『誰かの手の中に』 |
その本は、お世辞にも綺麗と呼べるような状態の本では無かった。 だが、手擦れや経年劣化は激しくても、多くの人に読まれていたことを証明するように、革表紙は滑らかさだった。革製品はしまい込んでいるだけでは、かえって劣化が激しくなり、ボロボロになってしまう。 しかし、革は適度に人の手に触れることで滑らかさを保ち、しなやかさを強めていく。使い込んだ革製品とは、独自の味わいを醸し出すものだ。 中を開けてみれば、書かれた文字は全て手書き……それも、正規の書記官が書くような定型的で整った字ではない。 必ずしも落ち着いた環境で書かれた文字で無いことを示すように、その字には不安定さがあった。同じ人の手によって書かれた日記の字にも、その日ごとに多少のブレを生じるように、その本に書かれた文章にもそんな揺らぎがある。 だが、それでも出来る限り丁寧に、分かりやすく書こうと努力した跡がはっきりと見て取れる。 手を抜くこと無く、最初から最後まできっちりとした字で埋め尽くされた一冊の本。それでいて、その本は読みにくさは全く感じられなかった。ところどころに簡単なスケッチが差し挟まれているせいもあり、とっつきやすい。 むしろ、手書きならではの崩れがどこか温かみを感じさせて、かえって惹きつけられる――そんな印象を与える本だった。 本の装丁というのは専門知識を必要とする職人技術だが、アバンはすこぶる器用な上に多芸多才な男だ。革細工ができるかどうかなど確かめたことはないが、これぐらいのことは出来ても何の不思議もない。 そうやってフローラが本の表紙を撫でていると、恐縮しきったような声がかけられた。 「あ、あのー、フローラ様……その本、長いこと勝手に借りっぱなしにしちまってて、ほんとすいませんっ! いやっ、マジで。それがカール王国の物だって事は知ってたんだけど、ずっと忘れていたって言うかっ」 焦りまくった声でそんなことを言うポップの言葉は、おそらく真実なのだろう。人から借りた本を、うっかり忘れてずっと持ったままにしてしまうように。 実際、この本をポップは無造作に机の上に載せていた。隠す気配など、微塵も無かったのだ。 カール王国に留学するに当たって、ポップが持ってきた荷物は驚くほど少なかった。それこそ本物の旅人のように、片手で持てる程度のわずかな着替えと、身の回りの品しか持っていなかった。 その中で、唯一、普通の旅人らしくないのが本だった。と言っても、二、三冊程度しか持ってはいなかったが。 ただ、どの本のしょっちゅう目を通していたらしく、読みやすいようにポップの部屋に割り当てた机の上に置いてあった。 「まさか、アバンの書をあなたが持っていたとは思わなかったわ。てっきり、魔王軍との戦いで無くなったとばかり思っていたもの」 大げさに言うなら、それは奇跡的な邂逅だった。 国にもよるが、貴重な文献は秘匿と安全のために城の図書室で保管する場合が多い。 しかし、カール王国では国立図書館で保管するのが決まりだ。15年前の魔王ハドラーとの戦いを経験したフローラは、魔族の前では王城が決して安全な場所ではないと知ってしまった。 なにしろ、魔王が直々に王間にいたフローラの目の前に現れたぐらいなのだから。 もし、万が一にも落城したとしても、民の戸籍や税収、領地や歴史などの記録が残っていれば、それは復興のための大きな力となる。そう思い、それらの記録と共にアバンの書も図書館で保管していたのだが、それは裏目に出てしまったようだ。 大魔王バーンとの戦いで、カール王国を攻めてきたのは超竜軍団だった。ドラゴンの炎の前に、多くの建物が焼かれてしまった。残念ながら、王城も図書館も大きな被害を受けた。 その中でアバンの書が消失してしまったことは、フローラにとっては大きな痛手だった。 許可の無い者には閲覧を禁じ、容易に開けられないように魔法の鍵をかけた宝箱で保存していたのだが、平和を取り戻してから確認したところ、火災からは逃れたもののその宝箱は空になっていたと言う。 宝箱を開けたのが魔王軍の仕業なのか、それとも戦いが終わった後で火事場泥棒が盗んでいったのか……残念に思いながらも、諦めていたことだった。 「え、えっと、この本、おれがカールから持ち出したわけじゃ無くって! そもそも、その本は大戦中、マトリフ師匠がカールが滅びたならおめえらが持ってた方が役に立つって言ってたから……っ」 早口で言い訳するポップに対して、フローラはわずかに小首を傾げて見せた。 「まあ、カール王国が滅びたですって?」 そう、わざとらしく聞くのは、少し意地悪が過ぎるというものだろうか。 「いっ、いやっ、そうじゃないって知ってますってば! でも、あの時はカール王国は滅亡したって師匠や姫さんから聞いていたから、てっきりそうだと思っていただけでっ。す、すみませんっ」 ペコペコと頭を下げる姿が、あまりにもおかしくて、フローラはついに耐えきれずに笑い出してしまう。 「ふふっ、こちらこそごめんなさいね。ちょっとからかいが過ぎたわね……いいのよ、マトリフの言う通りなんだから」 かつてのアバンの仲間であり、フローラ自身も何度も会ったことのある偏屈な老魔道士を思い浮かべながら、彼女はくすくすと笑う。 魔王軍によりカール王国が壊滅的な被害を受け、女王フローラが王城を脱したのを知れば、それをカール王国の滅亡と冷静に判断するだろう。そして、滅びた国の所有権を無視して、アバンの使徒達にとって最も役に立つ物を選び出し、与えたとしても何の不思議もない。 「この本を勝手にカールから持ち出したのって、マトリフだったんでしょう? 相変わらず、困った人ね」 マトリフはカール王城に来たこともあれば、カール図書館に来たこともある。その上、彼は世界に名だたる魔法使いだ。彼の前には、どんな魔法の鍵も意味を成さない。その気になれば、鼻歌交じりであっさりと開けてしまうだろう。 そして、マトリフはアバンの書の価値を知り抜いていた。著者であるアバンを除けば、マトリフほどアバンの書のことをよく知っている者はいまい。 「こいつは、あんたに預けらァ」 マトリフがそう言って本を差し出してきたのは、アバンの死……正確に言うのならば、魔王ハドラー共々アバンが凍れる時の秘法で時を停止したという報告の後のことだった。 その頃のことは、フローラは実はよく覚えていない。 (帰るって……言ったじゃない!) なるべく早く帰る――アバンは、そう言ったのだ。 それらの日々が、無に帰した――。 マトリフがフローラに個人的な面談を申し込んできたのは、そんな頃だったのだ。 「これは……」 その時のアバンの書は新品だった。 しかし、見慣れた字というわけではなかった。 「あいつが書き残したモンだよ。相当前から、書いていたらしいな。旅の最中も、時間を見つけてちょこちょこ書いていやがった」 それを聞いて、思い当たる節があった。 騎士としては下っ端に近かった彼には書類仕事など無かったはずなのに、アバンが図書室でせっせと何かを書いているところをフローラは何度となく見かけた。 当時、何を書いているのかと尋ねたことはあるが、彼はいつも笑って答えたものだ。 『内緒ですよ。……今は、まだ、ね。 (今が……その『時』だと?) 震える手で、フローラはアバンの書をめくる。ざっと見て、それが一種の教科書だと悟る。 だが、書かれている内容は、とてもじゃないが一般的な教科書とはかけ離れていた。 惜しげも無く書かれた武芸の高度さ、使い手を選ぶであろう魔法の数々、そして苦難の戦いに打ち勝つための名言――一族の秘伝として、密かに語り使えるに値する知識が、そこには記されていた。 「この本を……なぜ、私に?」 これは、ただの本というには、あまりにも貴重な品だ。これは、アバンの後を継ぐ者にこそ相応しい本だ。 「……あんたに渡すのがいいと思ったんでな」 ポリポリと頭を掻き、いささか気まずそうにマトリフは言う。 「まあ、そいつをどう扱おうと、あんたの自由だ……好きにしな。悪いが、オレはちと野暮用で忙しくてな。この辺で失礼するぜ」 皮肉に笑い、マトリフはフローラの手にアバンの書を残して去って行った。彼の言うところの『野暮用』が、凍りついたアバンを助け出すための算段だったとフローラが知ったのは、アバンが生還した後のことだった。
心のままに振る舞っていいのなら、ずっと手元に置いておきたいと思った。 しかし、この本を志を持つ者の手に渡るのであれば……それは、きっと大きな力となる。 アバンは……自分の後を継ぐ者を、いや、自分を越える者を育てたいと望んでいたのだ。だからこそ、自分の持つ知識を惜しげも無く書き記し、本とした。 もしかすると、いずれ後進の育成のために使う教科書として用意したのかもしれない。 アバンは、良くも悪くも用意周到で先のことを考えて行動する男だった。 この本も、その一つだったのかもしれない。 「……ひどい、人ね。本当に無責任なんだから……」 思わず、恨み言が漏れてしまう。 まったく、無責任にも程がある。 ――アバンの書は、そのまま広く世に広めるのには問題がある。 だが、力を望む者が必ずしも善人であるとは限らない。 そもそも、武芸にせよ、魔法にせよ、本来ならば師となる人間が弟子に基礎から教え込み、心構えを鍛え、素質を見極めた上で、この人物になら秘伝を教えてもよいと確信できる段階で伝授するものだ。 それを思えば、迂闊に写本するのもためらわれた。現段階では自由に閲覧させるのなんて、もっての外だ。 (もっと、教育が充実していればいいのだけれど……) アバンが弟子を育て、教え、導くのが最善だった――だが、それができないのであれば、フローラが代わりを務めるしかない。 しかし、女王であるフローラには、勇者であるアバンとは違う力がある。 時間こそかかるが、それを確立させればアバンの教えを広く広め、彼の技や志を、次代を担う子供達へと受け継がせることが出来る。 (……もっとも、そう簡単にはいかないでしょうけどね) フローラはつい、苦笑する。 現在の急務は、フローラが政権を掌握し、確かな財源を確保することだ。 もしかすると、フローラの代では果たせない大事業となるかもしれない――だが、それを理解した上で、フローラは微笑んでいた。 「いいわ……引き受けてあげる」 決意は、すでに固まっていた。 そう思いながら、フローラは最後に、名残惜しげにアバンの書を胸に抱きしめた――。
若い頃の自分を思い出し、なんとも気恥ずかしくなるような、それでいて懐かしくてたまらない思いで胸を見たし、フローラはアバンの書を見つめ続ける。 あの決意の日から、15年と言う時間が過ぎた。 復活したアバンが今度こそ魔王ハドラーを倒したものの、彼は結局はカール王国に戻ってきてくれなかった。アバンの書に追加して欲しいと渡された原稿が届いたくせに、顔も見せてくれなかった薄情な勇者を思い出してフローラはわずかに眉をひそめる。 だが、それでもアバンの書に託された思いは、フローラにとって大切な支えだった――。 「ほんっとすいませんでしたっ! 遅くなりまくっちゃったけど、その本、返しますから!」 何回も頭を下げながらそう言うポップに、フローラは手にした本を逆に返す。 「あら、別にいいのよ? マトリフの判断通り、これはアバンの使徒こそが持つのに相応しい本だと思うわ」 少しばかり寂しくはあるが、それは本心だった。そして、そうしても今となっては何の問題も無い。 今や女王フローラの王配として、カール王となったアバンは、主に教育制度についての政務を取り仕切っている。フローラも力を貸しているが、アバンが主導で行われるそれは、より強く彼の意志が反映されるだろう。 アバンの書も、すでに問題ではない。 アバンの書があれば参考資料にはなるだろうが、どうしても必須というわけではないだろう。それならば、実際に役立てることの出来る者が持っている方が、いいと思える。 「いえ! これは、フローラ様が持っていた方がいいっすよ!」 「ふふ、そんなことを勝手に決めていいの? あなたの仲間達は、手元に置きたいと望んでいるかもしれないのに」 アバンの使徒は、ポップだけではない。 「あー、それはない、ない! ダイを除いた全員がこの本は読んでいるし、っていうか、あいつらがおれに持ってろって押しつけたんだから! これからあちこちを移動するし、無くしたら困るからパプニカに置いてもらおうと思ったのに、姫さんもヒュンケルもおれが持つべきだって言い張りやがって……! マァムもマァムで、いっつもヒュンケルの味方をするし!」 不満を隠そうともせずにそう言うポップに、フローラはついつい笑ってしまう。 「でも、ダイ君のためにも君が預かっていた方がいいんじゃないかしら?」 そう言いながら、フローラは自分のずるさを自覚していた。 ダイのためになるのなら、ポップは自分の意思に反しても、この本を大切に持つだろうと思ったのだ。 「あ、それって一番無駄ですよ。あいつときたら本がすっげー苦手で、ろくすっぽ読めないわ、無理に読ませようとすると寝ちまうわで、ぜんっぜん意味がねえもん」 仮にも勇者に対して、ひどい言いようである。 「おれはどうせ内容はもう覚えちゃったし、フローラ様が持っていた方が、絶対にいいです! だって……アバン先生はきっと、これをフローラ様のために書いたはずですから!」 さらっとすごいことを言い、ポップは自信満々にアバンの書をぴらりとめくる。 「これが、なにか?」 タイトルを書く扉の前に存在する見返しには、その本を制作するに当たっての協力者の名や、感謝の言葉などを書くことが多い。しかし、アバンの書の見返しはただの余白……白紙にすぎない。 (そう言えば、これはアバンが指定したのよね……) 量は多くはなかったが濃密な追加の原稿には、表紙や見返しはできれば元の装丁を利用して欲しいとの希望が書かれた短い手紙が添えられていた。 職人に言わせればかえって手間がかかると言われたが、それでもフローラはアバンの希望を汲んで、極力元の装丁通りに作り直させた。 「おれも最初は気づかなかったけど、何回も読み返している内に気がついたことがあるんだ。ほら、見てくださいよ」 そう言って、ポップはアバンの書を窓へと向けた。 「…………!」 思わず、フローラは目を見張る。 そこに描かれているのは、花畑だった。 「最初は花に意味があるのかと思ったけど、見たところ有り触れた花ばかりだし……それなら、これってフローラ様の名前にちなんでいるんじゃないっすか?」 フローラの名の由来は、花の女神――確かに、花のモチーフは彼女への暗示ともとれる。 (ここは……) 森に囲まれた小さな花畑。妖精が棲んでいるとの言い伝えるのあるその花畑は、フローラにとって忘れられない場所だった。 カール王家の言い伝えに従い、一人でその花畑に行き、定められた花を摘むという豊穣の儀式の準備を行っていたあの日。 フローラにとっては、決して忘れることの出来ない思い出。 しかし、それは間違いだと、この魔法使いの少年は教えてくれた。 「ふふ……っ、そう、だったのね」 思わず、笑みがこぼれ落ちる。 (きっと、マトリフもこれに気づいていたのね) だからこそ、彼はフローラにこの本を渡したのだろう。この本をずっと手元に置き、何度も読み返していたのならばフローラも自力で気づいたかもしれない。 だが、アバンの書を渡すべき者へ手渡すことばかり考えて手元に置かなかったフローラは、気づかなかった。 アバンの書を大切に扱い、相応しい者に渡そうとするあまり、とんでもない遠回りをしてしまったものだと、フローラは思う。しかし、気がついたのなら、もう迷うことはない。 「ありがとう、ポップ君。それでは、この本は私が預かるわ」 15年の時を経て、今度こそフローラは思いのままに、アバンの書を大切そうに抱きしめた――。 END
《後書き》 ダイが行方不明中のポップの留学中のエピソードの一つで、カール王国編です♪ えー、この作品はリメイクアニメでフローラ未登場の時期に書いたため、アニメの設定とは無関係&アバン先生のスピンオフ漫画もまるっと無視しております(笑) アバン先生がアバンの書をいつ書いたかは分からなかったのですが、あの分厚さで全部手書きなら、書くのに相当の時間がかかるとは思ったので、魔王ハドラー討伐の旅に出る前から書いていたと考えました。 で、旅の合間にちょこちょこ書き足して、死を覚悟したハドラーに凍れる時の秘法をかける戦いの前に完成させたと、捏造設定しています。 原作で、ダイとポップがアバンの書を死の大地へ持っていくエピソードが好きなのですが、その後、アバンの書がどうなったのかなというのは、ずーっと気になっていたんですよ。 フローラ様からしてみれば、自分が知らないうちに大事な本を勝手に横取りされていたんだし、怒っていいと思いましたよ(笑) 残念ながら、作中でダイ達がアバンの書を持っていることをフローラに知らせるシーンが無かったので、戦後設定で勝手に捏造しまくりました。 行方不明になったダイは持っていく余裕があったはずがないし、ヒュンケルは自分には荷が重いと持つ資格がないと思い込んでいましたしね。 マァムは……偏見ですが、本を地道に読んで勉強するタイプに見えなくって(笑) レオナが持つと、カール王国の物をパプニカ王国が奪取したことになるので、最悪国際問題になりそうだし。 そんなわけでポップが持つのが一番無難かなと思いましたが、フローラ様にアバンの書を持たせたいという妄想が突如発生したため、今回の話になりました。 《後書き・追記》 閲覧者からアバンの書には15年前のハドラーとの対決による無刀陣も記載されているので話と矛盾するのではないのかというご指摘があったので、内容を一部改稿しました♪ |