『生きてこそ』 |
「ポップ……オレ、やっぱり魔界に行くよ」 その声は、低く、落ち着き払ったものだった。 いつの間にかすっかりと大人の声が馴染んだダイは、もう小さな勇者と呼ばれる年齢ではなくなっていた。同時に、ポップもまた成長している。 実際、ダイは知っていた。 細身の身体つきや表情豊かな顔のせいで童顔に見られがちで、外見上はあの頃と大差がないように思われているかもしれない。だが、今のポップは妻と子がいる上に政府の要職に就いている身だ。あの頃のように、勇者のために全てを投げ出して旅立てはしまい。 それに、万が一ポップが全てを投げ出して自分についてくると言ったところで、ダイは決して喜びはしない。 なぜなら……ポップの肉体は、魔界に耐え切れはしない。 それが分かっていてポップを連れていくなど、ダイには出来ない相談だった。 確かに、地上に戻ってこられた時は、嬉しかった。ポップやレオナと共に、パプニカで暮らした日々はダイにとっては未だに珠玉だ。 だが、一生そうやって生きるのは、なにかが違う気がした。 戦火と貧困に喘ぐ多くの魔界の民達に、助け手を差し伸べたい――時間が経てば経つほどそう思ってしまったのは、ダイの気質のせいか、それとも竜の騎士だからこそか。 結局、ダイは自らの意思で再び魔界へと向かった。 ならば、その力の及ぶ限り魔界の民達を救いたいと願う……それが、成長した勇者の出した結論だった。その決意は、今度魔界に行ったのなら二度と戻って来られない公算が高いと知っても、揺らがなかった。 何しろ、父親譲りの頑固者だ。 ダイが魔界に向かった時、ポップやレオナを初めとした仲間達は火がついたように騒ぎ立て、口を揃えて猛反対した。それを振り切って、ダイは魔界へと向かった。 しかし、これから先はそれも出来まい。 昔話で、獣と鳥の両方の特徴を備えたコウモリが、両者の間を飛び回りながら自分は君達の仲間だと言い、最後には双方から信頼を失墜してしまったようになるのは、時間の問題となってきた。 こうなっては、是非もない。 葛藤の末、ダイが出した結論は魔界だった。 彼等の力を借りて、ダイはすでに魔界統一という目標を決めて戦い始めている。ここで魔界に行くのをやめると言うことは、その仲間達を見捨てるに等しい。いや……もっとはっきりと言えば、その仲間達を見殺しにすると言うことだ。 魔界の戦いは、過酷の一言に尽きる。 むしろ、これ幸いと全力で攻めてくるだろう。 ダイを止めることなど出来ないと、ポップには分かっているはずだ。 「……悪いけど、みんなにはポップから伝えてくれないかな? もう、そんなに時間がないから」 黙ったままのポップに、ダイは勝手な頼み事を告げる。 ダイとて瞬間移動呪文の使い手だ、その気になれば数分で国から国へと移動できる。もし、心底仲間達に会いたいと望むのなら、出来ない相談ではない。頑張れば数名と話すことはできるだろう。 だが、仲間全員に最後の挨拶するには、あまりにも時間が足りない。例えポップに協力してもらったとしても、今や世界各国に散らばって生活している仲間達を集めるには無理がある。おまけに、ダイが会うこと自体が彼等にとって不利になりかねない。 魔界の王と通じていると言う噂が立つだけで、困った立場に追い込まれるのはもはやレオナやアバンだけではない。 それでも、どうしても最後にもう一度、仲間に会っておきたいと願ったのは未練というものだろうか。 そして、ダイは最後の相手としてポップを選んだ。 「…………」 ポップは、まだ何も言わない。目も、閉じたままだ。 (……許して欲しい、なんてのは甘えかな) 快く見送ってくれなんて、贅沢を言う気はなかった。だが、せめて最後に何か、一言でもポップの言葉を聞いておきかったとダイは切実に思う。 たとえそれが罵り言葉であったとしても、ダイは忘れがたく、胸温まる思い出としてその言葉を深く胸に刻み込んだだろう。 「……話はそれだけ、だよ。じゃあ、ポップ、オレ……もう行かなきゃいけないから」 気まずい沈黙を、ダイはやっとの思いで断ち切った。 「待てよ。後30分……いや、20分でいいから時間はあるか?」 ひどくぶっきらぼうな、固い声。 「あ、ああ、それぐらいなら大丈夫だよ」 そうダイが答えた途端、ポップはようやく目を開けた。 「よぉーし! なら、ダイ、今日はとびっきりのご馳走を食わせてやるよ!」 ニヤッと悪戯っぽく笑ったポップの言葉に、ダイが戸惑わなかったと言えば嘘になる。だが、ダイにとってポップのその口調や笑顔はあまりにも見慣れすぎていた。だからこそ、つい少年期のままに応じてしまった。 「え、ホント?」 「おー、マジだって。じゃあ、行こうぜ」 ごく当たり前のように窓へと向かうポップの後を、ダイはごく自然に追いかける。特に声をかけなくとも、互いに手を伸ばすタイミングや、その手を握り合った途端、瞬間移動を発動させるタイミングまでぴたりと一致するのは、長年の相棒ならではの技だ。 ポップの手を取ると同時に浮遊感がダイを包んだが、ダイはそれを全く恐れなかった。むしろ、どんなところに行くのだろうと言うわくわくした気持ちは強い。
どこにも隙間などないように見えたのだが、石と岩のちょうど境目を捕らえたナイフは思ったよりも簡単に、すぽっと中に入り込んだ。と、ポップはそのナイフを軽く捻る。 梃子の原理で動かされたナイフは、面白いように簡単にその石を岩から引き剥がした。 「わ?」 思わず、ダイは頓狂な声を上げてしまう。 「へへっ、さすがのおまえも一枚貝は知らなかったみたいだな。他にも、こんなのもあるんだぜ」 そう言いながら、ポップは今度はごく小さな三角錐の形の小石を岩から引き剥がす。それも、内部には生き物が不気味に蠢いていた。 「海辺の岩には、こんな風に貝がしがみついていることが結構あるんだ。見た目、岩っぽいから見逃しそうになるけど、慣れるとちゃんと見分けられるし、非常食としちゃ便利なんだぜ」 と、ポップは得意げに言うが、ダイにはとてもそうは思えなかった。 砂浜で拾った貝は、大抵が砂を含んでいてジャリジャリするからだ。 が、ポップは岩から引き剥がした貝に、ナイフを差し込んだ。 しかし、ポップは全く頓着する様子もなく、引き剥がしたばかりの貝殻の中に再び貝を戻し、ナイフでそれを一口大のサイズに切る。そして、驚いたことにポップは切ったばかりでまだ動いてさえいる貝を、ぽいっと食べてしまった。 「ポ、ポップ!? それ、生のままだろ!?」 「ああ、へーき、へーき。肉と違って、貝は生でも食えるんだよ。貝の身自体が海の水で濡れているから、味付けしなくてもいいしな。ほれ、おまえも食ってみな」 ポップはごく当たり前の口調で言いながら、ダイに貝殻を丸ごと渡してくる。それを受け取って、ダイは一瞬、躊躇った。 やはり、まだかすかに動いているその物体は、ダイにとっては食べ物には見えない。というか、積極的に食べたいと思えるようなものではなかった。 くにゃり――とした、何とも言い難い初めての食感に加え、癖の強い独特の風味が舌の上に広がる。生まれて初めて味わうその味わいは、お世辞にもすぐに美味しいと思えるものではなかった。 「……!?」 と、そんなダイを見て、ポップが笑う。 「ぷははっ、なんつー面してんだよ? ま、初めてならそんなもんかもしれないけど、食い慣れるとこれもなかなかオツなもんなんだぜ」 「そ、そうかなぁ。あんま、そうは思えないけど……」 くにくにとする貝を食べながら、ダイは首を捻らざるをえない。 「まあ、確かに火を通した方が食いやすくはなるけどな。でもよ、この手の貝はそのままでもすぐ食える」 そう言いながらポップは、さっき採った三角錐の小さな貝を持ち直し、ナイフをツッコんで器用に身だけを引っ張り出す。歪な紐のような、何とも奇妙な形の身をダイの口の中へとぽいっと放り込んだ。 「ほら、これで終いだ。じゃあ、元気でな、ダイ」 そう言って、ポップは気楽に笑うが――ダイには、とても笑えなかった。 とは言え、ダイもこれが日常ならばそう不満も持たなかっただろう。だが、最後の別れを前提として振る舞ってくれた料理がこれでは、どうしたって物足りなさが残る。 できるなら、ポップと一緒にご馳走を……そこまでいかなくてもいいから、彼の手料理を食べたいと思っていたのだが、最後の別れの食事がこれでは、あまりにも拍子抜けするというものだ。 なまじ、ポップが最初にご馳走してくれると言っていただけに、がっかり感もひとしおだった。 (でも、文句を言うのも悪いしなぁ……) そう思って、モゴモゴと貝を噛み続けるダイだったが、ダイのそんな不満はポップにはお見通しだったらしい。 「なんだよ、不満そうだな? なら、今度はアバン先生仕込みの、とびっきりの料理を食わせてやるよ。光栄に思えよ、ダイ。この料理はさ、今まで誰にも作ったことがないんだからな」 その言葉に、ダイは少しばかり驚く。 ポップの料理を味わった経験が一番多いのは、何と言っても彼の家族……妻と子だ。 「それ、ホント、ポップ?」 「ああ、ホントだよ。 その言葉で、膨れるだけ膨れた期待は、時間が経った風船のようにしぼんでしまう。思わず、ダイは愚痴らずにはいられなかった。 「そんなぁ〜、それじゃ食べられないじゃないか。もっと早く出来るやつとか、ないの?」 ついそう聞いてしまったのは、アバンやポップがちょいちょい披露してくれた料理の腕前を知っているからこそ、だ。ダイから見ればそれこそ魔法のように、アバンもポップも料理が得意だった。 何の道具もなくても、大丈夫だ。旅先でも、その辺で手に入れた木の実や肉さえあれば、火炎系呪文をひょいとつかってとびきり美味しい料理にしてくれたことなど、何度もあった。 これが最後となるのなら、尚更、ポップの手のかかった料理の味を覚えておきたいと思ったからこそ口に出た甘えだが、ポップは大袈裟に首を横に振った。 「へっ、味に妥協した料理なんか作ったら、アバン先生に顔向けできねえよ。なにせ、このレシピは先生が口伝で教えてくれた、とっておきの料理なんだから」 「えぇ〜っ、そんなぁ〜」 つい、漏らしてしまった文句が子供っぽくなるのは、少年期の思い出のせいだろうか。 サボり屋のポップは、手抜きをする常習犯だった。一緒にアバン先生から修行を受けた時には、なんだかんだと口実を設けて徹底的にサボりまくっていた彼がこんなことを言っても、説得力など微塵もありはしない。 「へへっ、悔しいか? 悔しいだろうな〜?」 そう言った後、ポップはふっと真顔になる。今までのおふざけっぷりなど微塵も感じられない、思慮深い大人の魔法使いへと成長したポップが、そこにはいた。 「なら、今度会った時にな」 それが、ダイの聞いた最後のポップの言葉であり、最後に見た顔だった――。
岩そのものの外部とは裏腹の、柔らかそうな貝の中身が露わになる。沈んだ紫色じみた不気味な色合いだが、それでもその貝は確かに生きているとばかりにうねうねと蠢いていた。 地上の貝と比べてでさえあまりにグロテスクな見た目に最初は驚いたが、魔界の貝も見た目とは裏腹に無害だ。それどころか、軽く火を通せば美味と呼べる芳醇な味わいを持っている。 しかし、ダイはそうと知っていても火を熾そうとは思わなかった。 灯りの乏しい夜の魔界では、火はあまりにも目立つ。ごく小さな初級火炎呪文の火でさえ、敵を呼び寄せる篝火になりかねないのだ。それを思えば、とても火を使う気になどならなかった。 慣れた手付きでダイは貝を殻から引き剥がし、口に運ぶ。 貝は、ダイにとって貴重な非常食だ。 果物を初めにした植物は言うに及ばず、野生の獣や魚も見つけた者が片っ端から狩ろうとするせいで、手に入れるのは一苦労だった。 しかし、そんな中で貝は盲点にあるようだ。 すでに馴染んだ貝の味を噛みしめながら、ダイが思い出すのは忘れることなどできっこない親友のことだった。 最後の別れから、すでに数年が経っていた。 仮にも魔界の勢力争いのトップとして名乗りを上げたダイが、自らこんな危険な任務をこなさなければならないのだから、現在のダイ達の活動状況厳しさはお察しと言うところだ。 魔界を平定し、再び地上との交流をつなぐなどと夢物語もいいところだ。先行きは不鮮明なままだし、希望らしい希望など、ありはしない。 『よぉーし! なら、ダイ、今日はとびっきりのご馳走を食わせてやるよ!』 今ならば、分かる。 誰からも食べ物と認識されないような食材ならば、魔界であっても手に入れやすくなるだろうと、ポップは思ったに違いない。そして、それは間違ってはいなかった。事実、ダイは生の貝を食べることでずいぶんと助かっているのだから。 (ポップ……) 少しでもダイの生存確率を上げるため、ポップは自分に出来るだけのことをしてくれた。最後の最後までダイのために出来ることを考え、それを実行してくれた。 そして、ポップがくれたのは単なる生存のための知恵だけではない。 生きて帰ってこい、と。 そう口に出して約束するように迫られれば、ダイはきっと拒めなかった。どんなに可能性が低いと思っていても、淡い期待を持たせ続けるのがどんなに罪か分かっていたとしても、ダイはおそらく約束してしまったに違いない。 そして、その約束をダイはきっと、後悔する。 いや、それだけで済めばまだいい。 『へへっ、悔しいか? 悔しいだろうな〜? なら、今度会った時にな』 冗談めかしてダイをからかい、ごく当たり前のように『また今度』の機会があると示唆してくれた――それを思い出しながら、ダイは固い貝の身を噛みしめる。 決して美味しいとは言えない食べ物だが、だが、食べ物は全て生きる糧だ。食せば血肉へと変わり、確実な活力となってくれる。食べることと生きることは、同一だ。 (生き延びる……オレは、絶対に生き延びて見せるよ、ポップ) それがどんなに険しく、どんなに困難なことでもいい。 どんなに希望が見えないような状況でも、それこそ天と地ほどもかけ離れた場所にいるとしても、それでも生きていれば可能性はゼロではない。 《後書き》 うちのサイトにしては珍しく、ダイとポップが魔界と地上で生き別れになる設定でのお話です。多分、五年後ならぬ十年後魔界編。 死別ではないのですが、ダイとポップが二度と会えない可能性が高そうなお話だったりします。筆者的には、ダイとポップが離ればなれになる話はバッドエンドなんです。原作の最終回には、未だに納得できてませんし! ここでのポップの妻と子については、わざと名前を挙げていません。マァムと見るか、意表を突いてメルルか、あるいはオリキャラかは好きにご想像くださいませ♪ ところで、日本に生まれ育っていると、生の魚介類に対する嫌悪感はほぼないし美味しい食材にしか見えませんが、海外の本や作品を見ると海産物に対する嫌悪感や警戒心の強さに驚かされることがあります。 現在でこそ食に関する偏りは薄くなってきたし、SUSHIはそのまま通じる言葉になっていますが、少し古い時代の小説やら記録を読んでみるとこれがもう、面白いぐらい魚介類が嫌いな場合が多いんですよね(笑) 生の魚介類は、食用とは思ってないっぽいです。 特に中世期の人間は海への恐怖や海生生物を嫌っている感がやたらめったら強く、イカやタコやらカニを悪魔の眷属と見なしているのがなんとも。どれも美味しいじゃんと、日本人なら思いますが。 中世期は航海術が発達し始め、船で遠距離移動を試み始めた時代ではあるのですが、彼等はどうやら海の上で魚介類をゲットし、生で食べてみようとは思いもしなかったようです。 もし、それを実行していれば、当時の長旅で致命的だった壊血病の防止になったと思うんですがねー。実際に日本人の漂流記で見ると、島に流れ着いた場合でも、船で漂流し続けた場合でも、驚く程長期に亘って生き延びています。 条件がいいとはとても言えないような状況でもサバイバルできた裏には、日本人の食生活があったからのように思えます。 |