『言いたい言葉』 |
言いたくて、言いたくてたまらない言葉がある。 だが、それを言うことのできる日は、きっと来ないだろう。
『銀髪の戦士の方には、割引サービスがあります』 その宿屋の入り口にかけられた古ぼけた木の看板には、そう書かれていた。いかにも素人臭い手で彫られた字だが、よくある張り紙ではなくわざわざ木の看板にしてあるところを見ると一時的なものではなく、恒久的なサービスなのだろう。 女性割引や団体割引ならともかく、髪の色で割引くなどほとんど聞かないサービスである。 だが、とある二人連れの旅人はそうではなかった。入り口の前で立ち止まり、熱心に看板を見つめている。 「お、見ろよ、これ。銀髪の戦士は割引だってさ、おまえならぴったりじゃん!」 いかにも少年らしい元気な声に対して、連れである銀髪の戦士とやらは何かを言ったらしいが、その答える声は中までは聞こえなかった。 「なんだよ、相変わらず根暗だなぁ、そんなの気にすることないだろ、さあ、入ろうぜ!」 まだ15、6才程の黒髪の少年と、20才を少し超えたばかりと見える銀髪の青年。年下であるはずの少年の方が主導権を握っているのか、宿屋のカウンターの中にいる彼女に話しかけてきたのも少年の方だった。 「こんちはー、このサービスってこいつにも使えるっすか?」 人懐っこく、元気な口調で話しかけてくる少年を、彼女は呆然として見つめていた。 「……!」 銀髪の戦士だけならともかく、黒髪の少年まで一緒だとは――忘れることのできない二人連れの記憶が蘇る。 かつて、この町を一度だけ訪れたことのある二人の旅人がいた。何か理由があったのかわざと身分を隠して旅をしていた様だが、その名を言えば誰もが知っている様な有名人だった。 世界を救った勇者一行の魔法使いと、戦士。 「どうです、だめなんですか、こいつじゃ? ……って、どこか気分でも悪いんですか」
「あ、いえ、大丈夫よ。 ようやく気を取り直して、彼女は目の前にいる二人連れを見直す。 だが、宿屋の受付として客商売をこなしてきた彼女の眼力は、その不自然さを見逃さなかった。 一番使い込んでいると見えるベルトの穴よりも太めの部分で、ベルトをとめている。 おそらくは、この剣は少年のものなのだろうと彼女は判断した。宿屋の前でこっそりと剣をベルトごと交換し、銀髪の戦士を急ごしらえで整えたに違いない。 「……戦士さん、あなた、本当の職業は何なの? 僧侶? それとも、魔法使いなのかしら?」 その指摘に、途端に青年と少年がそろって罰の悪そうな表情を浮かべたのがおかしかった。 「本物の戦士さんでなければダメと言いたいところなんだけど、でも、いいわ。お客さんのハンサムさとお連れさんの髪の色に免じてサービスしちゃうわ」 「やったぁっ! ラッキーっ、おばさん、ありがとっ」 旅人にしてみれば、泊まる宿屋の料金をたとえわずかでも値引いてもらうのは嬉しいものだ。手放しに喜ぶ黒髪の少年の言葉を、彼女は微笑みながら聞くことができた。 宿屋の女将に相応しい貫禄と包容力を身に付けた彼女は、若い二人組の旅人が連れ立って部屋に向かっていくのを眺めやる。 理屈では、別人と分かっている。特徴は似ていても顔は全然違う。 あの頃、自分と一つ違いだったはずの黒髪の少年や、数歳上だった銀髪の戦士が、当時の年齢や姿のままでいるはずはない。実際には、彼らも彼女と同様に中年と呼ばれる年代になっていることだろう。 だが、それが分かっていてもなお、今の二人組の姿は懐かしかった。 ――もしも。
『あの時は、ありがとうございました。そして、ごめんなさい』 真っ先に言いたいのは、それだ。 『あれからいろいろありましたけれど、わたしは結構、幸せな毎日を送っています』 あの頃は、自分が不幸だと認める余裕すらなかった。自分で自分が不幸だと認めてしまったら、それっきり立ち上がることもできなくなってしまいそうで、泣くことさえできなかった。 こんなことはなんでもないのだと自分に言い聞かせ、毎日を生きるのに必死だった。もう家族などいない自分はこれからずっと一人なのだと思い込み、肩肘を張って生きようとしていた。 今思えば、そんな気持ちでいっぱいいっぱいになっていた16才の少女はどんなに不幸だったことか。 失ってしまった家族は戻ってこないままだが、今の彼女には新しい家族がいる。 初めて出会ったのに、いきなり荷車を貸してくれという無茶な頼みをしたのに、何も言わず、何も聞かずに応じてくれた。 特に目立って特徴のある男でもないし、取り柄があるという訳でもない。 短く切った髪が元の長さに伸びる頃までの付き合いを重ねた後、彼からぼそっと求婚された時に彼女はそれを受けた。 彼と結婚し、運良く三人もの子宝にも恵まれた。青年の実家が大家族だったせいもあり、今は自分でもびっくりするぐらいの大勢の家族に恵まれた。義理とはいえ、両親と呼べる存在をもう一度持てたのもどんなに嬉しかったことか。 おまけに商売が宿屋ということもあり、いつも来客が耐えない。商売柄とはいえ、常に明かりの点る家だ。 一人っきりで静かな時間を過ごすという気分がどんなものだったか、もう、思い出すのも難しいぐらいだ。 毎日毎日が忙しくて、あっという間に過ぎていく。平凡で、当たり前過ぎる日々の繰り返し。当然その中には小さな諍いや悩みが絶え間なく発生し、物語の中に出てくる様な特別なことなど全く起こらない……そんな毎日だ。 しかし、日々の退屈さを嘆き、失ってから嘆くなんて真似は、もう二度としない。これこそが幸せと呼ぶに相応しい毎日なのだと、彼女はもう知っていた。 『本当は、もうとっくに許していました』 自分で気が付くのは遅れたが、多分、それが彼女の本音だ。 言いたいことを言ったのは、後悔する気はない。 ぶつける対象を持たないまま膨れ上がる負の感情は、いつか本人の心を食い荒らし、磨り減らしてしまう。 それを見抜き、その機会を与えてくれたあの魔法使いの少年には、心から感謝をしている。 『あなたは、わたしを許してくれますか?』 言いたいことを言うのは、いい。 言い過ぎたのではないかと後悔することになる夜を、あれから何十……いや、何百も数えることになるか知っていたのなら、決してあんな言い方はしなかっただろう。 魔王軍との戦いの中で、少女は何もできなかった。いや……しようとしなかった。
勇者とずっと一緒にいた魔法使いの少年だって、自分とほとんど変わらない年齢だった。 あの時はずいぶんと大人に見えたヒュンケルでさえ、やっと20才を幾つか超えた程度の若造にすぎない。
その強さが、あの頃の彼女にはなかった。 自分の手を汚す覚悟も、そのくせ相手を許す度量も持たなかった中途半端な怒りしか持てなかった、未熟だった頃の自分。 苛烈な言葉でヒュンケルを追い詰め、一生許さないと言った少女に対して、「許せとは言わない」とだけ答えた寡黙な戦士。 『ポップさんは、お元気ですか』 今でも、覚えている。 町の人達の暴力に倒れた後もそうだった。回復魔法でやっと目覚めた時、彼は自分のことではなくポップになぜ魔法を使ったのかと責め、強く腕を掴んでいた。 怒っていたのではない。 男の子なのにやけに力も弱く、荷車を引く時もひどく辛そうで、とても見捨ててはおけないと思ったものだ。 ポップとヒュンケルの数少ない会話の記憶の中でさえ、それを思わせる言葉があった。 それを案じたからこそ、ヒュンケルはポップを心配し、結果的に怒っている様に見えるという次第だったのではないかと、後になってから分かってきた。 自分自身の身を一切庇わなかったあの銀髪の戦士は、あの黒髪の魔法使いの少年のことは自分以上に心配し、守りたいと思っていたのだろう。 『あの時、傷ついたあなたを癒してくれたのは、あの魔法使いの少年だったでしょうか?』
ポップとはごく短い間、話をしただけだった。正直な話、彼と何を話したのかさえ今となってはよくは覚えていない。 まるで彼の言葉そのものに魔法の力が込められていたかの様に、彼と話していると気が軽くなった。 怒りに任せて彼女が投げ付けた言葉をよけもしなかったあの不器用な戦士の傷を、あの魔法使いは魔法も使わずに癒してくれた……そう信じたい。 『あなたは……今、幸せでしょうか?』 この質問には、是非とも頷いてもらいたいと思う。 自分が幸せになった様に、彼もまた、幸せだといい。もちろん、あの魔法使いの少年も――。 そう思う気持ちは、祈りに似ていた。 かつて自分の犯した罪を思い出し、それを決して忘れない様に夫に頼んで、宿屋の看板に銀髪の戦士へのメッセージを刻み込んだ。
あの日、あの事件に関わった人々は彼女が掲げたその看板を見て、微妙に反応を見せた。何かを懐かしむような目をする者、眩いものをみるようにみる者もいれば、逆に気まずそうに目を逸らす者もいた。 だが、なぜそんなことをするのかと聞く者は、誰もいない。 以前、ヒュンケルに八つ当たりしたのとは反対に、通り掛かった銀髪の戦士にほんのちょっぴりの親切を与えるようになったのはいつの頃だったか、彼女にはもう思い出せない。 これで罪滅ぼしになるとは思っていないし、そんなつもりもない。 だいたい、本心からヒュンケルに対して謝罪や質問をしたいと言うのならば、それは決してかなわない夢ではない。 少なくとも、勇者一行のメンバーが死んだなどという噂は彼女は聞いたことはない。宿屋という商売柄、噂には敏感な方だし勇者一行の噂には常にアンテナを張って注意深く聞いていた。 彼らがどう活躍しているかまでは知らないがそれでも彼らは確かに生きているし、人々の口から尊敬の念を込めて噂されているのは確かだ。 さすがにカール王国の辺境にいては無理だが、王城に行ってアバン王に拝謁の許可を得るか、でなければ勇者一行ともっとも親交の深かったパプニカ王国に行けば彼らの詳しい消息を調べるのはそう難しくはないだろう。 もともと彼女はパプニカ王国の出身であるだけに、あの国の事情には明るい。先代のパプニカ王は庶民との謁見もよく行うので有名だった。その一人娘であるレオナが父王の政策を受け継いでいるのなら、きちんと正規の手続きを取れば会ってくれる可能性は高い。 それは、決してかなわない夢ではない。 家族は失ったとはいえ、パプニカは彼女の故郷だ。父母の墓参りもかねて、彼女の国に一度は帰るのも悪くはないのではないかと旅行話を持ち掛けてくる夫の気持ちは嬉しいと思っている。 だが、そこまでの勇気は彼女にはなかった。 あの日、偶然に出会ったのなら、再会もまた予期せぬ偶然であってほしい。
これがただの自分勝手な、自己満足だと彼女はとっくに承知している。 しかし、それを言うことができなかったとしても、きっと悔いはしない。そうなれば、一生大切に、この言葉を胸に秘めておくだけのことだ。 彼女は今も、祈っている。
ポップとヒュンケル旅の番外編『言わない言葉』のそのまた番外編のお話です♪ 人を恨むのに比べたら人を許すのは難しいけれど、でもその方が本人にとっても他人にとっても幸せだと思っています。
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