『わがままを言おう』
  

「ポップーっ、もうお昼だよ!! ねえ、ご飯を食べに行こうよ!」

 元気いっぱいに、ノックもせずに執務室に飛び込んだダイは、きょとんとせずにはいられない。

「?」

 部屋の中は、無人だった。
 いつもならばこの時間はポップは大きな机に向かっていて、何かの書類を読んだり、あるいは忙しくペンを走らせているのだが、今日は机は空っぽのままだ。

(トイレかな? それとも、先に食事に行っちゃったのかな?)

 最初はそう思ったダイだったが、よく見ればなんだか変だった。
 ポップは基本的に、散らかし屋だ。

 特に机の上にはいつも書類だの、読みかけのまま伏せた本だの、蓋を開けっ放しにしたインク瓶などが所狭しと置かれていて、せっかくの広い机が台無しになっている。ついでに言うのなら、机の上だけに限らず、その周辺もなかなかのものだ。

 もう用は済んだけれど本棚に戻すのが面倒くさくなってしまったのかそのまま床に積んである本やら、書き損じてくしゃくしゃになった書類なんかがごろごろ置いてあるのだから。

 ついでに言うのなら、役目の都合上ポップの元に山のように届く手紙だの、賄賂じみた思惑が込められたプレゼントだのが、いつだって適当にその辺に無造作に放り出してある。

 時にはスペースが足りなくなってしまい、ポップが窮屈そうに大きな机の隅の方で書類を書いていることも珍しくない。
 が、今日のポップの机は、妙にきちんと片付いていた。

 書類は書類できちんと積み上げられ、しおりを挟んだ本は行儀良く並べてある。インク瓶の蓋もきっちりと閉まっているし、いつものように書きかけの書類など一枚もない。もちろん、机の周辺にだって本もゴミも一つも落ちていない。

 そのせいでやけに広く見える執務室を見て、ダイはさらに大きく首を傾げる。

 散らかし屋のポップの執務室がこんな風に片付いているのは、ポップが仕事を終えて掃除係が片付けた後ぐらいのものだ。ポップは大抵、一日の大半を執務室で過ごすので、掃除はポップの執務後、夜間勤務の侍従が行うことに決まっている。

 つまり、ポップの執務室がこんな風に片付いているのはポップがいない夜の間からポップの始業前のわずかな時間にすぎない。

 ダイも何度か見たことがあるが、ポップが入る時にはいつもきちんと片づいている執務室は、就業時間まで持ったためしがない。ダイがお昼に呼びに来る時には、すでに手遅れだ。その時間でさえ、いつだって呆れるぐらいに散らかっている。

 なのに、この時間になってもこんな風にきれいなままなんてのは初めて見ただけに、ダイは違和感を覚えてしまう。
 これではまるで――ポップが今日、執務室に来ていない様に見えてしまうではないか。

(今日、ポップ、お休みの日だったっけ?)

 思わずカレンダーを確かめてから、ダイは確信を持って首を横に振る。家庭教師の教えてくれる授業はさっぱり覚えられないダイだが、ポップとレオナの休日だけは忘れっこない。

 だいたい、昨日はポップもレオナもそんなことは一言も言っていなかった。
 普段は忙しくてなかなか顔を合わせることの出来ない二人も、数少ない休日の日には一緒に遊んでくれる。そんな嬉しい日を、ダイが忘れるはずがない。

 だが、それ以外の日は、出来るだけダイは二人の邪魔をしないようにしているつもりだ。だが、それはダイにとっては、ずいぶん寂しく感じられる。

 元々、レオナは魔王軍の戦いの頃からずっと忙しくて、なかなかダイと会えない時もあった。ヒュンケルやマァムも、自分の修行を優先して一行から離れる時間も多かった。

 だが、ポップだけはいつだってダイと一緒にいてくれたのに、今のポップはレオナ以上に忙しい毎日を送っている。それを邪魔するのはわがままなように思えて、ダイはポップの仕事中は出来るだけ邪魔をしないようにしようと考えていた。

 ――実際、仕事の邪魔をすると、ポップはひどく怒りまくることだし。怒鳴られたり、こずかれるぐらいならダイは気にもしないのだが、ポップがむくれて話もしてくれなくなるのだけは、避けたい。
 でも、ポップやレオナにあまり会えないのは寂しい。

 まだレオナの方はなんだかんだと時間を作っては、ちょくちょくダイと過ごす時間を作ってくれるようにしてくれているのだが、問題はポップだ。
 面倒くさがり屋のポップは、わざわざそんなことなどしない。

 しかも、何かに熱中してしまうとそれにのめり込む性格でもあるので、仕事が佳境に入ると他のことはほったらかしにしがちだ。下手をすれば、同じ城で暮らしているのに全く顔を合わせないで終わってしまう日もある。しかも、ポップにそれを指摘しても『あ、そうだっけ?』なんて言う始末だ。

 ポップは、ダイが地上に戻った以上、これからはいつだって会えるんだからいいだろ、なんて暢気なことを言っているが、ダイは不満だ。
 せっかく地上に戻ってきたのだからこそ、ポップやレオナと一緒に過ごしたい。

 一生懸命考えた末、ダイが見つけた妥協案は、食事の時間を一緒に過ごすことだった。さすがのポップも、お昼休みの時間には手を止める。

 その時に声をかけるのなら邪魔をすることにはならないだろうと、ダイなりに頭を働かせたのだ。時々、今日はもう食べたからと言って断られることもあるし、先にどこかに行ってしまう時もあるが、それでもダイはお昼になった時には一度はポップに声をかけることにしていた。

 だが、今日のような日は初めてだった。
 無人の部屋にがっかりしつつ、ダイは少しばかり考える。

(えっと〜、どうしようかな?)

 ポップがトイレかどこかに行ったのなら、すぐに戻ってくるだろうから待っていた方がいい。だが、ポップが先に食堂にでも出かけたのなら、すぐに追いかけて行った方がいいだろう。

 しかし、選択を間違えればすれ違いになってしまいかねない。どちらを選ぶべきか悩みつつ、無意味にダイはその辺をウロウロとしてしまう。普段ならばダイは、即断即決のまま動くのが普通なのだが、ためらいがあるのは――これは、わがままなのではないかと思ってしまうせいだ。

 ポップと一緒に過ごしたい……そう思うのは、言ってしまえばダイのわがままに過ぎない。

 魔界にいた時ならいざ知らず、今となってはダイは会おうと思えば毎日でもポップに会える。なのにポップの仕事の時間を割いてまで、自分のために時間を取ってくれと言うのはわがまますぎるのではないか。
 そんな風に思ってしまう時さえある。

 だいたい、ダイは一生を魔界で過ごす覚悟でいたのだ。歴代の竜の騎士の記憶を持ってしても、決して抜け出せない結界の中にいたダイを、助けに来てくれたのはポップだ。

 ポップは詳しくは教えてくれないが、それがどんなに大変なことだったか、何となく分かる。そうまでしてくれた相手に、これ以上わがままを言うのは、ダイにはためらわれた。
 一緒に地上に戻れただけでも、十分に幸運なのだから。

(そうだよね、夕ご飯の時には会えるんだし……)

 しょんぼりする気持ちを抑え、ダイはそれまで我慢しようと思いなおす。
 レオナが昨日、これからはお茶と夕食の時間はできるだけみんなで集まろうと言ってくれたのはダイには嬉しかった。

 デルムリン島でも、食事は必ずブラスやゴメちゃん、それにその時近くにいる怪物達と一緒に取るという食事形式に慣れていたダイは、食事の時間には大勢揃う方が好きだ。そう言う意味では、大戦時のようにみんなで大食堂でわいわいと食べる形式が気に入っていた。

 今思えば、当時の食事の内容は今の食事に比べれば質でも量でも劣っていたが、それでもそれを補う暖かさがあった。

 魔界から帰ってきてからというものの、ダイは夕食は王族専用の食堂で食べるように薦められたが、レオナやポップと一緒の日はともかく、その他の日はあまり嬉しくはなかった。
 料理の種類や質は、以前の比ではない。

 ダイの目から見れば、食べ物だというのが信じられないぐらいに繊細で豪華な食事が出てくることもしょっちゅうだ。

 それに量もたっぷりとあるし、給仕をしてくれる人が必ず居るから一人というわけではないのだが、それでも広いテーブルで自分だけが食べているというのはあまり楽しく感じられない。

 だから、昨日のレオナの提案は、ダイにはとても嬉しかった。

 実際、レオナやポップだけでなく、ヒュンケルやアポロ、マリンにエイミに加え、なんとアバン先生までもが揃った夕食は、賑やかで実に楽しかった。これからは毎回全員とは言わなくても、レオナとポップは必ず揃うからとレオナが保証してくれた。

(でも……ポップはなんだか、嫌そうな顔してたよなぁ)

 ダイもそうだが、ポップもレオナの命令には弱い。
 レオナがそうしようと強引に決めたのなら、口が達者なポップであっても、とても逆らえない。内心は嫌だなぁと思っても、従ってしまうことになる。
 ちょうど、ダイが家庭教師に勉強を習う羽目になったのと、同じだ。

(なら、もしかして、ポップに無理しなくてもいいって、言ってあげた方がいいのかな?)
 
 少しはそう思いはするものの、感情的にはそれは嫌だと思ってしまう。ダイとしては、ポップやレオナと一緒に居たいのだ。だが、そのせいでポップやレオナに無理や我慢をさせるのは嫌だとは思うのだが、これはポップが言い出したのではなく、レオナの発案だった。

 頭が良く、先々のことまで考えて動くレオナの言い出すことは、長期的に見てみんなの役に立つ場合が多い。それを知っているからこそ、たとえポップが今現在嫌がっていたとしても、レオナの言葉に従った方がいいような気もする。

(だけど、ポップは嫌がってるなら――、ああ、もう、分かんないや)

 あれこれ考えていて頭が痛くなったダイは、自分で自分の頭をぐしゃぐしゃと掻きむしる。
 いつになく考えすぎてお腹がすいてきたダイは、ポップが戻ってくる気配もないのでとりあえず食堂へと向かう。

 いつものことだが、この時間の食堂は混んでいた。決して長いとは言えない昼休みの時間を活用しつくそうとばかりに、城に仕えている者達は一斉に集まって食事を取っている。

 一際騒がしいのは、年若い侍女達が寄り集まっているテーブルだ。その華やかなテーブルの程近くに、若い兵士や侍従達が居ることが多い。

 ポップもだいたいその辺を好むのだが、いくら探しても緑色の服を着た魔法使いの姿は見当たらない。
 その代わり、思わぬ所からかけられた声があった。

「ダイ」

 静かで控えめの低音は、雑踏の中でも意外なほどによく通る。声の主を振り向いて、ダイはパッと表情を明るくした。

「あっ、ヒュンケル!」

 わざわざ人が来ない場所を選んでいるかのように、居心地の悪そうな隅の席にぽつんと座っているヒュンケルを見つけて、ダイはそちらに向かっていった。

 ヒュンケルもパプニカ城にいるのは間違いないのに、近衛兵隊長として忙しいせいかなかなか顔を合わせる機会が少ないのだ。
 それだけに、ダイとしてはヒュンケルと会えるのは嬉しい。

 地上に戻ってきてからというものの、みんながダイを歓迎してくれた。それこそ世界各国の王様も、町や村で出会った名前も知らない人々も、勇者の帰還を心から喜んでくれた。
 今だって、パプニカ城の人達はみんな、ダイに優しい。

 ただでさえ無人島育ちで城に不慣れな上、二年間の魔界暮らしのせいでますます普通の人間の暮らしからズレてしまったダイを、優しくフォローしてくれている。特に家庭教師の先生達は、ダイの物覚えの悪さや勉強のはかどらなさを嘆きつつも、何を質問しても怒ることなく根気よく付き合ってくれている。

 そんな彼らに感謝をしているし、好意も抱いているが、やっぱりダイが一番会いたいと思い、一緒に居たいと思うのは仲間達だ。大戦の時に苦楽を共にし、戦いを乗り越えた彼らと再会することこそが、ダイの魔界での一番の望みだったのだから。

「ヒュンケル、これからお昼ご飯なの?」

 量も程よく、しかもいろいろなおかずがバランス良く配膳されたトレイを感心して眺めつつ、ダイは聞く。

 セルフサービス式の食堂では、自分の食べる分は自分でトレイにとってくるのがルールだ。ダイはこの方式にはあまり慣れていないせいもあり、ついお肉ばかりを山盛りにしてポップに笑われたり、馬鹿にされたり、呆れられたりするが、ヒュンケルの選択ならその心配もなさそうだ。

(真似してみようかな)

 そんなことを思い、ダイはジロジロとヒュンケルのトレイを見つめてしまう。不躾と言えば不躾な態度だが、ヒュンケルはそんなのは気にした様子もなかった。

「ああ。ダイもか?」

「うん、そのつもりなんだけど、ポップが見つからないんだ。ヒュンケル、見かけなかった?」

 そう聞いた途端、ヒュンケルは食事の手を止めて眉を潜める。

「……ダイこそ、知らなかったのか?」

 淡々とした声と顔は、一見すれば無表情と分類される部類だろう。だが、ヒュンケルをよく知っているダイにとっては、その顔が彼の見せる最大の驚きの表情だと分かった。

「知らないって、何を?」

 まるっきり思い当たらなくて聞き返すと、ヒュンケルは眉を一層寄せて、教えてくれた。
 ダイを心の底から仰天させ、背筋を冷やさせる一言を。

「ポップなら、今日は体調が悪くて休んでいるぞ」






 ポップの自室に入る時もダイはノックはしなかったが、今度はさっきのようにいきなり飛び込んだりはしない。この部屋に駆け上がってくるまではほぼ全速力だったが、部屋に近づいてからはうんとよく気をつけて、音を立てないようにしてそっと入った。

 もし、ポップが眠っているのなら起こしたくないと思ったからだ。
 その用心は、どうやら正解だったらしい。ダイが部屋に入っても、ポップはベッドに横たわったまま全く反応しなかった。目を閉じ、規則正しい呼吸を繰り返しているポップはどうやら熟睡しているらしい。

 眠ったままのポップの額に、ダイは出来るだけそっと手を当ててみる。
 ひんやりとしていないのにまずホッとしてから、やけに温かい感触にダイは顔をしかめる。

 魔法力を使いすぎたポップは時々昏睡してしまう時があり、そんな時は決まって体温が低くなった。そんな時は、ダイはいつも心配でたまらなくなるのだが、今のポップはいつもよりもちょっと温かい。

 どうやら、熱を出しているようだ。
 だが、それはそれで心配な状態なのだと、ダイはもう知っている。

(ポップの具合、悪かったなんて気がつかなかった……)

 ちくんと、胸の奥に何かが刺さった様な気がした。
 それは、仕方がないと言えば仕方がないことだとは分かっていた。魔王軍との戦いの最中は、ダイとポップは大抵一緒にいた。眠る時だって同じ部屋か、そうでなかったとしてもすぐ近くの部屋で寝ることが多かった。

 だが、今はダイとポップの部屋はずいぶんと離れている。前のように、朝起きた時に一番最初に顔を合わせるわけではない。実際、ヒュンケルと偶然会うまで、ダイはポップの話を知らないままだった。

 ヒュンケルの話では、執務室で会った時、ポップの顔色が悪いので今日は休むように忠告したのだと言う。

『たいしたことはない。念のためアバンにも診てもらったが、今日一日休んでいればすぐによくなるそうだ』

 ヒュンケルはそう言っていたが、ダイの心配は治まってはくれなかった。
 ヒュンケルや先生の言葉を、信じていないわけではない。
 この実直な兄弟子が嘘をつけない性格だと、ダイはよく知っている。だが、ダイはヒュンケルだけでなくポップのこともよく知っていた。

 ただでさえ兄弟子に反発しがちなポップが、ヒュンケルに言われた通りに素直に休むなんて、普通だったら有り得ない。ポップがヒュンケルに素直に従うなんて、よっぽど具合でも悪いのではないか――。

 そう思うと心配で心配で、話を聞いた途端、お腹がすいていたのも忘れて全力疾走でここまで駆けつけていた。
 だが、幸いなことに、ポップの具合は思ったよりは悪くないようだ。

 本人もよく眠っていることだし、このまま寝させてあげるのが一番いいとダイにも分かる。熱がある時は静かに眠るのが一番だと聞いたし、その側にダイがいたからって何が出来るというわけでもない。

 看病の知識もなければ、回復魔法も使えないダイが居たからと言って、ポップの役には立つまい。むしろ、安眠の邪魔になるだけだろう。
 だから、ポップの顔を一目見たら帰ろうと思ったのに――何となく立ち去りがたくて、ダイはその場にとどまってしまう。

 いつもよりも青白く見えてしまうその顔を、ダイはじっと見つめていた。
 思い返してみれば、ここ数日のポップは食欲がなさそうに見えた。ダイがお昼に誘っても、忙しいからここで済ませると言って執務室でサンドイッチを摘まんで済ますことが多かった。

 ポップに頼まれて、余ったパンは中庭の小鳥にやってくれと言われて従ったが……今にして思えば、あれは残り物にしては多すぎた様な気がする。

 お茶の時もレオナには内緒だと言いながら、ダイにお菓子やおかずを分けてくれていた。何も考えずに喜んで食べてしまったが、ひょっとしてそれが良くなかったのかも知れないと、ダイは今になってから後悔する。

 食べるものをちゃんと食べなければ、元気がでなくなって当然ではないか。なのに、それに気がつけなかった自分が、悔しくてたまらない。
 もし、前のように一緒に居たのなら、ダイが真っ先にそれに気がつけたはずなのに――。

「ダイ君、お見舞いに来てくれたんですね」

 そう声をかけられて、ダイはひどくビックリする。見れば、お茶の道具やら水差しやら、こまごました物がのせられたトレイを持ったアバンが、入ってきたところだった。

「あ……、先生。そうだけど、おれ、もう帰ります。ポップが寝てるなら、邪魔をしちゃ悪いし……」

 しょんぼりした顔のままで、ダイは立ち上がる。正直言えば、まだ帰りたくなどない。だが、寝ている側で話などしたらポップの睡眠の妨げになると思えば、長居をしてはいけないと思った。

 だが、アバンはいかにも彼らしい穏やかな顔で微笑みながら、ダイを引き留める。

「おや、そんなに急がなくてもいいでしょう。せっかくお茶の用意をしてきたんです、付き合っていってくださいよ」

 そう言いながら、アバンはダイの返事も待たずにてきぱきをお茶を入れたりテーブルの上にお茶菓子を並べていく。

 美味しそうなパウンドケーキや、木の実がたっぷりと入った食べ応えのありそうな厚手のクッキーを見ると、自然にダイは口の中に唾がたまるのを感じる。
 途端に、訴えるようにお腹が鳴るのを聞いて、アバンが笑う。

「ほら、遠慮せずにお食べなさい。お腹がすいているんでしょう?」

 言われてみれば、ダイはお昼ご飯抜きでここに来たところだった。アバンの優しさと美味しそうなお茶の匂いに、ダイはあっさり陥落しそうになる。でも、それでもポップが気になってちらっと彼の方に目をやると、アバンはそれを見透かした様に言った。

「心配しなくても、ポップならまだ当分は目を覚ましませんよ。ずいぶんと疲れているようだったので、ラリホーマをかけましたからねえ。効き目がきれるまで、もうしばらくはかかりますから」

「えー? ポップって、魔法で寝てたの!?」

 それでは、側で騒ごうがなにをしようが起きるわけがない。

「ええ、他人の忠告を聞いて素直に休んでくれるようなら、わざわざ魔法をかける必要もなかったんですけどね。
 全く、いつまで経っても手のかかる子ですねえ。あ、ダイ君、お砂糖はいくつがいいですか?」

 なにやら、涼しい顔をして不穏なことをさらっと言っていた様な気もするが、拍子抜けした様な気分になったダイはアバンに薦められるがままに腰を下ろして、砂糖のたっぷり入ったお茶を手にしていた。一口飲むと、甘くて暖かい味にホッとする。

「おいしい……!」

「それはよかった。甘い物は、疲れを癒やしてくれますからね。身体の疲れもそうですが、心の疲れにも有効なんですよ。
 今のダイ君には、必要なんじゃないかと思いましてね」

 済ました顔でそう言ってのけるアバンに、ダイは首を振って言い返した。

「でも、おれ、別に疲れてなんかないよ」

 確かにお腹はすいているが、それと疲れているのは別問題だ。地上に戻ってきてからと言う物の、特に戦う必要もなくなった上に、猛特訓をすることもなくなったダイは、疲れとは縁遠い。

 だが、ダイを教え導いてくれた師は、何もかもお見通しだとばかりの目をして穏やかに言う。

「ええ、身体はそうでしょうね。ですが、あなたの心はちょっぴり辛い……というよりも窮屈な思いをしているように、私には思えたものですから」

「……!」

 ずばりと心の奥底を見抜かれ、ダイは目をまん丸く見開く。

「お城の生活というのは、どうにも堅苦しい決まりが多いものですからね。特に、ダイ君にはなかなか辛い部分や不慣れな部分もあることでしょう」

 私にも身の覚えがありますから、と笑うアバンの優しさが、水のようにダイの心に染みこんでいく。だからこそ、ダイは素直に本音を言うことが出来た。

「うん……、ホントは、そうなんだ……」

 誰もが、ダイに気を遣って暮らしやすいようにしてくれている。
 いつだってご飯やおやつを用意してくれている上、ダイのために広い部屋を用意してくれ、勉強をできるようにと環境を整えてくれる。

 それなのにこんな風に思うのは贅沢でわがままなことだと思って言えなかったが、それがダイの本音だ。こんなにも恵まれている環境にありながら、ダイはちっとも落ち着かない。
 だが、不満を口にした後で、慌ててダイは言い添えた。

「でも、おれ、お城が嫌なわけじゃないんだよ!! そりゃ、勉強とかは大っ嫌いだけど、でも、ここにいたいもん」

「おや、どうしてです? お城が窮屈なのに、嫌ではない、と。それはなぜなんでしょうね?」

 ダイの不満にいちいち相槌を打ちながら、問いかけてくるアバンの顔は、教
師のそれだった。聞くまでもなく答えを知っているのに、わざわざ生徒に考えさせ、答えを導こうとするための問いかけだ。
 その誘導に、ダイはあっさりと引っかかった。

「だって、ここにはポップもレオナもいるから……!」

 それが、ダイがパプニカにいる最大の理由だ。
 魔界から帰った後、ダイはデルムリン島に帰ろうかとずいぶん迷った。元々ダイは必ずあそこに帰るつもりだったし、ブラスや島の仲間達だって大好きだ。

 だが、ポップとレオナとも離れがたかった。

 パプニカ王国の姫であるレオナは、当然のようにこの国から出ることはできない。ポップはレオナの仕事を手伝うから、当分の間パプニカに居候すると言っていた。
 だからこそ、ダイもパプニカにいようと決めたのだ。なのに――。

「でも、二人ともすごく忙しいから、あんまり一緒にいられないのが、ちょっと……嫌なんだ。
 でも、こんな風に思うのって、わがままだよね……」

 しょんぼりと言うダイに、アバンは微笑みながら応えた。

「ええ、わがままですね。それを聞いたら、二人ともきっと安心するでしょうね」

「え? な、なんで!?」

 思いっきり予想外のことを言われて、ダイは驚いて聞き返す。
 ダイには、わがままを言うのは良くないことだという認識がある。

 デルムリン島にいた頃も、ブラスに勉強したくないだとか、魔法使いじゃなくて勇者になりたいと言う度に、わがままを言うなと怒られたし、ポップやマァムと一緒に旅をしていた頃だって、マァムはしょっちゅうポップに対して『わがままばっかり言わないで!』と怒られていた。
 なのに、アバンはごく当たり前のような顔で、にっこりと笑った。

「だって、わがままを言えるということは、それだけ心を許しているという証明みたいなものですからね」

「……!」

 そんなことなど考えてもみなかったダイは、またも目を丸くする。

「確かにわがままを押し通そうとするのは問題ですけどね、自分の望みを強く持つのは悪いことではないんですよ。
 まずはそれがなければ、何も始まらないのですから」

「……そう、なんですか?」

 今ひとつピンとこなくて首を傾げていると、アバンは更に分かりやすく教えてくれる。

「そうですね、例えて言うのなら――ポップって、わがままばかり言うでしょう?」

「はいっ」

 ものすごく分かりやすい例えに、ダイは思わずこくんと頷いた。ポップがもし起きていたら文句を言いそうなものだが、幸いと言うべきか彼は今、熟睡していた。

「ではダイ君、それでポップのことを嫌いになったり、腹が立ったりしますか?」

 迷わず、ダイは首をぷるぷると横に振る。そんなこと、考えたこともない。

「レオナ姫は?」

 またも、ダイは首を横に振る。
 考えれば、レオナもかなりわがままだ。だが、だからといって彼女のわがままが嫌だとは思わない。そりゃあ呆れたり、びっくりしたことはあるものの、それで彼女を嫌いになったりしたりはしない。

 それどころか――むしろ、嬉しくさえあった。
 普段は大人達に囲まれて、毅然とした王女として振る舞っているレオナが、自分にだけは素顔を見せてくれている様な気がするから。

「あ……」

 やっと、答えに辿り着いた気分で、ダイは思わず呟いていた。

「ね、心配しなくても大丈夫でしょう?
 気を遣ってもらえるのもいいものですが、わがままをぶつけ合うのも、たまには嬉しいものですよ。
 私もしょっちゅうそうしていますしね。フローラには城で大人しくしていろと言われますが、旅に慣れているとお城というのはどうにも窮屈でねえ」

 そろそろカールに戻ってフローラに急な外出を謝らないと、などと呟きつつ、アバンは励ますように彼の肩を叩く。

「さて、私はもう帰りますが――ダイ君も、たまには思いっきりわがままを言ってごらんなさい」






 アバンが去った後、やけに静まりかえったように感じる部屋の中で、ダイはドアと椅子を見比べた。
 さっきまでのダイなら、ポップを起こしたり迷惑をかけるのを心配して、心を残しつつもしぶしぶ退室しただろう。

 だが、今のダイは違う。
 椅子をポップのベッドのすぐ側に運び、そこにちょこんと座りこんだ。ポップが自然に目を覚ますのを、待つために。

(ポップ、怒るかな? でも、怒られてもいいや)

 思えば、自分が何に怯えていたのか、不思議だった。
 魔王軍との戦いの時から、ポップはしょっちゅう怒ってばかりいたが、それでもダイは一度も嫌われたと思ったことなんてなかった。

 ポップのわがままだって平気で聞けたし、ダイ自身も遠慮せずに思った通りのことを言っていた。 魔界にいる間、自分はそんなことさえ忘れてしまっていたのだろうかと思う。

(ちゃんと言わないと、分かるわけないよね。ポップって、変な時だけ鈍いから)

 ポップの仕事を邪魔する気はないが、ポップのことが心配な時は側にいたいのだとちゃんと言おう。

 ポップの体調が悪くなったりするのは絶対に嫌だし、ポップがちゃんとご飯を食べないのだって心配になる。今日のように、ヒュンケルに聞かされるまでポップの具合が悪いことさえ気づかないなんて、我慢できない。

 魔王軍時代、ポップが無理しすぎて調子が悪そうな日を、ダイは見逃したことなんてなかった。そんな日は決まってポップのベッドに潜り込んで、一緒に眠るようにしていた。

 そうやって次の日、ポップが元気になったのを見ると心から安心できたものだ。
 ならば、今だってそうしたい。

(ポップ、早く起きるといいな……)

 そして、起きた時にはいつも通り元気になっているといい。そう思いながら、ダイは一つあくびをする。眠っているポップに釣られたのか、なんだか眠くなってきた。

 でも、この場を離れたくないダイはベッドの縁に頭を乗せ、そのまま目を閉じて眠りについた――。                    END


 

《後書き》

 『胸に手を当てて』と『無駄な特訓』の間に当たる、ダイサイドのお話です♪ 魔界から戻ってきた当初、ダイはダイなりに気を遣って、わがままを言わないように我慢していたのですが、それが吹っ切れたきっかけですね。

 この時を境に、ダイは我慢なんかしないでしょっちゅうポップの所に行くようになります(笑)

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