『お熱い夜の二人』

「……ぅ……」

 吐息ともため息ともつかぬ小さな声が、ポップの口から漏れる。普段ならば聞き逃してしまいそうなほどかすかなその声は、夜の闇の中ではやけに大きく聞こえた。

 息づかいも、いつもよりも少し荒かった。もし、部屋に明かりが満ちていたのならば普段は色白なポップの肌が、ほんのりと赤く染まっているのがはっきりと見えただろう。

 だが、ここは明かりを落とされた暗い部屋の中だ。
 本来なら静かに睡眠を取るのに相応しい真夜中の部屋で、二人の人影は落ち着きなくベッドの上でごそごそとうごめきあう。

 上質のベッドは二人の動きを悠然と受け止めたが、もしこれがその辺のごく普通のベッドならばギシギシときしむ音を立てるのは免れない動きだった。

「もう、……やめろ……って」

 けだるげにそう言いながら、ポップは自分に密着するダイの身体を手で押しやろうとする。だが、ダイは逆にその手をしっかりと掴んで、シーツの海に沈めようとでもするように強くベッドに押しつける。

「やだ」
 短く、きっぱりと答える声がくぐもって聞こえるのは、ダイが顔をぴったりとポップの身体に押しつけているせいだ。密着された状態でしゃべられるのがくすぐったいのか、ポップがわずかに身じろぎした。

「やめ……っ、それ……、やめろって」

 いやいやするように首を振るポップの声は、どこなくうわずった感じだった。だが、ダイはお構いなしにポップの身体を一層しっかりと抱きしめる。決して離さないとばかりにぎゅうっと強く抱きつきながら、ダイはポップの薄い胸板に顔を埋めていた。

 ポップの方はダイを引き離そうとしているのか、手で押しやろうとしたり、身体をくねらせてふりほどこうと抵抗しているが、そんなのは無駄な努力に過ぎない。

 ダイの方が格段に力が強い以上、ポップの抵抗は何の意味もない。
 無駄に足掻いているせいで熱っぽく汗ばんできた肌の感触を味わいながら、ダイはさして苦労もせずにポップの身体を抱きしめ続ける。

「もう、諦めなよ、ポップ。そんなことしたって、ポップが疲れちゃうだけだよ」

 ポップの諦めの悪さは知っているが、ダイはそう言わずにはいられない。
 ポップとダイでは、腕力や体力が桁違いだ。魔法抜きのポップでは、どう頑張ったところでダイの力にかなう訳がない。

 そんなことは百も承知だろうに、それでも毎回懲りずに目一杯抵抗するポップの反応にダイは少しばかり呆れてしまう。
 それに、疑問と同じぐらい不満でもあった。

「だいたいなんでこんなに抵抗なんかするんだよ? いつものことなのに」

 そう言うと、ポップのもがきが一層強くなる。

「いつものことって、いっつもおまえが勝手にやって来るんだろうがっ!」

「そりゃ、そうだけど」

 根が素直なダイは、ポップの文句をそのまま受け止める。
 実際、ポップのベッドに潜り込むのも、そしてその身体を抱きしめるのも、いつだってダイの方だ。ポップ自身が望んでそうしてくれたことなど一度もない。

 だが、それでいてポップはダイを拒まない。
 文句も言うし、時として抵抗もするが、最後にはいつだってダイの抱擁を受け入れてくれる。抵抗を止めて、身体の力を抜いてダイの腕に全てを委ねてくれる、その瞬間がダイは好きだった。

 「しょうがないな」と苦笑しながら、ダイを突っぱねるのではなく、ダイを受け入れ、抱きしめるために手を伸ばしてくれるポップを見たい――そう思っているのに、ポップの抵抗は一層ひどくなる一方だ。

「離せ……ッ、離せよっ!!」

「ええー、いつもは嫌がらないのに、なんだって今日に限ってそんなに嫌がるんだよ?」

 不満と甘えの入り交じった口調でそう訴えるダイに、ポップの声音が強ばる。

「……なんで、だって?」

 信じられないとばかりに聞き返す口調に、ダイは聞き覚えがあった。一般常識に疎いダイがごく素直に聞いた質問に対して、家庭教師達が一様に返す反応にそっくりだ。

 どうして、そんな簡単なことさえ分からないのか――そう言いたい気持ちが思いっきりこめられた返答だが、ポップの言葉には驚き以上に怒りの感情が強く感じられる。
 次の瞬間、ポップの手から放たれた強烈な魔法の力がダイへとぶつけられた。

「ええいっ、暑っ苦しいんだよっ!! いい加減に離れろ――っ!」





「…………なるほどね。それでポップ君がキレて、真夜中にヒャダインをぶっぱなしてくれたってわけね?」

 氷系の魔法よりも更に冷ややかな口調と目つきでそう言ったのは、パプニカ王女たるレオナだった。その口調がいつもよりもつっけんどんなのは、目の下に浮かんでいるクマと無関係ではなさそうだった。

「全く、夜中に大騒ぎしてくれちゃって……おかげでこっちは寝不足だわ。睡眠不足は美容の大敵なのよ」

 わざとらしくため息をつきながらレオナは朝食にほとんど手をつけず、絞りたてのグレープジュースばかりを飲んでいる。不機嫌さが端々からこぼれ落ちそうな有様だが、それはポップも同じだった。

「そりゃ悪かったけどよ、寝不足なのはこっちもなんだよ。おかげであの後だってよく眠れなかったぜ……!」

 ポップもポップで食欲がないのか、ほとんど食事に手をつけていない。レオナと同じフレッシュジュースが彼の前にも用意されているが、それさえもほぼ手はつけられていない。

 だが、その隣のダイは朝から食欲旺盛だった。甘酸っぱくて美味しいジュースはすでにおかわり済みだし、大好きなオムレツと焼きたてのパンを交互に頬張りつつ、不満そうに文句を言い立てる。

「眠れなかったのは、おれもだよ。ひどいや、ポップ〜。なにも、魔法をかけることないじゃないかー。あれ、けっこう冷たかったよー」

 氷系中級魔法とは言え、二代目大魔道士であるポップの唱える魔法は本来ならば致命的なダメージになりかねない代物ではあるのだが、それを『けっこう冷たい』程度ですませてしまう頑丈さはさすが勇者と言うべきか。

 が、人並み外れた勇者の頑強さを褒める気など、ポップどころかレオナさえ今は微塵もなかった。

「あれぐらいやらなきゃ、おまえはおれに抱きつくのをやめないだろうがっ。まったくこの暑いってえのに、なんだっておまえは人のベッドに勝手に潜り込んできて、べったりとしがみついてくるんだよっ!?」

 ポップがカンカンになって怒鳴るが、ダイにはポップのその怒りのポイントが今一つ通じなかった。

「えー? そんなの、今更だと思うけど」

 ダイがポップのベッドに潜り込むのは、初めてではない。というよりも、しょっちゅうあることだ。
 思えば魔王軍との戦いの最中から、ずっとそうだった。

 不安を感じてどうしても眠れない時や、特にこれと言った理由がなくても眠れなくて長く感じる夜、ポップと一緒に眠ると不思議によく眠れると気がついた時からダイはいつだってそうしてきた。子犬や子猫のように、くっつき合って眠るのは安心感があって心地よく眠れる。

 魔界から帰ってきても、その習慣は変わっていない。
 時々、男同士でそういうことは普通しないものだと周囲やポップ本人から言われることはあるが、常識に疎いダイは気にしない。

 ポップが本気で嫌がるようなら考え直す気ではいるが、彼は口先では文句を言ってもダイを突き放したりはしない。時々、思い出したように抵抗するし、時には乱暴に蹴り飛ばすこともあるが、ポップはいつだって詰めが甘い。

 結局の所、いつだってしょうがねえなと笑い、今日だけは特別だと言って毎回受け入れてくれている。

 ここのところ、やけに冷たいというか邪険に押しのけられがちではあったが、それでも最初は文句を言ってもポップはいつも最後にはダイを受け入れてくれた。
 
 なのに昨夜に限って徹底的に拒絶されてしまい、ダイにしてみればちょっぴり傷ついていた。が、ポップの方は当たり前だと言わんばかりの顔で、きっぱりと宣言する。

「連日猛暑日で、毎晩熱帯夜だっていうのに何を言っていやがる!? 
 もー、今日という今日こそは、我慢できねえ! 今日こそははっきりと言っておくぞ……涼しくなるまでおれのベッドに入るの禁止だっ」





「本当に、どうしてなんだろ? いったい何が悪くて、ポップをあんなに怒らせちゃったのかなぁ……」

 しょんぼりと肩を落とし、途方に暮れきったような目をして呟く小さな勇者を前にして、ヒュンケルはわずかに眉を寄せて沈黙する。

 誰かに相談せずにはいられない気分だったダイは、兄弟子であるヒュンケルに悩み事を訴えていた。せっかくの非番だというのに、真摯な表情で真面目にダイの訴えを聞いているアバンの使徒の長兄ではあったが……ある意味、これ以上の人選ミスもないだろう。

 ヒュンケルが他人の相談に乗るのが得意、不得意だと言及する以前にこの問題に関して断言すれば、彼は不適格もいいところだ。
 なにしろパプニカ王国どころか全世界を探したところで、ヒュンケルほどしょっちゅうポップの機嫌を損ねている人間はいない。

 何の悪気もなく、それどころか善意で言ったつもりの一言でさえポップが過敏に反応して、怒りまくるのは珍しいことではない。

 しかも、ヒュンケルはたいていの場合、自分の何が原因でポップが怒り出したのか理解していなかった。と言うよりもあまりにもしょっちゅうポップが怒って突っかかってくるので、いちいち気にさえとめなくなったと言った方が正しいかもしれない。

 ヒュンケルのその態度が、更にポップの怒りを増す原因にもなっているのだが、彼はその事実に気がついていなかった。

 ポップのいうところの『ホントは何も考えてないくせに、シリアスに考え事をしているように見えるスカした面』で、ヒュンケルは膝を抱えて座り込んでいるダイの肩を軽く叩く。

「……あまり気にやむな。多分、虫の居所が悪かっただけだろう」

 何の根拠もない上に気休めにもなっていない言葉だが、素直なダイはその言葉をまともに受け止めてパッと表情を明るくする。

「そっか、そうだよね! 機嫌が悪かったのかもしれないね、ポップ、ここのところなんだか疲れているみたいだし」

 ここのところ、ポップはどうも元気がないように見える。夜もあまり眠れていない様子だし、そのせいか疲れが抜けきれないらしい。正直な話、それが最近のダイの最大の心配ポイントだった。

 だからこそ、毎晩ポップのベッドに潜り込んでいるダイは、そのせいでポップの睡眠を妨げている事実に全く気がついちゃいなかった。ただただ、素直に親友の身体を心配していた。

 遊ぼうと誘っても疲れたからまた今度と言うことが多いし、せっかくの休み時間も動くのが面倒くさいとばかりにダラダラしているし、食欲がないと言って食べる量もずいぶんと減ったような気がする。

「そういえば、レオナも割とそんな感じだし……二人とも仕事が忙しいのかな?」

 無邪気にそう考える常夏の小島育ちの野生児は、ポップとレオナが『そんな感じ』になったのは、季節が夏になってからだという単純明快な事実に全く気がついていなかった。

 そして実に不幸なことに、溶岩の海に飲まれても死ななかった不死身の男もまた、暑さが一般人にもたらす効果について想像すら及ばなかった。

「それはオレも気がついていた。ここのところ、外出系の公務は控えられているはずだから、少しは楽になったと思っていたのだが……」

 真剣に思い悩むヒュンケルだが、近衛兵隊長とはいえ勤務一年以内のほやほやの新人である彼は、夏場は体力の消耗が激しいことを考慮して君主や重臣の外交が控えられるという常識を知らなかった。

 ある意味、似たもの同士の兄弟弟子がピントの外れた心配をしている傍らを、パタパタと急ぎ足の足取りで通り過ぎる兵士がいた。それを見たヒュンケルは、近衛兵隊長の顔を取り戻して声をかける。

「何かあったのか?」

 通常、兵士とは言え城内では駆け足は禁止されている。それが許されるのは、緊急事態のみ――つまり、なにか事件が起こった時だけだ。呼びかけられた兵士は、ビッと敬礼をして答える。 

「はっ。自分は三賢者のアポロ様のご命令で、侍医殿を呼びに行くところであります!!」

「侍医殿を? 病人でも出たのか?」

 怪我人が出た場合ならば、真っ先に呼び出されるのは回復魔法の使い手達だ。先代の王の時代からパプニカ王家に仕えている侍医は優れた治療技術と知識を持っているが、医療は即効性という意味では回復魔法には劣る。
 だから、侍医が緊急に呼び出されることは珍しかった。

「詳しいことは分かりませんが、大魔道士様の執務室へご案内するようにとの命令であります」

 その言葉にヒュンケルが眉をひそめるよりも早く、一陣の風が吹き抜ける。一瞬の間も置かず、ダイが全速力で駆け出していた――。





「ポップ――ッ!! 大丈夫っ!?」

 叫びながら、ダイはポップの執務室へと飛び込む。いつもならポップがいるはずのその執務室にいたのは、同じ黒髪でも賢者の衣装を着た青年――アポロだった。

 驚いたような顔で振り向いたアポロは、ダイを認めるなりうなるような声で言った。

「ダイ君……、ああ、手遅れだったか……!! 今、君に知らせを送ろうと思っていたところだったのに……」

 やたらと悲痛な表情でそう呟くアポロの言葉に、ダイは真夏にも関わらず身体の芯が冷たくなるのを感じた。

(て、おくれって――?)

 最悪の予感に、ダイはがくがくと足が震えるのを押さえきれなかった。周囲を見回せば、部屋の隅のソファにポップが横たわっているのが見える。が、彼はぴくりとも動かなかった。

 これだけダイが大騒ぎして飛び込んでくれば、たとえ熟睡していたって目が覚めるだろうに、目を覚ますどころか動く気配すら全くない。ただ、静かに横たわっているだけだ。

 顔の半分をすっぽりと覆っている白いタオルになにやら不吉な物を感じながら、ダイはよろける足取りでそこに駆けつける。

「ポップ……!? ポップッ、返事……してくれよっ!?」

 大声で叫びながら、ゆさゆさと揺さぶる。
 ――と、ポップがむくっと起き上がり、手近な所にあった水の入った洗面器をぶん投げてきた。まともに顔にぶつかってそれなりに痛みを感じたし当然の結果としてダイは全身ずぶ濡れとなったが、それは少しもダイの喜びに水を差しはしない。

「ポップっ、よかった、死んでなかったんだねっ」

 むしろ大喜びで抱きつこうとするダイを、ポップは邪険に突き放す。

「やかましいっ、軽い夏バテぐらいで死んでたまるかっ! それよりびしょ濡れの身体で抱きつくなよっ、おれまでぬれちまうだろっ。まったく、せっかく今、うとうとしたところだったのに邪魔しやがって!!」

 自分で水をぶっかけておいて、えらい言い草である。
 それに目覚めたばかりとも思えないこの口の周り方から見て、さっき返事しなかったのもふて寝をしていただけだったらしい。

 が、ポップの無事が嬉しくてたまらないダイにとっては、そんな八つ当たりにも程がある態度も気にならなかった。

「だって、心配だったんだもん。アポロさんが手遅れだなんて言うから……」

 アポロに責任転嫁をするつもりはないが、彼があんなことを言わなければダイだってポップが死んだかもしれないなんて不吉な誤解はしなかっただろう。もっと早く教えてくれれば良かったのにと思いながら、ダイはアポロの方を振り返る。
  ――が、言いかけた文句は途中で見事に途切れて消えた。

「はぁあー……」 

 いつだって温厚で真面目な賢者の青年は、深いため息をつきながら原形をとどめぬまでに壊れ果てたドアと、ダイの足跡の形がはっきりと分かる程にひびの入った床を悲しげな表情で眺めていた。

(あ、そういえば……)

 ポップのことが心配ですっかりと忘れきっていたが、思えば部屋に飛び込む際にドアを壊してしまった覚えが確かにある。どう見たって手遅れな程に壊れきったそれを見て、ダイは謝らずにはいられない。

「あの……ごめんなさい、アポロさん」





「にっしゃ、びょう?」

 たどたどしいダイの疑問に、アポロはごく真面目に回答する。

「正確に言えば、ポップ君の症状は熱中症だね。ごく軽い物だけど」

 ダイとアポロは、ポップの執務室に残ったまま真顔で向かいあっていた。が、部屋の主であるポップはもうこの部屋にはいない。

 侍医に、念のために安静にしているように言いつけられ、自室へと戻っていったからだ。当たり前のようにダイもその後を追おうとしたのを、引き留めたのはアポロだった。
 少しばかり時間をかけて、彼に言い聞かせたいことがあったからだ。

「えっと、それって、お日様に当たりすぎるとなる病気じゃなかったの?」

 ダイが小さい頃、よくブラスに日に当たりすぎると病気になるぞと脅された覚えがある。帽子をかぶるようにだとか、水を飲めだとか、口やかましく怒られたことがあるのは覚えている。――なんとなくだが。

 だが、いたって丈夫なダイは結局帽子などかぶらなくっても平気の平左だったし、怪物達もまた、丈夫だった。暑いとスライムなどが色が濁ったり、でろでろになったりするのを見たこともあるが、なんだかんだ言ってダイは暑さで本気でバテている怪物などは見たことがない。

 だから詳しいことなど忘れきっていたし、その危険性など考えたこともなかった。そんなダイに対して、アポロは分かりやすく教えてくれる。

「とんでもない、熱中症は室内にいてもかかる時はかかるんだよ。と言うより室内にいる方が油断がある分、危ないかもしれないね。
 特にこんなに暑い日が続く時は日陰にいるからと言って安心せず、きちんと意識して定期的に水分補給と適度な休憩をとった方がいいんだけど……ポップ君は、自分の体調には少し無頓着なところがあるからね」

 たまたまポップの所に書類を届けに来たアポロは、彼の様子が少しばかり変なのに気がついた。元々、城内で熱中症の治療や対処に当たるという点では、三賢者のアポロは専門家だ。

 アポロが見たところ、ポップはここ連日の暑さに負けているのか顔色も悪かったし、多少のめまいやふらつきなど軽い熱中症と思われる兆しも窺えた。

「だから、用心のために早めに手を打っておこうと思ったんだよ。熱中症は重症になれば死に至りかねない怖い病気だけど、早めに手当をすれば怖くも何ともないんだ。
 軽い内ならしっかり水分補給をして、涼しいところで休むだけで回復するからね。ああ、後、身体を冷やすのも効果的なんだ」

「身体を、冷やす?」

「ああ、そうだよ。さっき、ポップ君の額にぬらしたタオルが置いてあるのを見ただろう? 本当は額だけでなく、太い血管のある箇所……首や脇の下、太ももの辺りも冷やした方がより効果的なんだけどね。
 そうやって適切な治療をすれば、熱中症はすぐに良くなる物なんだよ」

 真面目なアポロは懇切丁寧に、実に分かりやすく、ダイに熱中症というものについて説明していた。
 賢者であるアポロにとって、知識は一種の力だ。

 真相を知ることで人は正しい道を選べるようになると、無条件で信じているところがある。それだけに理を説いて説明さえすれば、物事はすべからく解決するものだと信じる純粋さがあった。

「熱中症というものは、暑さだけではなくて本人の体調の悪さも影響するものなんだよ。特に、寝不足はいけないんだ。
 そもそも健康の基本は、充足した睡眠ときちんとした栄養摂取! 夜、しっかりと眠って三度の食事をしっかりととれば、良好な健康状態を保てるものなんだよ」

 睡眠が大事だと強調するアポロの話を、ダイは神妙な顔をして真面目に聞いていた。そして、少し考えてから笑顔で礼を述べる。

「そっかぁ……、分かったよ、アポロさん! ありがとう!!」

 そう言ってから、ダイは部屋を出て行こうとする。

「あ、どこに行くんだい?」

 もし、これでいつものようにダイがポップの所へ行くと答えるようなら、もう少しお説教というか説明の時間を長引かせようと思ったアポロだったが、それは無用な心配だった。

「ん、ちょっと城の外へ行ってくるね! だって、ポップ、今、寝てるんなら邪魔しちゃ悪いし」

 その返答に、アポロの表情がパッと明るくなる。

「そうか! うん、うん、分かってくれればいいんだよ」

 心の底からホッとして、アポロもまた笑顔を返す。
 ダイがポップの睡眠不足の原因だとまで言い切る気はないが、これでダイがポップの部屋に押しかけていって一緒に眠る回数が減るようならば、それはアポロにとっても喜ばしい。ポップのためだけではなく、どちらかといえばレオナのために――。

 主君であるレオナが、自分と自分の王国を救ってくれた勇者であるダイに思いを寄せていることは、彼女の側に仕えているアポロはよく知っている。それ自体には、アポロは賛成だ。

 一国の王女ともなれば、婚姻は義務でもある。いずれ国益にもっとも相応しい男性を伴侶に選び、パプニカの血統を受け継ぐ子を産むのが、王家のたった一人の生き残りである彼女の義務だ。

 だが、どうせならばその義務が彼女にとっても伴侶にとっても幸せをもたらす物であってほしいと、アポロは願っている。

 その意味では、レオナの結婚相手としてダイが名乗りを上げるのはアポロは大賛成だ。世界を救ったという実績を持ち、非嫡出子とは言え亡国の王女の血を引くダイは、一国の王女の結婚相手として名乗りを上げるのには十分だ。

 身分だけの問題ではなくダイの度量の大きさや無邪気さは、政務を司るレオナの心を癒やす安らぎを与えるだけの包容力がある。
 二人がその気にならば、全力で応援しようと三賢者はすでに心に決めている。

 ……が、問題なのは『その気』が全く感じられない辺りだったりする。
 確かにダイはまだ14才だし結婚を考えるには少し早いかもしれないが、それにしたって彼の言動はどうにもお子様お子様していて、恋愛にはほど遠い感じが否めない。

 なにしろレオナと一緒にいる時間よりも、友達であるポップと一緒にいる時間の方が長かったりするのだ。未だに仲良くじゃれ合う親友達の様子を、アポロや三賢者やその他一同は微笑ましく思ってはいるのだが――本音を言えば、ダイの関心や興味がポップよりもレオナに向かってほしいとも思っている。

(やっぱり、話せば分かってくれるんだな。これをきっかけに、ダイ君と姫様の仲が進むと嬉しいのだけど)

 のんきにそんなことを考えながら、色々と散らかったポップの執務室の後片付けやら修理の手配をするアポロは、知らなかった。素直で、人の話をよく聞くはずの勇者様が、常日頃の勉強時にどれほど家庭教師を嘆かせるような独特の思考回路を持っているかなどは。

 これからはダイとポップがまた一緒のベッドで寝ていたなどと、レオナが焼き餅混じりの愚痴をこぼすのを聞かなくてすむようになるだろうと、アポロはいたって楽観的に信じていた――。





(んー……あつ……)

 じんわりと身体の奥からこみ上げてくるような熱のせいで、ポップはせっかくの眠りから目覚めてしまう。
 だが、それは快適な目覚めとはほど遠い。

 もっとゆっくりと眠りたかったのに、身体を蒸す暑さのせいで強制的に破られる眠りは、目覚めた後も尾を引く倦怠感を伴う。眠りにつく前よりももっと疲れてしまったような身体の重さを感じながら、ポップは額に乗ったままになっているタオルを引っ繰り返す。

 だが、ポップ自身の体温ですっかりと温んでしまった濡れたタオルは、もはや裏にしても涼感を与えてはくれない。むしろ、その中途半端な暖かみがかえって不快感を掻き立てるだけでなんの役にも立たない。

 塔に近い作りになっているポップの自室は基本的に風通しのいい場所であるはずなのだが、風が止んでしまったせいで熱っぽい空気が澱んでいる感じで息苦しいほどだ。

 それでもポップは窓の外の風景をちらりと確かめて、一度は身体を起こそうとした。

 それほど眠った気はしなかったが、いつの間にか夕暮れだった。夏特有の、なかなか沈まない太陽のせいで周囲はまだ明るいが、いつもならば夕食のために食堂に仲間達が集まってくる頃合いだ。

 曲がりなりにも昼下がりからここで休養をとっていたのだ、そろそろ起きて夕食に顔ぐらいは出すつもりだった。だが、起き上がろうとした途端にめまいを感じてポップはまたベッドに倒れ込んでしまう。

(うわっ、まだ頭がくらくらしやがるよ〜。まいったな……)

 ポップが軽い熱中症気味だったと、すでにレオナを初めとする仲間達の耳に入っているだろう。だからこそ仲間が集まる夕食の場に行き、もう治ったというところをアピールしたかったのだが、どうやらそれは難しいらしい。

 特にダイはずいぶんと心配していたようだし、もう大丈夫だと言ってやりたかったのだが……この調子で無理に階下に降りても、かえって仲間達や周囲に心配をかけるだけだろう。

 いや、それどころかこの体調では食堂まで行けるかどうか。階段を降りきれる自信さえなかった。途中でばったりと倒れて更に騒ぎが大きくなる危険性を考えれば、このめまいが完全に治まるまでおとなしく寝ていた方がまだマシなようだ。

 ため息をつき、ポップは再びベッドに身体を預ける。
 だが、だるくて疲れ切っているのに暑さに蒸されたような身体は、熱などないのにどこか熱っぽくて暑苦しく、なかなか眠ることができない。この連日の暑さのせいで、体温調節の機能がどこか壊れてしまったような気がする。

 もう日が沈んだのに未だに鳴き続けている蝉の声が、今夜もまた昼間とさして変わりのない温度が待っていることを教えてくれる。
 すっかり暑さにバテてしまっているポップにとって、またもきつい夜になりそうだった。

(ああ……せめて、冷たいタオルでもあればいいんだけどなー)

 熱っぽい身体を冷やすために冷たい水で濡らしたタオルを額に乗せると、格段に気分が違ってくる。だが、とてもじゃないが今のポップの体調では、自分で水くみなどできやしない。

 かといって侍女か侍従を呼んで用事を言いつけるには、ポップはあまりにも発想が庶民だった。

(……まあ、面倒だしこのままでもいいか。ちょっと我慢すればすむことだし)

 元はと言えばその考え方こそが彼の体調を悪化させている根本原因になっているのだが、その自覚がないポップはそれがベストの選択だと思ったまま目を閉じる。

 眠りたいのに眠れないまま、だるい身体の重さを嫌と言うほど感じながら横たわっていたポップだったが――不意に、ひんやりとした物が額に触れた。
 その涼しさに、ポップは思わず息をつく。

 望んでいた冷たい感触が、心地よい。
 どうせならもっと身体全体を冷やしてくれればいいのに――思わずそう望んだポップの心を読み取ったかのように、ひんやりとしたものが身体に抱きついてきた。

 冷たくて気持ちいいが、冷たすぎない感触が絶妙だった。まるで、よく冷えている抱き枕を抱きしめたように身体全体が冷やされていく。もっともポップは指一本も動かしていないし、抱きついているのはその抱き枕の方なのだが。

 首にしっかりと回された腕の冷たさに安堵した後で、ポップは自分の身体にすり寄せられた冷たい『抱き枕』の正体に思い当たった。

「ダイ……ッ!?」

「あ、ごめん、起こしちゃった?」

 見れば、ダイがポップにしっかりと抱きついている。

「いや、それより……おまえ、なんだってこんなに身体が冷たいんだよ?」

 あれだけ怒ったにも関わらず、また性懲りもなく人のベッドに入り込んでくる非常識さへの文句も浮かんだが、それ以上にダイの身体の冷たさにポップは戸惑わずにはいられない。

 元々、ダイは体温は高い方だ。お子様体温というべきか、湯たんぽ以上に暖かい身体をしている。まあ、だからこそポップは涼しくなるまでベッドに入るなと蹴り出したのだが、今のダイの身体はひどく冷たかった。

 どう考えても異常なその冷たさにポップが頭を捻らせる中、ダイは得意そうに言ってのける。

「だって、ちゃんと身体を冷やしてきたもん! ね、ポップ、これなら一緒のベッドで寝てもいいだろ?」

「冷やしたって……おめえ、水浴びでもしてきたのかよ?」

 それにしては冷たすぎるのではないかと思いながら、ついダイの頭を撫でてやると勇者様は嬉しそうに笑う。

「ううん、おれ、さっきまでオーザムの北の海で泳いできたんだ」

「はあぁあ?」

 あまりにも想定外の返事に、ポップはぽかんとするしかない。が、唖然とした後でポップはオーザムの気候を思い出した。

「って、ちょっと待てぇっ!! オーザムの北って、泳ぎに行くような場所じゃないだろ、そもそも!」

 世界で最も北に位置するオーザム王国は、その気候の厳しさでも有名だ。夏でも気温がさして上がらず、ぷかぷかと氷山が漂っている北の海はどう考えたって海水浴に向く場所ではない。

 大戦の最中などはダイはその海に落ち、危うく凍死しかけるところだったのである。そんな場所に泳ぎに行くなど、正気の沙汰ではない。
 が、ダイはいたって上機嫌の上に元気だった。

「でも、おれ、聞いたんだ。『ねっちゅうしょう』になった時は、身体を冷やした方がいいって」

「あ、ああ、まぁな」

 それは事実なので、ポップはとりあえず頷いた。言葉のあやふやさはともかくとして、その認識は間違ってはいない。
 だが、いつものことではあるが、ダイの思考の着地点は途方もなくポップの考えから外れまくった斜め上地点だった。

「なら、おれの身体が冷たければポップのことも冷やせるし、おれもポップと一緒に眠れるから安心だもん!」

(…………なんで、そうなるんだ?)

 もはや何を口にしたらいいかさえ分からず、ポップは絶句するしかなかった。

 ダイの思考回路の不思議な方向性は、ポップにとってはもはや異次元的だ。どうしてそんな途方もない発想になるのか、全くもって理解できない。しかもダイの場合、突飛な発想だけならまだしもそれを実行してしまう行動力と体力があるのが、なお厄介だ。

 常人ならば身体を冷やすよりも先に心臓麻痺か、最悪の場合凍死の心配をしなければならない氷海だというのに、竜の騎士の頑丈さはどこまでも飛び抜けているらしい。

 あまりの途方もなさに、しばらくの間呆然とダイを見ていたポップだったが、その視線の意味をダイは誤解したらしかった。

「あれ、まだ、おれの身体、暑いかな? じゃあ、もうちょっと冷やしてくるね」

「――いや、待て。行かなくっていいっ」

 起き上がりかけたダイを、ポップは慌てて引き留める。さっきよりは暖かくなったとは言え、まだ冷たい身体を今度はポップが抱きしめる形になる。
 そうすると、ダイは途端におとなしくなった。

 腕力そのものはダイの方が上だから、ポップの腕を振り切るなど簡単なはずなのだが、彼は決してそうしようとはしなかった。撫でてもらうのを待っている子犬のような目で、熱心に自分を見つめている勇者に――ポップは苦笑しながら降参した。

「もう、いいって。あの言葉は取り消してやるから、もう、氷海になんか行くなよな。いくらおめえが丈夫でも万一ってこともあるんだからよ」

 念を押すのは、ポップの中に大戦中の傷がまだ残っているせいだ。氷海で行方不明になったダイを探した時の苦労や恐怖を、ポップは今でも思い出せる。せっかく魔界から生還し、ようやく平和な世界で暮らせるようになった今、こんなくだらないことでダイに無茶をしてなどほしくない。

「いいか、おれに黙って危険な所になんか行くんじゃねえぞ」

 それは、ポップにとっては絶対の誓いだった。
 大戦の時も、そして、その後も。

 自分を庇って、一人で致命的な爆弾を抱えて消え去った大馬鹿な勇者を、ポップは二度と一人で行かせる気などない。
 そんなポップの決意を知ってか知らずか、ダイは眠そうに瞬きながら寝ぼけた声で返事をする。

「うん、ポップが行くなって言うんなら、行かないよ。だから――」

 その語尾は、最後までは聞き取れなかった。
 よほど眠かったのか、最後まで言いおわる前に眠り込んだダイだが、それでもしっかりとポップの身体にしがみついたままだ。

 まだひんやりとしているとは言え、徐々に体温を取り戻しつつあるダイの頭を撫でてやりながらポップは苦笑する。

「……ったく、どうしてここまで甘ったれになったのかねえ?」

 独り言のつもりで呟いたその言葉は返事など期待したものではなかったおだが、思いがけずに返事はあった。

「諦めなさいよ、ポップ君。元はと言えば、あなたがダイ君を甘やかしたのがきっかけなんだから」

「ひっ、姫さんっ!?」

 ギョッとして声の方を振り向こうとするポップだが、ダイにしっかりと抱きしめられているせいでそれもなかなかうまくいかない。それでもやっと首だけを動かしてドアの方を見ると、見慣れた麗しい姫君がそこにいるのが見えた。

「ど、どうしてッ、そこに……っ」

 尋ねる声が我ながら引きつっているとポップは自覚していたが、レオナはそんなことなどまるっきり気になどしていないように、ごく淑やかにベッドの方へと歩いてくる。

「もちろん、あなたの様子を見に来たのよ。侍医の報告ではたいしたことはなさそうだったけど、やはり心配だったから顔だけでも見ておこうと思って」

 これ、お見舞いねと手にしていた水筒やら水差しをサイドテーブルに載せる手つきは優美だったが、それでいてまるで投げ出したかのように派手な音がした。ダイが起きるのではないかとヒヤッとするほどの音は、明らかに意図的なものだろう。

 まあ、幸いにもと言うべきか、戦い以外に関してはいたって鈍感なところのある竜の騎士は多少の雑音など気にもせず、ポップをしっかりと抱きしめたまま安らかな寝息を立てていたが。

「ひ、姫さん……? もしかして、怒っている……とか……?」

 恐る恐る問いかけてみたポップに、レオナは即答した。

「あら、まさか」

 計算され尽くしたとか思えないほど完璧な声音を弾ませながら、レオナは莞爾として笑う。

「いやぁね、怒ったりするわけないじゃない! ダイ君があたしの部屋にはちっとも興味を示さないのに、毎夜、毎夜、あなたの部屋に押しかけていっては夜這いをかけていることに腹を立てるなんて、そんなことあるわけないでしょ?」

 その言葉からも、笑顔からも、怒りなどかけらも見いだすことはできない。

「そ、そう? それだったらいいんだけど……」

「そうよ、そんなつまらないことなんか気にしてないで、しっかり身体を休めた方がいいわ。
 あ、いやだ、あたしったら、長居をして病人を疲れさせちゃ本末転倒ね。もう失礼するけど、お大事に、ポップ君」

 水筒には冷たい飲み物を用意させたから後で飲んでちょうだいと、どこまでも細やかな気遣いを忘れない見舞いの言葉を最後に、レオナはあっけないほどあっさりと部屋を出て行った。

 だが、部屋を辞する際に振り返ったレオナの見せた目つきに、ポップは戦慄を覚えた。

「……!?」

 氷海で冷やしきったはずのダイの手以上に、その目は冷たかった。
 真夏だというのに、ポップの背筋を一瞬で凍り付かせて震え上がらせるに足りるほどの氷の瞳は、暑ささえ忘れさせる程の迫力に満ちている。

「や、やっぱ、怒ってるじゃねえか〜」

 情けない声でぼやきながらポップはぶるっと震え、すがるようにダイの身体にしがみついた――。





 余談ながら、ポップの夏バテはその後も残暑の続く間は尾を引いたが、氷海でさんざん遠泳を重ねたダイは風邪を引くこともなく、全く健康のままだったという。

 

       END 


《後書き》

 裏道場っぽいスタートから初めて、実は健全ギャグなお話でした♪
 しかし、ある意味まるっきり友情で自然にいちゃついているダイとポップの方が、余計にタチが悪そうな気がします(笑)

 ところで、ダイやヒュンケルは、夏バテとは全く無縁そうなイメージがあります。マァムも割と暑さには強そうな気がしますね。
 暑いと平気で下着姿でうろついていそうな気がします(笑)
 それにしても、アポロさんの出番ってこんなのばっかでごめんなさいっ。
 

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