『勇者のお勉強大作戦♪ ー後編ー』

  

 彼の足取りは、重かった。
 パプニカで一、二を争う学者にして、何十冊もの学術書を書き上げた数々の功績を誇る彼は、現在、勇者の家庭教師のチームリーダーである。

 勇者に勉強を教える仕事……実に名誉な仕事であるし、王女であるレオナ直々に初めて任命された時にはあまりの光栄にうち震えたものだ。
 が、それが後悔に変わるまで、ものの三日とはかからなかった。

 とにかく、勇者ダイは――平たく言うのならば、勉強には向かないタイプだった。
 とはいっても、ダイの名誉のために言うのならば、彼の知能が低いというわけではない。ただ、彼の興味が勉強という方向性には全く向いていないだけの話だ。

 じっとしているよりも動くことを好み、一つのことを集中して考えるのが苦手な上に、初歩の読み書きすら完全にマスターしていないダイは、勉強をちんぷんかんぷんなものとして捕らえている。

 しかも、ダイはある意味でとても即物的な性格だ。
 戦いや実生活などで、すぐにその効果を役に立てることができない分野の事柄には、なおさら関心が薄くなる。

 文字の読み書きや算術などは、ダイにとってなんの役にも立たないものと認識されているらしく、いくら学者面々が熱を込めて教えても全くの無駄だった。

 まあ、ダイの名誉のために言うのなら、ダイはダイなりに一生懸命に勉強に取り組んでいる。
 勉強を嫌ってはいるが、それでも真面目に授業には参加もしている。

 だが、理解を超える言葉を聞かされると、ほとんど無意識に右から左へと綺麗に聞き流してしまうらしい。
 勉強嫌いの男の子にとっては珍しくもない反応だが、学者畑で何十年も生きてきた人間には理解できない反応だ。

 高いレベルの研究者にしか者を教えた経験のない学者に、初歩の勉強もろくにできない子供に教えるのは辛いものがある。
 ザルで水をすくっているかの様な空しい作業に、家庭教師チーム達が精神的な疲れを感じ、自信を喪失するのも無理はなかった。

 教育に自信が無くなったと、一人やめ、二人やめ……現在のチームメンバーはリーダーである彼一人である。
 高給を確約し、家庭教師を新しく募り雇ったところで、この勇者様の教育は誰にとっても大変なのか、しばらく経つと疲れきったように自ら辞職していく。

 しかし、最初にレオナに頼まれた責任があるリーダーとしては、後任がいない以上やめるわけにもいかず、延々とはかばかしくない授業を続けていた。
 胃の痛みすら感じつつ、教室に足を踏み入れた学者は、目を見張った。

 便宜上教室とは呼んでいるが、ここはパプニカ城の客室の一つで、ダイ専用の勉強部屋として使用されている場所だ。
 ダイの自室からも近い場所にあるのだが、よっぽどここに来るのが嫌なのか、普段のダイは授業時間ぎりぎりになるまでここに来ようとはしない。

 そのくせ、終わると同時に逃げる様にささっといなくなってしまうのが常で、それも学者連中にとっては嘆きのタネになっている。
 だが、今日はいつもとは様子が違っていた。

「え……っ!?」

 授業時間前に、きちんと椅子に着席している勇者様という世にも珍しい光景を目の当たりにして、学者は驚愕に目を見開いた。
 だが、真の驚きはその後で襲ってきた。

「先生! 早く勉強を教えてください!」

 待ちきれないとばかりに自分から勉強をせがむ勇者を前にして、学者は不覚にも目頭が熱くなるのを感じた。

(か、神よ……! やっぱり、この世に神はいたのですねっ)

 思わずその場に跪いて神への感謝の祈りを捧げたくなった学者だったが、ダイがせっついてくる。

「急いでくださいっ、おれ、字を読めるようになりたいんですっ!」





(うぅうう〜、絶対、読めるようになってやる……っ!)

 ダイが勉強に目覚めてから、はや一週間。
 不退転の決意を秘めて、ダイは戦いの時に敵に向けるよりもよっぽど鋭い眼差しで、黒板を睨みつけていた。

 あまりに殺気だった目付きに学者がちょっと怯えた様子を見せているが、はっきりいってそんなのに構ってなどいられない。
 今のダイは、ぶっちゃっけ死に物狂いだった。

 うねうねした、字とかいうわけのわからないもの。
 だが、それこそが、今はポップの『言葉』なのだ。
 いつもは、口で話してくれるポップの言葉。

 誰に対しても遠慮や区別がなくかけられるその言葉は、不思議なくらい聞く人に元気を分け与えてくれる。
 それを、自分だけが分からないだなんて我慢できない。

 今は口がきけないからとはいえ、ポップの書いた走り書きのメモを文官や侍女が大切そうにポケットにしまいこむのを、ダイは何度も見た。
 用件を書いただけのメモなんて、読み終わったら即座に捨ててもよいものだろうに、ポップの手書きのメモをもらった大抵の人間はそうは思わないらしい。

 ほとんどの者が、宝物のようにそのメモを大事にとっておく。
 それを見る度に、ダイは焦りや苛立ちを覚えずにはいられない。
 普段のポップなら他の誰よりも、ダイに多くの言葉をかけてくれる。

 が――今は、ダイこそがみんなの中で一番、かけられる『言葉』が少ない。
 ダイが字を読めないと知っているポップは、ごく簡単な言葉しか書いてくれない。
 レオナなどには仕事上の関係もあり、長々とした文章を書いたり、渡されたりをしている。

 ヒュンケルにだってそうだ。
 だが――ダイだけは、短い単語の走り書きしかもらえないのだ。
 それに、ポップにいくら話しかけても、彼の耳には届かない。

 それがどんなに苛立ちを誘って、落ち着かなくさせるものか……言葉で説明するのがもどかしいぐらいだ。
 もちろん、しゃべれなくても耳が聞こえなくても、ポップはポップだ。

 顔を合わせれば敏感に相手のいいたいことを察知できるポップは、ダイの感情にはだいたい気付いてくれるし、言葉の代わりに豊かな表情や身振り手振りを使って、ダイに受け答えてはくれる。

 だが、それだけでは物足りない。
 ダイとしては、いつものようにポップといろいろと話をしたり、笑ってもらいたい。
 その一心で、ダイの勉強は今までのペースに比べると長足の進歩を見せていた。

「先生っ! できました!」

 と、ダイが、手どころか顔や服にまでインクを飛ばして書き上げた短い文章を、学者は受け取って――心の底から幸せそうな笑みを浮かべる。

「おお……っ、素晴らしい進歩ですよ! これならば、百歩譲ればそれなりにちゃんと字の形として読めますぞ!!」

 ……今までの低レベルを窺い知ることのできる褒め言葉っぷりである。

『ぽっぷ、おはよ、ごあん、たべにいこお』

 …………書かれている言葉は、まだまだ文章と呼ぶにも憚られる上に、字も汚く、なおかつ誤字がひどい。
 だが、学者は感激の涙をそっと拭いながら、『あ』を『は』に、末尾の『お』を『う』に修正してやってから、三重の花丸をつけてやる。

「結構、だいぶ進歩してきましたね。では、今日の授業はここまでにしておきましょうか。明日はこのページをやりますから、宿題としてこの文章を10回書いておいてください」

「はーい!」

 元気な返事と共に、ダイは書いたばかりの手紙を丁寧に丸め、物凄い勢いで部屋を飛び出していく。
 もちろん、行く先は決まっている。ポップの所だ。





「ポップ! 聞いてよ、今日、先生に褒められたんだよっ」

 ノックもせずに飛び込んでそう叫んでも、執務机に向かっているポップはすぐには気がついてくれない。

 びっくりした顔を見せたのは、ポップと机を差し挟んだ向かい側に座っているレオナの方だった。

「ちょっと、ダイ君。レディーの部屋に入る時は、ちゃんとノックしてよね」

「あ、ごめん、レオナ」

 ポップも時々同じ文句を言うが、何度言ってもダイが忘れるせいと、ノックをすればしたで勢い余って扉を壊したことが何度かあったためか、最近は文句を言うのを諦めたらしい。

 だから、ポップの所に行く時はいきなり飛び込む癖が出来てしまったが、ここは彼の執務室ではない。
 レオナの執務室だ。

 ポップとレオナは、普段は各自、自分の執務室で仕事をしている。
 だが、仕事が切羽詰まってどうしても時間が足りない時や、特に難しい仕事に当たる際は、ポップとレオナは二人そろって作業することはよくある。

 今は、耳と口が不自由なポップをフォローするためか、ここ数日レオナとポップは一緒に行動する時間が多い。
 二人が向かい合わせに座っている、大きな執務机の上に、ダイは得意そうに今日書いたばかりの最新作を広げた。

「おれ、今日、がんばったんだよ!」

「まあ、すごいじゃないの、ダイ君。聞いているわよ、最近ずいぶん授業が進んでいるそうね」

 やたらと嬉しそうなレオナに褒められると、それだけでダイも嬉しくなる。
 だが、それ以上に嬉しいのは、ポップがダイの書いた手紙(?)を読んだ後、よくやったとばかりに頭を撫でてくれる瞬間だ。

 それから、ポップは手元にあった紙になにやら書きつけ、ダイに渡してくれる。前はそうされるとうろたえたが、今は違う。
 簡単な字なら読めるようになっただけに、ダイは積極的に文章を目で追っていく。

「えっと……? お、や……つ? た、て? じゃなくって……、へ、かなぁ? あれ? でも、点々ついてるし〜」

 ――黙読なんてしゃれた真似は出来ず、口も使わないといけないようではあるが、それでも以前に比べればずいぶんな進歩だ。
 読み終わるまでの時間だって、前に比べればずっと短くなっている。
 たった3分ほど悩んだだけで、ダイは正解に辿り着いた。

「あっ、分かった! 『おやつ、を、たべに、いこう、か?』だろ、レオナ?」

「そうよ、正解! すごいわ、ダイ君、ちゃんと字を読めるようになってきたわね」

 手を打ってはしゃぎ、レオナは書きかけの書類を手際よくまとめてから立ち上がった。

「今日は天気がいいから、庭でお茶にしましょうか。すぐに用意させるから、二人とも先に行っていて」

「うんっ。いこ、ポップ!」

 駆けるダイに先導される形で、ポップも後に続く。
 パプニカ城の中庭にある大きな木の下には、瀟洒なデザインの白いテーブルと椅子が置かれている。

 それはレオナがたまに戸外でお茶をしたいと望んだ時に利用されるもので、ダイ達にとっても馴染みのある場所だ。
 お茶道具を運んでくるのは、あまり見掛けた記憶のない侍女だった。

 まだ成人に達していない若さといい、頭を飾るプリエの形からも、城に上がって一年以内の経験しか持たない新人だと一目で分かる。
 お仕着せの侍女服の裾さばきさえまだ怪しげなその娘は、ダイ達がもうテーブルの所にきたのを見て慌てて作業を進めようと急ぐ。

 が、その焦りが仇となって、侍女はお湯の入ったポットをひっくり返してしまった。侍女失格なこの失態に、新米侍女は青ざめんばかりにうろたえる。

「あぁあっ、す、すみませんっ、私ったらなんてとんでもないことを……っ」

 普段のダイなら、申し訳なさそうに謝る女の子がいたら、まず安心させようと慰めの言葉の一つもかけただろう。
 が、今日はそれよりも先に、ポップの方を振り返るのを優先させてしまった。

 位置からいって、まずポップにお湯がとんだとは思えないが、耳が聞こえていない分、ポップの回避能力はいつもより鈍っている。
 が、ポップに呼びかけようとするダイの声を遮って響いたのは、お気楽で調子のいい声だった。

「あ、へーきへーき、気にしなくっていいって。それより、あんたこそ大丈夫? 火傷とかしなかったかい?」

「へ?」

 思わず、目が点になってしまったダイの目の前で、ポップは至って気楽な調子で侍女を慰めつつ、零れたお湯の始末を手伝っている。

「本当に、申し訳ありませんっ。すぐ、お湯の代わりをお持ちしますから!」

 そう言って駆け足で去っていく侍女に、

「急がなくてもいいよ〜、また転んだら危ないから」

 侍女には全般的に甘く、下心がちょっとあるとはいえ優しい傾向のあるポップは、機嫌よさげにニヤニヤしながら手を振って見送っている。そんなポップに向かって、ダイは小さく呼びかけた。

「……ポップ」

「ん? なんだよ、ダイ――って、ああっ!?」

 と、ポップはやっと気づいたように自分の口許を押さえたが……すでにもうなんの意味もない。

「ポップ〜ッ、しゃべれるんじゃないかっ!? っていうか、耳もちゃんと聞こえてたの!?」
 ダイにしてみれば、これはひどい裏切り行為もいい所だ。
 ここのところ、ポップが耳も口も利けないと思うからこそ、死に物狂いで努力してきたというものだ。

 それが、実は騙されていました、だなんて到底歓迎できる話ではない。なまじ本気で心配していただけに、怒りも倍増するというものだ。

「ひどいや! いつからだよ、まさか最初っから嘘だったのか!?」

「まーまー、そう怒るなよ、ダイ。嘘ってわけじゃねえんだからさ、ホントだって、最初はマジでしゃべれなかったし、耳も聞こえなかったんだよ」

 久し振りに聞く、自分に向かって話されるポップの声。
 宥めるようにそう言われると、むくれていたはずのダイの気も、ちょっぴりと安らぐ。それに、それが嘘ではないのはダイにだって分かる。

 確かに、最初の2、3日はポップの行動は、耳の聞こえない人のそれだった。周囲の音や声にもまるで反応しなかったし、無理にしゃべろうとして咳き込むことも多かった。

「でも、なんで治ったのにすぐ教えてくんなかったんだよっ!?」

「いや、教えようとは思ったんだけどさー、おまえがせっかく珍しく字を勉強しようって気になったみたいだし、もうしばらくはこのままでもいいかなって……」

「なっ……なんだよ、それーーっ!?」

 などと、久しぶりに大騒ぎしているダイとポップに対して、遅れてやってきたレオナは少しばかり目を見張る。
 だが、彼女が見せた驚きはそれだけだった。

「あら、ポップ君ってば、もうバラしちゃったわけ? いやあね、おしゃべりな男ってのは、女の子には嫌われるわよー」

 小さなバスケットを手にやってきたレオナは、呆れたように肩を竦めて見せる。

「え? え?」

 戸惑うダイの目の前で、レオナはごく当たり前のようにバスケットをテーブルの上にのせ、中からお茶菓子などを広げだす。
 そんなレオナを見ながら、ダイは一つ思い当たったことがあった。

 ポップが心配だからと、三日目から世話役を買って出たのはいつもは忙しいレオナだった。執務室も一緒に使い、常に側にいるようになって――。

「あれ? あれれ? ……あーっ、もしかして、レオナも知ってたのっ!?」

 心底驚くダイに対して、ポップは溜め息混じりにボソッと言った。

「…………おめえ、気づくの遅すぎ」

 そう言いながら、トンと地面を蹴ったポップはそのまま空中に浮きあがる。ジャンプなどしていないのに高くまで軽々と飛べるのは、明らかに魔法の効果だ。

「あっ、ポップ、どこ行くんだよ!?」

「おれ、ちょっと師匠んとこに用があるから、行って来るよ。夕方までにゃ、戻るから!」
 それだけを言い残して、ポップの姿は光の矢となってふいっと消える。

「あーっ、ポップ、ずるーいっ!」

 膨れて怒鳴るダイに、執り成すようにレオナが甘いお菓子を差し出した。

「まあまあ、ダイ君、落ち着いて、ね? ポップ君なら、放っておいてもすぐ戻ってくるわよ」

「うう〜、でも、なんかずるい〜」

 いまだに納得しきれないように文句を言いつつも、ダイはレオナに薦められるままに腰掛け、お茶菓子と侍女が持ってきてくれたお茶を受け取る。
 ――だが、それでも、ダイは口で言うほど怒っているわけでもなかった。

 確かに騙されていたのには驚いたし、ずるいとも思うが……ポップが元に戻ったという喜びの前では、そんな怒りさえかすんでしまう。
 もう無理に勉強しなくてもいいという安堵感も手伝い、ホッとする気持ちの方が強かった。

(とにかく、ポップが治ってよかったー)

 安心感だけいっぱいになってしまったダイは、騙された恨みなどコロリと忘れてしまう。ましてや、ポップが突然口をきけなくなり、耳が聞こえなくなった原因がなんだったかと疑問追及する心など、かけらも残りはしなかった――。





 こうして、怪我の功名(?)というべきか、周囲の人間の密かな悩みの種だった勇者ダイの修学率は、短期間でかなりのレベルアップを果たした。

 が……、その後、目的がなくなったダイの勉強熱が復活することは二度となく、家庭教師リーダーはまたも胃を痛めながら彼に勉強を教える日々が続いたと言う――。

 


                                      END


《後書き》
 前から一度書いてみたかった、『ダイが文字を読めるようになったきっかけ』の話ですっ。…いやー、なんだか家庭教師さんが気の毒ですね(笑)
 ところで、主にダイ視点のこの話では触れていませんが、ポップが耳と口が使えなくなった理由については、この続編…というか続きの『言霊の力』で語っています。
 
 

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