『世界が輝く時』

 これまでか、とバランは淡々と思う。
 その思いに、強い感慨などなかった。全く未練がないと言えば嘘になる。20年も生きていないバランは、本来ならまだ死ぬには早すぎる年齢だ。

 しかし、バランは大半の人間にとって受け入れがたいであろう死の訪れを、すでに受け入れていた。
 なぜなら、バランは竜の騎士だったから。

 一見しただけでは人間そっくりに見えるが、バランは人間ではない。神々の遺産と呼ばれる生きた生物兵器であり、戦いで明け暮れる一生を送る宿命のもとに生まれた竜の騎士ならば、その戦いゆえに死ぬのも当然とバランは考えている。

 確かに重傷を負ってはいるが、だがそれが致命傷となって命を絶たれるのではない。傷は深いが、竜の騎士であるバランの回復力はそれを上回っている。
 しかし、皮肉なことにその回復力が今は逆に作用していた。超人的な生命力がバランの肉体の傷を急速に治していくのと引き換えに、体力を消耗させていく。

 本来ならば竜の騎士には無尽蔵とも呼べる体力と、体力回復能力が具わっているのだが、魔界という特殊な場所で激戦を乗り越えたばかりのバランにはその土台となる体力が失われていた。

 結果、肉体の損傷が治っていくにも関わらず衰弱は強まるばかりだ。自分自身の治癒力の高さ故に生命が危うくなるとは皮肉な話だが、竜の騎士の歴史の中ではそんな事例は幾つもある。

 そのため、その対処方法も竜の騎士の記憶の中に眠っていた。
 竜の騎士の力を回復する、奇跡の泉――その知識がバランの脳裏に浮かび上がった。バラン自身は一度も行ったことはなくとも、歴代の竜の騎士達の記憶や経験はバランの持つ竜の紋章の中に刻まれている。

 その記憶を頼りに、ギルドメイン大陸の南東、アルゴ岬に位置するその奇跡の泉を求めてバランは旅をしてきた。

 それは、長く、辛い旅だった。
 実際には魔界への旅に比べれば距離も苦労も少ないものだったろうが、体力が尽きて並の人間とほとんど変わりのない動きしか出来ない今のバランにとってはこんなに辛い旅はなかった。

 ようやく奇跡の泉が見えた時には、バランは自分に残されたすべての力を使いきっていた。
 すでに歩くどころか立つ力さえなくし、這いずっている有様だったが、それさえもうできない。

 奇跡を起こしてくれるはずの泉はもう、すぐ目の前まで見えているのに。後、ほんの少し。ほんの数歩ほどの距離を詰めるだけの力がバランにはない。
 頭の中の冷静な部分が、今の状況を正確に把握する。今のままでは、自分の生存率はほぼゼロに等しいと。

 魔界へ赴き、神の名を冠するに相応しい程に強大な存在の敵と戦い、それでも勝ち残っておきながら平和な人間界の片隅で人知れず死んでいく。
 なんとも皮肉な運命だが、バランにそれに対しては特に何も思わなかった。

 ただ、自分の命がここで尽きるのだと淡々と思い、目を閉じる。
 ――だが、その頬に水の滴が落ちた。

(雨、か?)

 一瞬、バランはそう思った。だが、開けた目の前に広がっていたのは、どこまでも眩しい光だった。
 暖かな光が、バランの霞みかけた視界を心地好く満たしていく。その光の中心にいたのは、一人の娘だった。

 実際には、丁度その娘がいる位置の後ろから太陽が差し込んでいる……ただそれだけの話だろう。

 しかし、バランの目には彼女自身が光を発しているかの様に感じられた。まるで彼女自身が太陽であるかの様に、日差しも、暖かさも、彼女から放たれている様に思える。
 バランのすぐ側に跪き、両手を彼へとかざしている一人の娘。組み合わされた彼女の手からは、ぽたぽたと水が滴り落ちていた。

「……これを飲んで……。
 怪我や病気によく効く水と言われています……」

 澄んだ声が、優しくバランを促す。
 その声を聞いても、バランには容易には信じられなかった。

(に……人間の……娘……?)

 もちろん、理屈ではそうだとすぐに分かる。ここは人間界であり、娘の容姿の特徴は人間のものに違いない。
 だが、自分になんの恐れげもなく近付いてくる人間に出会うのは、バランにとっては驚きだった。

 竜の騎士としての力に目覚めた頃から、バランはすでに人間としては異端だった。
 そして、人は異端に敏感であり、恐れるものだ。いくら隠そうとしてもどこからか人間離れした雰囲気が漏れてしまうのか、人はバランを恐れ、遠ざかった。
 だからこそバランもまた、人に自分から近寄ろうとは思わなかった。

 なのに、この娘はバランを恐れなかった。
 たとえバランの正体は知らなかったとしても、今の彼が重傷を負い、戦装束のままの姿なのは一目で分かるはずだ。

 戦いの直後を思わせる姿の戦士を見て、巻き添えを食うのを恐れて敬遠する者は少なくはないだろう。
 だが、娘はその姿に憶することなく、手で救いとった水をバランの口許にあてがおうとする。

 半ば呆然としたまま、バランは娘の手からこぼれ落ちる水を飲む。
 両手で汲まれた水と言うのは、飲みやすいとはお世辞にも言えない。まして相手は華奢な手を持つ女性だ、両手をそろえてもそこに溜められた水の量はごくわずかに過ぎなかった。

 だが、器の代わりとなるものを捜すよりも、一刻も早くバランに水を与えてくれようとする優しさが感じられた。

 そして、今のバランに必要なのはまさにその水だった。
 ほんのわずかの水が、染み透る様にバランの意識を覚醒させ、苦痛を和らげてくれるのが分かる。

 甘露というのは、このことかと思った。
 その水はバランの喉の渇きだけでなく、もっと奥深い部分まで潤してくれたように感じられた――。





「……礼を言う。おかげで助かった」

 バランがそう言ったのは、娘の手から水を飲み終わってしばらく経ってからのことだった。
 ほんのわずかな水は、バランに大きな救いをもたらしてくれた。先程まで這うこともできなかった身体に力が戻り、バランはゆっくりと起き上がった。

 さすがにすぐに戦えるような体調ではないが、普通に動く程度のことはできる。
 だが、娘は心配そうにバランを見つめ、彼を支えようとする様に手を伸ばしてきた。

「そんなに急に動かれては、いけませんわ。ちゃんと手当てをしなければ……それとも、誰か人を呼んだ方がいいのかしら?」

 ほっそりとした白い手から、バランはわずかに身を引いて首を横に振った。

「いや、もう大丈夫だ」

 その言葉は、事実だった。
 ついさっきまでは命も危うかったバランだが、奇跡の泉に辿り着けさえすれば何の問題もない。

 わざわざ手当てをする程のことでもないし、後は自分自身でなんとでもできる。これ以上、この娘の手を借りるつもりも、その理由もバランにはなかった。
 だが、娘は立ち去りがたい様にバランを見つめている。

「でも、先程まであんなに苦しそうだったのに……」

「心配は無用だと言っている」

 そう強く言ったつもりはなかったが、バランのその返答はいささか冷たい言葉に聞こえたようだ。

 娘本人よりも、その後ろに控えていた二人の女性の方が強く反応し、眉を潜めるのが見えた。
 娘よりも年配のその二人の女性は、こちらに近寄ってきて控え目な声で進言する。

「ご本人がそうおっしゃるのですから、無理強いはよくはありませんわ」

「そうですよ、第一、私達には大切なお役目の最中なのですよ。さ、早くこの泉の水を汲んで戻らなければ、儀式に間に合いませんわ」

 口々にそう言いながら二人の女性はその娘の腕を取り、そのまま泉から離れようとする。と言うよりは、バランから引き離そうとしている様に見えた。だが、バランはそれをたいして不審にも、不満にも感じはしなかった。

 御付きの女性を伴って行動しているということは、あの娘はそこそこの身分を持つ人間なのだろう。良家の令嬢に悪い虫が付くのを嫌って、近付こうとする男を過剰に警戒するのはよくある話だ。
 ついでに、侍女が守ろうとしているのは娘だけではなかった。

「もし、旅のお方。あなたはご存じないかもしれませんが、この泉はとても神聖な場所であり、みだりに近付いてはならないとされている場所なのです。
 みたところ、お怪我をされているようですが急げとは言いませんが……具合がよくなられたらここから立ち去っていただけないでしょうか」

 事務的で素っ気ないながらもはっきりとした退去依頼に、不満そうな顔で反論したのは娘の方だった。

「そんな、この人はこんなに疲れているご様子なのに――」

「承知した」

 娘の言葉を遮って、バランは短く答えた。

「傷が治り次第、この地を退く」

「そ、そうですか。それならよいのですけど……では、お達者で」

 あっけないほど簡単に要求を飲んだバランにむしろ戸惑いを感じているのか、侍女の言葉はどこかぎこちない。
 これ以上バランにかかわりたくないとばかりに、警戒心もあらわにこの場から立ち去ろうとする侍女達の言動を当然と受け止め、バランは一切邪魔をしなかった。

 それでも娘はバランが気になるのか何度か振り返るのが見えたが、バランはそれに対しても何の反応も見せなかった。
 どうせ、もう、二度と会うことのない娘だ。そう考えていたバランは、娘と目を合わせようともしなかった――。





 翌日、バランは目を覚ますと同時に奇跡の泉の水を飲んだ。
 それはただの水ではない。奇跡の泉から汲み上げたばかりの水だ。
 正確に言うのならば、奇跡の泉は人をたちどころに回復させる力を漏っている水と言うわけではない。

 それどころか、この水には回復魔法ほどの力も無い。水を飲むだけで、怪我や病気を治すという程の力はあるまい。
 ただ、自己治癒力の方向性を正しい方向に促す力を秘めているだけだ。

 だからこそ竜の騎士にとっては、この水は大きな意味を持つことになる。戦いに備えて戦闘能力復活のために優先して回復方向に働こうとする竜の騎士の闘争本能を抑え、自分自身の身体を自然に治癒するという人間なら誰もが持っている自然の力を高めてくれるからだ。

 実際、その力にバランは救われた。
 昨日、この水を飲んだことでバランの中の暴走的な自己回復の力は正常化した。おかげで致命的な体力の消耗はすでに治まり、バランは一命を救った。

 数日の間のこの水を飲みながら安静にしていれば、本来の体調を取り戻せるだろう。そう確信して、バランは奇跡の水を飲む。

 しかし、自分の手で掬って飲んだその水は、驚く程に味気のないものだった。もしバランに竜の騎士の知識がなければ、ただの水と思っただろう。昨日、始めて飲んだ時にはあんなにも素晴らしく感じられた水が、ただの水に過ぎないと知ってバランは内心がっかりせずにはいられない。

 ついでに言うのなら、日当たりに関してもそうだ。
 昨日はこの場所は、幸運なぐらいの日当たりに恵まれた暖かい場所だと思ったのだが、野宿した経験ではそれほど突出した利点はかんじられなかった。

 まさにどこにでもある様な泉であり、森にすぎない。
 奇跡と思えた場所が、一夜を越して凡庸な場所に成り下がった様な感覚に多少の不満は覚えたが、バランはすぐにその感想を投げ捨てた。

(……まあ、別にいい)

 バランにとって、野宿する場所にこだわりなどない。誰にも邪魔されず、体調を回復や維持できる所ならばそれで充分だ。

 昨日は水を飲んだ後はほぼ熟睡していたため、休息は十分に取れた。ならば次は食事を得るために狩りでも行おうかと考えたバランが、腰を浮かしかけた時だった――その気配を感じたのは。

 自分に近付いてくる生き物の気配に、バランは反射的に目を向ける。だが、身構えなかったのは相手から全く敵意を感じなかったからだ。

「よかった……! もう、そんなに元気になられたのですね」

 そう声を掛けてきたのは、紛れもなく昨日の娘だった。
 その声と共に急に光が差し込んできた様に見えて、バランは一瞬、目を見張った。
 バランの中の竜の騎士としての冷静さは、それは有り得ないと判断する。

 周囲の光量の変化は、戦士にとっては時として戦いの勝敗を支配しかねない重要事項だ。だからこそ竜の騎士は光の変化については敏感であり、正しく判断できる。
 竜の騎士の知識と本能は、明るさ自体は別に何の変化もないと判断していた。

 しかし、バラン自身はなぜか、彼女が現れたことで周囲の明るさが増した様に思えた。日差しが強まったかのように森が明るく見え、暖かさを増した様に感じる。
 生まれて初めて感じるその感覚に戸惑いながら、バランは疑問を口にした。

「なぜ、ここに……?」

 この泉は、そう簡単に来られるような場所にはない。森の奥深くに位置しているし、仮にも竜の騎士の伝承が残る場所でもある。
 テランの湖と同じく、普通の人間にとってはそう簡単に近寄れない禁忌の場所とされているはずだった。

 事実、この娘の連れの侍女達もそんな風な言葉を口にしていた。
 そんな場所になぜ彼女が、しかも侍女も連れずに一人で訪れたのか。バランにはその理由が想像すらつかなかったが、娘はその問いを聞いておかしそうに笑う。

「あら」

 それは聞くだけで暖かくなるような、心地のよい笑い声だった。ただでさえ彼女の周囲が明るく感じられたのに、その笑顔はなお世界を明るく輝かせるような気さえする。
 その笑顔のまま、娘はごく当たり前の様に言った。

「もちろん、あなたが心配だったからですわ」

「私が、心配だって?」

 今度の驚きと戸惑いは、娘を見掛けた時以上に強かった。
 心配をされる――そんな経験など、バランには覚えがない。むしろ、自分からこれほど縁遠く、かけ離れた言葉はないとさえ思っていた。

 竜の騎士であるバランは、肉体の頑強さでは人間をはるかに凌ぐ。普通の人間ならば即死するような重傷を負ってもそう簡単には死なないし、高い戦闘力も持っている。
 そんな相手を心配するなど、なんの意味もないのではないか。
 バランにはそう思えるのだが、娘の意見は違うようだった。

「ええ。心配で心配で、昨日はよく眠れませんでした。だから、今日、お父様やみんなに内緒でここにきたんです」

 思った以上に深く心配されていた事実が、バランをさらに当惑させる。

「なぜだ? 私は大丈夫だと、昨日も言ったはずだ。君が気にすることはないだろう」

 バランの問い掛けに、娘は気になりますと小さく呟き、その目をぴたりと彼に向けた。 長身のバランに比べ、華奢な体格の娘は背も低く、自然に彼を見上げる形になる。大きな、澄んだ瞳が真っ直ぐにバランを見つめていた。

 まるで澄んだ湖のようだと、バランは思う。吸い込まれそうなほど美しい瞳をもった娘だった。

「だって。あなたが……とても、寂しそうな目をしていたから」





「寂しい……この私が、か?」

 バランが、そう返事をするまで多少の時間がかかった。
 あまりにも意外過ぎて、飲み込めなかったからだ。自分自身では一度も、そんなことは考えたこともなかった。

 それに、他人からそんな風に言われたのも初めてだ。今まで、冷たい目をしているだの、血も涙もない冷血漢などと言われたことならあるが、寂しそうなどと言われたのは初めてだった。
 戸惑うバランに、娘は少し不安そう問い掛ける。

「……ごめんなさい。気を悪くさせる気はなかったのですけど」

 いや、とバランは首を振る。
 別に、気を悪くなどしてはいない。ただ、意外過ぎてすぐには反応できなかっただけの話だ。
 そんなバランの戸惑いを知ってか知らずか、娘は嬉しそうに微笑む。

「でも、元気そうで本当によかった……! 
 昨日は何も持っていなくて、手当てもできなかったから心配していたんです。どこか、具合の悪いところはありませんか?」

「いや、大丈夫だ」

 さっきと同じように、バランは首を振る。
 傷はすでに完全に塞がった。体力の消耗による多少の不調は残っているが、それは時間が解決する問題であり、手当てなど必要もない。

 それを告げれば娘も満足して立ち去るだろうと思ったが、意外にも彼女は別の提案をしてきた。

「それでは、お食事は召し上がりましたか?」

「いや……」
 これから用意するところだと続ける前に、娘は手にしたバスケットをバランの前に差し出して見せる。

「丁度よかったですわ。よろしければ、これはいかがですか?」

 清潔なハンカチをさっと取り除いた下にあったのは、色鮮やかな具の挟まれたサンドイッチだった。
 それを見て、バランは俄かに空腹を覚える。

 戦闘時には魔族以上の強さを誇る竜の騎士だが、通常時の体質はほぼ人間に近い。空腹も感じるし、食欲を感じる対象もほぼ人間並みだ。長い間、魔界で戦い続けたバランにしてみれば、人間らしい食事を見るのなど実に数か月振りだ。

 それだけに、思いがけないぐらいに心が動かされる。目の前に差し出されたその食事を押し退け、野戦時のように殺伐とした食事を捜す気にはとてもなれなかった。

「……頂こう」

 バランが黙々と食事を食べる間、娘はすぐ傍らに居続ける。なぜ彼女がそうするのかバランには分からなかったが、不思議なことにそれはバランにとって不快ではなかった。
 バランは他人が側にいるのには慣れていない。魔族や敵に値する存在が視界にいれば身構えるのは当然だし、相手が敵意がない人間だとしても同じことだ。

 自分を恐れ、警戒する視線を向ける人間を前にして、安らげるはずもない。
 野生の獣がそうであるように、たとえ同族であったとしても心を許さず、警戒心を抱いてしまう心が抜けないのだ。
 だが、今、バランは自分でも不思議なぐらい、穏やかな気持ちでいられた。

(……不思議な娘だ)

 改めて、バランは娘を見返す。
 最初に会った時は容姿など全く印象に残っていなかったが、こうして見てみると人間の娘は美しかった。

 人間の美醜など気にもしていなかったバランの目にも、彼女が非常に愛らしい外見をしているのは簡単に見て取れた。

 だが、それ以上に印象が強かったのは、彼女の物柔らかな雰囲気だった。
 バランを前にしながら彼女は全く恐れる気配もないし、奇異や畏怖の視線を向けることもない。

 彼女はただ、微笑みながらそこにいるだけだ。
 なのに側にいるだけでこちらまで暖かくなるような……そんな、優しい空気を感じさせる娘だった。

 バランの食事の邪魔にならない程度に話しかけてくるその声音すら、心地好い。特に踏み入ったことも聞かず、ただバランの身を案じてくれる言葉がこんなにも胸に迫るものだと、彼は初めて知った。

「あら、いやだ、わたしったら……飲み物を用意してくるのを忘れてしまって。ごめんなさい、これでがまんしてください」

 そう言いながら大きめの葉を器用に折り畳んで簡易的なコップを造り、娘は奇跡の泉の水を汲み、それを渡してくれる。
 それを一口飲み――バランは驚いた。

(……なぜだ?)

 それは、奇跡の泉の水に間違いない。ついさっきバランが汲んだ時と、寸分違うはずのない水だ。
 だが、先程はあれほど味気無く感じられたただの水は、奇跡の潤いを再びバランに与えてくれた。

 初めて味わった時と同じように、甘露を思わせる美味がバランの胸を震わせる。
 同じ水のはずなのに、その差はどこからくるというのか……そう思いながら娘に目を向けたバランは、天啓のように答えを得た。

 その差は、彼女以外に考えられない。
 この娘の手から与えられたことで、何の変哲もないはずの水が奇跡の滴となってバランを癒やした――そう思える。

 なぜなのか、その理由は分からない。だが、彼女の存在がその差を生み出したことは確かな事実だ。
 心からの思いを込め、バランは礼を口にする。

「礼を言う。……こんなに美味しいものを馳走になったのは、初めてだ」

 そう告げると彼女は少し驚いた後に、手放しに嬉しそうな表情を浮かべた。
 その途端、パァッと周囲までも明るく輝いたように感じられたのはバランの錯覚だろうか。

 まるで、厚い雲間から太陽が輝きを見せたかのように、その明るさに魅了される。意識する前に、バランは聞いていた。

「君の名前を聞いてもいいだろうか?」

 訪ねた後で、自分で驚かずにはいられない。戦いに関与する名前ならいざ知らず、他人の名を知りたいと思ったことなど初めてだ。
 だが、バランは真実、知りたいと思った。

 この不思議な、だが太陽を思わせる暖かな娘について、名前だけではなくもっともっと知りたいと――。

「私のことは、ソアラと呼んで下さい」

 何の衒いもなく彼女……ソアラがそう答えてくれたことが、バランにとっては生まれて初めて知る喜びを与える。
 この時、バランにとって、世界はこの上もなく美しく輝いて見えた――。





 この時、バランは知らなかった。
 彼女がただの娘ではなく、アルキード王国の王女であることも。そして、それが原因で辿ることになる、自分と彼女のこの先の悲運についても。
 さらにその結果、生まれてくる子の運命について、彼らが知る由もない。

 だが、知っていたとしたとしても、きっと同じことだっただろう。
 そして、最後の正統な竜の騎士と亡国となる国の王女の恋が始まった――。
                                     END 



《後書き》

 529999hit 記念リクエストその1『バランとソアラの恋人時代の幸せ話』です♪
 しかし、恋人時代というよりは二人の一目惚れ話な気もしますけど。

 最初はバカップルな二人がアルキード城の中できゃっきゃうふふとおいかけっこでもやっているシーンを書こうかなと思ったりもしましたが、寸前で『いやいや、バランパパンのイメージをこれ以上崩しまくるのもなんだしなー』と思い直しました(笑)

 ところで今回のタイトルの『世界が輝く時』は、言うまでもなく原作のサブタイトルの一つです。地上の人々の思いが全て集まって奇跡を起こし、世界を輝かせた瞬間……筆者のお気に入りの話の一つです♪

 地上のみんなが好きだと言ったダイにとっては、彼らがダイを信頼して応えてくれたあの瞬間こそが、世界が輝く時だったと思います。
 が、ダイの父バランにとっては、恋に落ちたその時こそが世界が輝いていた時だったんじゃないかと思っています。

 


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