『魔界よりの帰還 ー前編ー』 |
魔界。 そこはまさに、弱肉強食の世界。自分こそが強者にならんとして、互いに鎬を削り合う魔族が相争う殺伐とした世界。 血に染まった獣が、水面に映る。 周囲にいる数十……いや、もしかすると数百を超える魔物や怪物を全て屠った人間は、血の臭いが充満する場所の中で気にする様子もなく、貪るように水を飲んでいる。 水を飲み、獣の胃袋で作った手製の水筒を満たしてからやっと、彼は血に染まった身体を洗い流しに掛かる。 血に染まった水面は、揺らめきながら一人の人間を写し出していた。 血に染まっても、水で洗われても、ほとんど変化のない濡れた黒髪は、腰の強い髪質のままに奔放に跳ねまくっている。頬の十字傷が、精悍さを強調していた。 かつては勇者ダイと呼ばれていた少年であり、大魔王バーンを倒して地上を救った小さな勇者。 (もう……あれから、どれくらい経ったんだろう?) 太陽がなく明確な昼や夜がない魔界では、季節の変化もまた、乏しい。 地上のものとは全く違う歪な植物。どれが何の季節を指し示しているのか、ダイにはまるで分からなかった。 あれから、4年か、5年か……正確な日取りは分からないが、あれから少なくはない時間が流れてしまったかは、ダイ自身の成長が教えてくれる。 地上にいた頃の自分とは、見違えるぐらいに成長した日数の分だけ、自分は地上や仲間達から遠ざかってしまったのだ、と。 太陽のない、灰色と漆黒の時を繰り返す荒野に投げ出されていたことに、戸惑っていられたのはほんの短い間だけだった。 次から次へと襲いかかってくる怪物や魔物から身を守る為、ダイは全力で戦わなければならなかった。 最初は、嫌だと思った。 少しでも戦いをためらえば、それは、ダイ自身の命を危うくする。 だが、それでも魔界に馴染み、生き延びることができたのは竜の騎士の本能のせいか。 ダイが真っ先に望んだのは、元の世界……地上に戻ることだった。だが、探せば探すほど、その方法は絶望的だった。 次にダイが頼ったのは、竜の騎士の記憶だった。 魔界と地上の間には、強固な封印が存在している。その封印を解くのは事実上不可能だろう。強い力を持った者だけが辛うじて、封印を緩めて『扉』を作り出すことができる。 封印が弱まる時と場所を選び、そこに『扉』を開いて世界を繋げる。竜の騎士は、そうやって違う世界を行き来することができる。 それを成し遂げるには、莫大とも言える魔法力と、竜魔人化して初めて発揮される、研ぎ澄まされた感性が必要になる。 地上に、帰りたい。 今のダイは、万に一つ……いや、億に一つの奇跡を求めて闇雲に魔界を旅し、地上に戻る方法を探している。 魔界でもっとも強い力を持つ魔王といえば、バーンとヴェルザーだった。 少なくとも、今までダイが魔界で出会い、もしくは戦った自称魔王達は、誰一人として地上への行き方など知らなかった。 敵は呆れる程多く、わずかにでも情報を与えてくれる、味方と呼ぶには細やか過ぎる相手には出会うことすら稀だ。 身体を清め終わったダイは、その目を西の方角へと向けた。 魔界の町は、ダイにとってはある意味では怪物が棲まう荒野以上に危険な場所だ。中身はともかくとして、ダイの外見はほとんど人間だ。 以前、小さな村ぐるみで襲われて、やむなく反撃した結果、その村を全滅させてしまったこともある。 (でも……あの噂について、聞けるかもしれない) それは、少し前から流れ出した風の噂。 もし、それが本当なら、その魔族がどこから人間を連れてきたのか……それを確かめるだけでも地上への手掛かりになるかもしれない。 「え……?」 思考が、真っ白になる。 そこにいたのは、紛れもなく人間だった。 魔族しかいない町の中で、ゆっくりと歩いているその人間を、周囲の魔族達は注目しながらも遠巻きに見ているだけだ。 信じられない存在を目の当たりにした衝撃は、ダイから普段の用心深さや戦いに身構える本能すらも麻痺させていた。 細身の体付きや、顔にどことなく残っている幼さの名残から、まだ若いと一目で知れる黒い髪、黒い目の魔法使い。 黄色いバンダナを頭に巻いているのも、以前と変わりがない。 (ポップ……!? ポップ、なんでこんなところに……どうして……っ!?) 渦巻き、込み上げる疑問は、しかし、それを上回って胸を震わす歓喜に、いともあっさりと流される。 「ポップ……ッ!」 この数年の間、ずっと会いたいと願い続けていた親友。 彼にもう一度、会いたい。 「ポップッ、ポップ!」 名を呼びながら、ダイはポップに抱きつこうとした。 固いはずの地面を、まるで水面であるかのようにたやすく突き抜け、ポップの前に立ちはだかった男の姿に、ダイはさっきとは違った意味で凍りつく。 「キ、キルバーン……ッ!?」 考えるよりも早く、勝手に身体が反応していた。後に跳びずさると同時に剣を抜き放って身構えるダイに対して、キルバーンは警戒した様子を見せなかった。 その動作と共に、ちゃり、と軽い金属音が響く。その音に続いて、鎖が連続的に音を鳴らしたのは、キルバーンが動いたせいではない。 繋がれた鎖を鳴らしながら、忠実な番犬の様にキルバーンの前に立ちはだかった人影に、ダイは再び衝撃を受ける。 「なんで…っ、なんでだよ、ポップ……ッ!?」 さっきは再会の喜びが大きすぎて見逃していたが、ポップの首には首輪がつけられていた。 だが、首の後ろ側から伸びた鎖が、キルバーンの手へと続いている。 「……ポップ?」 ポップは、とても表情豊かだった。 だが――今のポップは、ダイの記憶の中のポップとはまるで違う。 「ポップ、どうしちゃったんだよっ!?」 ダイの混乱は、強まる一方だ。 だが、それは有り得ない。 「ポップ……!? ポップ、返事してくれよっ! おい、キルバーン、おまえ、ポップに何をしたんだっ!?」 反応のないポップに業を煮やして、ダイはキルバーンに向かって怒鳴りつける。だが、答えは彼からではなく別のところから聞こえてきた。 「きゃははーっ、相変わらず頭悪いね〜、キミは。そいつはキルバーンじゃない、ただの人形にすぎない……って、前に教えたはずだけどね?」 場違いな、子供の甲高い声。 「お久しぶりだね、竜の騎士クン。ずいぶんと探したんだよ」 ピロロと呼ばれた、小さな使い魔。 「それにしても、キミ、驚かないのー? ここはお約束通り『なんで生きているんだっ』とかなんとか言って、驚いてくれるとこじゃないかな?」 からかう様なその言葉に、ダイが感じるのは苛立ちであり、驚きではなかった。 「そんなことはどうでもいい! ポップに、何をしたんだっ!?」 混乱や不安を全て怒りに変え、ぶつけるように怒鳴る。 そんなダイの同様を楽しむ様に、ピロロは子供の姿には合わないもったいぶったしぐさで手を振って見せた。 「ククク……ッ、そんな言われ方は、心外だねえ。ボクは魔法使いクンを今まで、ずーっと守ってあげていたのにさ」 わざとらしい笑い声が、神経に障る。 「結構苦労したんだよ? 殺さない様に、気をつけて地上から拐ってくるのに。おまけに、魔界では人間は目立つからね。キミに出会う前に、何百もの魔族が魔法使いクンに襲いかかろうとしたか、分かるかい? ボクはずっと彼を守ってあげてたんだ、感謝されてもいいぐらいよ」 感謝などするはずがないと分かっていながら、ぬけぬけとそう言ってのける小さな道化師に、込み上げてくるのは殺意なんて生易しい感情ではなかった。 「それに魔法使いのボウヤだって、きっとボクに感謝してくれているよ。だって、ずっとキミを探していたんだものね。キミが魔界にいるとも知らず、ご苦労なことに地上なんかを必死に旅しまくってね」 それを聞いて、場違いにも歓喜に似た思いが浮かぶ。 「あんまりかわいそうだったから、望み通り再会させてあげようかと思ってね。なのに、魔法使いクンが嫌だってダダを捏ねたりするから、意思を封じて人形にしてあげたんだよ」 ピロロが手を伸ばし、ポップの首輪に繋がる鎖を引く。首に繋がる鎖を引っ張られれば苦しいだろうに、ポップは表情一つ変える様子もなく、従順に鎖を引かれるままに動く。 そんなポップの頭に手を置いて、ピロロは笑顔のままで残酷な一言を告げた。 「彼は『生き餌』だよ。キミをおびき出すための、ね」 「…………よくも……っ!」 深い、強い怒りが込みあげてくるのをダイには抑えきれなかった。 彼は、ダイの一番大切にしていた、一番痛い所を突いてきた。 「よくも……よくも、こんな……っ」 最後にあんな別れ方をしてしまったが、それでもポップは地上で生きていると思うのが、ダイの最大の慰めだった。 せめて、ポップだけでも生き残ってほしかったからこそ、置き去りにした。 ポップには、地上で幸せに生きてほしかった。だからこそ、心を鬼にしてポップを突き放した。 「――よくも、ポップを……っ」 怒りが、臨界を突破する。 双竜紋が彼の額に浮かび上がり、魔神が降臨するまで、そう時間がかからなかった。 「――それを待っていたよ、竜の騎士クン……!」 呟くと同時に、ピロロは漆黒の道化師の肩を蹴って、大きく後方へと飛んだ。その動きは目で追っていたが、ダイの注意はポップへと向けられている。 それを見越しているピロロは、ダイから十分に距離を取ると、ニタリと嫌みな笑みを浮かべた。 「いいことを教えてあげようか。魔法使いクンの意思を封じているのは、その首輪と鎖だよ。それを断ち切れば、魔法使いクンは元に戻るよ」 ピロロの言葉に、ダイは返答しなかった。 「あ、ボクの言葉を疑っている? 傷つくなァ〜、嘘なんかついてないよ? ――ただ、ちょっと罠を仕掛けているだけでね」 子供の姿であっても、人の神経を逆撫でするかのような口調は健在だった。 「いったい、どういうつもりだっ!」 「なァ〜に、ちょっとしたご招待だよ。ボクのご主人様の所へ、お招きしようかと思ってね」 キルバーンが主君と呼ぶのは、ただ一人。 「知っての通り、ヴェルザー様はあの忌ま忌ましい神々の封印よって封じられている。でも、キミになら、ヴェルザー様の封印を解くことが出来るのさ……竜の騎士クン」 封印の解き方など、正直ダイには見当も付かない。だが、その言葉が嘘とは決めつけられなかった。 神々の手によって作られた竜の騎士なら、神々の力を借りた封印を解くことができても不思議ではない。 「だけど、キミときたら結構用心深くて、ヴェルザー様の近くによりついてくれないんだから、嫌になるよ」 ピロロは大袈裟にぼやくが、ダイにしてみればそれは当然だった。 父親と死闘を演じた相手に興味が無いとは言わないが、ダイの本能も感情もヴェルザーとの戦いではなく、彼の永劫の眠りを望んだのだから。 「だから、ボクはずーっとキミを探していたのさ。ヴェルザー様の所へ、ご招待するためにね」 「ふざけるな! おれが、そんな誘いにのると思ってるのか!?」 「――思っていないよ。だから、そのお人形を用意したんだよ」 子供っぽい手がスッと黒衣の道化師を指差し、気取ったしぐさでパチッと指を鳴らす。その途端、道化師の身体が魔法の光に覆われ、不吉な機械音が響きだした。 「な、何をしたっ!?」 ダイの本能は、危険を告げる。 だが、ダイの感情はそれを拒む。 「スイッチを入れたのさ。空間転移魔法を起動させるための、ね。その人形を中心に、周囲を巻き込んで空間転移する……クククッ、この意味が分かるかい?」 「……っ!」 ダイは咄嗟に、周囲を見回した。 自分が魔界に来た時の様に激しい爆破が発生するとしたら、この町ぐらい吹き飛んでしまうだろう。 「アーハッハッハッ、ご招待、気に入ってもらえたかなっ!?」 ピロロの高笑う声が響き渡った――。
《続く》 |