『兄弟子の心配』

  

 ポップは魔法使いである。
 さして、体力がある方ではない。だが、困ったことに負けん気だけは人一倍たっぷりとあり、なおかついらんところばかり根性を発揮する。

 しかも、高い集中力を持っているせいか、少々身体の具合が悪くとも無理を重ねることも少なくない。
 そして、それに対して、全く自覚がないのがなによりも問題点だった――。

 

 

 知り合いと顔を合わせたなら、まずは挨拶の言葉をかけるのが基本。それぐらいは、あまり人付き合いのいい方ではないヒュンケルとて、知っている。
 が、それを忘れさせるぐらい、弟弟子の様子はいつもと違っていた。

「ポップ。…………大丈夫なのか?」

 つい、そう声をかけずにはいられなかった。
 それくらい、今のポップはひどく具合が悪いように見えた。
 顔色が悪いなんてレベルを通り越して、すでに雰囲気が儚い。

 足取りも頼りなくふらついているし、たいして食事が乗っていないトレイを支えるのも辛いとばかりに、重そうに持っている。
 が、それでも声に反応していつものへらっとした笑顔を見せて、明るく答えた。

「だーいじょうぶ、大丈夫〜。もうすぐ区切りもつくところだし、なにより後ほんのちょっとで終わるからさ」

 心配など撥ね除ける明るい口調や笑顔は、彼を良く知らない者ならばそのまま鵜呑みにしてしまいそうだ。が、惜しむらくは、ヒュンケルはポップを良く知っていたし、なおかつ致命的なことに視線が完全に明後日の方向を向いている。

「……いったい、どこに向かってしゃべっている?」

 花瓶に向かって陽気に話しかけていたポップは、はたと正気に返った表情になり……ヒュンケルを認めて露骨にげんなりとした顔になった。

「……なんだ、よりによっててめえだったのかよ。あーあ、愛想振りまいて損した」

 ころっと態度を変えると、ポップはトレイを乱暴にテーブルに乗せ、身を投げ出すように椅子に腰かける。
 その向かいにヒュンケルが座ると、ポップは顔をしかめたが、嫌とまでは言わなかった。


 ここは、パプニカ王宮の食堂。
 城に勤めている侍女や兵士などの下士官の大半が、食事を得る場所だ。交代制で不規則な仕事を行う者達が随時食事を行えるように、いつきても食事にありつける場所だ。

 大きなテーブルがいくつも用意され、十数人ずつ相席して食べる場所では、文句を言っても始まらないと思ったのだろう。もっとも、今は深夜近くと時間が中途半端なせいでほとんど無人に等しく、幾つも並んだテーブルに座っている人間の数は数えるほどしかいない。

 向かい合って食事を取り出したものの、ヒュンケルはともかくポップは食事を取っている……とは、とても言えない。

 ヒュンケルに比べて半分ほどしか乗せていないトレイの食事を、いかにも食欲なさそうにつついている。
 いかに夜食とはいえ、育ち盛りの食事としては寂しい限りだ。

「随分と疲れているようだな」

「別に」

 ポップはそっけなくそう答えるものの、どう見ても顔色も悪ければ、動きも緩慢だ。
 兵士達の夜間訓練に付き合った自分よりも疲れきっているように見えるのが、不思議でならない。

 ポップの現在の役職は、留学中の宮廷魔道士見習いだ。
 魔王軍との戦いの後、ポップはその頭脳と魔法力を買われて、世界各国から好条件で宮廷魔道士にならないかと招かれた。世界各国、どこにでも瞬時に移動呪文が使え、瀕死の人間をも蘇らせる回復魔法を使えるポップは、復興のためには貴重な存在だ。

 数ある誘いを振り切って、行方不明のままのダイの捜索に専念していたポップだが、数ヵ月過ぎた頃にやっと考えを改めたらしい。

 一国に仕えず、平等に各国に助力するならという条件でなら宮廷魔道士になってもいいと宣言した。
 それ以来、ポップは世界各国に宮廷魔道士見習いとして留学している。名目は見習いでも、実際に復興の助力をし、大いに国々を助けているというポップの噂は旅をしていたヒュンケルの耳にもとどいていた。

 それを我が事のように誇らしく思いながらも、ヒュンケルはポップが無理をしてはいないか、ずっと心配をしていた。魔王軍と戦っていた頃も、その後、ダイを捜索する旅の途中でも、ポップはさんざん無理を重ね、周囲の肝を冷やし続けてくれたのだから。

 だからこそ、ポップがパプニカに留学に戻ってくるのに合わせて、ヒュンケルもラーハルトも旅を一時中断して、この国に戻ってきた。
 しばらくの間、この国に逗留する気になったのも、ポップが気になっているからだ。各国への三ヶ月ずつの短期留学を経て、久しぶりにパプニカ王国に戻ってきたポップは、ずいぶんと疲れが溜まっているように見えた。

 留学という名目でパプニカに来たとはいえ、ここはポップにとっては馴染みの場所だし、なにより王女レオナが彼を賓客として扱うと宣言している。

 せめてこの国にいる間ぐらいは、復興の手助けや勉学も忘れて休むように、と。
 ――が、この様子では、ポップはレオナの命令を無視しているらしい。

「ポップ。いったい、何をやっているんだ?」

「うるさいなあ、何もしてねえよ! だいたいおれはここの所、城から一歩も外になんか出てねえだろ」

 確かにその言葉は、間違ってはいない。
 それは、最近は城の警備を手伝っているヒュンケルが一番よく知っている。


 ポップに与えられている貴賓室は、パプニカ王国の中でももっとも堅固な牢獄に等しい。
 本来ならば、外に出す訳にはいかない複雑な事情を持つ王族を幽閉するための部屋だったそうだから当然だが。

 塔部分に当たるその部屋から出入りする際には、必ず見張りの近衛兵の前を通らなければならない。
 そのせいで、ポップの一日のスケジュールは、記録を見れば簡単に割り出せる。

 確かにここ数日、ポップは城の中をうろついてはいるものの、城外までは出てはいない。
 ポップを休ませるためにと、レオナは公式行事も割り当てないように気遣っているはずだ。
 ならば、なぜこんなに疲れているのか、疑問だった。

「まさか、魔法を使っているんじゃないだろうな?」

「疑い深い奴だな、ここんとこ、おれ、魔法なんて全然使ってないって。嘘だと思うなら、あの部屋の見張り番にでも聞きゃいいだろ」

 不機嫌にポップが言い返すのも、ある意味もっともだ。
 ポップに与えられた部屋はある程度魔法防御が施されており、部屋内で魔法を使用すればすぐに見張りにそれと知れる。

 ヒュンケルも気を配っているが、確かにポップがパプニカに戻ってきて以来、彼が魔法を使ったという知らせは聞いていない。

「ごっそさん」

「もう食べないのか?」

 ヒュンケルの声に咎める響きが混じる。
 ただでさえ少ない食事を、半分も食べないうちにやめてしまったポップは、おっくうそうに立ち上がった。

「腹いっぱいになったら、眠くなるじゃねえか」

 そういってトレイごと食器をカウンターに返し、ポップはふらふらと歩きだす。

「おい、どこに行く気だ?」

「ん……おれの部屋に決まってるだろ」

「――それなら、方向が違うぞ」

「あー?」

 言われて初めて気がついたのか、ポップはきょとんとした顔になって周囲を見回してから、ふわあと大きくあくびをした。

「……あー、そうだったっけ」

 目をこすりこすりしながら、ポップは壁に手を当てつつふらふらと自室に向かいだした。やっと歩いているようなその有様に、とてもそのまま放っておく気にならず、ヒュンケルは後を追ってついていった。

 

 

 ポップが自室についたのを見た時、おそらく本人以上にヒュンケルの方がホッとした。なにせポップときたら、長い螺旋階段を登る際、ふらつきがひどくて今にも足を滑らせて転げ落ちそうな有様だった。

 だが、ヒュンケルが手を貸そうとするとムキになって撥ねつけるから、手に負えない。 その癖、寝ぼけているせいか、あるいは疲れがひどいせいか、ヒュンケルがついてくるのに文句を言う気配はない。

 というより、周囲のことに構っていられない程に、余裕がなさそうだった。
 やっとついた自室の扉を開けるのに手間取っているポップを見兼ねて、代わって開けてやりながら、ヒュンケルは目を見張った。

「これは……?!」

 ポップの部屋には、呆れる程の数の書類が山積みになっていた。
 机の上はもちろん、ベッドの上にまでうず高く書類が積み上がっている。

 文官の管理室のような有様にヒュンケルが度肝を抜かれている間に、ポップはヒョロヒョロと部屋の中に入り込んで、ベッドには目もくれずに机の前に座った。

 書類が山積みになった机の前に座った途端、ポップの様子は一変した。
 ねぼけて緩んでいた顔つきがきりりと引き締まって、真剣な表情に変わった。
 いかにも頼りなげだった目付きに、しっかりとした光が宿る。

 敵を前にして呪文を唱える時のような鋭さで書類に目を通したかと思うと、ペンでガリガリと熱心に書き込んでいく。しばらくの間その様子を眺めた末、ヒュンケルはやっとポップが何をしているのか悟った。

 ポップの手元にある書類は、パプニカ城の会計関連……要は、全て計算を必要とする書類のようだ。見ただけで頭が痛くなるような数字の羅列を、ポップは素早く計算しては正解を書き込んでいる。

 なんのためにポップがそんなことをしているかは分からないが、その真剣さを見てしまっては邪魔をする気にはならなかった。

 だが、暗くなってきた部屋を明るくするためにランプに火をつけ、ついでに暖炉に火を熾そうとした。
 と、ポップがぶっきらぼうに文句をつけてくる。

「暖炉、つけるなよ」

「しかし、寒いだろう」

 この部屋は石造りの上に、塔に似た構造になっているせいで、どうしても冷えは免れない。ましてや締め切っていた部屋は、ひんやりとした肌寒さが立ち込めていた。

 野宿に慣れているヒュンケル自身はあまり寒いとは思わないが、ポップは暑さや寒さには強い方じゃない。それを考慮しているのだろう、部屋の絨毯やカーテンは地の厚いものだし、いくらでもどうぞとばかりに薪も大量に用意されている。

 それにポップの顔色の悪さから見ても、やはり暖めた方がいいと思える。
 だが、ポップは書類から目も上げないまま、言い放った。

「暖かくなると、眠くなるからいらねえ」

 そう言うポップの目の下には、はっきりとしたクマが浮かんでいる。

「ポップ。夜はきちんと眠っているのか?」

 思わずそう問うと、ポップは上の空のまま答えた。

「ああ、ちゃんと寝てるって。二日前に仮眠はとったよ」

「――それのどこが、寝ていると言えるんだ? 無理をしてないで、少し休め」

「っるっせえなぁ! もうじき終わるから、そうしたらゆっくり寝るっつーのっ! それまで邪魔すんなよっ!」

 怒鳴るポップのその言葉を、ヒュンケルは信じたわけではなかった。
 だが、それ以上無理に休めと言わなかったのは、眠らせようにも肝心のベッドの上にも、書類が山となっているのを思い出したからだ。

 これでは、寝るどころの騒ぎではない。
 さっきから見ていると、ポップはせっせと書き上げた書類を数枚から数十枚ずつ纏めては、無造作にベットの上に放り投げている。

 丁寧とは言えない扱いに呆れつつも、乱雑に放り投げられたその書類を、ヒュンケルは拾い上げてはまとめ始めた。何百枚あるのか数えきれないほどに大量なそれは、どれも例外なく、隙間なくびっしりとポップの書いた字や数字で埋められている。

「ほっとけよ、それ。後でやるから」

 顔をしかめてそう言うものの、手を休めてまでヒュンケルを止めるのが嫌なのか、ポップは書類書きに熱中したままだ。その様子を横目で見ながら、ヒュンケルは書類をまとめては床の上の、できるだけ綺麗な場所へと移動させる。

 妙に生真面目な性格のせいか、ざっとそろえてただ運ぶだけという真似はヒュンケルにはできない。
 書類の一番上に書かれている番号をそろえて集め、きっちりとそろえて積み上げる。

 適当に放っているように見えて、ポップは大体は番号別の山になるように投げていたようだが、それでも時折変に混ざってしまったようで、区分けには結構時間がかかった。

 やっとベッドが書類置き場ではなく、使用可能な状態にまで修復するまでおよそ小一時間はかかってしまったが、驚いたことにそれだけの時間でポップもまた、書類の山を片付けていた。机の上にあっただけの量でも、山と呼べる量だったのだが、ポップの書類捌きは尋常なものではなかった。

 一つの書類に目を通しながら、信じられない速度で計算をすませては途切れることなくペンを走らせる。すぐ終わると言ったのは単に強がりかと思っていたが、実際に1時間と経たずにポップは山のような書類を片付けてしまった。

「終……わったぁ〜」

 最期の一枚に書き込みながら嬉しそうにそう言ったかと思うと、ぺたっと机の上に突っ伏してしまう。気絶でもしたのかと焦ったが、満足しきったような表情は安らかだし、寝息に限り無く近い呼吸は規則正しい。完全に意識を失っていない証拠に、ヒュンケルが揺さぶるとそれを払いのけようともがくし、何やら文句も言っている。

「んー……、まだ…だ。これ…渡さな…きゃ……」

 ムニャムニャと呟いた言葉は、最期まではっきりとは聞こえなかった。引き込まれるようにそのまま眠ってしまったポップに、安堵していいのやら、心配した方がいいのやら、ヒュンケルはしばし迷う。

 ついでに、この大量の書類をどうすればいいのやらも、判断に迷うネタだ。
 とりあえずもう構わないだろうと思い、暖炉に火を入れて部屋を暖めてやる。

 ぱちぱちと火がはぜる音が安定し、ひんやりしていた空気が仄かな暖かみを帯びる頃になると、ポップは本格的に眠ってしまったらしい。

 充分に眠りが深くなったのを確認してから、ヒュンケルはポップを起こさないように気をつけながら、ベッドまで運んでやった。
 だが、そうするヒュンケルの顔が、わずかにしかめられる。

 抱き上げたポップがやけに軽く感じるのは、まあ、いい。本当は文句を言いたいところだが、今に始まったことではない。問題なのは、今のポップが妙に熱く感じられることだ。額に触れてみると、明らかに熱があった――。

 

 

「ちょ……っ、これっ、いったいどういうことなのっ?!」

 三賢者に先んじてポップの部屋に飛び込んだレオナが、開口一番に言ったのはそれだった。
 その飛び込んでくる早さに、ヒュンケルは驚きを隠せない。

「姫……、こんな時間なのに来られたのですか?」

 ポップの発熱と、誰かにこれを渡そうとしていたポップの言葉について相談するために、ヒュンケルはさっき侍女を通じてレオナに面会を申し入れた。
 だが、火急の用事だなどといった覚えなどない。

 ポップの熱はさほど高くもないし、睡眠不足が原因なら薬や手当てよりもゆっくりと眠らせた方がよほどためになると踏んだのだ。万一、具合が悪くなった時の用心のために自分が付きそっているつもりだったし、返事はゆっくりでいいと伝えた。

 なにも、こんな夜中に駆けつけてくれなんて、望んではいない。
 しかし、レオナの意見は全く違うようだった。

「あたりまえでしょ! なんなの、これは?! あたしはポップ君に、ゆっくりと休むようにって言ったのよ?! なのに、なんなのよ、この部屋は?」

 書類だらけの部屋を見回すレオナの顔には驚きと同時に、隠しきれない苛立ちが浮かんでいる。
 だが、驚くばかりの彼女と違い、三賢者には思い当たることがあるらしかった。

 気まずそうに顔を見合わせた三人は、目線で相談し合ったあげく、リーダーであるアポロが代表して口を開いた。

「実は……」


 

 

 ことの起こりは、ポップの頼みから始まった。

『パプニカ王国の秘文書を読ませて欲しい』

 その要求自体は、別に問題があるものではなかった。宮廷魔道士見習いとして留学する際、ポップが自分から唯一望んだ条件だっただから。
 だが、時期が悪かった。

 丁度、パプニカは決算期に差し掛かり、レオナはもちろん、三賢者を初めとする文官達は書類整理に追われる時期だった。

 秘文書の閲覧には、王族か三賢者の立ち会いが必須とされているが、とてもこの時期に人手を回せない。
 それに、レオナの厳命もあった。

 ポップを休養させるために、しばらくは仕事や勉強から遠ざけるようにと、予め強く言われていたせいもあり、三賢者はポップのその願いを拒絶した。

 後一月ぐらい経てば書類整理も一段落つくし、それまで待ってもらえないか……三賢者そう説明した時、ポップはがっかりした様子ながらも頷いた――。

 

 

「考えてみれば、ポップ君にしてはやけに諦めが早いと思ったんですよね、あの時」

 溜め息混じりに、マリンがぼやく。
 一度、こうしたいと思ったら、ポップはしつこい。ずっと付きまとってねだり続けるぐらい、平気でやる。

 そのポップが、何の異議も唱えずにおとなしく引き下がった段階でおかしいと思うべきだったのだ。

「――どうやらポップ君、下士文官達から計算に時間がかかる書類を全部引き取って、自分でやってしまったみたいですね」

 エイミの声には、感心しているを通り越して呆れているような響きすら混じっていた。 本来なら、役人が公式書類の手伝いを他人に任せるなど、あり得ない。

 だが、ポップは勇者一行の一員であり、パプニカの恩人でもある。
 レオナとも親しいポップを、下士文官達が信頼しない理由はない。

 その上、他人の懐にやすやすと入り込む気安い雰囲気を持つポップが、親切にも書類の手助けを申し入れてきたのなら――大抵の下士文官はありがたいと思って受け入れるだろう。

「やっちゃったって、嘘でしょう、これだけの量をたった一人で?」

 レオナや三賢者が目を疑うのは当然だろう。実際にそれを目の当たりにしたヒュンケルでさえ、信じられないような速度だったのだから。

「……嘘、じゃないみたいですね。終わっていますよ、これ、全部。しかも、ざっと見たところ、計算も合っています」

 驚愕を隠せてない表情のまま、マリンやアポロが忙しく書類に目を走らせる。
 三賢者の役割は、基本的に下士文官達が仕上げてきた書類を点検して不備を見つける作業だ。

 当然のことながら、下から上がってくる書類の提出が早く、さらに間違いが少なければ少ないほど、三人の仕事は楽になるし、早く終わる。
 ポップはそこに目をつけたらしい。

 三賢者の仕事が終わるのをおとなしく待つよりも、手伝った方が早く済む。
 その考え自体は間違ってはいない。いないのだが――。

「だからって、なにもここまで無理をすること、ないじゃないの……っ!!」

 レオナの声音は、強い非難と不安が混ざり合った物だった。ほとんど絶叫といってもいい悲痛さを含んだのその言葉に、答えたのは場違いにのん気な声だった。

「無理なんか、してねえって。大袈裟だなぁ、姫さんは」

「ポップ君っ?!」

「ポップ、目が覚めたのか?」

 熟睡しきっていたはずのポップが、いつの間にかあくびをしながら起き上がろうとしていた。いかにも頼りない動きで苦労して起きようとしているのを見て、ヒュンケルは思わず止めかけたがポップは邪険にその手を振り払う。

「あんだけ大騒ぎされちゃ、起きないわけないじゃん。ったく、まだ夜中だってのにこんなに騒いじゃ、近所迷惑ってもんじゃねえの?」

 一見気楽な軽口を叩く少年に、強張っていたレオナの表情が幾分柔らかくなる。だが、その顔はまだ怒ったままだし、まだ文句が言い足りないとばかりに直接彼に不満をぶつけだす。

「何が近所迷惑よ? いったい何をしてるのよ、ポップ君?! あれほど、パプニカにいる間は仕事や公務なんか気にしないでのんびりしていてって、言ったじゃないの!」

 怒る姫の剣幕に怯んだのか、わずかに毛布を盾にするように身構えつつもポップは彼女の機嫌を取ろうとする。

「あ〜、でもよ、ただのんびりしてるだけってのも、結構退屈だったからさ。それに、ちょっとでも書類整理が早く片付けば、姫さんかアポロさん達の手が空くんだろ? ――なあ、姫さん、後どのぐらい書類が片付けば、図書室の使用許可を出してくれる?」

 事も無げに言う、軽い口調。
 だが、それとは裏腹に、ポップの目はどこまでも真剣で、答えを追及しようとする光に満ち溢れていた。

 それに気圧されたようにしばし、レオナは瞑目し――やがて、目を開けてから毅然とした声で宣言した。

「……今のポップ君に、図書室の使用許可を出すわけにはいかないわ」

 その答えに、裏切られたとばかりに憤慨する色合いがポップの表情に浮かぶ。が、ポップがその不満を口にする前に、レオナはパプニカ王女としての声音で宣言する。

「その代わり、必ずこの部屋で閲覧するという条件付きで、パプニカ王女レオナの名において、秘文書の特別貸出を許可します」

「ひ、姫様っ?!」

 ぎょっとしたように声を上げたのはアポロだった。
 文官のトップであるアポロの公務には、パプニカ城の公式文章の管理も含まれている。
パプニカ王家の知識の全てといっても過言ではない秘文書は、国宝であり、本来ならば王族であっても図書室から持ち出すのは許可されていない重要機密だ。

 機密性を重視するため、本来の図書室の最奥にわざわざ封印にも近い形で厳重にしまいこんでいるため、限られた人物しかその場所にはいることは許されない。

 そこまで慎重に扱うべき文章の貸出許可を与えるなど、本来ならやってはならないことだ。

 万が一、貴重この上ない秘文書が紛失でもしたら、許可を出したレオナでさえただではすまないのだから。
 しかし、レオナの決意は揺るがなかった。

 強い決意を含んだ目線だけで忠臣を黙らせ、ポップに向かっていつもの口調で話を続ける。

「――と、そこまではこっちが譲歩してあげる。だから、ポップ君、今度こそ無理せずにおとなしくしててもらうわよ? これって、ギリギリの引換条件なんだから!」

 脅しとも取引ともつかないその言葉に、ポップは嬉しそうな顔をして何度も大きく頷いた。

「ああ、分かったって。秘文書さえ読ませてくれるんなら、おとなしくでもなんでもするよ! 恩に着るぜ、姫さん!」

 

 

「姫。許可を出してよろしかったのですか?」

 古書の薫りの立ち込める、人気のない薄暗い図書室の中で、ヒュンケルは声を潜めて聞いてみた。
 ここは、パプニカ城の最地下に位置する特別図書室。

 限られた者しか入れないこの場所に、ヒュンケルは荷物持ちとしてついてくるように要求された。
 それに関しては、別に不満などない。

 秘文書の選択を自ら行う姫に付き従いながら、それでも気になるのはポップのことだった。

「止めるだけ、無駄だもの」

 憂鬱そうな表情で言いながら、レオナは本棚が立ち並ぶ狭い通路を歩いていく。

「彼のおかげで、書類整理に一段落がついたのは事実だし。それに――これ以上、時間を稼ごうとしても、ポップ君はきっと……あれ以上の無茶をするだけだわ」

 目的だけを最優先するポップは、自分を省みる気なんか全くない。
 それを阻めないのならば、せめてポップの身を気遣うぐらいの配慮はしたかった。

 今のポップの体調を考えれば、火の使用を禁じられたこの無人の寒々しい部屋で本を閲覧させるよりは、環境を整えてある幽閉室にいさせた方がまだいい。

 レオナのその考えを、ヒュンケルは消極的ながらも肯定せざるを得ない。
 だが、まだ納得出来ないこともあった。

「オレなどが聞くべきではないかもしれませんが……これらの秘文書には、いったい何が書いてあるんですか?」

 一見平坦に聞こえる声音から、レオナは彼の密かな疑惑や心配の色を読取り、苦笑を浮かべる。

「安心していいわ、ヒュンケル。我がパプニカ王国の秘文書には、禁呪に相当するようなものなど、一冊足りともないから。父の時代に、すでにマトリフ師の手によって処分されているもの」

 その答えに少なからぬ安堵を感じたものの、疑問はなおさら膨らむばかりだ。
 ヒュンケルにしてみれば、それならばなぜ、なおさらポップがこれらの秘文書にこだわるのかが分からない。
 姫ならばその答えを聞かせてくれるかと期待したが、レオナもまた首を横に振った。

「ここに書かれている文章は、私も全部きちんと知っているわけではないの。だけど、これらはパプニカ王国黎明期の古文書であるのは確かよ。歴史的価値は高いし、貴重な文献には違いないのだけど……でも、どうしてポップ君がこれを必要としているのか  それは分からないわ。まあ、動機だけは見当がつくけれど」

 最後に一言付け足した言葉には、ヒュンケルも同感だった。
 ポップがあれだけ必死になって求めているもの――その先には、ダイの姿がある。
 ダイを捜すための手掛かり。

 ポップが求めてやまないものが、この古びた本の中にある物なのかどうか……それは、ヒュンケルどころか、レオナにさえ分からなかった――。

 

 

「お、やっと来たのかよ。待ち兼ねたぜ!」

 ヒュンケルが本を部屋に持ち込んだ途端、ポップは目を輝かせて早速その中の一冊を開きだした。

「……まだ、休んでなかったのか? 熱があるんだろう、早く休め」

 世界に二冊とない貴重な文献を丁寧に空いている本棚にしまいながら、ヒュンケルはポップを叱責する。
 ヒュンケルにしてみれば、ポップはもうとっくに休んでいるかと思っていた。

 だが、ポップときたらクリスマスプレゼントを待ち兼ねる子供のように、ずっと起きて待っていたらしい。
 しかも寝るどころか、本格的にこれから読む気満々のようだ。

「本なら、横になってたって読めるからな。少しぐらい熱があったって、関係ないって」


 やっと本の片付けをすませたヒュンケルは横になったままで本をめくっているポップから、それを取り上げる。

「なにすんだよっ?! 返せよっ!」

 起き上がって本を取り替えそうとするポップを、ベッドに押さえ込むなどヒュンケルにはたやすかった。

 片手一本で軽く押さえ付けるだけで、もう、ポップは動けもしない。
 普段よりずっと弱々しい反応に苛立ちすら感じながら、ヒュンケルは強めに注意を促す。


「――無茶は、もうやめておけ」

 そんな一言では言い尽くせないぐらい、まだまだ言いたい思いはある。
 だが、ポップは何を言われたのか分からないとばかりに、きょとんとした顔をした。

「おれ、魔法は使ってないぜ? それに、旅だってやめたじゃないか。無茶なんか、してないよ」

 それは、周囲がポップに押しつけた条件だった。大戦の最中、禁呪を使用したせいで体調を崩したポップの身を案じるからこそ、半ば無理やり約束させたのだが――ポップとしては、それは不本意な要求だったのだろう。

 いなくなったダイを、探すという目的。
 それを最優先しているポップにとっては、自分の身など二の次だ。

 周囲の説得を聞き入れて、無茶な捜索の旅こそはやめたものの、ポップの思考パターンは全く変わっていない。どんなに条件が限られても、ポップは諦めるということを知らない。手段が狭められたのなら、その中から勝機を探し出そうとする。方向を変えても、やはり自分の身の安全を度外視して無茶をしているだけとしか思えないが、本人ときたらその自覚すらないらしい。

 普段はあれだけ察しが良い癖に、ポップときたら自分のこととなるとまるで見えていない。
 ――だからこそ、放っておくわけにはいかなかった。

「いいから、今日ぐらいはもう休め。一眠りしたところで、本は逃げないだろう」

 ますます力を込めてポップをベッドに押しつけると、ポップはしばらくは不満そうにじたばたしていたが、やがて渋々と頷いた。

「あー、もう分かったよ! 分かったから、手を離せっつうの! そんなに言うんなら、今日は寝るよ! まったく、そんなに疲れてなんかねえのによ〜」

 ぶつくさと言いながら、ヒュンケルに背を向けたポップは、呆れる程の早さで眠りについてしまう。
 疲れの窺える痩せた寝顔を見て、ヒュンケルは深い溜め息をついていた。

 どこまでも分かっていない弟弟子を前にして、ヒュンケルは久しく味わったことのない無力感を感じずにはいられない。

 ポップが、見つけだそうとしている道。
 それは、ヒュンケルには決して見ることは出来ない。ヒュンケルどころか、レオナの想像すらも及ばない頭脳戦に対しては、手を貸してやりたくても、何もできない。

 ポップがそのために無茶をし、一人で頑張っているのは分かるのに、見ているだけしか出来ない歯がゆいまでの悔しさ――。
 バーンの戦いの際、瞳に閉じ込められた時と同じ無力感を、今も感じてしまう。

(だが……、あの時と同じではないな)

 今のヒュンケルは、閉じ込められているわけでもない。それに、他ならぬポップのおかげで、身体も以前と同じように動かすことが出来る。
 今のヒュンケルは、決して無力な存在ではない。

 もし、ポップがなんらかの助けを必要としているのなら、それに手を貸してやることはできる。
 少なくとも、ヒュンケルはそのつもりだった。

 たとえ、ポップが何も言わなかったとしても。ポップ自身が、ヒュンケルの手助けを拒んだとしても。それでも構わないから、ポップを助けてやりたいと思う程には、ヒュンケルはこの弟弟子に恩義も感じているし、大事な存在だとも思っている。

「ポップ……、あまり、一人で抱え込むなよ」

 聞こえないのを承知でそう呟いた言葉に、もちろん返事など帰ってこない。元より、ヒュンケルも答えなど期待もしていなかった。
 完全に寝入ったポップを起こすなど、望みはしない。

 せめて、眠りだけでも安らかであって欲しい……その祈りを込めて、ヒュンケルはポップの肩にそっと毛布をかけ直してやった――。
                                    END



《後書き》
 『死神の誘惑』の直前にあたるお話です! 実はあっちをかく前からこの話の構想はあったんですが、順番には書けなくって(笑) しかし、ポップって魔法を使おうが使うまいが無関係に、無茶しまくってますね〜(苦笑)
 
 

小説道場に戻る
トップに戻る

inserted by FC2 system