『揺らめく青』
  
 

「それにしても……不思議ですね。どうして、ポップさんは海が怖いのでしょうか?」

 心の底からの当惑や疑問を込めて、メルルが独り言のように呟く。
 実際、彼女にはどうしても納得できなかった。彼が海などを怖がるだなんて。

 メルルの知っている限り、ポップほど勇敢な少年はいない。
 恐れを知らない少年――と言うわけではない。 
 むしろ、逆と言うべきだ。こんな風に言うのは失礼かも知れないが、ポップはどちらかと言えば臆病な方なのではないかとメルルは思っている。

 ポップはとても頭がよくて感受性も強く、想像力が豊かな少年だ。それだけに現状の把握能力に長けているし、この先がどんなに危険かを察知することも出来る。だからこそ危険を避けたいと思う気持ちが生まれるのも、当然の発想だろう。

 しかし、それでいてポップは自分の中の恐怖に負けることはない。
 どんなに怯え、震えを感じながらでも必ず立ち上がる力を持った少年だ。自分の心の弱さに打ち勝つ力……それを勇気と呼ぶのだとしたら、ポップ以上に勇敢な者などいないとメルルは思っている。

 彼がアバンの使徒達の中で勇気を司る者だと知った時、ポップ本人や仲間達は驚いていたがメルルだけは少しも驚きはしなかった。
 それだけに、メルルにはポップが海を極端に怖がるのが解せなかった。
 しかし、マァムはさして疑問も感じていないようにあっさりと言う。

「大戦中に溺れたからでしょ、ポップもそう言っていたし。無理もないわ、溺れた後は特に水は怖くなると思うわ。私だって、今はあまり泳ぎたい気分じゃないもの」

 マァムはいたって正直で、真っ直ぐな性格だ。
 よく言えば素直、悪く言うのなら、他人の言葉を深く考えたりはしない性格だ。ポップの言った言葉をそのまま素直に受け止め、その言葉の裏を勘ぐるなんて浅ましい真似を思いもつかない、天使のような少女だ。

 その眩しいまでの純真さを羨ましいと思いながらも、メルルはそうではない。不安や疑問をそのまま放置できずに、くよくよと気にしてしまう性格だ。
 それがポップのことならば尚更、気になって仕方が無い。

 浜辺のビーチパラソルの中で休みながら、メルルはポップの姿を自然に目で追ってしまう。

 仲間達にからかわれながら、海辺でダイと一緒に騒いでいるポップは遠目からでも一際目立つ。勇者を差し置いて、彼を中心に盛り上がっている一行を眺めながらメルルの疑問は強まるばかりだ。

(ポップさんは……海が嫌いな様には見えないのだけれど)

 メルルはいつも、ポップの姿を目で追っている。
 だからこそ、分かるのだ。この島に来る時、みんなで船に乗ってきた時にはポップは平気で甲板に出ていた。それも、よく船縁にもたれかかっていたし、心からくつろいでいる様子だった。
 あれが海を恐れている人間の行動とは、とても思えない。

 溺れた恐怖の残っている人間は、普通、水辺に寄るのも嫌がるものだ。海恐怖症の人間ならばいつ落ちるか分からない船縁など、恐怖の対象にしかなるまい。なのに、ポップはむしろ海を眺めるのを楽しんでいる様にさえ見えた。旅行中もダイと一緒に甲板ではしゃいでいる姿を、メルルは何度となく目撃している。

 あまりにもはしゃいでいるから、勢い余って海に落ちるのでは無いかとメルルは内心ハラハラしていたぐらいだ。しかし、ポップは水への落下などまるっきり気にもとめていないように見えた。

「だ〜か〜らっ、おれは泳げないわけじゃねえっつーの、ただ、波があって、足が届かない所で泳ぐのがやなだけだっつーの!」

 憤慨した口調で、ポップが一際騒いでいる声が聞こえる。
 それを聞いて、メルルはふと思い出す。

(そう言えば、陛下が前におっしゃっていたわ)

 以前、ポップがテランの湖を調査していたとテラン王から聞いたことがある。ダイがまだ行方不明だった頃の話だから、彼の手がかりを求めていたようだった、と。

 だが、考えて見れば竜の騎士の神殿は湖の底にある。
 いくら湖が海に比べれば穏やかだとは言え、全く波が立たないわけではない。海が怖い人間が単身で湖を調査できるものなのだろうかと思った瞬間、メルルは目の前がすうっと暗くなるのを感じた――。





 ――そこは、美しい湖の畔だった。
 人が誰もいない上に、しんと静まりかえっている中に水の音だけがやけに大きく聞こえる場所。

 メルルには、一目で気がついた。森の奥にある静かな湖は、紛れもなくテランの湖だった。
 テランの民ならば、湖は神聖な場所と認識するだけに昼間でもあまり近寄ろうとはしない。

 それが夕闇が迫ってくる時間帯ならば尚更で、周囲は静まりかえっていた。
 だが、その人影は恐れなど微塵も感じられない足取りで、湖へと足を踏み入れた。日が落ちかけているこんな時間では、泳ぐのには不向きだろうにその足は全く緩まない。

 思い詰めたような表情で湖を見つめているポップに、躊躇いはなかった。荷物を水辺に置き、上着を脱いだだけの格好で水の中へ入っていく。

(危ないですよ、無茶はやめてください、ポップさん!)

 思わず、メルルは止めずにはいられなかった。だが、そのメルルの声はポップには届かない。
 なぜなら、ここは『過去』なのだから。

 占い師の中には、未来を視る力だけでなく過去を視る力を持つ者も存在する。予知の力に優れたメルルは余り過去見は得意な方では無いのだが、それでも今視ているこの風景が現在や未来ではなく過去の風景だと分かる。

 大戦の時、ポップの心に寄り添って彼が見ていた風景をそのまま視ていたように、今、メルルはポップの過去を視ていた。

 それは、ほんの少しだけ前の過去……まだダイが行方不明だった頃のようだ。大戦時と同じ旅人の服を着ているポップは、少しやつれて見える。ずいぶんと疲れているように見えたが、それでもポップの目には強い決意の光が浮かんでいた。

 ポップは夜のテランの湖に入り、竜の神殿を目指していた。
 だが、竜の神殿は湖の底に存在する。
 潜ってその場所を探すだけでも、一苦労だ。以前、ダイ達がテランに訪れた時は、肺活量に優れたダイは湖に飛び込んですぐに竜の神殿に辿り着いたようだった。

 だが、ポップにはそれ程の肺活量はないらしい。
 そのため、何度も湖に潜ってはまずは神殿の場所を探るという行為を繰り替えす。それは見ているだけでも胸が苦しくなるぐらい、大変そうな作業だった。

 過去の世界なだけに、ただの傍観者にすぎないメルルには気温などは分からない。
 しかし、色づいた木の葉から見て、季節は秋のように見える。泳ぐのには向かない季節なのに、それでもポップは必死になって何度も繰り返しては湖に潜り、神殿を探している。

 いくら夕日に照らされているとは言え、どんどん暗くなっていく湖は次第に恐ろしさを増していく。テラン出身のメルルに湖への禁忌の思いがあるのを差し引いて考えても、夜の湖を恐れる者は少なくはないだろう。

 だが、ポップは何度となく湖を潜る。
 その勇気と泳ぎの達者さに、メルルは感心せずにはいられない。
 洋服を着たままで泳ぐのは、実は相当に難しいものだ。水を吸った布は身体の動きを驚く程に阻害し、水着で泳ぐよりもずっと泳ぎを困難にする。

 しかし、見たところポップは服のままでもそれ程不自由そうには見えなかった。ある程度訓練を受けた人間なら、着衣のままでも泳ぐことが出来るというから、おそらくはポップもアバンからそれを習ったことがあるのだろう。

 体力面ではそれこそ人間離れしたタフさを誇る勇者一行の中にいるから目立たないが、ポップもアバンから武術の教えを受けた一人だ。普通の人間よりもずっと身体を動かす技術に長けているし、泳ぎも得意としているようだ。
 だが、それを考えると尚更分からないと思う。

 泳ぎも人並み以上に達者で、夕闇の迫る深い湖に平気で潜ることの出来る人間が、なぜ、海だけを怖がるのか。

 もっと、深くポップを知りたい――。
 そう思ったメルルの無意識の心が、再び、別の過去を呼び寄せる。あっと思った時には、メルルは再びポップの過去に心を寄り添わせていた――。





 いくら手を伸ばしても、無駄だった。
 勇者はあっと言う間に、遠ざかってしまった。ついさっきまでは、この手の届くところに居たというのに。

 追いかけたい――そう思う気持ちを裏切って、身体はひどく重かった。思うように身体が動かず、どんどん落下していく。しかし、その落下は急激な物ではない。

 不自然にゆったりとした、だが決して逃れられないその感覚は、水の中で感じる浮遊感に奇妙なぐらいに似ていた。しかし、普通ならば浮くはずの身体は、まるで底なしの沼にでも沈められているように下へと沈んでいく。

 急上昇していく勇者との距離が絶望的に開いていくのに、焦れば焦るほど身体の自由は利かず、為す術もなく落ちていく。
 ならば、せめて最後まで勇者から目を離すまいと思ったのは、無意識の願いだった。

 しかし、その願いすら叶わない。
 太陽の中に吸い込まれるように消えていく勇者の姿は、逆光になってしまって見定めることすらできない。その上、目に溢れる熱い水が、周囲の景色をぼやかせてしまう。

 揺らめく青い色だけが、視界に広がっていく。
 幻想的とも言える鮮やかなその色合いとは裏腹に、感じるのはとてつもない絶望感だった。

 胸を潰さんばかりの圧倒的な絶望感の中、揺らめく青だけがたゆたう。まるで、波のように繰り返し、揺らめき続ける青だけが。
 そして、眩い閃光と衝撃が残り少ない意識すらも消し飛ばした――。





「……ル? メルル、どうしたの、しっかりして!!」

 繰り返される呼びかけと、肩を揺さぶられる感覚がメルルを現実へと引き戻した。

「……ぁ……」

 やっと、メルルは『自分』を自覚する。
 他人の過去や未来を視る時には時々あることだが、あまりにも鮮明に蘇ってくる過去の記憶がまるで自分の物のように思えて、引き込まれてしまう時がある。

 今のメルルもそうだった。
 傍観者としてポップを見つめていた湖での過去見と違って、今の過去見はポップの意識に完全に同調し、重なっていた。あまりにも強烈な絶望感に打ちのめされ、自分を取り戻してもすぐには立ち直れない。声もだせずに震えているメルルを見て、レオナが慌てて回復魔法をかけてくれる。

「メルル、メルル、聞こえている?」

 レオナのほっそりとした手から放たれる回復魔法の光は、彼女の魂の色そのままに眩いまでの純白だった。どんな穢れすらも払いのけるかのような光が、メルルを包む。

 弱っていた身体に芯を通してくれるかのようなその光に、メルルの気分は幾分かは楽になった。だが、それでもまだ完全に良くなったとは言えないようだ。

「大丈夫、メルル? 顔色が真っ白よ、少し横になった方がいいんじゃない?」

 ひどく心配そうにそう呼びかけながら、マァムはメルルの返事も待たずにいとも軽々と彼女を抱き上げる。いわゆるお姫様抱っこと呼ばれる姿勢で抱き上げて、マァムはメルルをさっきまでレオナが使っていたデッキチェアへと運んでくれた。

 さすがは王女の私物と言うべきか、ビーチ用の簡易的な寝椅子なのに驚く程寝心地が良くて楽だった。一応は王女とは言え生まれつきの王女ではなく、元来はただの村娘だったメルルにとっては萎縮してしまうぐらい、上等な品だった。

「いえ、もう、平気です……迷惑をかけてしまって、すみません……」

 恐縮するメルルにマァムは気にしないでと笑いかけるが、レオナは憤慨を装って声を張り上げる。

「もうっ、何を水くさいことを言っているのよ!? そんな他人行儀なことをこれ以上言うのなら、今後、あなたのことをメルローズ姫って呼んじゃうわよ!」

 脅しになっているとも思えないその言葉に、ぷっと吹き出したのはマァムの方だった。その笑みに釣られるように、メルルもまた弱々しいながらも微笑を浮かべる。

「それは……困りますわ、姫様。友達を……姫と呼びたいのは、私の方なんですもの……」

「あたしはレオナって呼んでもらってもいんだけど。でもまあ、譲歩してあげるわ。とにかく、今は何か冷たい物を飲んだ方がいいわね。
 少し、待っていて!!」

 言うが早いか身を翻して駆けだした一国の王女を、メルルは止めなかった。正直、レオナにそこまでして貰うなんて申し訳ないとは思ったものの、それを口にすることは彼女の思いやりや心配を拒否するに等しい。

 だからこそ、メルルは呼び止める言葉を押さえ込んで、レオナが別のビーチパラソルにいるエイミやマリンのところに行くのを見送った。少し大きめのそのパラソルは、仲間達が水分補給や軽食を食べる時のために用意していたものだ。

「メルル、本当に大丈夫なの?」

 不安そうに声をかけながら、マァムが優しくメルルの顔や首筋を濡れたタオルで拭ってくれる。夏の日差しを思わせる常夏の島にいるのに、メルルはいつの間にかびっしょりと冷や汗をかいていた。

「え……ええ、こんなの、すぐに治りますわ」

 そう答えたのは、紛れもなく本心だった。実際、強い占いの直後に自失してしまうことは今までに何度かあったが、いくら対象者の心に沿って疑似体験したとは言え、それは精神的なショックにすぎない。

 肉体的には何の問題もないので少し休めば嘘のように回復するのだが、マァムはより一層心配そうな表情を見せる。しかし、すぐにその表情がパッと明るく閃いた。

「あ、そうだ! 少し待っていてね、メルル」

 そう言って、マァムは濡れたタオルをメルルの額の上に乗せ、駆けだしていく。海の中にいるみんなに向かっていく彼女の、躍動感に溢れたはしりを見つめながらメルルはゆっくりと真実を噛みしめていた。

(そう、だったのね……ようやく分かったわ)

 ポップが嫌っているのは、足の届かない深い水などではない。波が怖いというのも、勘違いにすぎない。
 いや……勘違いと言うより、一番怖い物から目を背けようとするあまり別の物を怖がっているだけ、と言った方がいいのかもしれない。

(ポップさんが恐れていたのは、あの光景の再現だったのね……)

 軽く息をつきながら、メルルは先程の絶望感を思い出して身震いする。これ程の絶望を味わったのは、初めてだった。ポップが大魔王バーンとの戦いの中で絶望した時に心を沿わせた時でさえ、ここまでではなかった。
 紛れもなく、あの時以上の絶望感が心を押しつぶした。

(やっぱり……なんて強い人――)

 畏敬の念さえこめて、メルルは深く息をつく。
 もし、これがメルルを直接襲った絶望だったのならば、とても立ち直れたとは思えない。絶望に心を覆い尽くされ、立ち直れないままだったかもしれない。

 魂を半分むしり取られたような、圧倒的なあの喪失感……いつの間にか涙のにじんでいる目元を拭う前に、メルルはそっと青空を見上げた。見える青空は、涙のせいで揺らいで見える。
 まるで、海の中から空を見上げているかのように――。

 太陽の輝きと揺らめく青を見ただけでじわりと涙がこみ上げてくるのを感じて、メルルはタオルを上に載せて目を隠した。さっきの過去見の記憶のせいか、胸の痛みや息苦しさも感じている。

 溺れたような苦しさを味わいながら、メルルはポップの恐怖の根源を思い知っていた。
 ポップが怖いのは、海ではない。彼が恐れているのは、勇者を……ダイを失った瞬間の再現だ。

 思い出せば、いくらでも思い当たることはある。
 昨夜、ポップは日が暮れてからみんなのところに戻ってきた。最初は泳ぎに誘われない時間を選んできたと思ったが、実際にはそうではないのだろう。ポップが真に恐れているのは、太陽と揺らめく青の組み合わせなのだから。

 夕闇や夜の湖を恐れなかったのも、同じ理屈だ。
 そして、大量の水の中――例えば海のような場所では、ポップが厭う全ての条件が揃う。

 水中の中で感じる浮遊感や自由に身体を動かせないもどかしさは、あの時、魔法力がほとんど切れかかったまま空中にいた感覚によく似ているはずだ。

 その状況で上を見上げた時に、目に映る揺らめく青とその上に輝く太陽……それこそが、ポップの絶望を呼び覚ますきっかけだ。その場の状況すら分からなくなるほどの絶望感――それは、水中にいるという自覚さえ奪うのだろう。だからこそ、無意識にあの時と同じように叫ぼうとする。

 あの時、そう、まさにダイがいなくなったあの時に、ポップが叫んだ悲痛な響きは今でもメルルの耳に残っている。

 だが、水中でそんなことをすれば溺れるのなんて当たり前だ。
 結果的に溺れてしまうポップは、海が嫌いなんだと無意識下の恐怖をすり替えている。なまじ、大戦中に幾度か海や水で命からがらの目に会ったのも、誤解を増長した原因だろう。

 彼が本当に恐れている痛みは、海が原因ではないのに。
 親友を失う痛み――それこそがポップを一番に苦しめ、絶望させる。だが、ポップはその痛みを抱え込んだままでダイを探し続けた。自分の中の恐怖を避けたり、向き合うことよりも、親友を探すことを優先したのだ。

 ポップのその強さを、メルルは心から称賛せずにはいられない。
 メルルには、分かっている。
 誰かを想う気持ちが強ければ強いほど、その人を失った時の衝撃は大きくなるし、悲しみも深まる。

 だが、時間は神が人間に与えた優しい万能薬だ。
 時の流れは、少しずつ悲しみや痛みを和らげていく。勇者の業績に感謝し、彼の消失を悲しみつつも、多くの人々は時間と共にダイの不在に慣れていったのを、メルルは知っている。

 しかし、ポップは違った。
 原因が分かっても、取り除けない痛みがある。と言うよりも、消したくはない痛みと言った方がいいかもしれない。

 ポップは、ダイの喪失をどうしても認めなかった。諦めもしなかった。心の痛みを癒やしもせずに大切に抱え込んだまま、絶対にダイを見つけてみせると、必死だった。文字通り世界中を飛び回り、時間をかけて準備を整え、命すら懸けてダイを連れ戻した。

 その気持ちは、メルルにも分かるような気がする。
 なぜなら、ある意味でメルルも同じだ。決して消せない、消したくない心の痛みを抱え込んでいる。

 メルルは知っている。
 ポップが誰かと……特に、マァムと一緒に過ごす姿を見る度に、自分の胸が切なく痛むその理由を。

 しかし、それがどんなに胸を切り裂くものであっても、それでもこの心の痛みは手放せない。
 この痛みは恋から生まれるものだと、メルルは嫌と言うほど強く自覚していた。

 恋は、綺麗事だけではない。
 相手を手に入れたいと思う欲や、恋する人と親しい人間に対する嫉妬など、負の感情も一緒に呼び起こされる。マァムを素晴らしい人だと思い、尊敬すら感じているのに、それでも嫉妬を感じてしまう自分の心の狭さに嫌気がさす時もある。

 だが、それでも人を想う気持ちは痛みだけを与える物ではない。

「メルル!」

 焦ったような声で名を呼ばれ、メルルは目を開けた。だが、タオルがまだあるせいで当然のように前は見えない。それを取り除こうと手を上げるよりも早く、パッと視界が開けた。

「大丈夫か、メルル?」

 心配そうに呼びかけてきたのは、ポップだった。自分を覗きこんでくるポップとの距離の近さに、メルルは鼓動が速まるのを感じた。

「え、ええ、大丈夫ですわ……!」

「そうかぁ? でも、まだ顔色が悪いぜ、あんま無理しない方がいいぞ。マァムなら別だけど、あんな脳味噌まで筋肉で出来ているような連中と一緒に行動するなんて女の子にはきつすぎるんだからさ」

 そんな風に気遣ってくれる気持ちが、身震いするほどに嬉しい。ポップが自分に向けてくれる優しさに、溺れてしまいそうになる。
 水着姿のままでも、彼はやはり魔法使いだ。魔法衣を着ていなくても、杖などなくとも、魔法も使わずに魔法をかけてくれる。

 回復魔法をかけようかと言ってくれるポップに対して、メルルは首を横に振った。

「ご心配ありがとうございます、でも本当にもう平気ですよ」

 身体を起こし、微笑みながらメルルは答えた。その様子に、ポップもようやく安心してくれたらしい。
 ホッとした様な表情を浮かべるポップに、ダイが追いついてきた。

「そっか、ならよかったね、メルル! じゃあ、おれ、何かおいしいお魚をとってきてあげるよ。お魚食べると、元気がでるし! 
 ポップも行こうよ!」

 そんなことを言いながら手を引っ張るダイに、ポップは大仰に文句をつける。
「冗談じゃねえよっ、おまえ、どうせ海に潜って直接魚を捕る気なんだろ!? そんなのに付き合ってられるか、せめて釣り竿を使えよっ」

「ええ〜? でも、釣り竿って使いにくいし、そのまま魚をとる方が早いじゃないか」

「そんなのはおまえだけだっ!!」 

「でも、ヒュンケルやラーハルトもヤリでとるって言ってたよ」

「あいつらは例外っ! あいつらを一般人のくくりに入れるんじゃねえっ。つーか、あいつら魔界の名工の槍でなにしくさってんだよ、ロン・ベルクにいいつけてやろうかな、ったく」

 などと、じゃれ合うように揉めながら海の方に向かうダイとポップの姿を、メルルは笑いを噛み殺しながら見つめる。
 あれほど海を嫌がっていたのに、結局のところダイと並んで海に向かうポップの後ろ姿を。

(もう、大丈夫ですよね、ポップさん……)

 心から、メルルはそう思う。
 まだ海が怖いという誤解は、根深くポップの中に染みついているかもしれない。衝撃が大きかった上に自覚がない分、その恐怖が薄らぐのには時間がかかるかもしれない。

 だが、それでも心配はないだろうとメルルは思う。
 海を怖がっていながら、ポップは自分の意思でこの南の島にやってきた。断ることも、誤魔化すことだってできたはずなのに、ポップは選んだのだ――ダイを一緒に海で過ごすことを。

 自分自身のことには極端に鈍いポップのことだから、彼はなぜ自分が海を恐れるのか気がつかないままかもしれない。
 しかし、特効薬はすでにある。それも、彼のすぐ側に。

「いいか、ダイ、ぜってーに手を離すんじゃねえぞっ、離したらメドローアだからなっ」

「ええっ、それじゃ、魚がとれないよ〜、それにせめてメラゾーマにしといてよ」

 波打ち際で騒いでいるダイとポップは、互いに手を繋ぎ合っていた。別れ別れになったあの日に一度は断ち切られたその手は、今は何の問題もなくしっかりと繋がれている。

 その光景を微笑みながら見ていると、レオナがジュースを手に戻ってきてくれた。

「メルル、顔色が明るくなったみたいね、よかった。でも、まだ無理はしないでね」

 そう言いながらジュースを手渡してくれた後、レオナはメルルが見ているのと同じ方向を見やって、眉間に皺を寄せる。

「……あの二人、まだじゃれあってたのね。全く、こんなことならあたしもポップ君みたいに、海が怖いとか言っておけばよかったわ……!」

 心底悔しそうにぼやくレオナの乙女心は、メルルとしてもよく分かる。
 だが、レオナは聡明な王女だ。その上、彼女はポップとは仲間同士であり、政治の場においての戦友でもある。

 もし、レオナに今のメルルの見た過去見を告げたのなら、彼女はメルルなどよりももっと深くポップの内心を理解し、それを癒やすための具体的な対策や対処をとれるだろう。
 彼女はそれだけの賢さと、実行力を備えているのだから。

 だが、メルルはそうと分かっていながらも、打ち明ける気はしなかった。
 ダイという特効薬が戻った以上、ポップの海に対するいわれのない恐怖は時間を置けば自然に消えていくだろう。ならば、別に打ち明けなくても問題はない。

 少しばかりレオナには悪い気はするが、ポップの抱えていた秘密をほんのわずかでも知っているのは自分だけであってほしいというわがままが、メルルの中にある。

(ごめんなさい、姫様。それに、マァムさんも) 

 心の中でこっそり謝りながら、メルルはジュースと共に小さな秘密をするりと飲み込んだ――。

            END 


《後書き》

 メルル視点から見た、ポップの海恐怖症話の暴露編ですv
 話としては『バカンスは命がけ♪』の続きの話ですが、実は裏道場の『南の楽園』とも同設定だったりします。

 実はかなり最初の頃からポップが海を極端に恐れるのは、ダイを失った時のショックに絡んでいると設定していたのですが、それを書くのが案外難しくって伸び伸びになっとりました(笑)

 それに、謎解き&解説役を誰に振ろうか決めかねていたのも、書くのが伸びた一因だったりします。
 本人は無意識に恐怖の対象をすり替えているから、なぜ海が怖いのか分かっていないですしね。

 一番最初はアバン先生がポップの恐怖の根源に気がつくストーリーを考えていたんですが、そもそも先生、海に一緒に来てませんですし(笑) そんなわけで、メルルの活躍編になりました。

 しかし、原作ではメルルは予知能力はあっても過去を見る能力があるとは思えないんですが……まあ、占い師って過去も当てるタイプが多いから、メルルにも出来ると言うことにしておきますです♪


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