『桜の花の咲く頃 ー後編ー』 |
(こんなんで、絶対、痴漢なんか引っ掛かるわけがねえっ!) と、心の底から思いつつ、桜並木の下を無目的に散歩するのはひどく空しいものだった。だいたいポップの主観では、よりによって男の自分に手を出すような痴漢など、いるとも思えない。 囮も何も、餌にもならないままうろつくなんて空しいとしか思えなかった。 「はあ……」 いい加減に歩くのも疲れて、ポップは一本の桜の木の下で足を止める。 (こんな馬鹿な用事じゃなく、できればマァムと来たかったんだけどなぁ) 桜を少し濃くしたような髪の色をした少女を思い浮かべ、ポップはちょっと想像してみる。 『え? お花見?』 そう聞き返す声と、嬉しそうな顔をポップはリアルに想像できた。 『いいわね、じゃあ、みんなで行きましょうよ! 楽しみね』 ――悲しいことに、その返事まで予測がつく。 (……んな、展開になりそうだよなあ、あいつ、鈍いから〜。それに、ダイも来たがってたし、姫さんだって面白がってついてくるだろうしな〜) 考えれば考えるほどやる気が失せてくる想像に溜め息をつくポップは、自分に注目している視線には気がついていなかった。 ただ、ポップがあまりに早足で、逃げるように歩き回っていたから、声を掛ける隙がなかっただけだ。 桜を憂い顔で見上げている、ちょっと他のことに気を取られている可愛い女の子――多少酒が入り、気が大きくなっている青年が見逃すはずもない獲物だった――。 「よお、彼女、誰かを待ってるの?」 そうかけられた声が、自分に対する物だとポップが認識するまで一拍の時間がかかった。 「もう、冷たいなあ。返事ぐらいしてくれたっていいだろ?」 と、慣れなれしく肩を抱かれてから、ようやく自分への呼び掛けだと気がついた。 「なんか用?」 「へえ、意外とハスキーな声なんだ。でも、それもいいねえ」 と言われて、やっとポップは自分が女装したままだと思い出した。 一応、ポップの声はそれなりに低くなってはいるが、まだ完全に変声期が終わりきったわけではないので、男性の声としては多少の甲高さが残っている。 しかし、正体がバレなくてラッキーと思えたのも、その男が肩に掛けた手に力を込めて引き寄せようとするまでだった。 「ねえ、一緒に向こうで遊ばない? 君みたいな可愛い子待たせるような奴なんて、ほっといてさ」 (ナ、ナンパかよッ!?) したことはあっても、されたのはこれが初めてだ。――まあ、相手が男とあっては、嬉しくもなんともないが。 「は、離せっ、ち、違うんだってば!」 と、相手の手を振り払おうとしたが、かすかに酒臭い息を吐いてくる青年はしつこかった。 冷静に見れば、いくらなんでもポップの声の低さや口調には不自然さがあるのに、それに気がつかないのはやはり酔っているせいか。 「いいじゃん、遠慮なんかしなくても。心配しなくっても、なんにもしないってば」 (うそつけぇええっ、チャンスがあったらする気満々だろっ!?) 自分もナンパはすることがあるだけに、男の本音と下心は簡単に見透かせる。それだけに本気で嫌だが、男はどうやら武術にはまるっきり素人でもないようで、ポップがいくら腕を振り切ろうとしてもそう簡単には離してくれない。 アバンから基本的な格闘術は習っていたが、ポップが得意とするのは相手の攻撃を受ける前に避ける方法だ。一度掴まってしまうと、腕力に乏しいポップには相手の手から逃れるのは難しくなる。 (あいつらめ、何やってんだよ〜っ!?) 多少の怒りを込めつつ、ポップはちらっと後方にいるはずの三人組の方へ目をやった――。 「おい、おい? 助けた方が、いいんじゃねえの? あの魔法使い、嫌がってるみてえだぜ?」 と、問うヒムに対し、ヒュンケルはすぐにでも飛び出しそうに身構えている。 「もう少し様子を見てからでいいだろう。第一、オレ達が探しているのは暴漢や酔っ払いじゃない。痴漢だ」 治安的には問題のあることをさらっと言うラーハルトの脳内には、倫理という言葉は存在しなかった。 実際、ラーハルトにしてみれば、なかなか痴漢が見つからないのに苛立っていた。ラーハルトにとっては、これはレオナからの依頼という意識はない。彼が絶対の忠誠を捧げる、ダイからの直接命令に等しい。 主君のために一刻も早く解決したい彼から見れば、囮役のポップが本命の痴漢と出会う前にナンパされようが、どうしようが関係ない。 そんなのは本人が解決すればいいとばかりに知らん顔を決め込み、見てみぬふりを貫く気、満々だった――。 (あの薄情者どもっ! 後で覚えていろよっ) ナンパ男に辟易しつつも、ポップはこちらを見ている癖に動こうともしない脳味噌筋肉帯を、腹立たしく睨みつける。 このナンパ男ごと、あの役立たずの三人組も魔法で一掃したらどんなにスッキリするだろうと思いつつ、ポップは半分……いや、八割以上その気だった。 「わわっ!?」 いきなり、ポップの足下から真上に吹き抜けた風が、膝丈のスカートをフワリと持ち上げる。 「おおっ!?」 本能的に身を乗り出して目を見張っていた青年は、吹き上げた風の行き先など見なかっただろう。二度目の風は二人の頭上の桜の枝をスパッと切り裂き、花のたっぷりとついた枝が重力にしたがって降ってきた。 「ぐぅおおぉおっ!?」 枝に頭を一撃された青年が、奇妙なうめきを上げてぶっ倒れる。頭を強く打って気絶したらしいが、その顔はひどく――ある意味で、安らかだった。 同情すら失せるような、にやけた顔のまま気絶した男には一切目もくれず、ポップは驚きに目を見張るばかりだ。 ポップは最初から、侮っていた。どうせ今回の痴漢なんてのは、魔法をちょっとかじった程度の素人に違いない、と。 かまいたちの原理を使用するために風が巻き起こるが、それは余波として発生する副次的な作用にすぎない。 威力を弱めて魔法を放つのは、強い魔法を放つよりも難しいことを考えれば、使い手はよほど魔法初心者の素人か、でなければ微弱なレベルまで自在にコントロール出来る達人の仕業だろう。 もっともそれを承知しながらも、ポップや三賢者達は前者の可能性が高いと考えていた。 理屈で言えば、達人の可能性もあるのは確かだ。 だが、生半可な腕では、真空魔法でスカートめくりなんて真似はできやしない。少なくとも、ポップだったらまずやりはしない。 その上、一歩間違えれば、スカートだけでなく女の子にも被害を加えてしまう危険を考えれば、手でまくった方がよっぽど早い。 加えて、相手に絶対怪我をさせないだけの自信と度胸、さらにはそこまで下らないことに情熱を燃やせるだけのスケベ根性を合わせ持っていないと無理だ。 だからこそ、ポップは今回の犯人は、たまたま弱い魔法を使えるようになったばかりの初心者のいたずらと思い、それほど熱心に探しもしなかったのだ。 (これ……っ、初心者なんかの魔法じゃねえっ) ポップのスカートには手加減した風を送りつつも、続け様に狙った木の枝だけを見事に狙ったこの腕前。 そして、答えが見えた以上、ちんたらと囮なんかをやっている場合ではない。倒れた青年を無視して、ポップは魔法が飛んで来た方向へと走り出す。 「あっ、こらっ、囮がどこにいくんだよっ!?」 突如、人気のない方向へ走り出したポップを見とがめてヒムが止めるが、ポップは足を止めなかった。 「おい、てめえら、しっかり辺りを見とけよ!」 そう叫ぶと同時に、ポップは手を伸ばして呪文を発動させた。 「イオラ!」 「えっ、おい、ここでそんな呪文なんか使う気かよっ!?」 思わずヒムが、大声を出すのも無理はない。 いくらこの場所には人がいないとはいえ、爆裂呪文は目的物にあたってから大炸裂を起こす呪文だ。その余波だけで、さっきいた場所に被害が及ぶだろう。 一瞬、花見どころではない大惨事が脳裏を過ぎったが、一つの茂みの奥からヒョイと手が突き出たのを、卓越した視覚を持つ三人は確かに見た。 だが、ポップのさっきの言葉を聞いた三人にとっては、ほんのわずかの異常でも見逃しはしなかった。 「――っ!?」 皺の浮いた手が、ポップの物と負けず劣らずの強烈な魔法の光を生み出す。 結果、ゴミ山を吹き飛ばすだけの被害にとどまったその魔法効果が収まると同時に、三人は一斉に動きだしていた。 三人が集まった場所に、ポップがゆっくりとやってきた。 「やっぱり、あんただったのかよ……!?」 ポップのその言葉に、堂々と茂みから顔を覗かせたのは、ヒュンケル達にとっても知己に当たる初代大魔道士様だった。 「そいつぁ、こっちの台詞だな。どっかで見た面だと思ったら、まさかおまえさん本人だったとはな。だったら、余計な真似をせずに見物と洒落込んでた方がよかったか?」 ケラケラと笑って見せる師匠に対し、ポップは今更ながら自分の姿を自覚させられたのか、顔を赤くする。 「う、うるさいな、人の格好のことなんかどーでもいいだろっ!? それより、いったいなにやってんだよ、師匠っ!?」 「ん〜? ま、言うなれば、パプニカならではの春の風流を楽しんでいた、ってところかねえ?」 例年よりずいぶんと遅れたが、パプニカにもやっと、春先特有の強い風が吹き出した。そして、吹き抜ける風が散らすのは、桜の花びらばかりではなかった。 「きゃあっ!?」 「いやんっ」 と、甲高い悲鳴を上げる女の子達が、裾の短いスカートに手を伸ばして、それを抑える。そのしぐさは、返って彼女らのスカートの短さや、一瞬むき出しになった太股の白さを際立たせるだけの行為にすぎない。 男達にとっては、少なからず目の保養になるその光景に、老魔道士は満足げな視線を送る。 「けーっけっけけ、やっぱ、パプニカの春はこうじゃなくっちゃいけねえな」 ひどくご満悦の様子で、マトリフは酒を並々と注いだ杯を高く掲げた。 が、誰一人として、彼に賛同する者はいない。 達人を超える技量を持つ魔法力の粋を凝らし、よりによって女の子のスカートめくりをしていたなどと……! 『ああ、今年は春一番が遅くって、せっかくの桜の時期だってえのに、若いネエちゃん達のパンチラも拝めなかったかな〜。ちいっと、人工的に風を起こしたまでだ』 さらに、マリンへのセクハラは『知り合いだし、ただの挨拶をしただけ』だと、ぬけぬけと言ってのける図々しさだ。 さらには、とにもかくもようやく事件が解決したのだからと、念願の花見をしようとしたレオナ達にちゃっかりとついてきて、酒をかっくらっている始末だ。 「なんって人騒がせな人なの……さすがはポップ君の師匠よね」 本人に当たるだけ無駄だろうと、その弟子に向かってこっそりと文句をこぼすレオナに、ポップは一言だけ反論した。 「そこ、おれと関係ねえって……」 もっとも、その人騒がせっぷり振り回されたポップにしてみれば、文句を言いたい気分はまったく同じだが。 「やっぱり何度見てもいいもんだなぁ、桜ってのは。粋な花じゃねえか、パッと咲いて、パッと潔く散っていく……こんな風に生きてみてえもんだぜ」 「ふーんだ。100年も居汚く生き延びといて、どこが桜みたいな人生なんだよ?」 憎まれ口を叩く弟子を物ともせず、マトリフはいつになく上機嫌に冷やかす。 「ふん、桜の良さも分からねえガキが、人生を語るにゃまだ早えっつうの。それより、おまえ、せっかくの花見ならあの時の格好で来て酌をするぐらいの余興は見せたらどうだ?」 どう聞いても本気とは程遠いからかいにもかからず、ポップの顔は真っ赤に染まる。 「な……っ、あ、あんな恥ずかしい格好、もう、絶対するもんかっっ!」 「えー? どうして? おれも、見てみたいよ!」 と、膨れっ面で割り込んできたのは、ダイだ。 「レオナやヒュンケルや、ラーハルトに、ヒムも、マトリフさんも見たんだろ? なのに、おれだけ見れないなんてずるいや!」 ダイにしてみれば、一番よくポップを知っているのは、自分でいたいと思う気持ちがある。 なのに、他の人達だけ知っていて、自分だけ見ていないポップの一面があるだなんて、なんとなく面白くない。 「どーゆー理屈だっ、それはっ!? あんなの、見たって面白くないっつーんだよ!」 ポップにしてみれば、一生の恥とも言えるあんな記憶など、関係者の脳裏から抹消したいぐらいの代物だ。 親しい相手に、わざわざそれを知られるだなんて耐えきれない。 「あ、待ってよ、ポップ! どこ行くんだよ」 置いていかれてはたまらないと、ダイが慌てて後を追う。怒らせたのかと不安になったが、ポップは立ち止まって、ダイが追いつくのを待ってから、くしゃくしゃっと頭を撫でてくれた。 「どこって、屋台に決まってるだろ? せっかく花見に来たんだ、どうせなら楽しまないとな! おまえも来るか?」 いかにもポップらしいその言葉を聞いて、もちろん、ダイの答えは決まっていた。 「うんっ! おれも行くよ!」 ポップと一緒にいられる時間――それは、ダイにとっては、どんなことより優先される優先事項だ。 女の子の格好だろうと、そうじゃなかろうと、ポップが側にいればそれで十分だ。 「ホント、おまえって単純な奴だな〜。やっぱ、お子様はお祭りが好きってか?」 単純と言われても、お子様扱いされても、ポップと一緒にいられる嬉しさの前では色褪せる。 「じゃあさ、迷子にならないようにしっかりおれの手を繋いでてよ、ポップ!」 ポップの手を握りしめると、嫌がる気配もなく握り返してくれる。その感触を楽しみながら、ダイは楽しそうに屋台に向かって歩きだす。 「あ、待ってよ、ダイ君、ポップ君! ちょっと、あたしを置いて行く気!?」 花などそっちのけで、じゃれあうように騒ぎながら遠ざかっていく弟子とその仲間達の姿を見て、老魔道士はニヤリと笑って呟いた。 「へっ――若いってのはいいねえ」
「なぁ……オレ達、こんなところで、なにしてんだろーな?」 途方に暮れたようなヒムのボヤきに、ラーハルトはいたって冷淡に答える。 「ボヤく暇があったら、手を動かせ」 無言のままだが、ヒュンケルもせっせとゴミの収集や分別に余念がない。 ラーハルトが事件のあらましを報告した際、ダイは喜ぶどころかひどくガッカリした顔を見せたし、珍しくも不機嫌そうな様子も見せた。 (しかし、何がいけなかったのだろう?) ダイ本人すら自覚していないような淡い恋愛感情に、この朴念仁なハーフ魔族が気づくはずもない。 ポップが女装して囮になった話や、軟派な青年が彼に絡んだ話をした時に、ダイが目立って不機嫌になった事実にさえ、気がついていないのだから。 原因追及そっちのけで、主君の機嫌を直すためにはどうすればいいのか、ひたすら悩みだしたラーハルトに悪魔のごとく囁き掛けたのがレオナだった。 『ゴミ捨て場が散らかったって苦情がきているのよ。あれをなんとかしてくれたら、ダイ君に執り成してあげてもいいんだけど?』 もちろん、通常ならば、ラーハルトもそんな取り引きに応じなかっただろう。誇り高い彼は、ゴミ掃除などやったこともないし、やりたくもない。 が、感情は常に理屈を超える。 ちょっと考えれば、ダイはいつまでも不機嫌を引きずるような性格でもないし、レオナに取り直してもらわずとも、ポップと一日遊んだ後は至って上機嫌になると分かりきっているのだが――。 が、追い詰められた心境の者は、見え透いた詐欺にもたやすく引っ掛かるものである。 その辺の事情は見えていただろうが、無口なヒュンケルは真実を説明しそびれたまま、せめても友情とばかりに、無言のまま友に協力し続けている。 そして、意外と人情派なヒムもそれに巻き込まれ、協力しているとはいえ――つい、こうボヤくのも無理はないだろう。 「なあ……薄々思ってたんだけど、ひょっとしてオレが一番、割を食ってるんじゃねえのか?」 その問いに、答える者もなく、ただ、桜の花びらだけがはらはらと舞い落ちる。
《後書き》 しかも、無駄に長引いてしまいましたよ、ついついマトリフやダイの出番を増やしたせいで! |