『夏の思い出』
  
 

「……う……」

 ひどく苦しそうな呻きが、魔法使いの少年の口から漏れる。

「…………も……もう、だめ……死ぬ……」
 
 瀕死寸前のような呟きを、ヒュンケルは無表情のまま――いや、わずかに眉を顰めて聞いていた。視線をあげ、その言葉が真実かどうか見定めるようにポップの方を見やる。

 と、その時、ふらっとその身体が傾ぐ。
 机の上に突っ伏す形で俯せになったポップを見て、ヒュンケルは反射的に腰を上げそうになった。
 だが、それよりも早く、けたたましい声が部屋の中に響き渡った。

「もーだめだっ、つーかっ、もう我慢なんかできねえよっ!!
 何だって、こうも毎日、毎日あちいんだよっ!? ちくしょうっ、毎日毎日、嫌がらせのようにじっとりジワジワ、暑い日ばっかり続きやがってっ! あーっ、もう、死ぬッ、このままじゃ絶対に死ぬぞっ、おれっ」

(案外、元気な様だな)

 やけくそのようにわめき散らし始めたポップを見て、ヒュンケルはとりあえずは安心した。

 確かにバテ気味なのか今日のポップの動きは妙に緩慢だし、仕事の進みも極端に遅い。いつもならばあれこれおしゃべりをしつつも、手だけは別人のように素早く動いてペンを走らせるのだが、今日ばかりはペンの動きが鈍い。

 動いている時よりも止まっている時間の方が長いし、書き損じも多いのか時々書きかけの書類をくしゃくしゃに丸め、ゴミ箱の方へ投げつけている。

 その際、3回に1回はなぜかヒュンケルの方に飛んでくるのだが、手が滑っているのだろうと考え、彼は無言でそれを空中で受け止めてはゴミ箱へと放り投げていた。

 特に恩に着せるつもりもない無意識の行動だったが、ポップは礼を言うどころかなぜかその度に舌打ちしていたりしたが、ヒュンケル的には特に問題は感じない。

 ヒュンケルが問題にしているのは、ポップの健康状態の方だ。
 本当に具合が悪くなった場合、ポップはそれを訴えるどころか隠そうとする傾向がある。逆に言えば、声高に不満やら文句を言っている間は、まだまだ元気だと判断できる。

 機嫌こそは悪くとも顔色はさほど悪くはないし、なによりこれだけわめき散らす元気があるのだ。これなら、熱中症の心配だけは無いだろう。

 今日の仕事の進捗を知れば文官トップのアポロ辺りが真っ青になりそうな気もするが、そこまでは近衛兵であるヒュンケルの知ったことではない。

 ヒュンケルがレオナより直々に命じられたのは、ポップの『護衛』だ。命令は必ず実行するつもりでいるが、命令以上のことまで気を回すつもりはない。何やら物言いたげな視線を向け続けていたアポロ達には悪いが、ヒュンケルはポップにそこまで仕事を優先しろとは言わない。

 だから、彼は黙って机の上に用意してあった水筒から飲み物をコップに注ぎ、ポップへと差し出した。

「…………!」

 それを見たポップはわめくのをぴたりとやめ、胡散臭い物でも見る目つきでヒュンケルを見上げる。別にこれが初めてというわけではないのに、毎回毎回、警戒心マックスの視線を向けられるのはなぜなのだろうかと思いながらも、ヒュンケルは同じ台詞を口にした。

「そろそろ、水分を取る時間だ。飲め」

 そう言われた途端、ポップが嫌そうに顔をしかめるのも毎度のことだ。

「そんなの、いちいち言われなくったって分かってるよ! ったく、毎度うるせーな、母さんでもあるまいしお節介なんだよっ!! ガキじゃあるまいし、放って置いたって自分でちゃんと水分補給ぐらいできらぁ」

 不本意極まりないとばかりに文句を言いながら、それでもポップはしぶしぶコップを受け取ってちびちび飲み始める。これだけ暑いのだから、部屋の中でじっとしていても自然に汗はかくし、喉も渇くのが普通だ。

 コップ一杯程度の水など、夏場は一息に飲み干してしまうだろう。事実、ポップに続いて自分の分の水を、ヒュンケルはすぐさま空にした。

 なのに、ポップはたったそれだけの量の水分さえ持てあましているように見える。いやいや飲んでいるような有様には、全く説得力が無かった。

(そんなことを言いながら、この間も熱射病になりかけていたのは誰だ?)

 実際、ヒュンケルがパプニカ城の執務室にいるポップの『護衛』をやっているのも、まさにそのせいだ。

 熱中症対策として、塩と砂糖の入った特製の水入りの水筒が用意されているにも関わらず、ポップはしょっちゅう飲むのを忘れたり、サボったりする。そのせいで軽い脱水を起こして気分を悪くするなど、この夏には何度もあった。

 あまりにその回数が多いのに腹を立てたレオナがついに切れて、真夏日にはポップに見張りをつけると命令を下したのである。その見張りに駆り出されたヒュンケルに不満は無かったが、ポップは激しく抵抗した。

 人が近くにいると仕事に集中できないだの、仕事が遅れてもいいのかなどとわめいてまで反対していたのだが、パプニカ王女の方が明らかに上手だった。

『あら、護衛付きでの執務が嫌なら、真夏日には侍医に頼んで強制的に安静にしてもらってもいいのよ? その分は、後々に残業で補ってもらえばいいんだもの』

 と、笑顔で宣ったお言葉により、ポップはしぶしぶヒュンケルの護衛を受け入れざるを得なかった。
 それ以来、連日続く真夏日も手伝ってポップの機嫌は斜めに傾く一方だった。

「あー、ちくしょう、ほんっと毎日毎日暑いし、さいっていの夏だな、今年はっ! てめえはてめえで、一人だけ暑くも何ともありませんみたいな、涼しそうな顔しやがって!! はん、さすがに溶岩の海に飛び込んでも平気な不死騎士団長様は鍛え方が違うんですかね!?」

(いや、オレも暑いことは暑いが)

 反射的にそう思ったが、ヒュンケルがその意見を口にすることは無かった。
 暑い日が続いているのは事実だったし、そもそもヒュンケルが正直な感想を言えばポップはなぜか機嫌を悪くして、兄弟子に怒りの矛先を変えて怒鳴り散らしてくることは請け合いだ。

 実際に昨日、似たようなことを言われて冷静に事実を指摘し、ポップをカンカンに怒らせてしまったヒュンケルは、連続で同じ過ちを犯すほど考え無しではない。

 それに、わざわざ言うまでも無かった。
 怒りのエネルギーさえ長続きしないのか、ポップはコップを片手に握り占めたまま再び机の上にべったりと伏せて、やる気の全く感じられない声音でブツブツとぼやき始める。

「あー、あちい……暑すぎだろ、あー、やる気でねえ〜、もう仕事なんてしたくねえよ、ちくしょう〜」

 とりあえず怒りは収まったようだが、やはりやる気は戻らないらしい。今日、用意されているのはただの水では無くアイスティーで、香りも味もいい逸品だったのだが、ポップはあまり気にいらないのか、飲む速度がやたらと遅い。

 あるいは飲んでいる間は休憩できると思って、わざとのろのろ飲んでいるのかもしれないが。どちらにせよ最終的に弟弟子が規定の水分を摂取すればそれでいいかと、ヒュンケルは急かすことなく見守るにとどめる。
 が、つい、疑問が口を突いて出た。

「ここは、そんなに暑いか?」
 
 パプニカ王国は、温暖な気候の国だ。大陸の中では最南方に位置している国だが、飛び抜けて暑い国というわけではない。常夏という言う意味では、ダイの暮らしていたデルムリン島の方がよほど暑いだろう。

 そして、ポップが今いる部屋は、パプニカ城の一室だ。元々は大臣か宰相クラスの上級文官用の執務室は、防音や防御だけで無く、暑さや寒さへの対処も考え抜かれた上で作られている。

 熱い石壁に覆われた部屋は、外部の温度を遮断する。方角や角度まで計算された窓は直射日光を防ぎ、風通しをよくする工夫の施されたこの部屋は、ヒュンケルには十分涼しく感じられる。

 少なくとも、兵士達の大半が暮らす兵舎や、直射日光の当たる修練場と比べれば天国と地獄のようだが、ポップはそうは思っていないらしかった。 

「だっておれん家の方は、ここまで暑くなかったしよ〜」

 拗ねるような口調で言いながら、ポップは目を窓の外へと向ける。夏特有の入道雲が勢いよく伸びた空が、窓の外には広がっていた。
  
「おれの村は、冬は寒いけど夏の暑さはそうでもなかったんだよ。暑い時は、森の中に入れば結構涼しかったし」

 木々には、周囲の温度を調整する力がある。
 物言わぬ植物達は、夏場の強い日差しをその葉で遮り、ほんのわずかでも気温を下げてくれる。

 建物の影で休むよりも、木の下で休む方が涼しく感じられるのは、そのせいだ……そんな風にアバンに習ったことを思い出しながら、ヒュンケルは納得する。

 ポップの故郷ランカークス村は、山間に位置する小さな村だった。数度しか訪れたことはないので気温の変化は正直、ヒュンケルにはよく分からない。だが、ポップの両親や友達の住むあの村が、彼にとって居心地のよい帰り場所だとは承知していた。

 そこで、ポップはどんな夏を過ごしていたのだろう……ふと、そんな疑問も脳裏をかすめたが、ヒュンケルはそれを口にすればまたポップの機嫌を損ねるだろうかと思い、思いとどまる。
 だが、意外なことに、ポップは聞きもしない内からしゃべりだした。

「夏っていえば、いっつもジン達と一緒にセミとか、カブトムシとかを捕まえてさ。ラミーは虫なんてキモいって文句ばっかり言ってたのに、それでも一緒についてきてさ。
 あの頃は楽しかったよな」

 相変わらず窓の外に視線を向けながらそう語るポップの顔に、生気が戻ってきたように見えた。

 親しげに呼びかけた名前が、ポップの幼なじみだとヒュンケルは思い出す。確か、村長の息子と道具屋の娘だったか。前に会った時、はしゃいでいた彼らを思い出しながら、ヒュンケルはポップの話を黙ったまま聞いていた。

「でも、虫って捕まえる時は楽しいんだけど、後が困るんだよな。
 ちょうどいい虫かごが無かったから店にあった兜で飼おうと思ったら、親父が売り物に何をするんだってカンカンに怒りやがるし」

(それは……そうだろうな)

 そりゃあ虫がごっちゃりとつまっているような兜など、ヒュンケルでも嫌である。たとえ子供の悪戯だとしても、そんな武器屋になど二度と行くまいとさえ思うだろう。

 ポップの父であるジャンクを思い浮かべつつ、ヒュンケルは深く同情せずにはいられなかった。が、武器屋の息子であるはずのポップ本人の方は、そんなことなど全く気にしちゃいないようだ。

「ああ、そういやあ、いつかの夏はセミの抜け殻集めがブームだったんだよなー。誰が一番セミの抜け殻を多く集められるか競争しててさ。

 頑張ってせっかく一杯集めたのに、適当な兜にしまって置いたらどっかのハゲ親父がかぶって全部潰しちゃって、だいなしになっちまったっけ。しかも、また怒られたしよ〜。あの兜なら、絶対に売れ残ると思ってたのになぁ」
 
(……全く反省も成長もしていなかったようだな)

 性懲りのない屈託なさがポップらしいと思いつつ、それがポップが何歳の時の話なのかは、敢えて聞かないでおくことにする。年齢によっては、つい『その年で何を馬鹿なことをしていたんだ』と説教めいたことを言ってしまいそうだ。

 今更そんな話をしたところで手遅れもいいところだし、ポップの機嫌を損ねるだけの話だ、何の意味もない。

 それに、今のポップは遠いどこかを見ているような目をしていて、ヒュンケルを見てはいない。懐かしそうにポップが見ているのは、今は遠くなった子供時代の夏だ。

 もう、思い出にしか残っていない夏――。
 だが、それはなくなったわけではない。今も心の中に欠片として残り、時折きらめくように蘇るはずだ。

 現に今、その思い出は夏の暑さと仕事疲れでささくれたポップの心を、潤した。

 そんな風に、ポップが懐かしそうに窓の外を見つめていたのは、そんなに長い時間では無かった。しばらく経つとポップは思い出したように、手にしたコップを持ち直した。長く喋っていたせいで喉が渇いたのか、残りを一息で飲み干すと姿勢を正して書類の山に向き直る。

「さ〜て、じゃあ、そろそろ本腰を入れるとしますかね」

 そんな軽口とは裏腹に、書類に注がれるポップの視線は鋭さを取り戻していた。大魔王と前にして一歩も引かず、大胆な頭脳戦を仕掛けた大魔道士は、書類の上での戦いでも同じ強さと眼力を発揮できる。

 先程までのノロノロとした書きっぷりが嘘のように、作業に集中し始めたポップの姿を見てヒュンケルは邪魔にならないように隅のソファへ移動する。伏せたまま置きっ放しにしている本は、暇つぶしのために用意したヒュンケルの私物だ。

 その本を手にしようとしてから、ヒュンケルは思い直し、本を手にする前にソファに腰を下ろした。

 ポップが時々昼寝に、そして、執務室に遊びに来たダイがよく座っているこのソファからは、机に座っているポップの姿がよく見える。

 真剣な顔で書類に注目しているポップは、すでにヒュンケルなど眼中にないのだろう。本越しに様子を見る振りをするまでもなく、堂々と見ていても気づいた様子もない。

 いつになく真剣な弟弟子の姿を見やりながら、ヒュンケルは思う。
 ポップにとっては、不本意な夏かもしれない。

 しかし、ヒュンケルにとっては、この時間は決して悪い物ではなかった。確かに意地っ張りの弟弟子の面倒を見るのは手を焼かされるが、嫌だとは思わない。

 いつか……そう、何年か経って思い起こせば、この記憶はきっと懐かしい思い出として蘇ることだろう。ポップがさっき、故郷を思い返して懐かしんだように、ヒュンケルもこの夏を懐かしむ日が来るかも知れない。

 願わくば、ポップにとってもこの夏の思い出がそうあって欲しい――一度はそう思いはしたものの、ヒュンケルは苦笑する。

(……それはいくら何でも、高望みという物か)

 軽く首を振り、ヒュンケルは本を手にとって読書に戻る。部屋の中に響くのは、ポップが立てる紙の上にペンを走らせる音と、ヒュンケルの立てる本のページをめくる音だけだった。

 それに覆い被せるように、窓の外から蝉の声が鳴り響く。 
 暑く、だが、静かで穏やかな夏の午後だった――。                                  END


《後書き》

 ポップとヒュンケルの夏のお話です。って、ただ、部屋で仕事をしているだけなんですけど。しかも、ヒュンケルのお仕事、なんだかすっごい楽な仕事なんですけど(笑)

 ちょうどこの話を書いている時に、東北にお住まいの方から拍手コメントで『東北でも夏は暑い』というお言葉を頂き、愕然としました。北の地は、冬は寒くとも夏は涼しいと信じていたのに……っ。なんだか、勝手に騙されたような気分でした(笑)

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