『闇の翼 1』 |
その塔には、一匹の『竜』が閉じ込められていた――。
通常の塔などとは、比べ物にならないほど厚い石の壁。 一見ただの鋼鉄に見えるが、良く見ればその鎖の一つ一つに、精緻な呪文の紋様が刻まれているのが分かるだろう。 この魔法陣も、鎖も、部屋の中心にいる人物を戒めるためのものだった。 体付きは逞しく引き締まったものでありながらも、顔立ちにはどことなく少年っぽさが残っていて好青年と判断される印象だろう。だが、闇の中でさえ金色に輝くその目が、額に輝く竜の紋章が、背に生えた漆黒の翼が、彼の印象を人間離れした生き物へと変えていた。 実際、彼を恐れているのだろう。日に二度、定期的に囚人の所在を確かめにくる兵士達は、化け物を見る目で彼を見ている。 以前は、そうやって化け物として見られるのにひどく傷つきもしたものだ。――だが、今は正直、どうでもよかった。 以前、各国の連盟による正統な裁きを受けて、死刑を受けた。だが、それにもかかわらず、生き延びてしまった。 もはや、彼には生存のために必要な些細な欲求さえ叶えられることはない。 人知れぬ場所にあるこの塔で、ひっそりと息を引き取るその日まで、ここから出られる見込みなどない。 化け物は死ねばいいと、彼の死を待ち望んでさえいるだろう。 そして、その笑みの形のままの唇を、手の甲へと当てた。 決して解けるなとばかりにしっかりと巻きつけられたその布に触れる時だけ、男の表情は穏やかなものへと変わる。 だからだろう――彼は、珍しくも塔の扉を開けて入ってくる者に目を向けなかった。 死にもしない化け物を殺そうと無駄な努力を仕掛けてくる処刑人など、彼にとっては迷惑なだけだった。 だが、いたずらに苦痛を与えられるだけの処刑もどきなど喜べるはずもない。それでも、彼は抵抗の意思を見せなかった。 ただ、布を巻きつけた手だけは庇うように、しっかりと握りしめて身を屈める。 「よお。ちょっと見ない間に、ずいぶんと変わっちまったもんだな、化け物さんよ」 気安い、調子のいいその声を聞いた途端、男の心臓が大きく跳ね上がった。 ゆっくり――ゆっくりと、男は顔を上げた。 だが、平凡そうな外見と違い、その目には鋭い光が宿っている。化け物を前にして、軽口を叩けるその軽さこそが、彼の並ならぬ胆力を証明していた。 緑色の魔法衣を着て、手には古ぼけた杖を手にした青年を、男はまじまじと見つめていた。 「おまえが……オレを殺すのか――ポップ……!」 「それが望みだって言うのなら、そうしてやってもいいぜ――ダイ」 ダイと、ポップ。 それは、2年前のこと――。 「ポップッ! オレは、絶対に反対だからな!」 部屋に飛び込んでくるなりそう叫ぶダイを見て、ポップは特に驚いた様子も見せなかった。 そのポップの態度が、さらにダイの中の不安と怒りと煽り立てる。その衝動のまま、ダイは珍しくポップに向かって声を荒らげていた。 「おまえがベンガーナに行くだなんて……そんなの、絶対に駄目だ!」 「やーれやれ、おまえがそう言いそうだって思ったから、口止めしといたのにな。いったい誰から聞いたんだよ?」 ダイの反対を大袈裟だと、ポップは気軽に笑い飛ばした。 「親善大使として、しばらくの間だけベンガーナに滞在するだけだって。別に、もう二度と帰ってこないわけじゃないんだし、そんなに血相を変えて反対するなって。そんなにダダを捏ねるんなら、帰る時には土産を持ってきてやらねーぞ」 そう言いながら、ポップはもう自分よりも大きくなったダイの頭に手を伸ばし、くしゃくしゃっと乱暴に撫でる。 共に少年だった魔王軍との戦いの頃ならともかく、成長していくにつれ、段々とこんな風に接触する機会など減りつつあるものだったから。 何も分かっていない子供のように自分を扱い、口先だけでごまかそうとするポップに、本気の苛立ちが込み上げてくる。 「とぼけるなよ、ポップ!」 怒鳴ると同時に手を払いのけると、ポップが驚いた顔をするのが見えた。だが、それでも構わずにダイは怒鳴りつけた。 「何が親善大使だよ!? そんなの、名前だけじゃないか! ベンガーナに行ったら、もう、帰ってこれないんだろう……っ!?」 以前のままのダイなら、ポップの嘘にごまかされただろう。 魔王軍時代はあれほど緊密で、一致団結していた世界各国の関係が、時が経つにつれおかしくなってきた事実も。 ベンガーナ王国を中心に沸き起こり始めたその不満の声は、日に日に強くなっていく一方で――すでに、戦争が勃発しかねない程までに国内外の緊張が高まっている。 一度行ったら最後、帰ってこられる当てなどない。 そのために、ポップはベンガーナ王国が突きつけてきた理不尽とも言える要求を飲んだのだと、今のダイには分かっている。 「そんなの危険だって……っ、ポップが一番、よく分かっているだろう?」 不吉な噂は、すでにダイの耳にさえ届いている。 それが何処にあるかは、定かではない。 巨額な資金を投じ、国外から幾人もの魔法使いや賢者を招聘して協力を仰ぎ、特別に作られたその塔は、表向きは大魔道士の身の安全を図るためのものだ。 どんなに強力な魔法が使えるとしても、それを封じられた魔法使いは無力だ。その塔に幽閉されたら最後、ポップはまず、自力ではそこを抜け出せなくなる。 その事実を知ったレオナが抗議を申し入れたが、それは聞き届けられなかった。 それでも食い下がって抗議をするレオナを抑え、その条件を飲んで了承したのはポップ自身だった。 「それに、オレ、知っているんだ。ベンガーナ王国が本当に欲しがっているのは、黒の核晶の情報なんだろう……!?」 かつて、魔王バーンが地上を滅ぼすために用意した、危険極まりない超爆弾。 大魔王の脅威が薄れていくに連れ、彼の者が残していった爆弾に興味を抱く者が現れだす。 まして、抜きんでた人間兵器を所有しているパプニカ王国の存在がある。いかに女王レオナが戦争の意思はないと公的に何度も表明したとしても、人は万が一を疑わずにはいられない。 もし、女王レオナの命令によって、勇者と大魔道士が動けば、それだけで一国が滅ぶだろう。 自分のすぐ側に高い殺傷能力を持った存在がいて、それでも平気でいられる人間はそうめったにはいないものだ。その恐怖から逃れるため、人は求める。 強大な力を持つ相手に拮抗できるだけの、力を。 初代大魔道士マトリフの死亡に続いて、大勇者アバンの死が、均衡を突き崩した。 黒の核晶の封印に関わった二人の偉人の死は、必然的に残り一人に多大な義務を残すことになる。 「そんなの、ポップが一番分かっているくせに……。なんで、自分からそんな危険な場所に行こうだなんてするんだよ……!? 行ったら、どんな目に遭うかも分からないのに――」 想像しただけで鳥肌が立つ。 身を守る力もなく、幽閉されたポップは籠の鳥にも等しい程に無力だ。 「考え過ぎだっつーの。いいか、ベンガーナ王国にしてみたって、他国から預かった親善大使を殺すような真似はしやしねえって。オレがベンガーナで死んだりしたら、今度はあの国の立場が悪くなるのぐらい、あっちだって分かっている」 だから大丈夫だと言うポップの言葉は、ダイを余計に不安に陥れるだけだった。 (そんな、平気な顔で、殺すとか死ぬなんて言うなよ……!) 最低でも二ヶ月に一度は、パプニカ側が人質の生存を確認できるよう面会が義務づけられているだの、身の回りの世話や生活環境を整える確約。 むしろ、自分の立場を他人事のように突き放して説明できるポップの態度こそが、ダイの不安感を煽る。 「それでも、ダメだ……! オレは……っ、オレは、絶対にそんなの、反対だ……っ! 命が無事ならいいってわけじゃないだろ? ポップにとって危険だって、分かっている癖に……!」 強い怒りを必死で抑えながら、それでも冷静さを保とうとしてそう言うダイに、ポップはやっと今までのふざけ半分の態度を改めた。 「ああ、分かっているさ。だからこそ、行くんだよ。そうしなければ、パプニカ王国そのものに危険が降り懸かるだけだからな」 いつになく真面目な顔でそう言うポップの言葉は、正しかった。 ただでさえ、他の国は魔王軍との戦いの際にリーダーシップをとって他国に先んじ、戦後も目覚ましい速度で復興したパプニカを快くは思っていない。 老齢だった賢王フォンケルに代わり、新たなテラン王の地位に就いた新王はそこそこの野心家だ。 温厚なシナナ王を失墜させ、ロモス国王の座を奪い取った新王も、パプニカに対する敵意を隠そうともしない。 最初にダイを勇者と認定したのはロモス王国だったのに、いつの間にかパプニカが勇者とその魔法使いを独占している状況を、ロモス新王は手酷い裏切りであり、パプニカの抜け駆けだと判断している。 対立は、避けられなかった。 場を和ませる明るさを持ち、世界各国の王達を本人達に気付かせないまま、上手く手綱をとる能力に長けていたカール王アバンが、いなくなった今、世界会議は荒れる一方だった。 最愛の夫を失うと同時に政務に熱意を失った女王フローラが事実上引退したも同然な今のカール王国は、宰相が牛耳っている。 いかに聡明であっても、年若く経験の浅いポップやレオナだけでは、もはや太刀打ちできない所まで各国との関係は悪化している。 戦乱を避けるために、他国からの要求を無条件に飲むしかないまでに、追い詰められているのだ。 「だからって! ポップがパプニカの代わりに、犠牲になるなんて……そんな必要なんかないだろう!?」 突き上げるような怒りのままに、ダイが叫ぶ。 「ポップにそんなことをさせるぐらいなら、いっそ戦争にでもなった方がましじゃないか! いくらあいつらが軍隊で攻めてきたって、そんなの無駄だってオレが教えてやる!」 そう叫んだ時、ダイは本気だった。 時折、各国の軍隊を視察した経験から、断言できる。
いっそ、こちらから攻め入ってもいいと思える凶暴な思いが、ダイを支配する。 「馬鹿言ってんじゃねえっ! そんな真似、オレは絶対に許さねえからな!」 一切の妥協を許さない、絶対の拒否。 「おまえ、自分の言っていることが本当に分かっているのか!? そんな真似をして、パプニカが守れるって本気で思っているのかよ!? ――できるわけねえだろ!」 「で、できるよ! オレにはそれぐらいの力はある、ポップだって知っているだろ!?」 「ああ、ダイ、てめえならできるだろうな。おまえは敵の軍隊を根こそぎぶっつぶせる……だけど、それで済むわけがないだろうが! 必ず、パプニカにも被害が及ぶ。おまえはこの国や、住んでいる人達がどうなってもいいって思うのかよ!?」 「ポップ……」 あまりに強い拒絶に、ダイは一瞬立ちすくむ。 「おめえがどうしてもそんな真似をするってんなら、オレはなにがなんでも反対するからな!! どんな手を使っても、それだけは絶対にさせやしねえ……!」 はっきりとそう宣言するポップに、揺るぎのない本気さを感じ取り、ダイは絶望にも似た虚無感が広がっていくのを止められなかった。 ポップは、ダイにとっては誰よりも特別な存在であり、何を優先しても守りたいと思う相手だ。 女の子が好きで、なによりマァムが好きなポップが、男である自分を受け入れてくれるとは、到底思えなかったから。 ダイの気持ちにはまるで気づいてくれないニブいポップも、ダイを親友として大事に思ってくれていることは、知っている。 しかし、今の瞬間、ダイのその支えが音もなく崩れ墜ちていく。 だが、ダイよりもパプニカ王国の安全を優先した――その事実が、ダイを傷つける。 そして、それと同時に、今まで無理に押さえつけていたポップに対する欲望が一気に膨れ上がる。 「ポップ……そうなんだ。おまえは――どんな手を使っても、オレに反対するんだね?」 あまりにも強すぎる絶望と怒りが、ダイから表情や声の抑揚を奪う。 「? ……どうしたんだよ、ダイ?」 無防備に自分に近寄ってきた人の良い魔法使いに対して、ダイは薄く笑う。それはいつものダイらしからぬ、妙に冷酷さを備えた微笑だった。 「なら、オレもそうする。どんな手を使っても、おまえに反対するよ、ポップ」 まるで警戒していなかったポップを、ダイは一気に押し倒した――!
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