『まほろばのはなし ー起ー』

  
 

 リィィイン……!!

 巫女の動きに合わせ、鈴の音が鳴り渡る。
 微かながらも、澄んだ音を立てながら。
 それは、正式な巫女の装いには欠かせない物だった。
 鈴の音には神事には欠かせないものであるし、古来より呪力があるとされている。

 特別な行事の際に着る巫女装束には、鈴が装身具として飾られている。それゆえ、巫女の動きに合わせて鈴の音が響くのだ。
 その音のせいか、灯もついていない神殿の中で、白い巫女装束を纏った彼女のその存在感だけが圧倒的だった。

 ここは聖域なのだと、只人に強く意識させる神聖さに満ち溢れている。巫女の訪れを待って控えていた者達は、彼女が上座につくまで礼儀正しく目を伏せ、彫像のように身動き一つしようともしなかった。

 そんな彼らを見下ろした巫女は、注意を喚起するためか、一際強く手にした鈴の音を鳴らす。

 リィーン――ッ!

 ハッとして顔を上げた彼らに対して、巫女は厳かな口調で告げた。

「お聞きなさい。これより、あなた達が成し遂げなければならないことを」

 そこまで言ってから巫女は一度言葉を切り、自分の前で頭を垂れる者達を静かに見下ろした。

「よいですか、心してお聞きなさい。
 これは、神託です――」

 


 微かに聞こえるその音を、ダイは最初、鈴の音だと思った。
 あまりにも澄んでいて、それでいてどこか神聖で、聞き心地の良い音色だったから――。 だが、それがただの鈴の音ではないと悟るまでそうは時間がかからなかった。

 確かに、鈴の音色も混じってる。だが、その鈴の音に合わせるように、唄も聞こえてくる。
 透き通るように美しい歌声に、ダイは思わず聞き惚れていた。

 言葉の節回しや旋律に心を奪われたダイは、それが神を寿ぐ古い唄だとも知らないまま、唄の聞こえる方に向かって歩きだす。
 近付けば近付くほど、鈴の音色よりも唄の方が大きく聞こえてくる。

 村人もめったに訪れない、集落から少し外れた場所にある原っぱだった。ちょうど、貴説は冬になり掛かった頃で、枯れ葉も落ち、雑草も色も勢いも無くした灰色っぽくなった場所。

 だが、その中で彼の存在は際立っていた。冬でもなお、色鮮やかな常磐木のように――。 ひどく熱心に、ダイの気配にすら気がつかぬまま唄う少年が、そこにはいた。
 彼が手を動かす度に、手首に巻きつけた鈴が音を鳴らす。萌葱色の装束の上に纏った幣(ぬさ)が、ひらりと揺れる。

 その姿を見て、ダイが真っ先に感じた感情は、禁忌への恐怖だった。
 猟の最中に、入ってはならぬ神域に踏み込んでしまった時のような、恐れ。
 見てはならないものを、見てしまったかのような畏怖の感情。だが、それでいて、それはひどく心を惹きつける光景でもあった。

 唄う少年は、どこか寂しそうで今にも消えてしまいそうに儚く見えて――そして、怖くなるぐらいに、人間離れした貴い存在に見えた。
 神に仕える者が、只人とはかけ離れた存在なのだと実感してしまう一瞬。

 だが、その感情はすぐに消えた。
 そこにいるのが遠くかけ離れた存在ではなく、自分のよく知っている存在だと気がついたから。

「ポップ?!」

 思わず名を呼ぶと、少年は驚いたように振り向いた――。

 

 

「――!!」

 目覚めは、唐突だった。
 夢の余韻に浸る間もなく、ダイは瞬時に状況を理解していた。
 身体を休めるために眠りについていたわずかな時間……、その隙をついて敵が襲ってきたのだ、と。

 ダイの目の前に迫るのは、霞のようにしかとは見定められない存在だった。
 灰色の靄のような不定形の存在は、恐らくは一般の人間の目にははっきりとは視認できまい。

 だが、濃厚に漂う嫌な気配や、肌身に迫る悪意は常人にさえ感じ取れるだろう。
 人々が『鬼』と呼び忌み嫌う存在に襲われながらも、ダイはひどく冷静だった。

「……邪魔だよ」

 わずかな苛立ちを込め、ダイは身近に迫った気配に向かって愛用のナイフを切りつけた。 小さな品ではあるが、聖なる祝福を込められた刃の効力は確かだった。刃に触れた途端、霞じみた人外の存在は奇妙な呻き声と共に霧散していく。

 それを見届けるダイの目は、少しも動じていなかった。
 ダイにしてみれば、鬼に襲われた恐怖や戦いの高揚感よりも、夢を邪魔された苛立ちの方が上回っている。

 本来ならば人が入ってはならないとされる禁足域に踏み入り、『鬼』に襲われ続ける旅。 それが、今のダイの日常なのだから。
 旅に出る前、まだ村にいた頃ならともかく、今のダイには鬼など恐れる程のものではない。

 ダイ自身こそが、鬼を上回る異形の存在なのだから――。
 それに、ダイには決して譲れない目的があった。

(せっかく、ポップの夢を見ていたのに……!)

 ずっと一緒にいた、大切な友達。
 ポップをバーンの手から取り戻すことだけが、今のダイの目的だった。
 その前には、どんな困難すらも問題ではない。
 たとえ、バーンの正体が神代の頃より恐れられた悪神、別天つ神であったとしても。

 自分自身が、伝説に伝えられる滅びの龍の化身だと聞かされても、ポップが龍の封印をする役割を負った神の転生身だと聞いても、関係はない。
 ダイが望むのは、自分の友達であるポップを助けること――ただ、それだけだ。

 そのために、ダイは今、険しい霊山を登っていた。
 場所は、ダイ自身が暮らしていた名もなき村……龍を封じた村から、そうは離れてはいない。

 だが、心理的な意味では大きく離れた禁足域だった。
 言い伝えでは、この山は決して近寄ってはならぬ地とされている。
 なぜなら、ここは常世へ繋がっている山なのだから。

 まだダイが村にいた頃、この山には決して近寄らぬようにと戒められたものだし、ダイも近寄りたいと思ったことはなかった。
 この霊山に迂闊に近寄る者は命を落とすという脅しを聞いていたせいもあるが、ダイ自身もこの山には不吉な感覚をずっと感じていた。

 普通とは明らかに違う、不穏な気配……それをわざわざ確かめたいと思う程、ダイは愚かではなかったし、今までは忠実に掟を守ってきた。
 ダイの暮らしていた村では、掟は絶対のものだったから。

 龍を封印するために、数多くの儀式や掟に縛られた生活を繰り返している村の暮らしに、ダイはなんの不満も感じていなかった。
 だが、今となっては村の掟よりも、本能的に感じる危機感よりも、ポップを助けることの方がずっと大切だった。

 バーンがポップを常世に連れて行くと宣言した以上、ダイも常世に行くのに何の疑問も感じない。
 だが、常世とは死の世界だ。
 死者の魂のみが行く場所は、生きている人間が行ける場所ではない。

 しかし、ダイは人ではない。
 不死の定めを持つ龍には、常世は必ずしも禁忌の場所ではない。
 生きる物を全てを滅ぼそうとする龍にとっては、常世は身近なものでもあるのだから。
 だが、行く手段が問題だった。


 常世に行く方法は幾つかあるが、そのほとんどは周辺に大きな災厄をもたらすものだ。 龍の力とは破滅に由来を持つ強大な力なだけに、単身、界を渡る術とはかけ離れている。
 不死であるダイは別にいいが、生の世界と死の世界を無理に捩じ曲げて繋げれば、大いなる災厄が起きてしまう。
 いくらポップを助けるためとはいえ、それは避けたかった。

 いくら本性が滅びの龍とは言え、ダイは人間として12年の命を生きてきた。村や家族に対する愛着もあるし、人の命を貴ぶ心も持ち合わせている。
 なによりポップの存在が、大きかった。

 龍の意識に引きずられてともすれば暴走しがちになるダイの思考をとどめてくれるのは、今はこの場にいないポップの存在だ。
 ポップは、あれでひどくお人好しだった。自分の身が危ない時に、滅びの龍と分かった上でダイを庇ってくれた少年だ。

 他人が傷つくのを、黙って見過ごせる性格ではない。
 ポップを助けるためとは言え、彼の知り合いや家族を死に至らしめかねない真似をして、ポップが喜ぶはずがない。
 もし、そうしてしまったのなら、二度とポップに顔向けが出来なくなる。

 そう思えば、とてもではないが破壊的な手段を取る気にはなれなかった。
 ダイは自分の中に眠る龍の記憶を総動員して、もっとも周囲に被害を及ぼさないと思える、安全な道を選びだした。

 その結果、一番穏便と思われる道が、この霊山だった。
 古来からの伝承には、意味がある。
 ここが常世と繋がっているという言葉が真実だと、ダイは龍の記憶の中から知った。
 この霊山は、確かに常世と繋がっている。

 それは、ある意味で蜃気楼に似ている。一定の条件が重なった時だけ、この世と常世が重なり合い、向こう側を垣間見ることが出来るのだ。
 しかし、生者と死者の関わり合いは禁忌だ。もし、交われば生者は必ずや死者に引きずり込まれ、二度とは戻れなくなってしまう。

 この山には、無数の死者が存在する。
 もはや生きていた頃の記憶を無くし、生への執念や恨みに凝り固まった、澱んだ念の固り……それを、人は『鬼』と呼ぶのだ。

 常世と繋がりが在り、『鬼』の棲まう地は、すでに人の世にあっていい場所では無い。
 迂闊に彷徨い込んだ者は、例外なく鬼に殺されるか、万が一にでも常世の国へ逃れたとしても、二度と戻ってくることは出来ない。

 だからこそ人々は異世界と混ざり合うこの地を禁足地とし、近寄るのを禁じていた。
 二度と戻っては来れない、禁足地への旅……だが、ダイは自ら望んでこの霊山に来た。 それは、決して楽な旅では無かった。

 ダイが目指しているのは、山頂のように分かりやすい目標のある場所では無い。
 山のどこかに、特定の条件がそろった時にだけ出現するという、この世と常世が重なる場所を探しているのだ。
 しかも、それは一定の決まった場所に出現するとはされていない。

 まさに蜃気楼のように、気紛れに毎回違う場所に現れると龍の記憶は告げていた。
 その場所を探すのは、山を自在に駆け回るたった一頭の獲物を狩るに等しい、忍耐力と体力を必要とされる難題だった。

 村を出てからすでに一月近く、ダイはこの霊山を彷徨い続けている。
 己の感覚だけを信じて、怪しい気配のする場所を探しては移動する日々。
 先を阻むかのように霧に覆われた天候の連続に、優れた猟師であるダイでさえ登るのに難儀する険しい山道。

 それだけでさえ大変なのに、さらにダイの邪魔をするのは鬼の存在だった。
 ほんの少しでも油断すれば、鬼はダイをとり殺そうと襲いかかってくる。それに対抗出来るだけの力はダイには十分以上に在るとはいえ、一瞬の油断もできない戦いの連続は疲れを誘うものだ。

 それでもダイは少しもくじけることなく、常世への入り口を求めて霊山を彷徨う。どんなに困難だろうと、これこそがポップを助けることに繋がると思えば、苦にはならない。 幾手を阻む無数の鬼でさえ、ダイにとっては歓迎できるものだ。
 確かに自分が、常ならぬ場所へ向かっているのだと実感出来るから。

(分かる……多分、こっちだ)

 目を閉じ、ダイは自分の中の感覚を最大限に研ぎ澄ませる。
 本来の姿や力を取り戻してはいないとはいえ、龍を封印する村からでたおかげでダイは以前とは比べ物にならない力を手に入れている。

 その力の中には、常ならざる気配を感知する能力も含まれていた。
 霊山に入って以来、ダイはずっと不思議な気配を感じていた。その気配は時々、場所を大きく変えながらも、消えずにずっとこの霊山にとどまっている。
 ダイはそれこそが、目的の場所だと感じていた。

 近寄れば遠ざかるその気配を、ダイは根気強く追い続ける。
 人の気配に聡く、とびっきり足の速い獣を狩るつもりでじわじわと追った成果がでてきたのか、気配にはかなり近付けた。

 ほとんど崖と言った方が当たっている険しい岩肌を、ダイは怯まずに登りだした。垂直に切り立った岩壁は、ほとんどの人間にとっては登るのは無理だろう。
 強靭な腕力と、絶妙なバランス感覚、なによりも絶壁に身を置く度胸があってこそ、初めてできる危険な登頂方法だ。

 だが、これが目的への最短と思えばダイにためらう理由はなかった。
 これなら、今日こそは追いつけるかもしれない――そう思った時、その音は聞こえてきた。

 リィ……ン……!!

 かすかに、だが、確かに、どこからか聞こえる鈴の音色。

(またか……っ!!)

 苛立ちに、ダイは思わず舌打ちする。
 この鈴の音は、敵だった。
 十日ほど前から聞こえるようになった鈴の音色は、ダイにとっては邪魔以外なにものでもなかった。

 鈴の音が、どこから聞こえるものかはダイには分からない。
 だが、この鈴の音が聞こえる時は、ダイにとって不都合なことがいろいろと起こる。村にいた頃のように、龍の力が弱まってしまう。

 体力や霊力が抑えられるのか、鬼をたやすく追い払えなくなってしまうのだが、ダイにとって一番困るのは、そこではない。
 目的である不思議な気配を、追えなくなってしまうのが一番の問題だった。

 特に、今ほど不思議な気配に近付けたことはないというのに、鈴の音に邪魔されたくはなかった。
 鈴の音に追いつかれる前に、この崖を登りきってしまおうとダイは手に力を込める。
 その時、一際強く鈴の音が鳴り響いた。

 リィイイン――!

「……あっ?!」

 あっけなく、手がすべる。
 自分の身体が空に投げ出される感覚を、ダイは他人事のように感じていた。落下の恐怖よりも、信じられないという気持ちの方が強かった。

 しかし、ダイの内心にお構いなしに、重力は容赦なく少年を捕らえ引きずり落とす。
 ダイの身体は、まりのように岩肌にぶつかって跳ね返り、落下した。
 飛ぶ力もなくし、人間の少年としての自前の体力しか使えなくなった身には、それはあまりにも強すぎる衝撃だった。

「ぅ…わぁああっ――?!」

 尖った痛みを複数回受けた後、ダイは地べたに叩きつけられる痛みを味わう前に意識を失った――。

 

 


 ……ィン……リィン……。

 どこからか鈴の音が聞こえてきた気がして、ダイは目を覚ました。
 あの鈴の音は、危険だ。

(早く、離れなきゃ)

 まだ眠りたいとせがむ瞼を無理やりこじあけ――ダイは、驚きに目を見張った。

「え……っ?!」

 ダイが横たわっていたのは、柔らかい布団の上だった。
 使い古した品と一目で分かるそのくたびれた布団は、そう上質と呼べるものではないかもしれない。だが、旅に出て以来ずっと野宿を通してきたダイとっては、ひどく心地好く感じられる。

 周囲を見回すと、そこは見たこともない家の中だった。
 ぱちぱちと燃えている囲炉裏を眺めながら、ダイは当惑せずにはいられない。
 初めて見る――だが、ごくありふれた雰囲気の家だった。
 広くも、狭くもないといったところか。

 生活感があまりなくて殺風景な風は感じられるが、ダイを寝かしつけている布団や、無人にも関わらず沸かしてある湯など、そこかしこに人がいた名残が残っている。
 とにかく起き上がろうとしたが、身体のあちこちが痛くてうまく動けない。

 弱ったダイが起き上がろうとするよりも、玄関の引き戸が開く方が早かった。
 水桶を手に入ってきたのは、まだ年若い娘だった。ダイよりは年上だが、それでもまだ20歳にも届いていないだろう。

 巫女装束を着た娘は、起きているダイを見てちょっとびっくりしたような顔はしたものの、水桶を土間において慌てて部屋に上がってきた。

「あら、気がついた? でも、まだ動かない方がいいわよ。あなたは、ひどい怪我をしていたんだから」

 切り揃えられた黒髪が、さらりと揺れる。
 顔立ちは全く違うが、その髪の色と、彼女が着ている質素な服装が、ダイにとっては身近な人を思い出させた。

(なんか、メルルみたいだ……)

 村で一番優れた巫女であったメルルは、癒し手や看護役としても活躍していた。巫女が、怪我人を助けてくれるのはごく当たり前のことであるという発想があるだけに、少し気が緩むのを感じながら、ダイは疑問を口にする。

「ここ……どこ? おれ、いったい……?」

 しゃべろうとする意思に反して、口が強張ってうまく開かない。だが、たどたどしい疑問を汲み取ってくれたのか、娘はダイの枕元に腰を下ろし、なだめるように軽く触れながら話しかけてきた。

「安心して、ここはどこよりも安全な場所だから。
 ここは、まほろば――まほろばの村と、私達は呼んでいるわ」

                                《続く》
 

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