『少し、昔の物語』 |
南海の孤島、デルムリン島。 そのせいでこの島は近くの漁師達には怪物島と呼ばれ、誰も近寄ろうとはしない。だが、ここで暮らす怪物達は基本的に心穏やかな種族が多く、争いごとや揉めごとも起こらないいたって平和な島だ。 その島に、人間の赤ん坊が流れ着いたのはずいぶん昔の話だ。 赤ん坊から、幼児へ。 そして、ダイはかつてからの憧れ通り、勇者になるために小さな島を旅立った。世界を破壊し、太陽を我が物にせんと欲した大魔王バーンと戦い、彼は本当の勇者になったのである。 だが、その戦いには大きな犠牲を払うものだった。 かくして世界は平和になり、デルムリン島にも再び平穏な日々が戻った。 デルムリン島に唯一存在する小さな家の中で、ブラスは目を覚ました。 鬼面道士に限らないが、怪物は本来、奔放で自由気ままな存在だ。大抵の怪物は動物と大差がなく、眠くなったら眠り、目を覚ましたくなったら覚ますと言う自由気ままで不規則な生活を送る者が多い。 種族によって夜行性、昼行性の差はあるが、人間のように規則正しく毎日早起きするような律儀な怪物はほとんどいないものだ。ましてや鬼面道士は、本来は暗い洞窟を好む怪物だ。 昼夜の区別のつかない洞窟で暮らすため、大抵の鬼面道士は時間の感覚などほぼ気にしないで生活する物である。 「もう、朝か。どれ、よっこいしょ」 起き上がったブラスは、まず水瓶の方へと向かう。洗顔をするためだ。それが済んでから、ブラスはおもむろに食事の支度にかかった。 背の低いブラスにとって、人間を真似ての台所仕事というのは何かと苦労が付きものではあるのだが、彼はこの習慣を決して欠かしはしない。お茶を入れるためのお湯を沸かす傍ら、卵を焼いたり、パンを焼いたりと忙しくちょこまかと動き回る。 もっとも、一見ありきたりの食事に見えるそれは、よくよく見れば決して普通の食事とは言えない。 たとえばブラスが使っている卵は、人間がよく食べるような鶏やアヒルの卵ではない。怪物の卵であり、大きさが普通の卵に比べるとかなり大きい。 だが、形だけは人間の朝食に比較的近い物を、ブラスはテーブルの上にきちんとセッティングしてから食べ始めた。 それは、我が子同然に育てたダイのためだ。 まだ、よちよちとはいはいしかできないような赤ん坊の頃はともかく、ダイが歩けるようになった頃から、ブラスは特に気をつけてダイに人間らしい教育を施すようにしていた。 いつかダイが、人間として人間の世界に戻りたいと望んだ時、怪物同然の野放図な生活しか送れないようでは、先々苦労するだろうと案じたのだ。 まあ、ブラスの最大限の努力を持ってしても、ダイがいささか勉強嫌いで、多少常識に欠けた野生児になってしまったのは否めないが、それでもダイが怪物寄りではなく人間寄りの子供へと成長したのには、ブラスの並々ならぬ努力があったからこそだ。 ダイに人間としての習慣を身につけさせるため、ブラスの生活習慣はほぼ人間に準じている。ダイがいなくなった今となってはさして意味のない行為だが、十数年に亘って続けてきた習慣とは根深いものだ。 ブラスが一人暮らしに戻ってから久しいが、それでも彼はダイと暮らしていた時の習慣を変えようとはしない。 (さて、今日はなにをしようかのう?) 食事の後片付けをしながら、ブラスはしばし考える。 気のいい人間の兵士達は、ブラスにとってはいい隣人になってくれた。 その頃から心も解いてくれたのか、ブラスのことも護衛対象と言うよりはまるで家族のように馴染んでくれた。 彼等もブラスを気に入ってくれていたらしく、世界が平和になった際に帰還命令が下された後も、しばらく迷っていた。 その時には、三人はこの島で知性を持って喋ることのできる怪物がブラス一匹しか無いことを知っていた。ダイが戻ってこない以上、ブラスはたった一人で無人島に取り残されることになる……それを気にして帰還を躊躇ってくれた人間達を説得したのはブラスだった。 もちろん、自分を気遣ってくれるその気持ちは涙が出るほど嬉しかった。 今でもブラスはそう薦めたことが正しいと思っているし、彼等が母国で幸せに暮らしていることを望んでいる。 だが、それとさみしさを全く感じないかどうかは、別問題だ。分かっていたことでも、たとえそれがその人にとって最善だと確信していたとしても、慣れ親しんだ隣人がいなくなってしまった事実に、ちょっぴりさみしさを感じてしまう。 ブラスは、別に独りぼっちになったわけではない。 クロコダインやチウ、ヒムなどもしゃべれる怪物達もこの暇にやってきたとは言え、彼らはここに定住しているわけではない。各国の王族とも親しくなった彼らは、各国に行き来しては人間と怪物間の交流を深めているらしい。 もっとも、クロコダインやチウはパプニカ王国とロモス王国に、ヒムはカール王国に縁が深い関係上、全員がそろっていなくなることは珍しいのだが、今回はたまたま偶然が重なったらしい。 三人ばかりではなく、チウの率いる獣王遊撃隊までもがそっくりといなくなってしまった。もちろん、彼らはいずれ戻ってはくるだろうか、今現在はここにはいない。 そう長い間ではないとはいえ、おしゃべりの楽しさに慣れた身にとっては、島でただ一匹人語を解する怪物として過ごすのは、何とも言えない寂しさがあった。 「どれ、散歩でもするかのう」 いちいち独り言を口にするのは、独り暮らしが長い者特有の癖だ。身長よりも高い杖を手にし、ブラスはえっちらおっちらとゆっくり歩き出す。 波打ち際に沿って、ゆるやかな足取りで歩く。実は、この島を一周するコースこそがデルムリン島で一番安全な散歩路だ。なにせ南の島だけあって緑豊かなこの島では、密林と呼べるだけの森が自然に発生している。 いくら島自体は小さいとはいえ、深い森の中では道を迷うなど一瞬だ。よく知っているつもりでも、迷子になって帰り道を見失うなど珍しくもなんともない。 それを実感しているだけに、ブラスは散歩の時には森に入ろうなどとはかけらも思わない。安全に島を一周する方が、よほどいいからだ。 (じゃが、ダイときたら何度言ってもきかなかったのう) のんびりと散歩しながら思うのは、やはりダイのことだった。 危ないからと何度叱っても、全く効き目などない。 『じーちゃんっ、今日はこんなの見つけてきたよ!』 ひどく嬉しそうな子供の声が、鮮やかに蘇る。 幼い頃はもちろん、成長してもその習慣に大差はなかった。 ふっとそんなことを思い出してから、ブラスは自分が足を止めていたことに気がついて苦笑する。 つい、ダイが今にもその辺の茂みを揺らして飛び出してきそうな気がして待ってしまったが、そんなことなどあり得ない。 わかりきっていることなのに、ついそう思ってしまった思考を振り切るように、ブラスは丸っこい身体を目一杯伸ばす。 (そういえば、あれも今頃じゃったか……) ダイと過ごした平和な日々は、ある日、突然終わった。 怪物は元々、高位の魔族の影響を受けやすい性質を持っている。その魔族の頂点に立つ魔王の存在は、怪物の根幹を揺るがせる。意思の薄い怪物はもちろん、ブラスのように高い知能を持つ怪物でも、魔王の波動には抗えない。 あれほど大事に育ててきたダイを、ただの獲物として殺してしまいたいと思った時の絶望感といったら、なかった。本来、穏やかな気質のブラスでさえそうなのだから、島の大多数を占める動物系の怪物達がいかに荒れ狂うか、想像するだけで恐ろしかった。 そんな惨劇は、絶対に起こさせはしない。 その気持ちが嬉しくなかったと言えば、嘘になる。だが、それでもブラスはダイにこの島から逃げて欲しいと望んだ。 結果として、その願いは叶ったとも言えるし、叶わなかったとも言える。 (しかし、今でも信じられんのう……) ダイが、普通の子供とはどこか違っていて、何か秘められた力を持っていることは、薄々ブラスも気がついてはいた。 そんな子供が、まさか本当に勇者になるとは、ブラスは夢にも思わなかった。 それを知った時、ブラスは喜ぶよりも戸惑わずにはいられなかった。
「ダイは? ダイは、ここに戻ってきてねえか!?」 切羽詰まった様子のポップに驚きながらも、正直に知らないと答えた時のことを、ブラスはまだ覚えている。 魂が抜けたような顔とは、あのような顔のことを言うのだろう。あの時、ブラスはてっきり、ポップが泣くのだと思った。 アバンが死んだ時のように、この世の終わりが来たかのような泣き方で泣くのだろう、と。そんな彼に、そう慰めの言葉をかけてやればいいのかと、ブラスはうろたえたものだった。 だが――ポップは泣かなかった。 「……やれやれ、ここにもいねえなんて、困ったもんだぜ。あいつ、どこで迷子になっちまっているんだろうなー」 ポップの口から、ブラスは初めてダイが行方不明になったことを知った。 だが、それでも打ちのめされなかったのは、それを告げてくれたのがポップだったからだ。 自分の方がよほど辛い思いをしただろうに、それでも気さくな口調で、必ずダイを見つけると請け合ってくれたあの魔法使いの少年に、どれほど救われたことだろう。 その後、パプニカ王国やロモス王国の遣い、さらには元獣王クロコダインや、果ては死んだと思っていたアバン直々からなど、多くの人々から戦いの顛末や、ダイが行方不明になった時のいきさつについて聞いたが、その中で一番助けられたのはやはりポップの言葉だった。 誰もが、日を追うごとに言葉を濁しがちになり、申し訳なさそうな表情を見せるようになった中、ポップだけは違っていた。 『心配はいらねえって、じいさん。あの大馬鹿迷子は、おれが絶対に見つけてやるってえの!』 どこまでも強気にそう言い放つポップは、いつも忙しそうではあったが、何度となくこの島に来た。 彼と話す時間を、ブラスはとても好んでいた。 ブラスとて、伊達に年を取っているわけではない。 だからこそ、嬉しかったのだ。 実際にダイと共に旅をし、ダイが行方不明になった現場に居合わせたポップならば、ブラス以上に状況が絶望的なのか、分かっていたはずだ。それに、捜索も順調とは言い難かったはずだ。 現にブラスは、ポップがひどく疲れていたり、ボロボロの格好でいるところも度々見かけた。ポップがどこを探しているのかは知らなかったが、相当に厳しい捜索をしていることは簡単に見て取れた。 だが、それでもポップは頑として、意見を変えようとはしなかった。 (……ポップ君は、元気にしているかのう?) 最後にポップに会ったのがいつか思い出そうとして、ブラスは断念した。彼がこのデルムリン島を訪れなくなったから、もうずいぶんと経つ。それに不満などないが、少しばかり心配だった。 あの頃、食事や寝る時間まで削って、無我夢中でダイを探すことにばかり専念していたあの少年は、今はどうしているだろうか――。
瞬間移動呪文の軌跡と共に、砂浜に降り立ったのは黒髪の少年だった。彼は、ブラスに気づいた途端、にっこりと笑う。 「じいちゃん、ただいまっ!」 「なんじゃい、また来たのか」 やれやれとばかりにそう言ったが、ブラスの機嫌は簡単に上を向く。なんだかんだ言っても、我が子の帰郷を喜ばない親などいない。それは、実の親子ではなくても同じことだ。 ただ、諸手を挙げて歓迎するのが少しばかり照れくさくて、邪険に言ってしまうのは、年寄りの照れというものか。 「だって、来たかったんだもん。ポップもレオナも仕事で忙しくて、めったに遊んでくれなくて、暇だしさ〜。あ、じいちゃん、これ、頼まれていたお茶だよ。こっちはレオナが、お土産にどうぞ、だって言ってた!」 そう言いながらダイが差し出してくる包みを、ブラスは受け取らなかった。代わりに、足を自宅の方に向ける。 「まあ、いいわい。それならお茶でも入れてやるから、うちまで運んでおくれ。ところで、レオナ様やポップ君は、元気かの?」 「うんっ、レオナはすっごく元気だよ! 今日中に仕事をやっつけて、明日はばーげんに行くんだって張り切ってた。ポップも元気だけど、眠い眠いって文句ばっかりいってるよ。それでねー――」 この上なく楽しそうに話しかけてくる拾い子と一緒に、ブラスはゆっくりと歩き始める。その足取りは、先ほどまでよりも軽やかだった。 デルムリン島には、もう、勇者に憧れた幼い少年は住んではいない。行方不明の勇者を探す魔法使いの少年が訪れなくなってからも、久しい。 だが、その代わりに、世間では勇者と呼ばれる少年が訪れるようになった。 《後書き》 ちょうど、ゴールデンウィークなので、帰郷ネタで書きたかったんですよ〜。 まあ、筆者は昔っから横浜に住んでいるので田舎に帰るという感覚は実感できないのですが、大きな休みごとに遠距離帰郷する話はちょくちょく聞きますので、大変だなぁといつも思っています。 でも、それでもたまに帰りたくなるのが、故郷と言うものなんでしょうね。 |