『二人の師、一人の弟子』

 


 その攻撃は、ちゃんと見えていた。
 自分に向かって伸びてくる怪物の爪を、ポップはいたって冷静に見据えることが出来た。
 避けるだけの時間は十分にあったし、その程度の身のこなしは出来るだけの訓練も積んでいる。

 余裕で避けられる――はずだった。
 急に胸をしめつける、胸の痛みさえなかったら。
 恐怖からではなく、胸苦しさのせいでポップは呻かずにはいられなかった。

「……ぐっ…」

 とても我慢出来ない。
 咳の発作を、ポップは止められなかった。すぐ喉元まで込み上げる、鉄錆臭い味の気配――。

 急激な苦痛と息苦しさのせいで、立つ力が無くなった。だが、それが返って幸いした。 ポップが不意にその場に崩れ込んだせいで、怪物の爪は運良く空を切ったのだから。だが、攻撃の間合いを狂わされた獣は猛り狂い、渾身の力を込めた二撃目をポップに向かって振り下ろす。

 咄嗟に転がって避けようとしたが、避けきれなかった。
 ポップの指を遥かに上回る長さと太さを持つ爪が、無防備な腹を撫いだ。一瞬の鈍痛が、一歩遅れて凄まじい激痛へと変わる。

「う…ぁあっ――っ!!」

 痛みのあまり漏らした悲鳴は、怪物の興奮を煽っただけにすぎなかった。
 動きの止まった獲物を今度こそ食らい尽くそうと、両腕を振り上げる怪物の姿を見て、ポップは今度こそ他に手がないと悟らざるを得なかった。

 身動きできなくなったポップの口が微かに動き、とある呪文を紡ぐ。
 振りおろされた怪物の爪がポップの頭を叩き割る寸前、その呪文は効力を発揮した――。


「……う……ぅう…」

 激しい目眩に、思わず声が漏れる。
 全身、特に怪我を負った腹がひどく痛む。ひどい状態ではあったが、とにかく自分が生きていることを実感し、ポップは安堵の息を吐いた。

 その途端、また咳き込みが始まった。
 呼吸をする場所にあってはならない異物を排除するために起こる現象は、身体の役に立つ自然な反応であるはずなのに、苦痛を伴う。

 時に、脇腹に怪我を負った身ではなおさらだ。
 咳をする度に脇腹の筋肉が引きつり、目も眩むような激痛が襲ってくる。

 拷問じみた激痛の結果、今度こそ血を吐くはめに陥ったが、曲がりなりにも喉を詰まらせていた血の塊を排出したせいで、呼吸は少し楽になる。
 なにより、激痛を感じ続けなくて済む安堵感に、ホッとした。

「…………ぅ……ぐ……」

 やっと、周囲の様子を確認するだけの余裕を持てた。
 迷宮脱出呪文――リレミトの効果はぎりぎりで間に合ったようだ。気がつくとポップは、洞窟の入り口に戻っていた。
 だが、命が助かったと分かった途端、悔しさが込み上げてくる。

(ちっくしょー。後、一息だったのに……)

 最奥に伝説の魔法道具が隠されているとの、よくある伝承を持つ洞窟。
 それがただの魔法道具や秘宝の類いなら、ポップは見向きもしなかっただろう。
 だが、その宝が鏡だと言うのが、ポップの気を引きつけた。もちろん、鏡の形をした魔法道具などいくらでもある。

 一番有名なのは、覗きこんだ者の真の姿を写し出すというラーの鏡だろうか。だが、ポップは別の可能性を捨てきれなかった。
 以前、古文書でちらっと読んだことがある。

 覗きこんだ者が一番心にかかっている人物の姿や居場所を、写し出す能力を持った鏡が存在する事実を。
 もちろん、この洞窟にある鏡がそれだと決まったわけではない。むしろ、違う可能性の方が高いだろう。

 だが、望みがかすかにでもあるのなら……分の悪い賭けでもいいから、確かめずにはいられなかった。
 しかし、ポップはどうやらこの賭けに失敗したようだ。奥までたどり着くことさえ出来ず、こうして引き返すはめになったのだから。

 その悔しさに、ポップは歯がみせずにはいられない。これでまた、最初からやり直すはめになった。
 魔法使いであるポップにとって、単独での洞窟探索はそう楽な作業ではない。

 狭い閉鎖空間では、広範囲に影響を与える魔法は制限される上、敵との接触の機会はどうしても増えてしまう。
 下層部に潜るには、それなりの危険は覚悟しなければならない。

 だが、できない相談ではなかったはずだった。今のポップのレベルなら、慎重に行動さえすれば楽勝とは言えなくとも、おそらく最深部まで行けるはずだった。
 あんな所で、発作が起こりさえしなければ――。

「くそ…っ……。痛ぇ、なあ……」

 実際の傷の痛み以外の理由でボヤきながら、ポップは傷の具合を確かめた。
 軽く手で押さえると、暖かい液体が服を濡らしている感触がした。かすかにべたつくその液体の正体は、見なくても分かる。

 自分でもびっくりするほど熱く感じる傷口に反して、頭の芯がスウッと冷えていく。
 失血のせいで、貧血を起こしかけているのだと自分でも分かった。

(ちくしょー……まずった…な……)

 今度は、口に出す気力さえ残ってはいなかった。
 直撃は避けたとは言え、防御力が低い魔法使いにとっては今の一撃は、ダメージが大きかった。

 一般的に言えば致命傷に近いが、魔法で直せない類いの怪我ではない。
 さすがに中級回復魔法でなんとかなる怪我ではないが、最上級回復魔法ならば一瞬で治せるだろう。

 だが、今のポップには、回復魔法をかけれるだけの気力が足りない。
 咳き込みは収まったとはいえ、まだ、胸の疼痛は消えていない。心臓を直接鷲掴みにされているかのような痛みが、集中力を妨げている。

 ――かといって、いつものように呼吸や胸の鼓動が落ち着くまで待っていては、手当てが間に合わない可能性が高い。
 血止めも出来ずにただ押さえているだけの手をすり抜けて、血は止まる気配もなく流れ出す。

 見る間に、緑色の服が赤く染め変えられていく。
 あまりの激痛のせいで気絶しないですんでいるのは、ある意味幸運かもしれなかった。怪我の手当てもしないまま意識が遠のけば、待っているのは、死、だけだろうから。

(このままじゃ……さすがに、ヤバい、か……)

 少しためらいがあったが、もう迷っている場合ではない。今の自分に助け手が必要なのは、ポップ自身が一番よく分かっているのだ。
 霧散しがちな意識を集中させ、ポップは再び呪文を口にした――。







「しっかしまあ、てめえもいい加減暇な奴だな、アバン。こんな役立たずの老いぼれになんぞ構ってる暇があったら、とっとと国に帰って仕事でもしたらどうだ。復興国の王様稼業にゃ、やることが五万とあるだろうが」

 シッシッと野良猫でも追い払うような手つきで、邪険にあしらわれても彼の笑顔は微塵も揺らがなかった。

「ええ、だから今、私は復興のための最重要な仕事を遂行中ですよ? 伝説とさえ謡われた、この世で最高の宮廷魔道士を自国に招くべく、勧誘中です」

 すました顔でそう言ってのけるアバンに対して、マトリフのしかめっ面はますますひどくなる。

「よせやい、柄でもない。第一、オリャア、今更王宮なんて窮屈な所に行く気なんざさらさらねえよ。オレァ、ここが気にいってんだ」

 その言葉に嘘が無いのは、アバンはよく知っている。
 人もめったに訪れない、パプニカ海岸に位置する洞窟……マトリフがいつ、どんな事情からここに住み着くようになったのか。

 それはアバンも知らないことだ。
 だが、アバンがマトリフに初めて出会った16年前にはすでに、彼はここに住んでいた。望めば、もっといくらでも豪華な住み家を得るのは可能だっただろう。

 事実、マトリフはそう長い期間とは言えないとはいえ、パプニカ王国の宮廷魔道士として王宮で暮らしている。
 だが、それを辞任してなお、マトリフが選んだ住み家はここだった。

「確かに、この洞窟は落ち着いていていい場所ですがね、ですがそろそろ考え直してもいい頃ではありませんか?」

 海辺の洞窟は、正直、住環境としてはあまりお勧め出来る場所ではない。
 海辺ではどうしても潮風が強い上に、洞窟は湿気が籠もりやすい。年寄りが住むには、快適な場所とは言えないだろう。

 ましてや、マトリフはもう十数年も前から患っている持病がある。
 禁術に手を出したのと引き換えに、マトリフは内臓に致命的なダメージを負っている。普通にしていればそう問題はないだろうが、強い魔法を使えばその反動が彼の身体に襲いかかる。

 幸か不幸か、老齢の人間には進行が遅い病なため、いまだに元気に過ごしてはいるものの、それが何時までも続く保証などない。

「カール王国は、いいところですよ〜? 温暖なパプニカに比べれば冬は少し寒いかもしれませんが、過ごしやすい地です。城で暮らすのが窮屈だと言うのなら、離宮で過ごしてもいいじゃないですか」

「ふん、おんなじこった。お断りだね、第一、オレは新婚早々の家庭に居候に転がり込むほど野暮じゃねえっつーの。話がそれだけなら、とっとと帰れ、帰れ」

 口の悪い老人の拒絶に、アバンは苦笑しつつもいかにも彼らしいと思わずにはいられなかった。
 なにせ、かつては一緒に旅をして戦いを共にした仲間だ、気質は互いに知り抜いている。
「やれやれ、相変わらずつれないですねえ。せっかく息抜きがてら遊びに来たんですから、もう少しぐらいのんびりさせて下さいよ」

「ったく、王様になってもそのサボリ癖は治らねえのかよ? しょうがねえ奴だな」

 マトリフの憎まれ口を、アバンはにこにこしながら受け止めていた。
 辛辣な口先とは裏腹に、深い洞察力と分かりにくい優しさを持っているこの魔法使いを、アバンは誰よりも頼りに思っているし、信頼もしている。

 それだけに、不慣れな王様稼業の合間の息抜きに、彼の自宅を訪れるのはそれだけでいい気晴らしになる。
 断られるのを承知の上とは言え、勧誘を口実にして会話の駆け引きをするのも、楽しみの一つだ。

 気の置けない友人と過ごす時を楽しんでいるアバンとマトリフだったが、洞窟の外から聞こえた衝撃音がそれを変えた。

「……ちっ」

 音を聞いた途端、マトリフが舌打ちをする。そして、間を置かずに立ち上がった。

「どうかしたんですか、マトリフ?」

 尋ねるアバンを無視して、マトリフは洞窟の外へと向かう。不思議に思いながらも、年齢的にも職業的にも彼よりも行動力が上回るアバンは、音の正体を確かめようと一足先に洞窟に出た。
 だが、その途端、目を見張ることになる。

「……ポップッ!?」

 白い砂浜に、横倒しに倒れているのは見間違えるはずのない愛弟子の姿。

「ポップ、どうしたんですかっ!?」

 思わず駆け寄ってから、アバンは気がついた。
 蒼白な顔色と、緑色の服を赤くそめる染みに。生々しく濡れた服から染み出るその液体は、鮮やかな赤色のままじわじわと砂にまで広がり、吸い込まれていく。

 それを確認した途端、アバンは全ての疑問を一時棚上げし、即座に行動に移っていた。血の源である傷に手を当て、回復魔法をかけてとにかく止血をする。
 アバンの回復魔法の能力はそう強くはないが、それでも出血を止めるぐらいのことはできた。

 だが、ポップの様子は変わらない。
 最初に見かけた時から、ずっと目を閉じたままで身動きもしないポップは、意識を失っているのだろう。

 そして、アバンが気がついた。
 腹から出た血とは別に、ポップの胸元辺りにも散っている血の跡に。
 口端から唾液混じりにこぼれ落ちている血は、腹からのものとは色合いが微妙に違い、黒ずんでいる。

 それは、マトリフが発作を起こした際、嫌という程見せられた血の色合いに酷似していた。

「どけ、オレがやる」

 遅れてようやくやってきたマトリフが、アバンとは比べ物にならない魔法力でポップに回復魔法をかける。
 強い光に覆われて、ようやくポップが反応を見せた。

「…うぅ……」

 目を開けはしなかったものの、小さな呻き声を漏らす。蒼白そのものだった顔色も、幾分かは赤味を帯びた。
 それを確認してから、マトリフはやっと魔法の放出をやめ、息をつく。

「――やれやれ、手のかかるガキだぜ。ああ、アバン、聞きたいことは山ほどあるだろうが、話の前にこの馬鹿を奥の部屋に運んでやってくれねえか。その後でなら、いくらでも説明してやるぜ」







「……マトリフ。あなたは――ポップの、この行動を知っていたんですか?」

 そう問う声は、いつになく抑揚に欠けて硬く、言外の非難を込めたものだった。
 いつも笑顔を絶やさないアバンとは思えない程、その表情も青ざめていて厳しいものだ。 今、マトリフから聞かされたばかりの事実は、アバンからいつもの余裕を奪ってしまった。

 とても、落ち着いて聞ける話ではない。
 アバンにとっては、手塩にかけた愛弟子であるポップが瀕死の重傷を負っただけでも衝撃なのに、それが珍しくもない出来事だと聞かされるなどとは。

 ポップが、行方不明になったダイを探して旅に出たことは、アバンも聞いていた。だが、具体的に何をしているかは、聞く機会も知る機会もなかった。
 カール王となったアバンは自国からなかなか離れられない上、世界各国の王達の勧誘を振り切った上で旅だったポップが、カール王国に来ることもなかったから。

 だから――ここまで無茶な旅をしているだなんて、思いもしなかった。
 おまけに、ポップの体調の悪さについても、初耳だ。
 まだ症状が軽いとはいえ、ポップがマトリフと同じ病を患っていると知って、どれほど驚愕させられたか……。

 しかも、これが初めてではないと知りながら、今まで自分に黙ったままでいたこの老人に、怒りすら覚えてしまう。
 だが、マトリフの態度も口調も、常と全く変わりがなかった。

「ああ、知っていたぜ。知らねえわけがないだろう……この馬鹿は、怪我をしたり、具合が悪くなってどうしようもなくなった時にゃ、決まってここに転がり込んでくるからな」
「そうですか。……その上で、それら全てを分かった上で容認していると言うんですか?」
 アバンの声の温度が、さらに下がる。
 それに対してマトリフは、重々しく首を横に振った。

「賛成は、していねえ」

「……!?」

 意外さに、目を見張った。
 マトリフの行動は、ポップの無茶を擁護しているようにしか思えない。

 が、今のマトリフの口調や表情には、本心からの苦味があった。
 どうしても受け入れられない、だがそれでも飲み込まざるを得ない苦杯を飲み干した者だけが持ち得る、深い憂慮が感じられた。

「だったら、なぜ……っ」

 なぜ、止めてはやらないのか。
 アバンは心から、そう思わずにはいられない。
 ポップの現状を知りもしなかった自分にはできなかったことを、マトリフならしてやれたはずなのに。

 今一歩素直とは言えない師弟関係とはいえ、ポップが本心ではマトリフを師と定め、尊敬の念を持っていることは傍目から見ても、良く分かる。
 それだけに、マトリフならポップを止められるだろうと思えてならない。
 なのに、マトリフはそれにさえ首を横に振った。

「だが、反対も、してやらねえよ」

 そう宣言した彼の眼光の鋭さに、アバンは一瞬言葉をなくした。
 その目には、見覚えがあった。
 かつて、勇者の魔法使いとして、常に自分の隣に立ち続けていた頃の目。

 どんな劣勢な戦況の中でさえ冷静さを失わず、自分の感情さえ押し殺して起こった出来事を細密に分析し、最善手を弾き出す時に彼が見せていた目。
 一見、冷酷と見えるその眼光を、マトリフをベッドに横たわるポップへと向けていた。
「なあ、アバン。こいつは、分かっていてやっているんだよ」

 手当てを済ませ、清潔な服に着替えさせられたポップは、昏々と眠っていた。元々ここに来た時から意識を失っていたポップは、まだ目を覚ます気配を見せない。

「自分のしていることがどんなに無茶で、仲間に知られたら止められるようなことか……分かった上で、それでも勇者を捜している。――探さずには、いられねえんだろうよ」

 厳しい目付きとは裏腹に、マトリフの声音にはわずかな優しさが感じられる。
 その優しさのおかげで、アバンは初めて気がついたことがあった。
 勇者の喪失。

 それは仲間達にとって、とてつもない痛手だった。誰もがそれに衝撃を受けたし、悲しまない者などいなかった。
 その中で、唯一、明るさや元気さを振りまき、ダイが生きているとみんなに希望を与えてくれたのがポップの存在だった。

 ポップと、時の流れに助けられるように、仲間達は勇者喪失の衝撃から立ち直ることができた。
 だから、今まで気がつきさえしなかった。
 ポップ自身が心に負った傷の大きさと、それを癒やす方法についてなど――。

「……この子は、そんなにも傷ついていたんですね」

 それに気づいてやれなかった自分の思慮の浅さを、アバンは悔やまずにはいられない。 悲しみや衝撃の度合いを、他人は窺い知ることなどできない。
 心は、見えるものではないのだから。

 だから、人はつい、目に見えるものを優先させてしまう。
 ポップの負った心の傷などお構いなしに、身体の心配だけを優先して、その結果、かえって心の傷を広げてしまいかねない。
 それに気がついて初めて、マトリフの思慮の深さが見えてくる。

「……あなたにはやはり、適いませんね、マトリフ」

「ふん、そんな御大層に言われるほどのもんでもないさ。ただ、オレまで反対するようなら、こいつが逃げ込む場所がどこにもなくなっちまうと思ったまでだ」

 そう言って、マトリフはいささか皮肉にニヤリと笑う。

「それに、オレ以外、誰が分かってやれるってんだ? ――勇者に置いていかれちまった、魔法使いの後悔って奴をよ」

 その言葉に、さすがのアバンも沈黙するより他にない。
 まったく、耳が痛い言葉だ。


「アバン、おめえじゃあ無理だ。違うか?」

「…………ええ、その通りですね、マトリフ。私には無理です。いえ、その資格も無いというべきですかね」

 勇者に置き去りにされた、魔法使い。
 同じ立場の者として、その痛みを分かち合えるのはマトリフとポップだけだろう。
 アバンはちょうど、真逆の立場だ。

 彼は、魔法使いを置き去りにした勇者なのだから。
 いくら事情や思惑があったにしろ、アバンがそうしてしまった事実には変わりがない。それを責められては、一言も反せない。

「そうですね。もう、私は……この子の師とは言えないかもしれませんね」

 少しばかり感じる寂しさを埋めるように、アバンはゆっくりとポップの頭を撫でた。
 もう、そんな風に扱うには、ポップは成長し過ぎているとは分かっている。アバンがポップに出会ったばかりの頃でさえ、子供扱いをされる度におれは子供じゃないと拗ねて膨れたものだ。

 その頃のポップの印象が強いせいでアバンはつい、彼を必要以上に子供扱いしてしまうが、それは正しいとは言えないだろう。
 実際、自分がいない間に目覚ましい速度で成長を遂げたポップは、以前のように自分に甘えて全面的に頼ってきたりはしない。

 いや……もし、頼ってきたとしても、アバンにはしてやれることなど、もうほとんどない。
 魔法力に置いて、ポップはすでにアバンを遥かに上回っているのだから。

 能力的にも、常に頼る相手という意味でも、ポップはすでにアバンの弟子と言うより、マトリフの弟子と言った方がいいかもしれない。
 それは、ずっと客すらも寄せつけずに一人暮らしを貫いてきたマトリフが、洞窟の最奥にこの部屋を用意したことからも分かる。

 衝立で区切ったそう広くない空間は、以前は無かった。おそらくは、ここは最近になって作られた、ポップのために用意された部屋なのだろう。
 マトリフの使っているのとは違う寝台が置かれているし、ポップのサイズに合わせた服も置いてあったことからもそれは伺える。

 そんなことを考えていた時、眠っていたはずのポップが幾度か瞬きを繰り返した。
 それを目敏く見つけたのか、マトリフが無言のまま唇に指を一本当てた後、部屋を仕切る衝立の奥を指差す。

 そこに隠れろ、という意味と解釈したアバンは、マトリフの意図を掴めないままそれに従った。
 年季が入りまくったせいでボロくて穴だらけの衝立からは、向こう側の様子を窺うなどたやすい。

 間もなく、ポップは本格的に目を覚ましたのか、ゆっくりと身体を起こすのが見えた。
 が、半分も身を起こさない内に、マトリフがぼかっと乱暴に頭を叩いてバランスを崩す。そのせいで、ポップは起きるのに失敗してベッドに再び倒れ込んだ。

(ああああ〜っ、マトリフ、なにもそんな乱暴な……っ)

 咄嗟に、出しそうになった声をアバンは必死に飲み込んだ。
 手加減しているのは分かるが、怪我人には少し酷なように思える。が、ポップは案外元気な声で言い返した。

「いてっ!? なにすんだよ、師匠っ!?」

「ふん、それぐらいで痛がるようなら、最初から怪我なんかしてくるんじゃねえ。まったく、人んちの前に血まみれで倒れてやがって……庭が汚れるだろうが」

「師匠んちに、庭なんかねえじゃないか!」

「この海岸、全部がオレの庭みてえなもんなんだよ。まったく、よっぽど見捨てて置こうかと思ったぜ」

 身体を気遣う言葉一つかけず憎まれ口を叩く割には、マトリフはポップが目覚めると同時に薬の準備をする。
 棚に置いてある瓶を取り出し、コップに注いでサイドテーブルの上に置く。
 が、それを見て、ポップは露骨に嫌な顔をした。

「うげ……っ、また、それ〜?」

 ポップが嫌がるのも、ある意味で無理はない。どす黒く濁った不気味な緑色の液体は、お世辞にも食欲をそそる代物ではない。
 だが、マトリフを良く知っているアバンには、それが彼の持病のために自ら作り出した特効薬だと分かった。

 もちろん、完全に治すような力は無い。
 だが、発作をある程度は抑えて苦痛を和らげ、わずかにでも進行を遅らせる効力はあるはずだ。

「おう、文句があるんなら飲まなくったっていいぜ。どうしても嫌だってんなら、パプニカのお姫様かアバンにでもチクってやろうか?」

「…………有リ難ク飲マセテイタダキマス」

 一転して手の平を反したような低姿勢になり、ポップはものすご〜く嫌そうな素振りを見せながらも、しぶしぶそれを飲み始めた。
 熱い飲み物に手を焼く子供のように、何度も休み休みしながら飲むポップに対して、マトリフはからかうように声をかける。

「お〜お、そんなに言いつけられるのが、怖いってえのかねえ?」

「そりゃ決まってるだろ? 師匠は、姫さんの恐ろしさを知らないから、そんなこと言えるんだよ。姫さんの説教を一回でも聞いたら、そんな呑気なこと、言えるもんか! あの姫さんってば、可愛い顔して怒らせるとすっげえおっかねえんだから〜」

 と、身震いまでするポップは、どう見ても本気でそう思っている様子だ。

「だが、アバンは怒りゃあしねえだろうが。あいつは、甘い男だからな」

「……だから、余計言えないんじゃないか。先生は優しいからさ、おれ、きっと甘えちまうし――けど、それじゃ、ダメなんだ」

 ギュッと唇を噛み締め、ポップは小さく呟く。

「それじゃ、ダイを探しに行けなくなる……!」

 それは、ごく小声ながら、はっきりと洞窟の中に響き渡った。

「なら、まずは体力を取り戻すこったな。薬を飲み終わったなら、少し寝ていろ。次に起きた時にゃ、もっと身体が楽になっているはずだ」

「うん」

 意外と素直に頷き、のろのろとしたしぐさで横になってから、ポップは思い出したように呟いた。

「そういやさ、今、アバン先生の夢、見ていた気がする……」

「そうかよ。じゃあ、その続きでも見るんだな。――ゆっくり眠れよ」

 そう言いながら、マトリフは駄目押しのようにポップに強制催眠呪文をかけた。衰弱しているポップにはその効果はてきめんで、たちまち眠りへと吸い込まれていく。
 それを確認してから、マトリフは衝立を振り返った。

「聞いただろ? あいつは、いまだにおめえの弟子なんだよ」

 アバンの心などお見通しと言わんばかりのしたり顔で、マトリフは冷やかすような軽い口調で言う。

「あの馬鹿は、面倒ごとが起きた時や困った時はオレんとこに頼りに来やがるが、甘えに来たことはねえんだ。ったく、人を何だと思ってやがるんだか」

 それを聞きながら、アバンの顔にはゆっくりを笑みが戻ってくる。

(この人は――本当に、変わっていませんね)

 一見、人間嫌いで人を突き放しているように見えて、マトリフほど懐の広い人間はそうはいない。
 見事なまでの洞察力で、他人の心の機微を読み取り、救いあげる術を見つける手段に長けている。

 本人が直接、救いとなる言葉をかけるわけではない。
 その人を救える言葉を言える人間を、見い出だす目の確かさも、自分は裏方に徹するやり方も、昔と全然変わっていない。

「ありがとう、マトリフ。だけど、あの子はやっぱり、あなたの弟子でもあると私は思いますよ」

 アバンのその言葉に、マトリフはどうでもいいとばかりに鼻で笑って見せただけだった。だが、付き合いの長いアバンは見逃さなかった。マトリフがほんの一瞬だけとはいえ、照れたように目を逸らした瞬間を。

 傍若無人で厚顔無恥なようでいて、この老魔道士は意外と照れ屋なところがあるのだ。 もっとも筋金入りの捻くれ者の大魔道士は、それをごまかすためか最初の時よりもずっと乱暴な手つきでアバンを追い払おうとしする。

「ふん、とにかくてめえはもう帰れ。ついでに、オレをカールに勧誘するのもいい加減諦めるこったな」

 それは、別れ際のいつもの挨拶のようなものだ。その度にアバンは諦めませんと答えるのが常だったが、今回は素直に頷いた。

「そうですね――いったん、諦めますか」

 アバンのその反応は意外だったのか、マトリフはちょっと目を見開いた。

「ほう、物分かりがよくなったじゃねえか」

「そりゃあね。以前とは違いますよ……ここにこだわる理由があるようですからね」

 アバンの知っている限り、マトリフはこの洞窟に馴染んではいても、ここに固執する理由などなかった。
 聞くともなく聞いた話では、マトリフはこの洞窟に落ち着くまでは、世界各国を転々と移り住んでいたという。

 マトリフが求めていたのは、他人に邪魔されずにすむ、人里から離れた静かな住み家――だからこそ、条件さえ整えれば勧誘出来るのではないかと思っていた。
 だが、今は違う。

 マトリフには、ここに居座るべき理由ができた。
 それを、アバンは尊重したいと思う。
 なぜなら、その理由はアバンにとっても大切なものに違いないのだから――。

「じゃ、次に訪れる時は別の口実でも探しますよ。そうですねえ、健康に悪いですから禁酒でも勧めるために来ましょうか?」

「ふん、引っ越しの方がまだマシな口実だな。もっと、頭を捻ってきやがれ」

 軽口を叩きながらも、マトリフはアバンを見送るために洞窟の外まで付き合う。

「それでは、マトリフ……ポップを、よろしくお願いしますよ」

 別れ際のそのアバンの挨拶に、マトリフは小さく頷くことで意思を示して見せる。
 それを見届けてから、アバンは瞬間移動呪文で空高くに飛び上がった――。
                                   


                                      END


《後書き》
 50000hitリクエスト、『ポップとマトリフとアバン先生の話。師匠にも、先生にも、ポップが大事に思われていると、なおよし』でしたv
 徹底解析でも書いたことがあるような気がしますが、ポップの成長のためには、アバン先生の優しさも、マトリフ師匠の厳しさも必要不可欠だったと思います!


 で、アバンもマトリフも、ポップを自慢の弟子と思っていると確信していますとも!
 ……しかし、ポップ本人は自分を思いっきり粗末に思って、無茶な行動をしとる話のよーな気がしますです(笑) おまけに、三人が出てくる割には、三人で会話はしとりませんね、今気がつきましたが。す、すみませ〜んっ。
 
 

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