『起こしちゃダメだよ』
  
 

 それは、ダイにとって初めて聞く声だった。


 最初は、遠吠えのようだと思った。
 怪物達が遠くにいる仲間を呼ぶ時には、目一杯の声で叫ぶ。喉を目一杯そらし、肺の奥底から息を吐き出して叫ぶ声は、普段とは比べものにならないほど遠くまで響く。

 それこそ全身を使った遠吠えは、普段の鳴き声とは別物だ。聞いただけで、それが特別な呼びかけだと分かるからこそ、遠吠えはめったに行われない。どうしても仲間を呼ぶ必要がある時だけの、特別な叫びだ。
 ダイも、そう多くは聞いたことがない。

 でも、その声を聞いた時には、何を置いても駆けつけることにしている。仲間を呼び集める声になら、真っ先に駆けつけたいと思うから。
 そして、遠吠えは仲間が近づくと同時に収まる。

 だが――その声は、いつまで経っても収まらなかった。すぐ近くにダイもブラスもそろっているのに、ゴメちゃんも心配そうに寄り添っているのに、それでもその声は収まらない。

「うぁああああああ……っ、アバンせんせい…………っ!」

 叫び声は大半が言葉にもなりきっていないわめき声だったが、それでも叫びの中に何度も何度も繰り返し、紛れ込むように呼びかけられるのがアバンの名だった。

 しかし、その呼びかけに応えはない。
 応えられるはずがない……自己犠牲呪文を唱えた人間は、文字通りその身体が四散してしまうのだから。

 遺体すら残らない死――。
 それを受け入れきれないのか、あるいは受け入れたくないのか。アバンが残した壊れた眼鏡を前にした少年は、声の限りに泣き続ける。土砂降りの雨のように途切れること泣く涙を流し、鼻水を垂らしたみっともない顔は、すでにくしゃくしゃだった。

 だが、それを隠したり拭ったりする余裕もなく、魔法使いの少年は泣き続ける。

 それは、聞いているだけで辛くなるような声だった。
 泣き始めてからどれくらい経ったのか……いつまでも泣き止むことのないその声の主に、ダイは近づこうとした。

「ポップ……」

 しかし、歩きかけたダイの服の裾が引っ張られる。

「………………」

 見下ろせば、難しい顔をしたブラスが静かに首を振っていた。
 声をかけてはいけない――声に出さないまま、ブラスはそう告げているのが分かる。
 だが、その理由がダイには分からなかった。

(だって、ポップがあんなに泣いているのに……)

 この島で一番泣き虫なのは、ゴメちゃんだ。ちょっと臆病なゴメちゃんは、怪物の赤ん坊がよくそうするように、些細なことで泣きだしてしまう。

 そんな時、ゴメちゃんをなだめるのはいつだってダイだ。
 怪物の赤ん坊が母親に面倒を見てもらうことで泣き止むように、構ってもらうことで泣き止み、また笑ってくれるようになる。

 なのに、ブラスはやはり首を横に振る。
 いつになく辛そうなブラスのその表情を見て、ダイはポップに近寄るのを止めた。

 ブラスは、この島で一番頭が良い怪物だ。
 ダイにとってそうであるように、ブラスはこの島のみんなの面倒を見る親のようなものだ。ブラスの判断は誰よりも的確で、いつだってみんなを助けてくれる。

 だから、いざという時はブラスの判断に従うのがこの島のルールだ。
 そのブラスが、ポップを黙って見守っている方がいいと判断したのなら、多分、それが一番良いのだろうとダイは思う。でも、ポップをブラスに任せてどこかにいくのも、違うような気がする。

 だからダイは、ブラスやゴメちゃんと並んで、泣き続けるポップをずっと見守り続けた。








「うっ……うぅっ……ひっく……ひっく」

 雨は、いつまでも降り続かない。南国特有のスコールもいずれは止み、雨だれだけになるように、泣き続けていた声もやがて収まっていく。

 日がほとんど暮れかけ、辺りが暗闇に包まれかけた頃になると、ポップの泣き声は号泣から嗚咽へと変わっていた。
 その頃になってから、やっとブラスが動いた。

「のう、ポップ君。いつまでもそこにいては、身体に毒じゃ。こっちにおいで」

 いつになく優しいブラスの呼びかけに、ポップは反応を見せなかった。
 そもそも、ポップの目はブラスの方をちらっとも見ない。壊れた眼鏡に釘づけられているだけだ。
 その眼鏡を、ブラスがそっと手に取った。

「これも、持っていかないとのう。ほら、おいで」

 眼鏡に釣られるように、ポップがようやく目を上げる。
 泣くのには、案外、体力がいるものだ。

 数時間に亘って泣き続けたポップは体力も気力も消耗しきったのか、ぐったりとして元気が無かった。それでも、アバンの眼鏡を取り戻そうと思ったのか、ポップはブラスを追おうとする。
 だが、立ち上がろうとした身体が頼りなく揺れ、倒れかけた。

「ポップ!?」

 とっさにダイが支えたから倒れずに済んだが、ポップはダイに見向きもしない。そのまま、ふらふらとブラスの……というよりは、ブラスの持つアバンの眼鏡を追いかけていく。
 その頼りなげな足取りに、ダイは側に付き添って一緒に歩く。

「ピイィ……」

 ゴメちゃんも心配そうにポップの肩に乗ったが、それにも反応を見せなかった。
 ブラスはそのまま、ポップを自分の家の中へと案内する。
 それを見て、ダイは思い出さずにはいられなかった。

『ああ、お構いなく。私とポップは野宿させていただきますので。なぁーに、これも修行ですよ。魔法使いには、野宿の方が精霊とのつながりが強くなるものですからね』

 修行の初日に、アバンはそう言った。
 ブラスは家の中で休んでくれと勧めていたが、アバンはそう言って家の外で寝ていた。
 が、後でポップがこっそりと教えてくれた。

『だって、この家じゃおれやアバン先生も泊まるにゃ狭いだろ? おめえやじーさんの家なんだから、邪魔しちゃ悪いじゃん』

 ポップの言う通り、ブラスの家はダイとブラスが暮らせるぐらいの広さしかない。二人を家に泊めるなら、ブラスかダイ、どちらかは外で寝なければならないぐらいに。

 それを知っていたからこそ、アバンもポップも気を遣ってくれていたのだと、ダイは今更のように気がついた。
 けれど、今のポップはブラスに案内されるまま、素直に家の中に入る。外にある自分用の寝床に行くと、主張さえしなかった。

「ここで、休むといい。……そうそう、お腹がすいとるじゃろう、何か用意しよう」

 ブラスの部屋に案内されたポップは、逆らうことなくそのまま寝床についた。だが、後半の問いかけにはわずかに首を振る。

「え、でも、ポップ、食べないとおなかがペコペコになっちゃうよ?」

 つい、ダイは口を挟んでしまう。
 いたずらが過ぎて叱られた罰でもない限り、夕ご飯を抜くだなんてダイには考えられなかったからだ。

 が、そう言ってしまった後で、ダイは自分の発言がまるっきりポップに届いていないことに気づく。
 まるで、魂が抜けきったような顔でじっとしているポップに、ダイはそれ以上、何も言えなくなってしまった――。








 その声は、波の音に似ていた。
 寄せては返す波のように、何度も何度も繰り返し、一定のリズムで繰り返される嗚咽。

 ずいぶんと間遠になってはいても、それでも止まない泣き声は、ダイを落ち着かせなくさせる。

 開けっぱなしの窓のせいで、波の音や怪物達の鳴き声を聞き続けるのなんて日常のことなのに、隣の部屋から聞こえるポップの泣き声は、嫌と言うほど耳についた。

 大泣きしていた昼間に比べれば、かすかな声になっているにも関わらず胸に突き刺さる。
 こんなに悲しそうな声を聞くのは、ダイにとっては生まれて初めてだった。そして、その悲しみに引きずられるように、ダイの中にも『悲しみ』が疼く。

(アバン先生……)

 あの優しかった先生は、もう、二度と戻ってこない。その事実が、じわじわと胸に染み渡っていく。

 怪物達に、『悲しみ』という感情がないわけではない。
 怪物にも、ちゃんと喜怒哀楽の感情は存在する。それは、怪物を友達として生きてきたダイにとっては当然のことだった。人間からは見分けがつきにくいかもしれないが、怪物達にも喜んだり、楽しんだりする心はちゃんとある。

 ただ、それが人間とは同じとは言えないことも、ダイは知っていた。
 ダイにとってブラスやゴメちゃんが特別だったのは、彼らの感性がダイに近かったからこそ、だ。

 だけど、平和なこの島でずっとブラスやゴメちゃんと暮らしていたダイは、ごく身近な存在が欠ける悲しみなど知らなかった。
 ポップを見て、ダイは初めて『人が死ぬ』意味を理解したのだ。

(こんなの……絶対に、いやだな)

 心から、ダイはそう思う。
 そして、ダイは理解した。魔王ハドラー……彼がいる限り、こんなことは何度でも繰り返されるのだ、と。

 人間を苦しめる魔王が動き出せば、被害は広がっていく。フッとダイの脳裏をよぎったのは、初めて友達になった人間の女の子のことだった。

(レオナ……)

 レオナにとって大切な人が犠牲になったのなら、彼女の今のポップのように泣くのだろうか……それは、考えただけで胸が痛くなる想像だった。

(そんなの、ダメだ……っ!)

 レオナを……大切な友達を、泣かせたくない。
 ハドラーを、許せない。

 ダイの中でその二つが強く結びつき、強い決意へと変わる。魔法使いの少年のすすり泣きを聞きながら、この夜、小さな勇者は旅立ちの決意を固めた――。








 聞こえるのは、静かな寝息だった。
 もう、泣き声は聞こえない。涙も、流れてはいなかった。

 まあ、さんざん泣いたせいで涙の後やらなんやらが顔にこびりついてはいたが、それでも今のポップの顔は穏やかだった。
 昨日はうつろだった目も閉じられ、気持ちよさそうに寝息を立てている。

『まったく、この子はねぼすけで困りますよ』

 修行を始める前に、アバンが決まってそうやってぼやいていたのを思い出す。スペシャルハードコースを希望したダイは日の出前から修行を開始したが、通常コース希望のポップの修行スタートは遅かった。

 だけど、口ではそう言いながら、アバン先生はポップを起こさないようにといつだって声を潜めていた。

 その気持ちが、今のダイには分かるような気がする。
 眠っているポップをじっと見つめながら、ダイはこっそりと胸の中だけで思う。

(おやすみ、ポップ)

 今日、ダイはデルムリン島を旅立つ。
 大魔王バーンを倒し、レオナを助けるために。幸いにもブラスが用意しておいてくれた船があるから、それを使えばロモスへ行けるだろう。ロモスまで行けば、レオナのいるパプニカの場所を聞くこともできるはずだ。

 ダイは、一人で旅立つつもりだった。
 ――本当のことを言えば、ポップにもついてきて欲しいなとも思うけれど。ついてきてもらうのが無理だとしても、せめて、別れぐらいは言いたいのだけれど。

 実際、今朝、ダイはブラスにそうした方がいいと進められた。
 島を出るなら、その前に一度、ポップにも声をかけてはどうか、と。そのつもりで眠っているポップの所に来たダイだったが、眠っているポップを見て、考えが変わった。

 昨日、あれほど悲しんでいたポップが、今は安らかに眠っている……それなら、ダイはとても彼を起こせないし、起こしたくもない。
 やっとポップがあの悲しみから救われたのなら、それが少しでも長く続いて欲しいと思う。

 それが根本的な解決にならないとは分かっていたが、それでもダイはポップの眠りを妨げたいとは思えなかった。
 たとえそれが短い安らぎだったとしても、それでも眠っている間は悲しみから遠ざかれるのなら。

 せめて起こさないようにする以外、ポップを助けられる方法がダイには見つけられない。
 だからこそ、ダイはポップを起こしはしなかった。







 魔法使いの眠りが少しでも永く続くように……そう願った小さな勇者の思いやりは、予想外に早く破られることになる――。  END 


《後書き》

『……じいちゃん。ポップを起こしちゃだめだぜ……』

 アバン先生亡き後、泣き寝入りしたポップについてのダイのこの台詞、気の利いた慰めとか、適切な対処のできないダイの不器用な優しさが感じられてめっちゃお気に入りです!

 なのに、残念なことにこの台詞ってアニメでは改変されているんですよーーっ(泣)
 旧アニメでもそうですが、リメイク版でも

『……じいちゃん。ポップをよろしく頼むよ』
 
 になっています。が、個人的にはこの台詞が気に入りませんっ。ポップの嘆きに対して、ダイの考えや思いやりが薄まって感じられるような気がするんですよね、これだと。

 嘆いているポップに対してなんの感想もなく、自分ではなくブラスに任せっきりにしてる気がして、非常に残念でなりません。

 個人的な意見ですが、ダイにはポップの今後を考えるほど頭の良い決断をするのではなく、目先のことだけしか考えずに起こしちゃだめだと言い残す方が合っている気がするんですよ。


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