『闇の翼 4』 |
それが、二年前の出来事だった。 正気に返ったダイは、意識を飛ばしてぴくりとも動かないポップの無残な姿を見て、自分がしたことを悟った。 欲望のままに大魔道士をさんざん犯し、あげく竜魔人へと変化したまま戻れなくなったダイは、その後、勇者としては扱われなくなった。 レオナや仲間達が、それでも彼を庇おうとしてくれたが、ダイはその助け手を拒絶した。 死刑になりそこなっても、いまだに幽閉刑を受け続けているのは、それが最大の理由だった。 だが、塔に閉じ込められたままならば、ダイはポップを滅さずに済む。 稀代の大魔道士であるポップを封じるために特別に作られた塔なだけあって、ここに閉じこめられている限り、ダイも魔法やそれに付随する力は使えない。 なぜなら、自分がここに閉じ込められた以上、ポップがこの塔の囚人になる可能性はないのだから。 ポップが回復しきらないうちに塔にとじこめられるのだけは、断固拒否したかったダイにとっては、むしろありがたい処置だった。 もちろん、時間をかければベンガーナはまだ同じような塔を作るかもしれないし、再びポップを人質に求めるかもしれない。 それに、魔法はさして得意ではないダイにとってはあまり意味のない封印とはいえ、この塔にも一つだけ利点があった。 竜の騎士の能力の一つである、特定の人物に対する感知能力が完全に封じられていた。その事実に気がついた時、ダイはこの狭い牢獄を天国のようにさえ思ったものだ。 本来なら、ダイはポップと一緒にいたいと思う。少しの間でも、離れているのは辛い。 だからこそ、ダイはあえてこの塔の囚人であり続けた。 (ポップ……よかった、元気そうで) ゆっくりと自分に近寄ってくるポップを、ダイは瞬きも惜しんで見つめていた。 (バンダナ、つけてないんだ) 前は欠かさず身に付けていた黄色のバンダナは、今はポップの頭にはない。 細身の身体や童顔のせいでどこか少年っぽく見えるのは相変わらずだが、それでも以前は少年と青年の狭間にいたポップは、今は紛れもなく青年の側に立っている。 あの時を最後に、ダイはポップに会う機会などなかった。最初に受けた裁判の頃、人伝にポップは無事だと聞いたものの、本人には会わせてもらえなかった。 だからこそ、ダイはあえて面会は求めなかった。 身を庇うなんて、する気もなかった。 真正面から戦えばそれでも肉体の頑健さが勝るダイの方が有利だろうが、この状況では圧倒的にポップが有利だ。 間近に感じる死を前にして、ダイはむしろ歓喜に胸を震わせながらポップを見つめていた。 お調子者の笑顔も好きだが、魔法を使う時の別人のような真剣さは、いつだってダイの目を惹きつけた。 だからこそダイは、引き絞られる光の矢が自分に迫るその瞬間でさえ、目も閉じずにそれを見つめ続けていた。 ぱらぱらと、わずかな小石が落ちていく。 極大消滅呪文は、魔法の有効範囲内の物体を分子レベルで崩壊させ、消し去ってしまう呪文だ。 痛みを感じる暇もないまま、亡骸も残さずに瞬時に消滅するだろう。 矢を放った姿勢のまま、自分を睨みつけているポップには動揺のかけらも見えない。 「ポップ……!! なんで…オレを殺さないんだよ……っ」 そうされて、当然のことをした。 二代目大魔道士は今となっては世界で最強の魔法使いであると同時に、世界各国の均衡を保つ要の存在だ。 だが、ポップはもう戦う意思はないとばかりに身構えを解き、持ち前の軽い口調でいとも気楽に言ってのけた。 「やれやれ。オレは言ったはずだぜ、それがおまえの望みなら、そうしてやってもいいって。――でも、違うんだろ?」 そう言って自分を見つめるポップの目が、ひどく懐かしい。 (覚えている……) あれは、まだダイが子供だった頃。 ダイの弱音も、辛さも、何もかも無条件で受け入れてくれた、ポップの強さと優しさ。 「ダイ……おまえの望みを、言えよ」 その言葉に、どうして心を動かされずにいられるだろう? 「…………」 ひりつくほどに、喉が渇く。 砂漠を放浪した末にやっと出会ったオアシスのように、それはダイを惹きつけた。 「…でも……、オレは……きっと、また、ポップにひどいことをするよ」 言葉を口にするのはダイにとって久し振りなだけに、難しかった。他人と会話を交わすなんて、もうずいぶんとやっていない。 だから、説明の言葉が足りないのではないかと恐れつつ、それでもダイは一生懸命言葉を選ぶ。 「オレは、ポップを、また、殺そうとするか……じゃなきゃ、壊すまで…犯すよ――ポップが泣いても嫌がっても、きっと……」 それは、危惧ですらない。 理性で必死に抑えつけているものの、いつまでも抑えきれるかどうか自信はない。 多分、それは我慢できないという自覚がある。 「やりたきゃ、やりゃあいいだろ?」 ギョッとして目を見開くダイの手を、ポップが力強く握りしめる。 「おまえは、オレを殺そうとしたわけじゃないだろ。オレを、欲しがっただけじゃねえか」 ポップの手に誘われ、ダイはいつの間にか立ち上がっていた。 術の要となる鎖を消されたせいか、魔法陣の効力も消えていた。 「それに、オレはそんなにやわじゃねえっつーの」 そう言うポップが、前よりもずっと小さく見えるのにダイは気がつく。 食事も取らず、運動も封じられた二年間だったのに、ダイの身体は戦士として最適な体格に成長していた。 しっかりと筋肉のついたダイよりも、一回りも二回りも細く感じるポップは、ひどく華奢に見える。 「そう簡単に殺されてやる気はないし、壊されたりしねえよ――だから、てめえも逃げるんじゃねえ」 「ポップ……!」 感動が、胸を震わせる。 「オレは、世界よりもダイ、おめえを選んだんだ。おまえは……オレを選ばないのかよ?」 顔をぶつけるような勢いでキスをしてくるポップに、ダイが驚いたのは一瞬だった。 自分からキスしてきたくせに、恥ずかしがっているのか逃げようとするポップを引き寄せ、さらには羽でも彼を覆ってしまった。 離れ離れになっていた時間を埋めようとするように、二人はそのまま離れようとしなかった――。 (ダイ……おまえは、やっぱり、ダイのままなんだな) 息すら貪り尽くそうとする激しさでありながら、それでもどこか、ポップを気遣ってくれる優しさを感じさせるダイのキス。 ダイのように、ポップも彼に激しい恋愛感情を抱いているかと問われれば、悩まずにはいられない。 なぜなら、ポップはとうの昔に選んでいるのだから。 行方不明になったダイを探して、魔界にまで行った時に。 ダイは、知るまい。 どうしていいのか分からないのか、ダイはぼうっとしていることが多かった。 「おめえはどうしたいんだよ?」 「おれは……ポップやレオナや、みんなと一緒にいたい」 ずいぶん長い間迷った揚げ句、ようやくダイが口に出したのは、世界を救った勇者にふさわしくない、細やかな願いだった。 「幸せとか平和とかってよく分からないけどさ、みんなと一緒にいて、いつでも笑っていられるんなら――それが一番いいと思う」 そう言った時の、ダイの少しはにかんだような笑顔は、ポップにとっては忘れられない記憶になった。 そんなことは、ダイは多分覚えてはいないだろう。 だからこそ、ポップはパプニカにとどまって、自分でもらしくないと思いながらも政務に関わった。 その目的はただ一つ、ダイの居場所を作ってやるためだった。ダイがパプニカで幸せに暮らせるように――それを最重視していたからこそ、二年前、ポップは自分がベンガーナ王国の人質になるのを承知した。 戦争だけは、なんとしても避けたかったからだ。 それによって後で敵からも味方からも恐れられ、傷つくことになったとしても。 かつてバランがそうしようとしたように、人間こそが世界のバランスを崩す存在となれば、ダイもまた、人間を滅ぼす使命を負って苦しむかもしれない。 それを避けるために、ポップは安全策をとったつもりだった。 ダイは、ポップに黒の核晶の情報を手放せと迫った。 竜の騎士の使命感が、本能が、ポップを滅したがるのは、ポップの能力や知識が問題なわけではない。 (黒の核晶なんてものは、もうねえんだよ、ダイ) その事実を知っているのは、ポップを初めとする勇者一行の数人にすぎない。 だが、物をあると証明するのはたやすいが、なくなったことを証明するのは困難だ。 ベンガーナでそれを問い詰められるのは予測していたが、ポップはたいして案じてはいなかった。 たとえどんな拷問や尋問を受けようとも、この世にない物の居場所など白状できない。 ダイには決して教えてやりはしない。 ポップには、予測がついている。竜の騎士の本能が自分を殺したがる、本当の理由を。 竜の騎士は、本来一代生物だ。 バランの行動は、竜の騎士の歴史をとぎれさせかねないイレギュラーな行動だった。 そして、その結果生まれたダイは、人間と竜の騎士の混血児だ。 自分の手で最愛の存在を殺せば、竜の騎士の暴走は起こらず、人間側に傾いた私情も消え、本来の役目を果たせるようになる。 本来、竜の騎士とは殺戮の使者なのだから。 (……させやしねえよ、絶対に。そんな運命なんぞ糞くらえだ) すでに自分よりも大きくなってしまった勇者を、しっかりと抱きしめながらポップは思う。 ダイの心を、壊させたりはしない。竜の騎士の本能がどれほどダイを苛むとしても、それでもダイは、ダイだ。 生まれつき背負わされた義務や、人々が勇者に対して勝手に押しつける期待におし潰される必要なんて無い。 むろん、ダイを死なせるなんて論外だ。 仲間の制止を振り切り、パプニカ王国や故郷を捨て、初恋の少女も振り捨てて、それでもポップはダイを選んだ。 ダイが、竜の騎士の本能以上にポップを欲すると言うのなら、くれてやるまでだ。 (守ってやるよ、ダイ、おまえを……) それは、恋とは言えない感情かもしれない。 長いキスの後、ダイはやっとポップから唇を離す。だが、まだ離したくないとばかりにポップを抱きしめ、愛しげに頬や髪に触れる。 それは、あの後以来、ずっとお守りのように持ち続けていたポップのバンダナだ。 「……おまえ、そんなもの、まだ持っていたのかよ」 ポップの頭にそれを巻きつけてやり、きゅっと結ぶと、ダイにとっては見慣れた姿に戻る。 「やっぱり、この方がポップらしいね」 「そうか? ――さて、それはいいけど、そろそろここからズラかるぞ。そろそろ、オレの仕掛けた魔法も解ける頃だし」 と、ポップは自分の空けた壁の大穴に近寄った。 ここに閉じ込められて以来、初めて見る外の光景が広がっていた。 「とりあえず、この塔の周辺の魔封を解除して、ここを守っていた兵士達は片っ端からマヌーサをかけて方角を狂わせておいた」 それを聞いて、ダイはいまだに見張りの兵士が来ない事実に気がついた。 「でも……ポップ、いいの?」 この塔から出るのは、ダイにとっては不可能ではなかった。 レオナやみんなにも迷惑が及ぶと分かっていたから、脱走したくはなかった。 「――姫さんはオレに言ってくれたぜ。後の心配はいらないから、好きなようにしろって」 「レオナが……」 可愛い顔とは裏腹に遠慮がなくて、勝ち気で、だがいざと言う時は誰より頼りになるお姫様。 「そう、なんだ。レオナが言うんなら、平気だよね」 「ああ、なんたって、あの姫さんだからな。そして、おまえに伝言だよ……『あたしのことは気にしなくていいから、今度は手を離すんじゃないわよ!』だとさ」 ダイは一瞬きょとんとした顔をし、それから苦笑を浮かべる。 「レオナ、変わってないんだなぁ」 しっかりしていて、気丈で。 「……で、おめえはどうよ。おまえは、オレとじゃ不満なのかよ?」 答えるまでもない質問に、ダイは答えなかった。 勇者と、魔法使い。 誰よりも近くに、その魂を置いている。 世界中の人間に化け物と言われたとしても、自分を受け入れてくれるこの手が有る限り、ダイは、ダイのままでいられる。 「ね……、ポップ。ヤリたくなっちゃった。……いいかな?」 「早速かよ!?」 あまりにド直球な誘いに、ポップがツッコむのも無理はあるまい。 「だって〜。オレ、あれからずっと、我慢してたんだよ。何度も、何度もポップを思い返しては、我慢しててさ。――だめ?」 自分よりも小さくなってしまった年上の相棒を見下ろしながら、ダイは子供っぽい口調のままでねだる。 「――まあ、いいけどさ、ここでじゃ嫌だぜ。それになあ、風呂とは言わないからせめて水浴びでもしてからにしろ!」 「あ、そういやオレ、風呂、二年ぐらい入ってなかったや」 「……前言撤回っ! 風呂は必須だ! 頭までつかって千は数えやがれっ!!」 ひとしきり文句を言ってから、ポップはぽそっと一言付け加える。 今度は優しくしろよと、真っ赤になって付け加えるポップの表情を、しっかりと目に焼きつけて、ダイは満面の笑みを浮かべた。 「うん!」 精悍な青年へと成長したダイの顔に、照れたような笑顔が浮かぶ。それは、12才の頃の面影を多々に残す、太陽のように曇りのない笑顔だった――。 その日、塔から『竜』が飛び立った。
《後書き》
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