『雪の舞う中、消えそうな背中』 |
そこは、ひどく暗い場所だった。 黒と灰色だけで描いた絵のように、微妙な濃淡しか感じ取れない風景は、地上の鮮やかな風景とはまるっきり違っていた。 そんな世界で、唯一、鮮やかな色合いを見せるのは血飛沫だった。 ダイにとっては赤い血飛沫も、魔族の流す青い血飛沫も、どんなに色鮮やかであっても見たいものではなかった。戦いの最中で飛び散る一瞬の鮮烈さを、望んだりはしない。 望みたくなど、なかった。 なのに、ダイの目は変化を楽しむように、闇を塗り替えるその色合いをじっと見つめている。そして、自分でも気がつかない内に心の奥がざわめいていた。 (もっと――) 胸の奥を焼く炎が、ダイの中にはある。 もっと、もっと戦いたい、と。こんな単調な世界など嫌だと、心のどこかで何かが叫ぶ。気の済むまで牙を剥きだし、力の限り暴れまくりたいと望む竜が、確かにダイの中にいた。 だが――ダイは軽く首を振って目の前の光景からも、己の心からも目をそらした。そして、敵の気配がないことを確かめてから、目立たない場所に腰を下ろす。それから、誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。 「……、お、は、よう……」 ぎこちない言葉が、ダイの口から漏れる。 この世界にも一応、昼夜の区別があるらしいとは分かってはきたものの、結界の中からはその差は微妙すぎてよくは分からない。それに、挨拶をしようにもここには元々ダイ一人しかいない。 誰の耳にも届かない挨拶など、無意味だ。 そうでもしないと、言葉を忘れてしまいそうな恐怖があるから。 その口調はひどく頼りなげで、やっと言葉を覚えたばかりのオウムのように辿々しい。 『こらっ、ダイ! 朝の挨拶はちゃんとするんじゃっ。ああ、それに朝はちゃんと顔を洗えと言うのに!』 脳裏に、懐かしい面影が蘇る。 島にいた頃は、他の友達は自由にやっているのに自分一人が人間としての勉強をしなければならないのが、嫌でたまらなかった。日常の習慣も面倒だと思うばかりだったが、今になって思うとブラスの教えは非常にありがたさが身に染みる。 この地に落ちて、ダイは嫌と言う程に思い知った。 たとえば、朝起きて誰かを顔を合わせる度に挨拶すること。きちんとテーブルについてご飯を食べ、夜はベッドで眠る。 誰とも、朝の挨拶することなどない。 食事もろくに取らず、夜も剣を抱いたまま座って眠る。いつ、敵に襲われてもすぐに反撃できるようにと、そればかり考えて就く眠りはいつだって浅かった。 神経を研ぎ澄まし、敵の気配にだけ備える毎日――それが怖いというわけではない。そんな生活に、あっさりと順応していく自分自身が、恐ろしかった。 ブラスがあれ程熱意を込めて、時間をかけて教えてくれたことや、ポップやレオナに会ってから教わったことを忘れ、戦うだけの獣に成り下がっていく……その事実が恐ろしくてたまらない。 だからこそ、ダイは自分で自分に言い聞かせるように、たまに言葉を口にする。 『よっ、おはよーさん、ダイ!』 『ダイ君、おはよう! 昨日はよく眠れた?』 懐かしく、暖かい声を思い出しかけ……ダイの表情がくしゃくしゃに歪む。 こんな風に時折思い出す仲間達の思い出は、今のダイにとっては珠玉だ。何の変化もない地の底で、今も色鮮やかに残る輝かしいものに違いない。 だが、どんなに忘れがたく胸に刻んだとしても、思い出は風化するものだ。 元気のいいポップの声も、はきはきとしたレオナの明るい声も、覚えている。いつだって釣り込まれそうな、ポップのちょっとおどけた表情や、レオナのあの凜とした瞳も、勝ち気そうな微笑みもまだ忘れてはいない。だが、それでもジワジワと薄れていくのが思い出と言うものだ。 誰よりも良く知っているはずの仲間なのに、いざ思い出そうとすると細部ま (あれ……そう言えば、レオナの髪の長さって……どれぐらいだったっけ?) 長かったことは、覚えている。 いや、そもそも彼女の背の高さも思い出せない。 ぼんやりと浮かぶ少女の姿の隣に、やはりぼんやりとした少年の姿を思い浮かべてみる。 (そう、だ、ポップは――) ポップは、緑色の服が好きだった。黄色のバンダナをいつも巻いていて、大事にしていた……それは、まだ覚えている。 だが、レオナが着ていた服は、今となっては分からない。何着も衣装を持っていたのは覚えているのだが、彼女がどんな服が好きだったのか、思い出そうとして分からないと初めて気がついた時には、軽い恐怖さえ感じた。 その恐怖は、日に日に増えていくばかりだ。 忘れまい、と、どんなに強く心に戒めても無駄だった。 この上なく大切な大切な思い出のはずなのに、それらはポロポロと消えてしまう。皮肉な話だが、大切な人を思い出そうとすればするほど記憶の細部が曖昧になってきたことを自覚する。 そのせいで、思い出すのが怖い。 親友の名を呼びながら、ダイは掠れゆく記憶を呼び覚まそうとする。無意識のように伸ばした手は、何にも触れることなく空を切った――。 「…………ッ!?」 瞬間、ダイは跳ね起きていた。 だが、そうと分かっていても、心臓が割れんばかりに早鐘を打つ。ドキドキと強く脈打つそれが喉から飛び出すんじゃないかと心配になるぐらいだ。何度か息を大きく吸い込んでから、ダイはやっと自分がどこにいるのかに気がついた。 ダイ一人では持てあますぐらい広くて立派なこの部屋は、一応はダイの自室だ。レオナがこの部屋は自由に使ってくれていいと与えてくれた部屋は、パプニカ城の中でも指折りの極上の客室だ。 そのベッドに横たわっていると気がついてから、ようやくダイは今まで自分が夢を見ていたのだと理解した。 「ゆ、ゆめ……、だったんだ……」 そう呟きはしたものの、まだダイの鼓動は収まらなかった。 息が止まりそうな程リアルだったが、あれは夢に過ぎない。だが、そうだとすぐに割り切れないのは、あの夢が以前の魔界での日々を正確にトレースしたものだからだ。 常にヴェルザーの気配を感じ続け、少しでも気を抜けば死霊達に命を奪われかねない死と背中合わせの毎日だった。しかし、ダイにとってなによりも一番辛かったのは、『何もない』時間の方だった。 苛烈で辛い戦いには確かに、心を擂り潰されるような思いを味わわせられたし、ヴェルザーとのやりとりには一時の気の休まる暇もなかった。 戦いの間にぽっかりと空いた時間を紛らわす方法を、ダイは知らなかった。元々、ダイはじっとしているのが嫌いなタチだったし、一人で過ごすことだって好きではなかった。 だからこそ、つい仲間達のことを思い出し……その度に記憶が曖昧になっている事実に戦慄し続けた。 もう、地上に戻ってきたと言うのに、まだこんな夢を見るとは思いもしなかった。それだけに不意打ちのこの夢は、ダイにはひどく堪えた。 『ピピピー?』 ふと思い出すのは、小さな頃からいつも側にいてくれた親友の姿だった。物言わぬ小さなスライムは、ダイが起きた時にはいつだって側に飛んできてくれたものだ。 あの柔らかな重みが頭や肩に飛び乗ってくれたのなら、こんな悪夢の余韻など一瞬で吹き飛ぶだろう。 しかし、ゴメちゃんはもう、地上にはいない――。 そう思うと、胸に穴が空いたようにすぅすぅする。その寂しさを埋めるようにも、ダイの手は空っぽのままだ。 (そうだ、ポップに会えば……っ) 自分の魔法使いのことを思い出し、ダイはすぐさまベッドから飛び出した。その際、ちらっと外を見やると空はまだ暗かった。 と言うよりも、今日は曇天らしい。いくら冬の朝が遅いとは言っても、本来ならもうとっくに日が差している時間なのに薄暗い雲が厚く立ちこめ、朝の爽やかさを奪っている。 太陽が見えない事実にがっかりはしたが、それでも時間的には一応は朝だからと気を取り直し、ダイは手早く着替えた。正直、気分的にはこのままポップの所に駆けつけたいところだが、ポップのいる部屋に行くには見張りの兵士達の前を通っていかなければならない。 あまりだらしない格好をしていると、兵士達の口からレオナへ報告があげられるらしく、後でお説教を喰らうことになってしまう。だからこそダイは最低限に身なりを整え、できるだけ急いでポップの部屋に向かう。 正直、まだこんなに早い時間ではポップは眠っているだろうが、それでもいい。ほんのちょっと顔を見るだけでも安心できるだろう。そう思ってダイは急ぎ足でポップの部屋に向かった――。 「え……っ!? ポップ、いないの?」 驚きとショックを隠せないダイに、見張り役の兵士達はどこか申し訳なさそうに言う。 「ええ、大魔道士様は今朝は珍しく早起きされて……。少し、散歩をしてくるとお出掛けられました」 めったにない出来事に、ダイは何度も目を瞬かせる。 朝はとにかく少しでも長く眠りたいタイプで、早く目が覚めたら迷わず二度寝するのが普通だ。修行中でさえ寝坊していたポップが、自分から進んで早起きして散歩するなんて正直想像もできない。 目をぱちくりさせるだけでなく、あんぐりと口を開けて驚くダイに同情してくれたのか、兵士は宥めるように教えてくれた。 「ああ、でも大魔道士様は城外にでるつもりはないようですよ。少し、雪を見てくるだけだと仰っていましたから」 「雪?」 言われてから初めて、ダイはその辺をチラホラと舞う白い固まりに気がついた。ごくわずかだが、不規則な動きで空から降ってくるのは紛れもなく雪だ。 「まだ城門も開いてない時間ですし、中庭でも散策なさっているのではないでしょうか? いずれにせよ朝食のお時間までには戻ると仰っていましたし、よろしければお部屋でお待ちになられますか?」 兵士はそう勧めてくれたが、ダイはとてもじっと待つ気分では無かった。 「教えてくれてありがと! おれ、ポップを探しに行ってくるよ!」 そう言って、ダイはすぐにまた外へと飛び出した。 「あっ、お待ち下さい勇者様っ!?」 慌てたように兵士が止めるが、ダイは足を止めなかった。 だが、そんな風にじっと待っているなど性に合わない。勘に任せて、ダイはポップがいそうだと思う方向へと駆けていく。 捜索は、長引かなかった。 その背が、やけに寂しそうに見えるのは気のせいだろうか? (ポッ……プ?) さっきまであんなに呼びかけたいと思った名前が、喉元で塞き止まる。 だが……その背中があまりにも儚く見えてしまうのが不安だった。 空を見上げるポップは、何を見ているのだろうか? スッと空に向かって伸ばされた手は、ずいぶんと細く見えた。 「ポップッ!!」 「――!?」 ひどく驚いたように、ポップが振り向く。 「なーんだ、ダイじゃねえかよ、驚かせやがって。おまえさ、こんな朝っぱらからなにしてんだよ?」 ちょっとふざけたような、からかい半分の口調。 「なにって、ポップを探してたんだよ」 「へえ、わざわざ? そりゃ、ご苦労なこって」 物好きだな、と言わんばかりの口調がかえって嬉しく聞こえる。別に探す必要なんかないだろと、言葉にせずに言われているような気分だった。 「ポップこそ、こんな朝早くから何してたんだよ?」 「んー、散歩だよ。せっかくの初雪だしさ」 そう言いながら、ポップは手を軽く広げて雪を受け止めるような仕草を見せる。すぐ隣で見るその腕は、もうさっきまでのように細くも消えてしまいそうにも見えなかった。 「そう言えばそうだね。この雪、積もるかなぁ?」 掌に落ちた雪は、一瞬で溶けてしまう。 魔王軍との戦いの最中、一度だけ季節外れの初雪がちらついたことがあった。生まれて初めて見た雪にはしゃぎ、楽しく雪遊びをしたのはダイにとっては忘れがたい思い出だった。 ただ、あの時はポップと二人だけではなく、ゴメちゃんも側にいた。 「なあ、ダイ。もし、この雪が積もったら、久しぶりにでっかい雪だるまでも作ろうか! ゴメの目印になるぐらい、でっかい奴をさ」 その勢いと明るい口調が、沈みかけたダイの気持ちを一気にすくい上げてくれた。 「……うんっ! それ、いいね!!」 魔王軍との戦いの最中、天に帰ってしまったがゴメちゃんは死んだわけでも消滅したわけでもない。 ゴメちゃんは、いつか空から降ってくる。 「それ、絶対やろうね、ポップ。約束だよ!」 そう言いながらも今日は無理かもしれないことは、ダイにも分かっている。 雪は、いつかまた降るだろう。 ダイは力を込めすぎないよう、でも絶対に離さないとばかりにギュッとポップの腕を抱きしめる。 この手が、ダイの悪夢も、起きた後に感じた寂しさも拭い去ってくれた。 《後書き》 四季のお題シリーズ、真冬のお話です。 |