう聞いてもまったく困ったように見えない、締まりにかけた顔でポップはでへへ〜と笑っている。

「え? ポップ……バレンタインチョコ、もらうの、嫌い、じゃないの?」

 驚きのあまりとぎれとぎれに聞くダイに、ポップは至って上機嫌のまま答えた。

「ばっかだな、可愛い女の子がくれるんだぜ、嫌いなわけねえだろ。へへへっ、やっぱ男はバレンタインデーにチョコをもらってなんぼだよなー」

 ――意見が、180度変わっている。
 どうやらポップは一ヵ月前の会話など、けろりと忘れているらしい。

(ホント、自分勝手で調子いいよなあ、ポップって)

 ちょっと呆れたが、でも、ダイはポップの、そんなお調子者のところも嫌いじゃない。
 それに――ポップがチョコレートのことで怒ったりしないのなら、それはそれでホッとする。

「ダイ、おまえももらったのか? やっぱ、勇者様〜、受け取ってえ♪ なんて女の子がくるんだろ?」

「あー……来たけど、断っちゃった」

「断ったぁ? なんでまた、そんな勿体ないことを――」

 と言いかけてから、ポップは一人、納得したように頷いた。

「そっか、おまえには姫さんがいるもんな。いーんじゃないか、そーゆーのも。本命以外は欲しくないってわけだ」

「ううん、そうじゃないんだけど。……レオナ、怒っちゃったかなあ?」

「なんだ? ケンカでもしたのか、珍しいな。せっかくのバレンタインデーなんだし、早めに仲直りすりゃいいじゃないか」

 事情を知らないポップはそう言いながら、思いついたように一つの荷物を手に取った。

「あ、じゃあ、これを渡すついでに謝ればいいじゃん。こっちの包みは先生のお手製のチョコケーキなんだ。おまえや姫さん達への土産だよ」

 おれも作るのを手伝ったんだから、ありがたく食えよと付け加える言葉を聞いて、ダイはパッと輝かせた。

「じゃあ、これ、みんなで食べようよ!」

 そう言うダイに苦笑して、ポップが何か言いかけた時――駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。

「ダイ! それにポップも……こんなところにいたのか!?」

 珍しく軽く息を切らしているヒュンケルは、どうやら今まで走り回っていたらしい。

「よお、ヒュンケル。姫さんがどこにいるか、知んないか?」

「それどころじゃない! 今すぐ、ここから逃げろ……っ!」

 兄弟子の忠告は、一歩ばかり遅かった。
 ヒュンケルから少し遅れたタイミングで、回廊の曲がり角から顔を覗かせたのはマァムだった。

「マァム! なんだよ、来ていたのかよ、久しぶりだな!」

「ホントだ! いつ来たの、マァム?」

 喜んでそちらに向かう弟弟子二人を、ヒュンケルは悲痛そのものの表情で見守る。

「よかった、ここにいたのね、ダイ君、探したのよ……! それにポップ君も帰ってきてくれて、嬉しいわ」

 マァムのすぐ後ろから、レオナが現れたのにもダイもポップもなんの疑問も持たなかった。

「ひ、姫様、やっぱり思い直された方が……」

 と、心配そうにおろおろとしているメルルを、少し不思議には思ったけれど。

「ねえ、ダイ君。あたし、考えたんだけど……ポップ君と一緒になら、チョコを受け取ってくれる?」

「うんっ」

 迷わず、ダイはこっくり頷いた。
 元々、この後はそうするつもりだったのだ。

 レオナに謝り、もしまだチョコをくれてもいいと思っているなら、もらいたいと思った。
 さっき、チョコを断った時、レオナがとてもショックを受けた顔をしていたのを、見ていたから。

「そう、よかった」

 だから、ダイはレオナのその笑顔に心からホッとする。
 同じく、レオナも嬉しそうなダイを見て、ホッとし安堵の息を吐いていた。

(そうよ、最初からそうすればよかったのよね。ダイ君がポップ君を気にして受け取れないのなら、二人に平等に渡せばいいのよね)

 ――一部誤解や行き違いがあるが、とりあえず二人ともポップと一緒にチョコのやり取りをしたいという点では一致した。

「なんでおれまで?」

 ポップ本人としては、不本意だったが。

「いいじゃない、ポップ。レオナ、すごく頑張ってチョコレートを作ったのよ。受け取ってあげて」

 マァムの優しいフォローに、ポップはちょっとばかり複雑な顔になる。

(ホントは、おれが欲しいのはおめえからのチョコなのによ……)

 慈愛溢れるこの少女は、去年はポップとヒュンケルに同じ大きさの、全く同じチョコレートをくれた。

 ――実は、クロコダインやラーハルトやバダックさんやマトリフにも同じで、へこんだり、ヒュンケルにいい気味だと思ったりと、したのだが。
 今年は少し違うかも……と期待していたのだが、この分では望みが薄そうだ。

 だが、まあ、女の子からチョコをもらうの自体に反対なわけがない。――たとえ、それがレオナだったとしても。

「じゃあ、はい、これ▽」

 同じ大きさの、ハート型の可愛らしい箱が二人の手の上にのせられる。

「わあ、おっきいや!」

 無邪気に喜ぶダイを、レオナとマァムは微笑みながら、ヒュンケルとメルルはどこかしら同情を含んだ目で見守っていた。
 そして蓋が同時に開けられ――しばし、ダイとポップは沈黙した。

「ひ、姫さん……」

「なぁに、ポップ君」

「これ、なん……だって?」

「チョコレートよ。手作りの」

「チョコって……じゃ、じゃあ、このゴボゴボと噴きこぼれてるのはなんなんだよ〜っ!?」

 レオナのくれたハート型の箱の中には、どろっとした塊が、まだ固まりきれない溶岩のように詰め込まれた。

 なみなみと入っているため、ほんの少しでも手を動かすたびにはみ出てデロデロとこぼれ落ちている。
 それが床に滴り落ちる度に、ジュッと軽い音を立ててかすかに煙が立ち上ぼっていた。

(ちっ、違うっ、これ、チョコレートじゃねえぇええっ!?)

 ポップの知識では、こんなものはチョコとは呼ばない。絶対に。

「しかも、なんで緑色なんだっ!? しかも妙に濁っていて、どすぐろいしっ」

「な、なんか、元気のないバブルスライムみたいな色……」

 ダイのあげたたとえが嫌な具合に的確過ぎて、なおさらの恐怖を誘う。さらに、五感がポップ以上にずば抜けているダイは、別の事実にも気がついてしまった。

「ポ、ポップ? これ、チョコの匂いじゃなくて、花火みたいなにおいと、なんか生臭いにおいもするよっ!?」

「わーーっ、気がついてないことまでわざわざ教えんじゃねえっ、余計怖くなるだろーがっ!?」

 今になってから、ダイとポップは青ざめたが、もはや完全に手遅れである。
 チョコ(?)を手に、わたわたと慌てふためく二人に対して、レオナはひたと視線を当てた。

「……食べてくれるわよね、二人とも?」

 それが、脅しだったのなら、ダイにしろ、ポップにしろ、反論の余地もあっただろう。 だが、それは懇願だったから、二人は抵抗をやめた。

 今となっては、ダイやポップよりやや小柄になったレオナが、上目づかいに見上げてくる。
 すがりつくようなその目は、泣きはらしたように赤味を帯びている。

 それは、実のところまだ残っている酒のせいもあるし、ポップが出張中の負担がもろにかかって、寝不足続きだったせいなのだが。

 ――が、レオナをさっき傷つけた自覚のあるダイや、自分の出張のせいでなにかとレオナに迷惑をかけた自覚のあるポップには、そんなことは分からない。
 しかも、レオナの隣にはマァムがいるのだ。

 女の子を泣かせるような真似をしたら、彼女がどんなに怒り、レオナに同情して憤るか容易に想像出来るだけに、尚更断れない。

 ちらっと目を見交わし合ったダイとポップは、相棒の目の中に自分と全く同じ感情を見いだした。

(それに……怒られまくるよりも、やっぱ泣かれる方が痛いよなぁ)

 いずれにせよ、後に引くには引けない状態だった。二人は覚悟を決め、恐る恐るレオナの『チョコレート』を口にする。

 ――その瞬間、世界は暗転した――!





 そして、夜が明けた。


 ダイに、そしてポップにとっては尚更に、長く、暗い夜だった。
 そりゃあもう、とんでもなく。
 軽く死線を越えかけ、綺麗な川の向こう側で誰かが呼んでいる声を聞いたり、聞こえなかったしつつも、それでもなんとか夜は明けた。
 翌日の夜明けを迎えることが出来たダイとポップは、手を取り合って互いの無事を喜び合い、涙したという――。
 


                                        END



 《後書き》
 れっつ、ぽいずんちょこ〜♪
 えー、お馬鹿なバレンタインデーのお話でしたっ(笑) ……こんな怖いチョコ、もらいたくはないです。
 
 

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