『死神の誘惑 ー前編ー』

  

 それは、不意にゆるりと現れた。
 季節外ながらも、ぱちぱちと小さな音を立てて燃える暖炉の火の中から。
 異様な気配と共に炎の中から姿を見せたのは、黒をまとった長身の人影。

 瞬く間に壁の中から浮上してきた人影は、しかし、火傷一つ負うこともなく暖炉の中から優雅に歩みでる。

 炎の明かりを背にしたその姿は、厚いカーテンにより淡い闇に満たされた室内で際だってみえた。
 だが、部屋の中にいる人間はその異常に気がつかなかった。

 壁が見えなくなる程本棚で埋め尽くされ、それでさえしまいきれない本が床に雑多に置かれている部屋。
 壁に掛けられている魔法衣の色は、鮮やかな緑だった。

 この部屋の主は、まだ若い……というよりも、少年の域を脱していなかった。
 まだ昼間なのにベッドに横たわっている少年は、動かない。
 だが、どことなく息苦しそうな呼吸は、寝息と呼べる程整ってはいない。

 サイドテーブルに置かれているのは氷がいくつか浮かんだ水桶に、水差しに薬の袋、そして黄色いバンダナが丁寧に畳まれて並べられている。

 濡れたタオルに目や額をすっぽりと覆ったまま横になっている黒髪の少年は、異様な気配に気づいてさえいない。

 そんな彼の側に歩み寄りながら、仮面で顔を覆った道化師は大仰な身振りと共にいささか大きめの声で話しかける。

「おやおや……せっかく凝った演出で会いに来たというのに、ちょっとがっかりだね。ここはすぐに目を覚まして、ボクの登場と再会に驚いてくれる場面じゃないかな?」

「……!」

 その声に反応して、少年――ポップはハッとして身を起こした。
 濡れたタオルが滑り落ちると同時に、意思の強い黒い目が目の前の男を睨みつける。
 年の割には鋭いその眼光を、しかし、男は気にも止めない。

 身長ほどの長さもある巨大な大鎌を手にした男は、仮面の奥から軽い口調で話しかけてきた。

「ハァーイ、魔法使いクン、ようやくお目覚め? お久しぶりだねえ?」

 その姿も、その口調も、ポップは知っている。
 いや――忘れられるわけがない。
 大魔王バーンの側近であり、この上なく残忍で卑劣な魔族。

 なにより、勇者ダイが行方不明になるきっかけとなった、不吉極まりない黒づくめの道化師。

「キル…バーン……!」

 その名を呼ぶポップの声は、かすかに震えていた。
 それは、死んだはずのこの男が何食わぬ顔で現れたことに対する驚きのせいなのか。

 それとも、賢者を多く生み出すため神聖王国として名高く、数多くの結界に守られているはずのパプニカ城内に、魔族が現れたことに対するものなのか。

 あるいは――体調が不十分な今に、よりによって最悪の敵と相対した衝撃が声を震わせるのか。

「まあ、正確に言えばもうその名前は正しくないんだけどね。でも他ならぬキミになら、特別にその呼び名を許してあげてもいいよ、魔法使いクン」

 クックックと喉の奥でくぐもった笑い声をあげながら、キルバーンはさも親しげに声をかけてくる。
 それに、ポップは答えなかった。

 キルバーンの本体は小さな一つ目ピエロであり、この肉体はただの操り人形にすぎない……それが、バーンとの戦いで最後に分かった真実だったはずだ。
 だが、それは嘘ではなくとも、本当でもなかったのだろう。

 今のキルバーンは肩にピエロを乗せてはいないが、ポップのよく知っているキルバーンと口調や態度が似過ぎている。

 おそらくはピエロさえも操り人形であり、この身体もまた写し身に過ぎないのかもしれない。

 その正体を見定めようとするポップの視線に気づいているのかいないのか、キルバーンは陽気さに話しかけてくる。

「いやあ、本当に懐かしいねえ。1年と半年振りぐらいかな? 元気にしてたかい……とは、とても言えない様子だねえ」

 その言葉に、ポップはぎりっと奥歯を噛み締める。
 実際、今のポップはとてもじゃないが、元気とは言えない。

 なかなか引かない微熱に悩まされて横になっていたポップは、即座に行動出来るだけの体力が回復しきっていない。

 ベッドの上に半身を起こしたまま身構えているものの、ベッドが壁際に置かれているのが災いしている。
 ベッドのすぐ側に立っているキルバーンが邪魔となり、逃げ場がない。

 せめて窓から逃げたいところだが……ポップは窓の方を見ようとも思わなかった。
 飛翔呪文が得意なポップが勝手に部屋を抜け出せないように、この部屋の窓は全て飾りに見せかけた鉄格子がはめられている。

(ちくしょう、恨むぜ、姫さん……!)

 本人の意思を無視して自室を一方的に決定したパプニカ王女をちらりと思いながらも、ポップは油断なくキルバーンの様子を伺う。

「いやだなあ、せっかくお見舞いに来てあげたのに怖い顔しちゃってさぁ。ここは一つ、久々の再会に相応しく積もる話でもしようって場面じゃないかい?」

「ふざけんな……! てめえなんかに会って、嬉しいわけがないだろう?! それにおまえと話したいことなんざ、これっぽっちもないね!」

 絶対的に不利な状況にもかかわらず、ポップの強気な態度は崩れない。
 虚勢混じりとはいえ、たいした勝ち気さだ。
 だが、その強気さはポップのために役立っているとは言いがたかった。

 なにしろその態度が面白いとばかりに、キルバーンは上機嫌に大鎌を揺らめかせながら笑っているのだから。

「おやおや、そんなに気を立てずに落ち着いて、落ち着いて♪ ボクはキミをお見舞いに来たっていっただろう? キミを殺す気なんて、全然ないよ」

 長身の道化師の動きは、俊敏だった。
 動いたと思った時には、逆らう隙も与えられず、ポップはベッドに押し倒されていた。大きな手で喉首の辺りを押さえつけられると、ろくに身動きも取れなくなる。

 片手だけでポップを押さえ込んだキルバーンは張りついた形の仮面の笑みの奥から、くぐもった笑い声をあげる。

「キミを殺すつもりなら、声をかける前にこの喉首をかききっていたよ? こんな風にね」


 空いた手で、スッと真横に喉を触れられる不快さにポップは顔をしかめた。

「ヘンッ、どうだか。おまえのことだから、一気に殺さずにジワジワなぶって殺すつもりで、こんな回りくどい真似してるのかもしれないじゃないか」

「心外だねえ。ボクって、そこまで趣味の悪いサディストだと思われているんだ? ボクはキミを、誰よりも高く評価してあげているというのにねえ」

 大仰なキルバーンの嘆きに、ポップはさも馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
 趣味のあくどさとサディステックさでは、かの大魔王バーンをも上回っていた死神だ。
 さらに言うのなら、敵に高い評価を得た所で、いい所など一つもない。
 ポップを外見で判断して、油断してくれる敵の方が遥かにありがたい。

「ハンッ、よく言うぜ。今まで、何度もおれを殺そうとしただろうが」

「いやだなあ、たったの三回ぽっちじゃないか。それに、全部未遂だし♪」

 充分過ぎる程多いとツッコミかけたポップだったが、キルバーンがゆっくりと自分にのし掛かってくるのを感じて、身を固くする。ポップの手に魔法力の光が集まりだすのを関知しているだろうに、キルバーンは警戒する様子すら見せない。

 仮面がポップの頬に直接触れる程に顔を寄せ、妙に生々しい吐息と共に耳元に囁きかける。

「君の勇者サマに会いたくはないのかい、魔法使いクン?」

 その瞬間、ポップの手の魔法力は霧散した。
 衝撃に大きく見開かれた目は、目の前にいる死神の姿さえ移していない。

「…………!」

 喉がひりついて、声が出ない。
 思いが強すぎて、言葉にすらならなかった。
 もう一度、ダイに会いたい。

 その気持ちは、ポップの中に強く根付ている。
 それは、すでに妄執とさえ呼べるかもしれない程の強さに達しているのかもしれない。
 自分でも消し去りがたい強さで、根深く心に広がっている。

「勇者クンは、生きているよ……今は、まだ、ね」

 クククッとくぐもった笑い声がすぐ耳元で響く。
 わざと含みを持たせたその言葉が、自分を釣るための罠だと充分すぎるほど分かっていた。

 それにダイの生存なら、ポップはとっくに承知している。
 ダイが残していったダイの剣は、彼が生きている限りその宝玉の光を失わないのだから。だが、ポップはさっきまでと違って受け流す余裕もなく、噛みつくように怒鳴る。

「どこだっ?! あいつは……ダイは、どこにいるんだっ?!」

 自分が殺されかけた時とは全く違う、性急な反応にキルバーンは満足げな笑みをこぼしながらゆっくりと身を起こした。
 組み伏せた魔法使いの少年と向き合う態勢に戻り、気を持たせるように言葉を返す。

「それをボクに聞くのかい? キミはもう、とっくに予測はついているんじゃないのかな?」


 その言葉だけで、ポップは悟った。
 今までずっとそうではないかと疑いながら、否定する証拠を探し続けていたその事実を、苦味と共に飲み下す。

「……やっぱり…そうなのかよ……!」

 魔界。
 日の光の存在しない、地上とは異なる魔族の世界。
 血を血で洗う、弱肉強食の争いの絶えない地獄にも似た場所。

 ダイがそこにいるかもしれないと、ポップはずっと予想はしていた。
 だが、それが現実のものだと知らされるのは、思っていたよりもずっと辛いものだった。


「希望的観測にすがりついて見当外れな捜索ばかりしているキミ達が、少しばかり気の毒になってねえ。ねえ、魔法使いクン。お望みなら、キミにヒントをあげようか? 地上の人間達が見逃している、魔界へ行くための最短の近道をね……!」

 仮面の奥で、奇妙に光る瞳が熱っぽく揺らめく。
 それを、ポップは強い眼差しで見返した。
 闇の黒さを持ちながら少しも揺るがない光に満ちた目が、真っ向からキルバーンを睨みつける。

「そんなの、聞く必要ない!」

「おや? どうしてだい? 勇者クンに会いたいんだろう、キミは?」

 心底意外そうな、だが、どことなく芝居掛かったそぶりで、キルバーンが聞き返すのを、ポップは憎しみすらこめた目で見返した。

「そんな方法なんて……とっくに気がついてるんだよ……っ!」

 

 

 ダイがいなくなった日――それを、ポップは忘れたことなんてない。

『……ごめん…。ポップ…!!』

 それが、ポップの聞いたダイの最後の言葉だった。
 その言葉と同時に、強い力で蹴り落とされた。
 目に染みるような空の青さを、今もはっきりと思い出せる。

 一人、致命的な爆弾を抱えて急上昇して――そのまま太陽に吸い込まれるように、消えてしまった小さな勇者。

 体力も魔法力もほぼ使い果たしていたポップには、それを追いかけられなかった。
 最後まで一緒にいようと誓った親友が、一人、飛んでいくのを見送るしかできなかった。
 そして、爆発の瞬間の記憶を最後に、ポップの意識は途絶えた。


 次に意識が戻ったのは、4日も経ってからだった。
 昏睡から目覚めてから、すぐにポップはダイを探した。

 仲間達に内緒で、夜中にこっそりと抜け出して。
 旅の一番最初からダイと共にいたポップは、彼の行った経験のある場所を、一つ残らず知っている。

 無意識だろうと意識してだろうと、瞬間移動呪文は術者の知っている場所にしかいけない。
 祈るような思いで、ポップはダイと一緒にいった場所に飛びまくった。

 三日かけて何度となく繰り返し探し……ポップは認めざるを得なかった。
 ダイが瞬間移動呪文で行ける場所を全て行き尽くして、それでもなお手掛かり一つ見つからないと悟った時のあの絶望感――。

 あの時に、ポップは悟った。
 ダイは地上にはいない。

 少なくとも……、ダイはダイの意志でいなくなったわけでなく、そして、ポップの探しだせる範囲の場所にはいないのだと。

 それを悟ると同時に、張り詰めた糸が切れたように、ポップは泣いた。
 みんなの前ではずっと強がって明るく振る舞っていた分、外せなかった心のタガが完全に壊れた。

 アバンを失った時のように。
 バーンの前で、敗北を悟った時のように。

 声の限りに泣いて泣いて、……そして、慟哭の果てに気がついてしまった。
 魔界へ行く道があることを。

 

 

「黒の核晶、なんだろ?」

 かつて、大魔王バーンが世界各地に降らせた黒の結晶を抱え込んだ恐るべき凶器の柱、ピラァ・オブ・バーン。

 地上全てを吹き飛ばすのを目的に作られたその超爆弾は、魔界と地上界の境を無くす効力を秘めている。

「あれを爆破させれば……きっと、深い、深〜い穴が開くんだろうな。魔界の奥底に届くような深い穴がさ」

 ヒュゥッと、死神は長く口笛を吹いてみせた。

「相変わらず惚れ惚れする程いい勘だよねえ、魔法使いクン。でも、そこまで分かっているのなら、なぜ実行しないんだい? キミならできるだろう?」

 キルバーンに言われるまでもなく、ポップは承知している。
 バーンを倒した後、それらの6本の柱は爆弾である黒の核晶を取り除かれて始末された。


 だが、肝心の黒の核晶はおいそれと始末すらできない代物だ。
 下手に爆破させれば、大陸一つを吹き飛ばしかねない。従って、黒の核晶は大勇者アバンや大魔道士マトリフの手によって、秘密裏に封印された。

 その封印に手を貸したポップは、黒の核晶が地上のどこに封印されているかを知っている、数少ない一人だ。
 そして、その封印の解き方も知っている。

 さらに言うのなら、ポップの魔法力ならば、黒の核晶を爆破させて誘爆を誘うのは不可能じゃない。
 だが――。

「いくらなんでも…っ、そんな真似……できるわけがないだろうが!」

 吐きだすように、ポップは叫ぶ。
 それは、世界を滅ぼすと同義なのだから。
 いくら範囲を絞り、場所を選んで爆破させたとしても、多大な被害は免れまい。

 しかし、勇者一行の一員であるポップと違い、魔王の配下だったキルバーンはそんなのは些細な問題とばかりに軽く指を振る。

「犠牲を恐れて、道が切り開けるとでも? いいかい、この世の中、何かを失わずに得られるものなんかあると思うのかい? ましてや、得たいのがこの世に二つとない得がたい宝物だとしたら、なおのことだよ。キミにとって、親友とはそんなに軽い存在なのかな?」
 

 狡猾な死神は、的確にポップの弱味を突いてくる。
 ずっと迷い続け、ためらっていた心を見透かすように、その言葉は容赦なく口にはださないでいたポップの本心を暴き立てていく。

「フッフッフ。でもね、分かっているよ、魔法使いクン。勇者の魔法使いであるキミが、そんな真似ができるはずがないよねえ? それは、人としての禁忌――でも、人の心は縛れないものだよねえ。何に代えても、勇者クンに会いたい……それもまた、キミの譲れぬ思い」
 

 首元を押さえつけていた手が、するりと滑って下へと動く。
 その手は、ポップの心臓の前でぴたりと止まった。
 鼓動を幾分か早めている心臓の上に、五本の指が軽く添えられる。

「迷っているんだろう、魔法使いクン。君の願いは……ごく簡単なことで費えてしまうからねえ。キミがぐずぐずしている内に勇者クンが死んでしまったとしても……、キミの、このガタが来始めた部品が完全に壊れてしまったとしてもね」

「……っ?!」

 仲間にさえ隠している、体調の悪さの源を指摘されてポップは大きく動揺する。
 それにつけ込むように、キルバーンはほとんど優しいと言っていい声で囁いた。

「どう? 取引しないかい……ボクはキミの願いを叶えてあげよう。勇者クンに会わせてあげるよ」


 ポップの目に、初めて揺らぎが生まれた。
                                                          《続く》
 

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