『託すべき相手』
  
 

 キィ、キィと軋むような音を立てて、揺り椅子が揺れ動く。
 マトリフがもう数十年もの間愛用しているこの揺り椅子は、背もたれも高めで重く、頑丈な作りになっている。椅子の脚の反りも控えめなため、普通に座るのならほぼ揺れることもないし、単なる椅子と変わりがない。

 この椅子を揺らすためには、座っている者が意図的に力を込めて体重移動をする必要がある。
 そのため、マトリフがこの椅子を揺らすのはごく稀だった。

 何か考え事や悩み事があり、思考に集中したい時――そんな時にだけ、マトリフは敢えて椅子を揺らして思索にふける。
 今、マトリフは腕を組んだまま目を瞑り、ゆっくりと揺り椅子を揺らしていた。

(さて……どうしたもんか……)

 悩みの元は、勇者と呼ばれる少年のことだった。
 ロモス王にその素質を見出され、パプニカ王女によって勇者と認められた、わずか12才の勇者ダイ。

 彼を、今後どう扱うべきか――。
 魔法使いの頂点に立つとまで評されたマトリフの頭脳を持ってしても、どうするのが最善か、判断がつきかねる。

(まあ、もうここまで関わっちまった以上、放置ってのはあり得ねえな)

 マトリフは所謂、世捨て人だ。
 人間との付き合いの煩わしさを嫌い、隠遁を決め込んでいる。特に王族との関わり合いを嫌い、たまに訪れる人間は無視を決め込むか、追い返すかしてきた。

 実際、ダイ達に対してもそうするつもりだった。
 怪物に追われている気球船を見た時から、少しでもちょっかいを出せばパプニカ王家と関わり合いになるのは分かりきっていた。

 気球船はそうそうある乗り物でないし、なによりあの気球部分にははっきりとパプニカ王国の紋章が刺繍されていた。あれに乗っているのがパプニカ王家の関係者だと、一目見た時から分かっていたのだ。

 それでも助けてやったのは、見捨てればさすがに寝覚めが悪いと思ったからだ。

 急場を凌いでやった後は追い払うつもりだったのだが、ふと気がつけば、どっぷりと勇者一行に関わり合ってしまっていた。
 面倒だからと突き放すタイミングなど、完全に逸している。

(あー、まったく勇者って奴は、とことん面倒くせえ人種だぜ。こっちが嫌だっていっても、平気で巻き込んでくるんだからよ)

 ため息交じりに思い出すのは、勇者ダイではないもう一人の勇者のことだった。

 15年前、魔王ハドラーを打ち倒し、勇者アバンと称えられた一人の青年。マトリフにとっては、望んでもいないのに対魔王戦へと巻き込んでくれた、疫病神にも等しい、厄介極まりない友人だ。
 しかも、そのアバンこそが勇者ダイの師でもある。

 いくら文句を言ってもいい足りない相手ではあるが、何よりも厄介なのはどんなに不満を抱いたとしても、決して見捨てきれない相手だと言う点だ。

 若さに似合わず飄々とした態度を崩さないアバンは、どんなに文句を言ってもニコニコと笑顔のままで右から左と受け流してしまう。そんな態度を取られれば、普通ならば苛立ちを掻き立てられるだけだ。

 だが、アバンの強みはそんなふざけた態度を取っていながら、相手を自分のペースに巻き込んでしまう点にある。
 一緒に旅していた頃、マトリフは何度となくアバンの思惑に乗せられたし、多くの人間をアバンが容易く手玉に取るところも見てきた。

 あれが天然の資質なのか、それとも人知れずに計算され尽くした人心掌握術なのかは、さすがのマトリフにも見極められない。しかし、彼が他者に強い影響を与える人物だということだけは、確かだ。

 世間を捨て、人間と関わり合いを持つまいと思っていたマトリフさえまんまと巻き込んで、魔王討伐を果たしたアバンはまさに勇者と呼ばれるだけの力を備えた男だ。

 そんなアバンが、世界が平和になった時に言い出したことには、さすがのマトリフも度肝を抜かれた覚えがある。

『私はフローラ姫と結婚する気もなければ、カール王国に留まるつもりもありません。これから、私は自分の人生を、未来ある子供達の教育のために使いたいと思っています』

(ったく、あの馬鹿ときたら、ろくでもないことばかり考えやがって)

 十数年前に感じた苛立ちを、マトリフは未だに持ち続けている。
 滅亡寸前だった祖国を救い、世界に平和をもたらしたのが勇者なら、その勇者が姫と結婚することに誰が不満を抱くだろう?

 あれでも、アバンはカール王国の貴族の生まれだ。
 学者を何人も輩出したことで有名な家柄で、決して裕福とは言えないが家柄だけはなかなかのものだった。王族に婿入りするにも、まず問題のない血筋といえるだろう。

 それに、アバンは正式なカール王国の騎士だった。
 戦乱期に有能な騎士が王族を娶るのは、そう珍しい話ではない。魔王討伐という大殊勲を打ち立てたアバンの評価は高かったし、当時のカール王もいたくアバンを気に入っていたはずだ。

 なによりも、本人達もそう望んでいた。
 カール王女フローラが、アバンに秘められた想いを抱いているのは一目瞭然だったし、アバンもまた彼女を憎からず想っていたのは傍目からでも明らかだった。

 だが、彼等は恋に落ちても、それに溺れはしなかった。
 二人とも、自分に課せられた使命を忘れることはなかった。自分達が何をすべきかを最優先し、それぞれが違う道を選んだ。その判断が間違っていたとは、マトリフは思わない。

 しかし、若い恋人達が互いを思う心を押し殺し、道を違えてしまった過去は、今もマトリフの心に僅かなしこりを残している。後悔じみた感傷が込み上げてきたが、マトリフは意図的にそれを振り払った。

 戦いが始まってしまった今、考えるべきは先代の勇者のことではない。今の勇者のことを、考えておきたかった。

 魔王軍の侵攻が明らかになった以上、勇者という存在は必要不可欠だ。
 怪物や魔族に比べれば脆弱な人間は、一対一の戦いではどうしても不利となる。人間には、大半の怪物のような頑強な肉体はない。魔法に関しても、魔族とは比べものになるまい。

 元々魔族は魔法を得意とする種族であり、個々に得意不得意の差はあるだろうが、基本的に誰もが魔法を使えると思って間違いがない。

 それに比べ、人間は魔法の才能を持つ者の方が少ないし、魔法力の絶対量にも差がある。魔族の豊富な魔法力に比べれば、人間の持つ魔法力などお話にならないぐらい少ない。

 とはいえ、人間は個体差が激しい生物でもある。
 修行を重ねた人間が怪物以上の怪力を発揮したり、魔族を圧倒する魔法を使いこなす例もないわけではない。自画自賛するようだが、マトリフ自身も自分の魔法の腕に関しては魔王以上だという自負がある。

 それに、かつてアバンが剣技で魔王を打ち倒したように、人間が魔族を超える実力を身につけるのは不可能ではない。

 しかし、それには時間がかかる。
 アバンがそうしたように、才能のある者をそれこそ子供の頃から育てでもしなければ、魔族を超える人間はそうそう育たない。だが、それには膨大な時間がかかる。

 国を整え、民に教育を行き届かせるのには、少なく見積もっても百年単位の時間がかかる。それでは、目前に迫った危機に間に合うはずもない。

 それに、才能あるごく少数の戦士が戦うよりも、もっと確実な戦法はある。
 人間が魔族に比べ、圧倒的に優位に立てるのは繁殖力の強さだ。

 人間の数は、魔族の比ではない。魔界ならともかく、この地上にいる魔族の数はそう多くはない。数の不利を補うため、魔族は怪物を配下としているぐらいだ。

 人間が魔族に決戦を挑むのであれば、一番有効な戦法は数の差で押しまくるごり押ししかあるまい。
 だが、これには多大な犠牲が生まれる――だからこそ、勇者が必要なのだ。

 不利と分かっている戦いでも、自分達の勝利を信じて戦い抜く多くの兵士達を鼓舞するのは、勇者の存在だ。

 勇者そのものの戦力が、重要なのではない。
 勇者が、人間達のために先陣切って戦っているという事実が、人々に影響をもたらす。
 自分達に希望があると信じ、周囲の人間に勇気を与える存在こそが『勇者』なのだと、マトリフは理解している。

 その意味では、ダイはすでに勇者だった。
 パプニカ王国のみならず、すでにロモス王国でも勇者と認められた少年の噂は、すでに世界規模で広まっている。

 マトリフとて実はダイに出会う前から、風の噂で勇者の少年が魔王軍をなぎ倒しているという話を聞いたことがある。

 まあ、噂というものは尾ひれがつくものだから、マトリフはあまり信用はしていなかったが。
 本当に子供なのだとしたら年齢から言って象徴的なお飾り勇者か、でなければ年齢をさば読みした童顔な男なのだろうと、そんな風に思っていた。

 それだけに、実際にダイ本人に会った時は内心驚いていた。
 年齢はまさに子供、だがお飾りなんて可愛らしいものではなく、実際に魔王軍と戦っていた。しかも、その実力ときたら、並外れているだなんてレベルではなかった。

 最初にダイ達から戦況を聞いた時、マトリフが真っ先に注目し、疑問を抱いたのはダイの潜在能力の高さだった。

 信じがたいことだが、まだ子供といっていい年齢であり、戦いの経験もろくになさそうなダイは『勇者』として魔王軍と戦っていた。とても、並の子供とは思えない。

 どうにも納得できなくてポップから詳細に話を聞き、マトリフは小さな勇者の正体に思い当たった。

 結論から言えば、ダイは人間ではない。
 神々の生み出した究極兵器とも言うべき存在であり、戦いに対しては天賦の才を持っている。

 竜の騎士の記録や歴史について調べたマトリフは、本人であるダイ以上に竜の騎士のことを知っている。
 正体が竜の騎士ならば、勇者一行のこれまでの奇跡の逆転劇にも納得は出来る。それだけの潜在能力や戦闘本能は、持っている種族だ。

 伝承によれば、竜の騎士はまさに神の使い……地域によっては、神そのものとして扱われている。人間界、魔界、天界のバランスが崩れた時に現れ、正義のために悪を断罪する存在が、そんじょそこらの怪物や魔族に引けを取るはずもない。

 強さという意味ならば、これ以上『勇者』に相応しい存在もあるまい。
 だが――その心は、ただの人間の子供だった。

 それも、強さとはアンバランスなほどに、ダイは子供だった。純粋で、人間の悪意になど微塵も気づいていない幼い少年が、この先に辿るであろう苦難の道を、マトリフはすでに見通していた。

 そもそも、人間は異端を嫌うものだ。
 飛び抜けた才能を、人々は容易に受け入れようとしない。妬み、ひがみ、そねみ……そんな心が差別を生む。

 ましてや、その対象が純粋な人間ではないと分かったのなら、その心は加速度的に膨れ上がるだろう。

 ただの人間であったマトリフでさえ、突出した魔法の才能を妬まれ、散々嫌な思いをさせられた覚えがある。まあ、マトリフ自身はそれで傷つくような繊細さなどなかったし、迫害を受けた時期も、図太さがすっかりと身にしみ通った中年期以降のことだ。さして、問題はなかった。

 しかし、幼い子供の心は、白紙に等しい。
 汚れを知らぬ白だからこそ、容易く他の色に染まってしまう。――昔、アバンが育てたヒュンケルが、正義を憎んで心を閉ざしてしまったように。

 マトリフも当時のヒュンケルと顔を合わす機会があったが、すっかりと憎しみに凝り固まったあの子供は、すでにアバンの言葉すら届かなくなってしまっていた。

 子供なら自然と備えている無邪気さや、他人を信頼する心などは彼には無縁だった。
 あの少年にとっては、世界は敵でしかなかったのだろう。
 魔物に育てられた幼子にとって、魔物や怪物こそが仲間であり、それを倒した勇者こそが悪だったのだから。

 奇しくも、と言うべきか、ヒュンケルのその過去が、ダイと重なってしまう。

 ダイもまた、怪物に育てられた子供だという。
 捨て子で、デルムリン島に流れ着いた孤児だと言うダイは、まだ人間世界そのものに慣れていない。

 今は、まだいい。ダイは人間に好意的だし、今のところ大体の人間も勇者を歓迎し、応援している。
 しかし、それがいつまで続くか、分かったものではない。

 ダイ自身は気づいてはいないが、彼はずいぶんと危ういバランスを保っているのである。

 これまでの戦いでダイが見せた実力は、まだ萌芽にすぎない。戦いを重ねるごとに、ダイはこの先も爆発的な強さを身につけていくことだろう。
 もし、伝承通りならば、竜の騎士の力を目の当たりにした人間達が、恐れを感じるのは時間の問題だった。

 拒絶の意思とは、厄介なものだ。
 たとえば、100人の人間がいて、90人以上がダイを勇者だと褒め称えたとしよう。だが、たった一人でもダイに向けて否定の意思を示したとしたら、どうなるだろうか。

 おそらく、否定されたことに傷つくことだろう。大多数の褒め言葉以上に、拒絶の言葉は鋭く、重たいものだ。
 人間は、悪意を向けられることに対して敏感だ。そして、心ほど柔らかく、傷つきやすいものはない。
 目には見えない傷が、いつまでも心に残り続けることもある。

 それを癒やす者が、どうしても必要だった。
 まず、ダイの年齢から言って真っ先に候補にあげられるのが、育ての親だという怪物だったが、マトリフはその可能性を真っ先に否定する。

 ダイ自身のためならば、それが一番いいのは承知している。だが、マトリフが気にかけているのは、あくまで『勇者ダイ』だ。
 人間によって受けた傷を、育ての親の怪物に癒やされたのならば、彼の中で人間への興味や関心は薄れてしまう。むしろ、怪物こそが自分の仲間だと確信を持つだけだろう。

 同じ意味で、クロコダインやヒュンケルにもこの役目は向かない。頼りになる同性の大人と言う長所はあるのだが、彼らもまた、人間ではなく怪物寄りの存在なのだから。

 ダイを人間の勇者として引き留めたいのならば、どうしてもここは人間の味方が必要なのだ。

 そして、その役目が自分では出来ないことも、マトリフが重々承知していた。

 良くも悪くも、マトリフは先代勇者一行の魔法使いだ。助言や軽い手助けならばしてやれるが、現勇者である彼らの仲間となるつもりはない。
 距離を置いた立場の人間からの慰めなど、ダイにとっては意味はあるまい。

 マトリフにはダイの心を分析し、理解することはできるが、共感してやることは出来ない。

 だが、この先ダイに必要なのは、まさにそんな仲間だ。
 喜びも悲しみも共有し、分かち合える仲間の存在こそが、ダイを支えてくれるはずだ。

(あのお姫さんなら……)

 ふっと、パプニカ王女レオナが思い浮かぶ。
 だが、すぐにマトリフは首を横に振った。

 レオナは、確かに傑物だ。あの年齢の少女とは思えない指導力、判断力を持ち、王たる威厳を身に備えている。
 しかし、だからこそレオナは、ダイの味方には成りきれない。

 なぜなら、彼女はすでに王だからだ。私情を押し殺してでも、民を導く役割を持ったレオナは、並の少女のように純粋にダイのことだけを思えまい。マトリフ自身がそうであるように、ダイをただのダイではなく、『勇者ダイ』として見つめ、彼の力を必要する気持ちがあるはずだ。

(やれやれ、全く近頃のお姫様ってのは、どうしてこうも気丈であらせられるのかねえ?) 

 アバンとの恋を振り切って、カール王国を治めているフローラを思い出しながら、マトリフは苦笑する。

 国民としては頼もしい限りだが、マトリフのように気ままな世捨て人から見れば、うら若き乙女ならば、ただ恋だけを追いかけてもいいような気がするのだが。

 まあ、それは今、問題にすべきではないだろう。
 ごく近い将来、ダイにとって必要になるのは、絶対的にダイの味方となり、ダイを信じてくれる人間なのだ。
 そう――例えるなら、母親が我が子を無条件で愛し、庇うように。

(なら、マァムなら……)

 今度、脳裏に浮かび上がったのは、父親譲りの淡い赤毛の似合う少女の姿だった。

 髪の色こそは父親似だが、気質は母親の影響の強いマァムは、まだ若いにもかかわらず母性的な資質に恵まれている。傷ついた者に、無条件に助け手を差し伸べようとするあの娘ならば、ダイの事情や生まれを気にせずに味方になってくれることだろう。

 今は修行のため、一行を離れて別行動を取っていると言う話だが、マトリフにしてみればそんなのは何の障害にもならない。ロモスに修行に行ったという手がかりがあるのなら、行く先の見当もつく。

 なにせ、マァムが言っていた伝説の拳聖とは、マトリフにとっては昔馴染みの友人なのだから。
 瞬間移動呪文を使って今すぐにでもマァムを連れ戻すのは、大魔道士にとっては簡単なことだ。

 一瞬、心が傾きかけたが、マトリフはまたも首を振る。
 悪くはないが、それではだめだ。ダイと行動を共にしていた仲間であり、慈母的な優しさを持つあの少女なら、確かにダイを癒やせるかもしれない。

 だが、それだけだ。
 これが平和な時代ならば、それでもいい。母の愛にも似たマァムの慈愛に癒やされながら、人間としてゆっくりと成長していけばいいだけの話だ。

 しかし、今は戦いの真っ最中だ。
 傷ついた子供を、母親の膝元に戻してやる余裕などない。すぐにでもまた、戦いが待っているのだ。

 ダイを慰め、無条件に味方になりながらも決して甘やかさず、また戦場へと送り出すだけの強さも持った人間の味方が必要なのだ。

(あー、全く、なんで肝心の時にはいやがらねえんだよ、あの馬鹿勇者は……!)

 苛立ちに、大きく揺り椅子を揺らしながら、マトリフはため息をつく。
 生きている時も散々マトリフを振り回してくれた先代勇者は、死んだ今となっても問題を持ち越しているようだ。

 仮にも勇者の家庭教師を名乗るのなら、教え子を途中で放り出さずに卒業まで面倒を見てもらいたかったものである。

 死んだ者に文句を言っても始まらないが、せめて、彼らのために遺言でも残しておいてくれたのなら、支えになってくれただろうに――そう考えたところで、マトリフは思い出したことがあった。

(ああ……、そういや遺言じゃねえが、そんな本はあったよな)

 それは、戦いにおけるハウツー本とでも呼べばいいような、そんな本だった。

 元はと言えば、アバンが魔王退治の旅の際に覚え書きのように、戦いへの心得、様々な怪物の特徴や倒し方、武器の効果的な使い方を記載した手記だった。

 一見、とりとめもない雑文のようでいて、誰にでも読みやすいその手記を、本の形でまとめるように言ったのが誰だったか、今となっては覚えていない。
 だが、アバンが監修したその本が『アバンの書』と名付けられ、カール王国の書庫で大切に保管されるようになった経緯はよく覚えている。

 まあ、マトリフに言わせれば、そのような本こそ広く世間に知らしめた方がいいと思うのだが、カール王国ではその本を勿体ぶって秘蔵していたはずだ。
 勇者アバンの直筆の書と言う付加価値の方が大きくて、めったな者には貸し出されることのない貴重本となったのは、皮肉な話としか言い様がない。

 アバン自身はその本を極力分かりやすく、親しみやすい文章で書き、様々な職業に対応できる初心者向けの入門書として執筆していたのから。

 しかし、書き手の意思と異なり、まるで宝物であるかのように長年しまい込まれていたはずのその本の存在を、マトリフは十数年ぶりに思い出していた。
 カール王国は滅びたと聞くし、城も壊滅的な被害を受けたらしい。だが、財宝の類いは強奪されやすいが、国の歴史や文化を示す書庫の存在は、見過ごされがちだ。

 その国の歴史を潰したいと言う意図があるならば、徹底して焚書が行われる可能性があるが、そうでなければ無視されるのが書庫というものだ。
 どちらになるかは攻め入る者の思惑次第だが、今回の敵は魔王軍――人間とは全く異なる文化圏の者達だ。それならば、何の興味を持たずに放置した可能性は高い。

 それに、マトリフはカール王国の書庫に実際に行ったことがある。一般人どころか、城の住人でさえ許可がなければ出入り出来ないその部屋で、読書にふけったのは懐かしい思い出だ。

 地下に設置された書庫ならば、被害を免れているかもしれない――そんな風に、マトリフが考えていた時のことだった。

「師匠〜、いるか〜い!?」

 暢気な呼びかけに、マトリフは軽く舌打ちする。

(ったく、目上への口の利き方も知らねえのか、あのガキは)

 もっとも表層的な苛立ちほど、マトリフはその訪問者を嫌がってはいなかった。むしろ、本心を言えば彼の訪問はそこそこ楽しみでもある。

 アバンが残したもう一人の弟子、魔法使いポップ。
 年齢の割にはそこそこの魔法使いではあるが、正直、それほどの腕前とは言えない。確かに並外れた素質は感じさせるが、どうにもポップは腰が据わらないというか、考えの甘さが目立つ。

 だからこそ修行に打ち込んでこなかったようで、成長のバランスが悪い。マトリフに言わせれば、甘ったれの未熟者もいいところだ。
 だが、その甘さが、マトリフにかつての勇者を思い出させた。

(……そういや、あいつも甘い男だったな)

 アバンは常に穏やかで、驚くほどに性格の優しい男だった。マトリフから見れば、甘すぎるんじゃないかと思うぐらいの点が多々あったが、それらは欠点とは言いきれなかった。

 むしろ、アバンのあの甘さは多くの人を助けたし、マトリフ自身、それに救われたこともある。
 おちゃらけた風を装ったアバンの軽く聞こえる言葉に、知らず知らずのうちに気が楽になった回数など、数え切れない。

 ポップの軽い口調を聞いて、マトリフはそれをふと思い出した。
 もちろん、アバンとポップはそれほど似ているわけではない。アバンと知り合ってしばらくして分かったが、彼は意図的におちゃらけた風を装っているだけで、根は真面目で純粋な男だった。

 ポップの場合は、あの軽さやお調子者っぷりが演技と言うことは、まずあるまい。あれは、そのまま素のはずだ。

 しかし、ポップは長い間アバンの側にいた。ポップの話では、一年半近くはアバンと共に旅をしていたはずだ。その割には魔法の成長の悪さに呆れた物だが、その代わりになる物をポップが習得している可能性は少なくないだろう。

 たとえば、アバンの優しさや気遣いをポップはずっと間近で見ていたはずだ。それを少しでもいい、ダイに向けてくれるのならば――。

(ふん……ひとまずここは、あいつにダイを任せてみるか)

 知り合ってからの時間はまだ短いが、ダイとポップは死線を一緒にくぐり抜けた親友同士であり、兄弟弟子同士でもある。二人の間に、仲間意識や友情があるのは間違いないだろう。

 そんな相手がダイの味方になるのなら、精神的にも大きな助けになってくれるはずだ。

(……まぁ、あの甘ったれにそこまでの器量があるかどうかは、どうにも心配だが、あいつ以外に適任者がいないんだから仕方がねえな)

 とりあえず、マトリフはそう結論を出した。
 ポップにアバンのような包容力や器量があるとは思えないし、同年代の男子なだけに年下の少年をそこまで気遣い、庇うことができるか大いに疑問ではある。

 だが、それでもダイには味方が必要だった。
 せめて自分がアバンの書を手に入れてくるまで、ダイが人間の悪意に傷ついた時には、味方になってくれればいい――それぐらいの思惑で、マトリフはポップにダイを託そうと思い、まだまだ未熟な新弟子を迎え入れた。

 この時の判断をマトリフが深く後悔することになるのは、また、別の話になる――。 END


《後書き》
 
 71話「デパートに行こう」を元にした、原作隙間捏造話です♪
 でも、厳密に言うのなら、実は、これって隙間埋めとは言えない話なんですが。

 原作では、マトリフがダイの正体に気づいてからポップが訪ねてくるまでの時間は、僅か二コマ(笑)
 本で竜の騎士について調べて、その本を閉じ終わる前にポップがやってきちゃっていますので、悩む時間すらありゃしません。

 でも、文章でゆっくりとマトリフの葛藤を書いてみたかったので、ちょっぴりだけ時間にゆとりを持たせて、悩んでもらうことにしました。

 あの時、マトリフはポップにダイの支えになるようにと忠告していますが、筆者にはこの時点でマトリフがまだそれほどポップを信頼していたとは思えないんですよね。

 重い口調でダイの味方になってやれと言っていますが、ポップならそれが出来ると思っていたわけじゃないでしょう。この時点では、他に適合者がいないからポップに任せるしかない、ぐらいのレベルだったんじゃないかな〜と。

 後になってからバランとの戦いの一件を知ったら、マトリフはむしろポップに「あまり無理はするな」と言う風に、止めていた方が良かったと後悔したんじゃないかと思っています。

 でもまあ、止めてる方向性の忠告を受けても、結局ポップは同じことをした気がするので、別に問題は無い気がしますけどね(笑)


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