『死神の誘惑 ー前編ー』 |
それは、不意にゆるりと現れた。 瞬く間に壁の中から浮上してきた人影は、しかし、火傷一つ負うこともなく暖炉の中から優雅に歩みでる。 炎の明かりを背にしたその姿は、厚いカーテンにより淡い闇に満たされた室内で際だってみえた。 壁が見えなくなる程本棚で埋め尽くされ、それでさえしまいきれない本が床に雑多に置かれている部屋。 この部屋の主は、まだ若い……というよりも、少年の域を脱していなかった。 サイドテーブルに置かれているのは氷がいくつか浮かんだ水桶に、水差しに薬の袋、そして黄色いバンダナが丁寧に畳まれて並べられている。 濡れたタオルに目や額をすっぽりと覆ったまま横になっている黒髪の少年は、異様な気配に気づいてさえいない。 そんな彼の側に歩み寄りながら、仮面で顔を覆った道化師は大仰な身振りと共にいささか大きめの声で話しかける。 「おやおや……せっかく凝った演出で会いに来たというのに、ちょっとがっかりだね。ここはすぐに目を覚まして、ボクの登場と再会に驚いてくれる場面じゃないかな?」 「……!」 その声に反応して、少年――ポップはハッとして身を起こした。 身長ほどの長さもある巨大な大鎌を手にした男は、仮面の奥から軽い口調で話しかけてきた。 「ハァーイ、魔法使いクン、ようやくお目覚め? お久しぶりだねえ?」 その姿も、その口調も、ポップは知っている。 なにより、勇者ダイが行方不明になるきっかけとなった、不吉極まりない黒づくめの道化師。 「キル…バーン……!」 その名を呼ぶポップの声は、かすかに震えていた。 それとも、賢者を多く生み出すため神聖王国として名高く、数多くの結界に守られているはずのパプニカ城内に、魔族が現れたことに対するものなのか。 あるいは――体調が不十分な今に、よりによって最悪の敵と相対した衝撃が声を震わせるのか。 「まあ、正確に言えばもうその名前は正しくないんだけどね。でも他ならぬキミになら、特別にその呼び名を許してあげてもいいよ、魔法使いクン」 クックックと喉の奥でくぐもった笑い声をあげながら、キルバーンはさも親しげに声をかけてくる。 キルバーンの本体は小さな一つ目ピエロであり、この肉体はただの操り人形にすぎない……それが、バーンとの戦いで最後に分かった真実だったはずだ。 今のキルバーンは肩にピエロを乗せてはいないが、ポップのよく知っているキルバーンと口調や態度が似過ぎている。 おそらくはピエロさえも操り人形であり、この身体もまた写し身に過ぎないのかもしれない。 その正体を見定めようとするポップの視線に気づいているのかいないのか、キルバーンは陽気さに話しかけてくる。 「いやあ、本当に懐かしいねえ。1年と半年振りぐらいかな? 元気にしてたかい……とは、とても言えない様子だねえ」 その言葉に、ポップはぎりっと奥歯を噛み締める。 なかなか引かない微熱に悩まされて横になっていたポップは、即座に行動出来るだけの体力が回復しきっていない。 ベッドの上に半身を起こしたまま身構えているものの、ベッドが壁際に置かれているのが災いしている。 せめて窓から逃げたいところだが……ポップは窓の方を見ようとも思わなかった。 (ちくしょう、恨むぜ、姫さん……!) 本人の意思を無視して自室を一方的に決定したパプニカ王女をちらりと思いながらも、ポップは油断なくキルバーンの様子を伺う。 「いやだなあ、せっかくお見舞いに来てあげたのに怖い顔しちゃってさぁ。ここは一つ、久々の再会に相応しく積もる話でもしようって場面じゃないかい?」 「ふざけんな……! てめえなんかに会って、嬉しいわけがないだろう?! それにおまえと話したいことなんざ、これっぽっちもないね!」 絶対的に不利な状況にもかかわらず、ポップの強気な態度は崩れない。 なにしろその態度が面白いとばかりに、キルバーンは上機嫌に大鎌を揺らめかせながら笑っているのだから。 「おやおや、そんなに気を立てずに落ち着いて、落ち着いて♪ ボクはキミをお見舞いに来たっていっただろう? キミを殺す気なんて、全然ないよ」 長身の道化師の動きは、俊敏だった。 片手だけでポップを押さえ込んだキルバーンは張りついた形の仮面の笑みの奥から、くぐもった笑い声をあげる。 「キミを殺すつもりなら、声をかける前にこの喉首をかききっていたよ? こんな風にね」
「ヘンッ、どうだか。おまえのことだから、一気に殺さずにジワジワなぶって殺すつもりで、こんな回りくどい真似してるのかもしれないじゃないか」 「心外だねえ。ボクって、そこまで趣味の悪いサディストだと思われているんだ? ボクはキミを、誰よりも高く評価してあげているというのにねえ」 大仰なキルバーンの嘆きに、ポップはさも馬鹿にしたように鼻を鳴らす。 「ハンッ、よく言うぜ。今まで、何度もおれを殺そうとしただろうが」 「いやだなあ、たったの三回ぽっちじゃないか。それに、全部未遂だし♪」 充分過ぎる程多いとツッコミかけたポップだったが、キルバーンがゆっくりと自分にのし掛かってくるのを感じて、身を固くする。ポップの手に魔法力の光が集まりだすのを関知しているだろうに、キルバーンは警戒する様子すら見せない。 仮面がポップの頬に直接触れる程に顔を寄せ、妙に生々しい吐息と共に耳元に囁きかける。 「君の勇者サマに会いたくはないのかい、魔法使いクン?」 その瞬間、ポップの手の魔法力は霧散した。 「…………!」 喉がひりついて、声が出ない。 その気持ちは、ポップの中に強く根付ている。 「勇者クンは、生きているよ……今は、まだ、ね」 クククッとくぐもった笑い声がすぐ耳元で響く。 それにダイの生存なら、ポップはとっくに承知している。 「どこだっ?! あいつは……ダイは、どこにいるんだっ?!」 自分が殺されかけた時とは全く違う、性急な反応にキルバーンは満足げな笑みをこぼしながらゆっくりと身を起こした。 「それをボクに聞くのかい? キミはもう、とっくに予測はついているんじゃないのかな?」
「……やっぱり…そうなのかよ……!」 魔界。 ダイがそこにいるかもしれないと、ポップはずっと予想はしていた。
仮面の奥で、奇妙に光る瞳が熱っぽく揺らめく。 「そんなの、聞く必要ない!」 「おや? どうしてだい? 勇者クンに会いたいんだろう、キミは?」 心底意外そうな、だが、どことなく芝居掛かったそぶりで、キルバーンが聞き返すのを、ポップは憎しみすらこめた目で見返した。 「そんな方法なんて……とっくに気がついてるんだよ……っ!」
ダイがいなくなった日――それを、ポップは忘れたことなんてない。 『……ごめん…。ポップ…!!』 それが、ポップの聞いたダイの最後の言葉だった。 一人、致命的な爆弾を抱えて急上昇して――そのまま太陽に吸い込まれるように、消えてしまった小さな勇者。 体力も魔法力もほぼ使い果たしていたポップには、それを追いかけられなかった。
仲間達に内緒で、夜中にこっそりと抜け出して。 無意識だろうと意識してだろうと、瞬間移動呪文は術者の知っている場所にしかいけない。 三日かけて何度となく繰り返し探し……ポップは認めざるを得なかった。 あの時に、ポップは悟った。 少なくとも……、ダイはダイの意志でいなくなったわけでなく、そして、ポップの探しだせる範囲の場所にはいないのだと。 それを悟ると同時に、張り詰めた糸が切れたように、ポップは泣いた。 アバンを失った時のように。 声の限りに泣いて泣いて、……そして、慟哭の果てに気がついてしまった。
「黒の核晶、なんだろ?」 かつて、大魔王バーンが世界各地に降らせた黒の結晶を抱え込んだ恐るべき凶器の柱、ピラァ・オブ・バーン。 地上全てを吹き飛ばすのを目的に作られたその超爆弾は、魔界と地上界の境を無くす効力を秘めている。 「あれを爆破させれば……きっと、深い、深〜い穴が開くんだろうな。魔界の奥底に届くような深い穴がさ」 ヒュゥッと、死神は長く口笛を吹いてみせた。 「相変わらず惚れ惚れする程いい勘だよねえ、魔法使いクン。でも、そこまで分かっているのなら、なぜ実行しないんだい? キミならできるだろう?」 キルバーンに言われるまでもなく、ポップは承知している。
その封印に手を貸したポップは、黒の核晶が地上のどこに封印されているかを知っている、数少ない一人だ。 さらに言うのなら、ポップの魔法力ならば、黒の核晶を爆破させて誘爆を誘うのは不可能じゃない。 「いくらなんでも…っ、そんな真似……できるわけがないだろうが!」 吐きだすように、ポップは叫ぶ。 しかし、勇者一行の一員であるポップと違い、魔王の配下だったキルバーンはそんなのは些細な問題とばかりに軽く指を振る。 「犠牲を恐れて、道が切り開けるとでも? いいかい、この世の中、何かを失わずに得られるものなんかあると思うのかい? ましてや、得たいのがこの世に二つとない得がたい宝物だとしたら、なおのことだよ。キミにとって、親友とはそんなに軽い存在なのかな?」 狡猾な死神は、的確にポップの弱味を突いてくる。 「フッフッフ。でもね、分かっているよ、魔法使いクン。勇者の魔法使いであるキミが、そんな真似ができるはずがないよねえ? それは、人としての禁忌――でも、人の心は縛れないものだよねえ。何に代えても、勇者クンに会いたい……それもまた、キミの譲れぬ思い」 首元を押さえつけていた手が、するりと滑って下へと動く。 「迷っているんだろう、魔法使いクン。君の願いは……ごく簡単なことで費えてしまうからねえ。キミがぐずぐずしている内に勇者クンが死んでしまったとしても……、キミの、このガタが来始めた部品が完全に壊れてしまったとしてもね」 「……っ?!」 仲間にさえ隠している、体調の悪さの源を指摘されてポップは大きく動揺する。 「どう? 取引しないかい……ボクはキミの願いを叶えてあげよう。勇者クンに会わせてあげるよ」
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