『降り注ぐ雨』 |
「……?」 ヒュンケルにとっては、それは初めて見るものだった。 濡れた服が身体にまとわりつく上、冷たくて不快ではあったが、ヒュンケルはそれでも『それ』から目を離せなかった。まるで、魅入られたように『それ』を見つめていると、後方から声がかけられる。 「ヒュンケル、こんな所にいたんですか。探しましたよ、急にいなくなったりしちゃ心配するじゃないですか」 優しげな声を聞いても、ヒュンケルは振り向かなかった。 魔物に育てられたヒュンケルにとって、見知らぬ人間は恐れと警戒の対象だ。どんな目的で近づいてくるにせよ、警戒せずにはいられない。 だが、アバンだけはその必要はない。 ヒュンケルが少しでも単独行動を取ると、必ずこうやって探しに来る。 理屈では、アバンのそんな甘さは、ヒュンケルにとって都合のいいと分かっている。 年齢の割には利口で現実的なヒュンケルは、アバンのこの甘さは自分に好都合だとは理解していた。 まだ子供のヒュンケルは、自分で自分の命を繋ぐ方法を身につけてはいない。悔しいが自分一人の力ではまだ生きていけないことを、ヒュンケルはすでに自覚していた。 人間世界の常識にさえまだ馴染みきっていないヒュンケルにとって、保護だけでなく知識も惜しみなく与えてくれるアバンは便利と言えば便利な存在ではあった。 そんなヒュンケルの思惑にもまるっきり気がつかず、保護者としてヒュンケルの面倒を見ているアバンの甘さには、ほとほと呆れ果てる。その方が都合がいいとは思いながらも、なぜか、時折いらつく物を感じてしまう。 「…………」 自分でも分からない苛立ちが強まって、ヒュンケルはアバンに返事さえしなかった。 ヒュンケルは何も言わなかったが、彼の様子を見てアバンは疑問や戸惑いを読み取ったらしかった。 「ああ、そうでしたか。あなたはもしかして、雨を見たことはなかったのですか?」 「雨?」 初耳だった。 不死系怪物は別に雨に弱いというわけではないが、だからといって濡れるのを好むわけではない。生前の習慣と同じように、身体が濡れるのは嫌うものだ。 基本的に地底魔城の門番を強めるバルトスは外に出る用事もなかっただけにわざわざ雨の日に外に出ることはなかったし、また、そんな日にヒュンケルを外へと出してくれることもなかった。 人間には太陽の光は必要だろうと、天気のいい日にはヒュンケルが外に出られる様に極力手を尽くしてはくれたが、悪天候の日に幼い子供を外に出したいとは思わなかったのだろう。 「ええ、雨と言います。地上では時々、こんな風に雨が――空から水が降ってくるものなのですよ」 その話は、ヒュンケルには途方もない不思議な話に聞こえた。 魔族も水は必要とするが、人間よりずっと丈夫な魔族は味に拘らなければ、人間にはとても飲めないような劣悪な水質の水でも大丈夫だ。地底魔城に引かれていた水は、ほとんど泥水と呼んで差し支えない代物だった。 そのため、バルトスはヒュンケルのために上質な水を手に入れるのにずいぶんと苦労していた。時間をかけて濾過したり、わざわざ城外まで出掛けて水を汲んでくるのが常だった。 そのせいで、ヒュンケルにとっては水とは貴重で手に入りにくいものだという認識がある。なのに、まさかこんな風に無尽蔵に空から降ってくるだなんて、夢にも思わなかった。 「なんのために?」 「あー、それはグッドな質問ですね。雨がなぜ降るのか……それは、人間にとっては大いなる疑問であり、未だ解明されていない大問題なのですよ。 大仰で芝居がかったアバンの言葉を一応最後まで聞いてから、ヒュンケルは素っ気なく切り捨てる。 「つまり、おまえも知らないんだな」 「――まあ、一言で言ってしまえばそうなんですけどね」 苦笑しながら、アバンはどこからかマントを取り出すとそれをヒュンケルの肩にふわりとかける。 「でも、雨に打たれすぎるとあまりよくないことだけは、確信を持って言えますね。さあ、そろそろ宿屋に戻りましょう、びしょ濡れになりますよ」 そう促されてから初めて、ヒュンケルは身体がすっかり冷えているのに気がついた。物珍しさに釣られて雨に見とれていたのはそう長い時間ではないと思ったのだが、ふと気がつくと驚く程に身体が冷えている。 (……冷たい、な) 雨は、冷たかった。 美しく、途切れることのない雨を見つめながら、ヒュンケルはアバンに促されるままに宿屋へと戻っていった――。
白い衣を身に纏った男は、無言だった。 なぜなら、彼……ミストバーンには、目の前にいる人間の少年にさほどの期待を寄せてはいない。自分の要求する訓練についてこられるうちはよし、だが、それについて来られなくなったのなら、彼はあっさりと少年を見捨てるだろう。 それこそ、子供が飽きた玩具を投げ捨てるよりもあっさりと、未練なく。 叩きつけるような雨の中、泥にまみれながらヒュンケルは立ち上がる。足がふらつくので、手にした剣を杖代わりにすがる様な有様だったが、それでもヒュンケルの目に浮かぶ燃えるような色合いだけは、訓練を始めた時から少しも変わりはなかった。 ヒュンケルにまだ十分なやる気が溢れているのを確認すると、空中に停止していたミストバーンは再び動き出す。 まるで幽霊のような気配の感じられない滑らかさで、滑るように移動するミストバーンを捕らえるべく、ヒュンケルは必死で剣を振るう。と、その打ち込みが弱いと言わんばかりに、ミストバーンの腕が動いた。 ゆったりとした袖を一閃させただけのように見えるが、その瞬間に硬化された彼の爪が、ヒュンケルの腕を打ち据える。尖った爪を突き立てないだけ手加減はしているのだろうが、まだ十代半ばほどの少年にとっては十分以上に手酷い一撃だった。 痛烈な痛みに思わず呻いたものの、それでもヒュンケルは剣を取り落とさずにがむしゃらに剣を振るう。 ただそれだけを考えながら、盲目的に剣を振るい続けるヒュンケルの上に、雨は降り続ける。激しい訓練のせいで燃えたぎるような熱さを感じているヒュンケルには、雨の強さなどどうでもいい。
(雨、か……) 本格的に降り出した雨を、ヒュンケルは避けもせずに天を振り仰いだ。澱んだ色合いの雲から、無数の水滴が落下してくるのが見える。 どうやら、小雨ではなく本格的な雨になりそうだった。勢いは強くはないが、いつの間にかしっとりと全身を濡らす……そんな雨だった。しかし、その雨を避けもせず、ヒュンケルはそのままその場に佇んでいた。 「ヒュンケル様。もう、戻られた方がよろしいかと。そのままでは、お風邪を召してしまいます」 控えめな声が、背後から聞こえてきた。 「モルグか……」 振り返って、確かめるまでもない。 「このままでいい」 この程度の雨で体調を崩すほど、ヤワな鍛え方をしたつもりはない。 だが、町を破壊するように命令を下したのは、紛れもなくヒュンケル自身だ。実際に手を下したのは、ヒュンケルではなくその配下である不死騎士団かもしれない。 だが、ヒュンケルはそんな言い訳に逃げるつもりはなかった。 しかし、被害はゼロではなかったはずだ。 その血を、洗い流すかのように雨が降り注ぐ。 消えない痕跡を眺めながら、ヒュンケルはただ、雨に打たれるに任せる。 いつ、雨が降り出してもおかしくはない空だった。 今にも降り出しそうな雨を嫌ってか、誰もが逃げるような足取りだった。一刻も早く家に帰りたいと言わんばかりに、コートの襟を立てて足早に立ち去っていく。それは、ヒュンケルも例外ではなかった。 用事が済んだらさっさと戻れと、不機嫌そうに何度も念を押した魔法使いの少年を思い出しながら、ヒュンケルは足を速める。 まだ若い母親は、まるで急ぐ素振りなど見せなかった。むしろ、ことさらゆっくりとした足取りで『そこ』へと向かっていく。幼い腕には持てあましそうなほどに大きな花束を抱えた幼児の腕を引いて、彼女が向かったのはずらりと並ぶ墓石の前だった。 比較的新しいそれらの墓石がいつ作られたものなのか、ヒュンケルは知っていた。 とは言っても、激しい戦火のせいで遺体が見つからぬ者も多かった。レオナの父、パプニカ国王でさえとうとう遺体は見つからなかったぐらいなのだ。戦いに巻き込まれた一般市民で、行方不明になったままの者は少なくはない。 彼らの魂を慰めるためにとレオナの命令で作られた共同墓所は、誰も埋められていない空っぽの墓の列だ。 しかし、それらの墓に花が途絶えることはない。 やがて、墓場に飽きた子供が母親を急き立て、やっと空を気にし始めた母親が子供を連れてその場を立ち去っても、ヒュンケルはその場を動かない。やがて降り出した雨が石畳を濡らしても、彼はまだその場に佇み続けていた――。 「おい? おまえ、なにやってんだよ、そんなところで」 不機嫌な口調で声をかけられるまで、ヒュンケルは彼の接近に気がつかなかった。振り返った先にいるのは、フードを深くかぶってマントを羽織った少年だった。 そのフードのせいで顔が見えないし、マントのせいで体型すら見定められなかったが、仲間の――ポップの声を聞き間違えるわけがない。 それは、言いたくなかったからではない。どう説明していいのか、分からなかったからだ。 「いや……」 特に深い意味もない、相槌とさえ言えない答え。 「だったら、辛気くせえ面をして雨ん中、ぼーっと墓場なんか見てるんじゃねえよ!! そんなことして、意味があるのかよ!?」 苛々と怒鳴りつけるポップの言葉は、的確に真実を射る。あまりにも痛すぎる真実に、ヒュンケルは苦笑せずにはいられなかった。 「そうだな――意味など、ないな」 罪を償うつもりで、こんな真似をしているつもりはない。 自嘲気味に、ヒュンケルは額に落ちた髪を払う。すでにぐっしょりと濡れた髪は、払うどころかかえって指にまとわりつく有様だった。 「なにも……っ、てめえの上だけに雨が降ってくるわけじゃねえだろ!」 本気で怒っている魔法使いの少年を、ヒュンケルは初めて見るように見返した。 今、ポップは17才……考えて見れば、当時のアバンとほぼ同じ年だ。あの時のヒュンケルにとってひどく年上に思えた教師の若さに思い至る。だが、似通っているのはそれぐらいのものだろう。 ポップとアバンは、まるで似てはいない。 だが、それでもポップの話の要点は、あの時のアバンと同じだった。 雨は、ヒュンケルもポップも分け隔てることはない。 「ポップ、ヒュンケル! こんな所にいたの?」 そう呼びかけながら駆け寄ってきたのは、淡い赤毛の少女だった。ごく普通の女の子のような格好をしているが、彼女は見事な足取りで水たまりを避けてあっと言う間にヒュンケル達の所までやってきた。 彼女の姿を見てヒュンケルはわずかに驚き、それから納得した。 今日、ポップが念を押して早く戻れと言ったのは、マァムを歓迎するためだったのだろう。それなのに、自分を迎えに来るために彼女の手を煩らわしてしまったことを、申し訳なく思う。 「わざわざ、すまない」 「いいのよ、気にしないで。それより、びしょ濡れじゃないの。大丈夫?」 怒るどころか、心配そうに傘を差し掛けてくれるマァムは、心優しい少女だ。自分が濡れるのも厭わず傘を大きく傾け、どこからかタオルを取り出してヒュンケルの濡れた身体を少しでも拭こうとしてくれる。 タオル越しでも感じ取れるその温もりが、心地よい。だが、ヒュンケルはやんわりとそれを止めた。 「いや、オレはいい。それより、ポップを頼む」 雨に打たれていたと言う意味では、ヒュンケルもポップも同じだ。それでもマントを着ていたポップの方が濡れていた時間が短いはずだが、ヒュンケルにしてみれば彼の方が心配だった。 それはマァムも同じなのか、ポップの方に振り返った途端に顔色が変わった。 「ちょっと、ポップ!? なんで、あなたまでそんなに濡れているのよ!? やだ、マントを着ていたくせになんでこんなに濡れているのよ!?」 「う、うっさいな、たいしたことないって。ちょっと、フードをかぶるのを忘れただけじゃねえか、騒ぐようなことじゃねーよ」 「なに言ってるのよ、普通忘れないでしょ、そんなこと! もう、ちょっとどころじゃないでしょ、こんなに濡れちゃって……風邪でも引いたらどうするのよ!?」 一気に騒がしくなったポップとマァムのやりとりを、ヒュンケルは微笑ましい思いで聞いていた。ヒュンケルには常に敬意を持って、優しくもどこか遠慮がちに接するマァムだが、ポップに対しては何の遠慮も見られない。 ごしごしとポップの頭をタオルで拭うマァムの力業に、魔法使いの少年が悲鳴を上げている。それを聞きながら、ヒュンケルはマァムの手から傘を引き受けて二人に向かって差し掛ける。 「早く城に戻った方がいいようだな」 「ええ、そうね。早く着替えて、暖かい物を飲んだ方がいいわ」 ヒュンケルとマァムの意見は一致していたが、残り一名が不機嫌なのに変わりはなかった。 「けっ、何を偉そうに! さっきまで雨に濡れてぼーっとしてた癖しやがってよ〜っ」 不満そうにぼやきつつも、それでも歩き出すポップの腕をマァムは強く抱き込む。 「な、なにすんだよッ、マァムっ!?」 うわずった声を上げるポップに対して、マァムはごく当たり前のように言う。 「なにって、くっつかないとまた雨に濡れちゃうじゃない。ヒュンケルも、もっとこっちによりそって」 大きめの傘とは言え三人で一緒に入るのにはさすがに無理があるが、ヒュンケルは異議を唱えなかった。ただ、心持ちポップやマァムに向かって傘を大きく傾けるようにして、二人に合わせてゆっくりを歩き出す。 はみ出したヒュンケルの肩は、当然のように雨に濡れる。だが、なぜだろうか。 END
《後書き》 ちょぴっとシリアスめな、ヒュンケルと雨の話です。 ま、めったにないことですが(笑) |