『まほろばのはなし ー承ー』

  
 

 苔むして古びた、小さな石の塚。
 一定の間隔を置いて、村を取り囲むように置かれた複数の石の塚は、そう目立つものではない。

 通りすぎる者が何の関心も持たないであろう、そんな小さな石の塚は、しかし絶対の意味を持っていた。
 村の外を漂う、霧にも似た不穏な気配の固り――鬼を、寄せつけない。

 人間の気配を感じ取れば、即座に寄ってきて襲ってくるはずの鬼達は、村の中には決して入ってはこなかった。
 村のぎりぎり近くまで寄ってくることはあっても、彼らは村が見えていないかのように、無視して違う方向に進んでいく。

 石の塚が、はっきりとこの村と鬼の棲む場所に線を引く。
 村の外れに佇んでいるダイは、その光景をジッと見つめていた。

(本当に、鬼は入ってこない村なんだ……)

 まほろばの村。
 その名に相応しい村だと、ここに来たばかりのダイも思う。
 鬼が無数に棲まう霊山の中にありながら、ここだけは別世界のようだった。

 常世の国にいくにはまだ早いと認められた者だけが、住まう村――巫女の娘は、そう説明してくれた。
 霊山は、常世へと繋がる世界……つまり、この山に踏み入った者を待つ運命は、死、だけだ。

 だが、生き延びたいと願った者、心の正しき者だけがこの村に辿り着ける。
 元いた村には戻れないかもしれないが、この村にいる限り、鬼を恐れることなく、平和に暮らすことができるのだと――。
 実際、この村は悪い場所ではない。

 むしろ、驚く程に住み心地が良く、気持ちのいい場所だ。
 住んでいる者達は家族のように寄り集まって、力を合わせて暮らしている。
 村にとってのよそ者であるダイにも、ひどく優しい。

「おや? 坊や、もう出歩いて大丈夫なのかい?」

 手持ちぶさたに突っ立ているダイに、籠を背負った若い男が気さくに声をかけてくる。
 

「えっ、あ、うん。もう、平気だよ」

 見知らぬ旅人に警戒する姿勢を持つ、閉鎖的な村で育ったダイには少しばかり戸惑いがあるが、ここの村人はみんなそうだった。

「そうかい、だがまだ無理はしない方がいいんじゃないのかね。ゆっくりと養生しないと、治る怪我も治さないからな」

 分別臭い口調で言いつつ、どっこいしょ、とやけに年寄りじみた仕草で荷物を下ろした男は、いとも親しげに声を掛けてくる。

「なあに、焦ることはないさ、完全によくなってから村を案内してあげよう」

 かけられる言葉が、嬉しくないわけがない、自分を心配してくれている言葉なのだから。 だが、それでもダイにとっては素直に頷けない言葉ではあった。
 村人達は、ダイが村にこのまま暮らすことを前提に話をするが、ダイにはそんなつもりは微塵もなかった。

 確かにこの村は、霊山に迷い込んだ人間にとっては安全な場所かもしれない。
 だが、ダイにとっては、この村は避難場所であると同時に、厄介な場所でもあった。
 この村には、鬼を寄せつけないためのなんらかの力が働いている。それは良いのだが、その力はダイの龍の力も妨げてしまう。

 怪我の回復が妙に遅いのも、常世への入り口の気配を感じ取れないのも、そのせいなのだろう。
 この村にいる限り、ダイは生まれ育った村にいた時と同様、能力を封じられた状態に戻ってしまうようだった。

 おかげでなかなか怪我が治りきらず、出発がままならない。
 さすがに怪我が治りきらない状態で鬼に襲われれば、ダイとてただでは済まないだろう。 鬼に殺されるほどやわではないが、ダイの目的は鬼退治などではない。

 常世にまで行き、バーンと戦うことこそが最終目標だ。不完全な状態で行ったところで、またも返り討ちに遭うだけだ。
 それが分かっているからこそ、ダイは傷が治るのを待っているのだが、待つ身には時間はひどく長く感じられるものだ。

 その上、ダイには焦りがあった。
 一刻も早く、ポップを助けに行きたい――その焦りが、時間を二倍にも三倍にも感じさせる。

 そのせいか、ダイはせっかく男が話しかけてくれる山で取れる美味しい果物の分布の話も上の空で聞いていた。

「……って、わけなんじゃよ。そうだ、一つわけてあげようか」

 そういって男が籠から一つ取り出して放ってくれたのは、よく熟れた山桃だった。

「え? あ、ありがとう」

 うっかりと話を聞きそびれていたダイは、突然でてきた山桃にびっくりしつつも、お礼を言って受け取った。

(そういやポップもこれ、好きだったっけ)

 山桃が好きなポップのために、ダイは実る季節になると決まって山桃を詰んでは、持っていったものだ。
 集落の他の者に見つからないようにこっそりと独り占めして食べるために、ポップはよく、神聖なはずの泉に沈めて桃を冷やすだなんて無茶な真似をしていた。

 掟や禁忌などに縛られず、神覡(かんなぎ)にあるまじき行為を、けろっとしてしまう大胆さがポップにはあった。それに呆れたり、罰が当たるんじゃないかとちょっと心配になったりしつつも、ダイはポップのそんな自由さが気に入っていた。

(ポップ……ちゃんと、ご飯とか食べてるのかな)

 ちょっぴり沈み込みながらも、ダイの手は習慣通りに山桃の皮を向く。
 産毛にも似た細かい毛の生えた皮の下から、見違えるほど白い果物の実があらわになった。
 ぷんと香しい匂いがする実を一口齧ると、口の中に甘味が広がった。

「美味しい……っ!」

「そうじゃろう、そうじゃろう。この村の山桃は、絶品だからのう」

 得意げに男が笑うのを聞きつけたのか、子供達が駆け寄ってきた。

「あーっ、山桃だぁ」

「ぼくにも、ちょーだい!」

「おらも、おらも!」

 駆け寄ってくる子供の数は、ちょっとびっくりするぐらい多い。
 だいたい、この村はやけに子供の数が多いのだ。赤ん坊から、ダイよりも年上の子と年齢は様々だが、ほぼ半数近くが子供と言った方がいい。
 ダイの村にも子供や若者はそれなりの数はいたが、この村ほど多くはなかった。

「こらこら、お行儀が悪いぞ。それに、今日はダメじゃ、今年は実るのが遅くてほんの少ししか取れなかったからのう」

 そう言いながら、男は籠を傾けて子供達に中身を見せる。
 あれほど重そうに持っていたのだから、ほとんど空に近い中身が意外で、ダイは少しばかり驚いた。

 そして、同時に、そんなにも数の少ない貴重な物をもらってしまったことに、罪悪感を覚えてしまう。
 だが、男は当たり前のように言いきかせた。

「いつも言っておるように、食料はみんなで分ける。だが、分けられないぐらい少ない時は、村に来たばかりの者を優先する……それがワシらの決まりじゃ。分かるな?」

 耳慣れない決まり事に、首を傾げたのはダイ一人だった。
 村の子供達にとっては、それはよく知っている話らしく、誰もがすぐに納得して、はぁいと頷く。
 そして、また子供達は全員、遊びに戻ってしまう。

 この村が凄いなと思うのは、そんな点だった。
 ダイのいた村では、決してこうではなかった。子供とはいえ、色々と細かな仕事や大人の手伝いがあった。
 何の気兼ねもなく、思いっきり遊べる時間などそう多くはなかった。

 だが、まほろばの村では違う。
 この村の大人達は、子供が一日中遊んでいても、咎めることはない。ただ、にこにこして見守っているだけだ。
 それでいて、何の問題も起きていない。

 ダイのいた村では、子供や若者だけの集まりの時は、ちょっとばかり騒ぎ過ぎてしまったり、ケンカなどが起きてしまうことも珍しくはなかった。
 そんな際は、大人や年寄りが割ってはいって、やっと話が落ち着くものだったが、この村では違う。

 見たところ若者と子供しかいないのに、騒ぎや問題など起こる気配もない。
 いつ見ても穏やかで、他人に優しい者の集う村――それが、まほろぼの村だった。
 男は自分は食べようともせずに、大切そうに籠に蓋をする。

「さて、そろそろ持って行くかの」

 よいしょと、下ろした時以上にしんどそうに籠を持ち上げる男を見兼ねて、ダイは思わず口を出していた。

「あ、おれ、手伝うよ!」

「お、悪いの。助かるわい」

 籠はひどく軽くて、ダイの感覚から言えば片手でも持てそうな物だったが、男が辛そうなのでダイはそれを支えるようにして後ろからついていく。

「それで、どこに行くの?」

「うむ、ひどい火傷をして寝込んでいる子がうちにおってのう。
 可哀相に、命からがらこの村に逃げ込んできた子なんじゃよ」

 ダイもそうだったが、この村に迷い込んだ者は最初は巫女が面倒を見てくれるが、そのうちそれぞれの家にふり分けられるのだという。

 望めば、一人で居を構えるのも可能だが、大抵の者は数人で一つの家で暮らす道を選ぶ。 迷い込んだ者同士が、疑似家族のように一つの家で暮らすのが普通だそうだ。
 特に、子供の場合はそうやって引き取られることが多い。

「坊やの少し前に来た子でな、どうもひどい目に遭ったらしくて、怪我もひどいもんじゃったし、記憶も定かではないみたいなんじゃ」

 あまりにひどい目に遭い過ぎて、それまでのことをすっかりと忘れてしまう。
 いわゆる記憶喪失と呼ばれる症状だが、この村に辿り着く者には、そう珍しくはないことだと男は当たり前のように語る。

「食欲もないみたいだから、少しでも食べやすいものを、と思うてな」

 呑気にそう言いながら、男は素朴な家の一つの前に立った。
 この村の家は、どれもが似ている。
 大きさや古さ、手入れの頻度がびっくりするぐらいよく似通っているのだ。おかげで、見慣れないダイには見分けがつかないぐらいだ。

 だが、住んでいる人間にとっては簡単に見分けられるのだろう、男は迷いもせず引き戸を開ける。

「おーい、今、帰ったぞ」

「はいはい、お帰りなさい、あんた」

 前掛けで手を拭いながら出てきたのは、男よりも少し若く見える、娘とも言える年齢の女だった。
 だが、その若さにもかかわらず、着ている着物の柄はやけに沈んだ色合いで、地味だ。
 あまり女性の着物とかに関心のないダイでも、おばあさんが着るような着物だなと思わずにはいられない。
 だが、そんなことよりも、ダイの目は部屋の奥に釘付けになった。

 なにしろ、さして広くもない家だ。
 土間に入ってしまえば、家の中が見渡せる。開けっ放しの障子の奥で、昼間なのに布団に横たわったままの子供の姿は、よく見えた。
 人影に気付いたのか、子供はゆっくりと布団から身を起こす。

「おかえりー。思ったより、早かったね」

 聞いた話を裏切る、明るい声は元気よさそうだった。
 だが、声とは裏腹に、布団から身を起こす子供の動きはひどく慎重で、体調の悪さを容易に連想させる。

 子供……とは言っても、ダイよりは年上だろう。
 身体のあちこちに包帯を巻きつけられた姿が痛々しいが、顔を見定められないほどひどくはない。
 そして――見覚えがある顔だった。

「ん? 誰、その子? お客さん?」

 きょとんとした顔でダイを見る目は、初対面の者に対するものだったが、ダイは思わず叫んでいた。

「ポップッ?!」

 靴を脱ぐのももどかしく、ダイは転がり込むように家に上がり込んだ。
 ポップがびっくりしたように自分を見るのも構わず、無我夢中になってすぐ側に駆け寄った。

「ポップ、どうしてここにっ?! っていうか、おれのこと、分からないのか……?!」

 思わず肩を揺さぶろうと伸ばしかけた手を、ダイは辛うじて抑えた。寝間着から見える範囲だけでもこれだけ包帯だらけなのだ、うかつに触れるわけにはいかない。
 息さえも詰めて、恐る恐る尋ねるダイを、ポップはぼんやりと見つめた揚げ句――独り言のように呟いた。

「…………ダ…イ……?」

 


 リィ……ン……!

 鈴の音が、鳴る。
 鳴り続ける。
 ひどく遠くから、密やかに――。

 


「そこじゃない、もっと、右っ、右っ! って、おまえ、なに左に行ってんだよーっ?! あーっ、もう、箸を持つ方も分かんないのかよっ?! ほんっと不器用だなぁ」

 木登りをしているダイに対して、ぽんぽんと投げ付けられる文句の数々。一応は、桃の実が見える場所に誘導してくれているとはいえ、普通なら感謝の気持ちもなくなるような罵詈雑言に等しい掛け声だ。
 だが、そのわがままな言葉を、ダイは嬉しくてたまらないように聞いていた。

 山桃を一つもぎ取ってから、ダイは木の下を確かめる。
 そこにいるのは、紛れもなくポップだ。
 村にいた時のように、鍛冶職人の服装に神覡(かんなぎ)の証しである幣(ぬさ)を重ねた格好はしていない。

 ごく当たり前の村人のように、ありふれた着物を着ている。大人用の物なのか色合いも地味だし、丈だってずいぶんと長い。
 見慣れない着物がちょっと不思議な感じがするが、頭に巻いている山吹色の布だけは以前と変わりがない。

 別に、何の意味もないその布を、ポップはちょっとしたおまじないだと笑いながらいつも決まって身に付けていた。
 それは、ポップがまだ小さな頃からの習慣だそうで、ダイが初めて会った時にはもう、ポップは頭にいつも黄色の布を巻いていた。
 頭の包帯がやっと取れたのを待ちかねていたように、今もポップはそれを巻いている。


「ポップーッ、落とすよーっ」

 声を掛けてから、ダイはポップがとりやすいであろう場所へとやんわりと山桃を落とす。


「ほいよっ」

 広げた布を使って器用に受け止め、ポップはその山桃を近くに置いてあった籠に入れた。


「うーん、結構とれたな、ご苦労さん! もう、いいんじゃねえの?」

「うん! じゃ、降りるから、そこ、どいてよ」

 おまけとばかりに最後に二つ山桃をもぎ取り、ダイはそれを持ったままいきなり飛び下りた。

「わわっ?!」

 ポップが焦った顔をするのも、無理はないだろう。
 山桃は高く成長する木で、成木ともなれば20メートル近くにもなる。低めでとりやすい所にある実だけでは数が少ないので、ダイはわざわざ高い所まで昇っていた。
 普通なら、そんな高さから飛び下りたら落下も同然だ。

 だが、ダイは途中の木の枝に2、3度着地して勢いを殺しながら、猿も顔負けの身軽さであっという間に地面に下り立った。
 思わず目を疑うような人間離れした体術だが、ポップがそれに感心することはなかった。


「この……バカッ! なんちゅー降り方をするんだよっ?! おかげで、汚れちまったじゃないかっ!」

 と、ポップがカンカンに怒るのも、ある意味で当然だろう。
 派手な降り方のせいで木が大きく揺れ、熟し過ぎてダイも取らなかった実が幾つも落ちてきてしまった。
 たまたまその一つがポップに当たったせいで、服にべったりと汚れがついてしまっている。

「うわっ、ごめんっ! おれ、こんなことになるとは思わなかったんだっ」

 ダイとしては、一刻も早く木から下りたかっただけで、悪気はなかった。
 焦ってダイはポップの服の汚れを落とそうとするが、まだ両手に二つの山桃をもったままだと気が付き、どうしていいのか分からずおたつくばかりだ。
 その様子がおかしかったのか、ポップはおかしそうに笑う。

「ったく、しょうがない奴だな。いいよ、もう。ちょっと派手だったけど、これは山の神へのお礼の分、だな」

 山で採ったものは、山の神のもの。
 海で採ったものは、海の神のもの。
 食料を分け与えてくれた神への感謝をこめて、収穫の一部をそれぞれの神のおわす場所へ捧げるのは、古くからの慣習だ。

 果物も、その例外ではない。
 自分達との分とは別に、神へ捧げる分として、地に還す。
 本来ならば、丁寧にお礼の言葉を述べて地面に置くものだが、ポップは気にしていないように、簡易的な感謝の言葉を捧げてお終いにしてしまった。

「でも、服、汚しちゃったね」

「いいって、後で洗えば落ちるしよ。この桃に免じて許してやるよ」

 と、ダイの手から山桃を一つ奪い取って、ポップはその辺の倒木に腰掛ける。ひょいひょいと手招きをするのは、隣に来いという無言の誘いだ。
 もちろん、ダイもそれに習った。

「うん、美味いや」

 もぐもぐと口を動かしながら、ポップが満足そうにそう言う。感情のままにコロコロと表情を変える顔が、これ以上はないほど嬉しそうなものに変わる。
 ポップが今を楽しみ、喜んでいるのだろうと、見ている者なら誰にだって分かるほどに。
 だが、ダイが感じている美味や幸福感には及ばないだろう。
 ダイにとっては、今はまさに至福だった――。

 


 並んで、同じものを分け合って食べる――それは以前も良くあったことだった。
 ダイとポップは、よく、そんな風に自分達の時間や食べ物を分かち合っていた。それが特別なことだとさえ意識せずに、当たり前のように。

 それがどんなに特別な時間だったのか……ポップを失ってから、ダイは何度となく思い知った。
 独りで旅をするようになってから、体調を整えるためだけに取る食事の空しさや不味さを、思い知らされた。

 猟師であるダイには、山で取れたものを即座にその場で食べるのに慣れていたし、その美味さも充分に知っている。
 だが、ポップがいなくなってからというものの、食事が美味しいと思うこともなくなっていた。

 ただ、習慣から山の神に礼を述べ、黙々と腹に落とし込むだけだったことが、こんなにも感謝に満ち溢れた楽しい行為だったのだと、ダイはあらためて思い知った。

(ポップがいるといないとじゃ、やっぱ全然違うや)

 その喜びが、ダイの胸を暖かく照らす。
 その前には些細な問題など、問題としてさえ映らない。
 たとえ、ポップが記憶の大半を失っていたとしても――。

 


「ねえ、ポップ。少しは、前のことを思い出した?」

 試しに聞いてみると、ポップは山桃を食べながら小首を傾げる。

「うーーん、あんまり、かな? まあ、前にもこんな風に、おまえと山桃とか胡頽(ぐみ)とか食ったことがある気がするんだけどよ」

 それを聞いて、ダイは喜びたい気持ちと、ちょっぴり寂しい気持ちを、同時に感じてしまう。
 ポップが村での暮らしを忘れてしまったのは、正直寂しい。

 あの村での暮らしもまた、至福だった。ポップと一緒に過ごした数多くの思い出が、全部なくなってしまったかと思うと、たまらない程寂しく感じる。
 それに、みんなに対して悪い気がするのは否めない。

 ポップには村に両親がいたし、多くの人に好かれていたし、好いてもいた。なのに、今のポップは両親の記憶もそうだが、マァムのことすら覚えていない。
 あれほどマァムを意識していて、彼女の名前を聞く度にムキになって反応していたポップが、彼女の話に無反応なのがダイには信じられないぐらいだ。

 マァムやメルル、ヒュンケル達が、今のポップの状態を知ったら、きっと悲しむだろう。 だが、それなのに、自分のことだけは覚えていてくれたことが嬉しくてたまらない。
 矛盾する感想だが、そう思わずにはいられなかった。

「ま、実際に見たらなんか思い出すかもしんないし、そのうち、おれやおまえの村ってのに行ってみようぜ。そこって、近いのか?」

 と、今すぐにでも出発しそうなことを言うポップを、ダイは慌てて止めた。

「ダメだよっ、まだ無理しちゃ!」

 心配なのは、記憶喪失だけではない。
 すでに完全復調したダイとは違うのだ。
 自由に歩けるようにはなったし、怪我や火傷はだいぶ治ったとはいえ、ポップの体調はまだ完全ではない。

 目に付く所の包帯は取れたとはいえ、まだ着物に隠された部分には幾重にも巻かれた包帯があることを、ダイはちゃんと知っている。
 昼間は元気でも、夜になるとまだ微熱を出すことが多いとも、ポップを家に泊めている夫婦から聞かされている。

 火傷の後遺症なのか、腕や足の動きが少々ぎこちないのもダイは気がついていた。今のポップは走る程の体力はないし、そう長い距離を歩くこともできないでいる。
 こんな状況で、村の結界の外に出たのなら、アッという間に鬼にやられてしまうだろう。 なのに、ポップは気楽なものだ。

「なーに、もう平気だって。それに、おまえだって故郷に帰りたいんじゃねえの?」

「それはそうだけどっ、でも、違うんだってば!」

 巧く説明するのが苦手なダイは、何から言おうと言いあぐねてしまう。
 故郷に帰りたいか、否かと問われれば、間違いなく前者だ。
 それは、はっきりと答えられる。

 ポップだけでなく、ダイにとってもあの村は故郷だ。
 確かに、ダイは人間ではなく封印された龍だったかもしれない。
 だが、封印を受けるあの村では、異端ではあってもダイは一応は人間だった。
 両親は小さい頃に亡くなってしまったが、育ててくれた祖父がいた。

 レオナやマァムやヒュンケルのような友達もいて、ダイはあの村で決して不幸ではなかった。
 だが、なによりもあの村が大切だったのは、ポップがいた村だったからだ。
 しかしポップときたら、分かっている分かっているとばかりにしたり顔で頷きながら、ダイの頭を撫でる。

「聞いたぜ、おまえさー、ずっとここから出たいって焦っていたそうじゃないか。
 そんなに家が恋しいんだったら、おれのことなんか気にしないでいいから、先に帰っていいんだぜ?」

 その言葉が善意なのは、疑いようもない。
 だが、それを聞いて、ダイはガックリとするのを感じてしまう。

(ポップって……ホント、分かってないよなぁ)

 他人の感情の変化に敏感で根はすごく優しいのに、時々、ポップは呆れるぐらい鈍感だ。 自分のことを、全然分かっていない。
 それでいて、ポップはポップだ。

 記憶がないのに、ポップはポップのままでいる。
 ダイの側にいてくれて、いつもの笑顔を見せてくれる。乱暴に頭を撫でる手も、前と少しも変わらない。
 その手の感触を嬉しく思いながら、ダイはきっぱりと宣言した。

「一人でなんか、帰らないよ。おれ、帰る時はポップと一緒に帰るって約束したんだ」

 それはダイの中では、絶対の約束だった。
 ダイは、故郷を出る時にメルルと約束を交わした。
 必ず、ポップを連れて帰ると。
 その気持ちは、嘘では無い。

 しかし……ポップを早く村に帰してあげたいと思うと同時に、ダイは密かに思わずにはいられない。
 このままでもいいのではないか、と。
 これもまた、矛盾した感情だった。

 だが、ダイの本心に違いなかった。
 故郷でなくても、構わない。ポップが、隣に居るのであれば。
 記憶を失ったポップが、ここでの暮らしを楽しんでいるのなら、なおさらだ。危険を冒してまで、村に帰るのには不安があった。

 敵は、鬼だけではないのだから。
 必死になってまほろばの村に逃げ込んできたポップは、ほとんど瀕死だったと聞く。
 村人達はそれが鬼の仕業だと思い込んでいるが、ダイだけは知っていた。

 ポップを追っていたのは、鬼などとは比べ物にならない化け物。自ら神の名を自称する、悪神だ。
 彼に攫われたポップは、心までも支配されてしまっていた。それを考えれば、ポップがどうやって逃げ出したにせよ、命があるだけで儲け物だ。

(そういえば、あいつは……どうしたんだろう?)

 石の塚の外側に目をやりながら、ダイは口に出さないまま思う。
 少なくとも、ポップも村人もバーンの姿は見てはいなかった。
 ダイ自身もバーンの姿を見た覚えはないし、気配すら感じていない。

 バーンには、この村は結界のせいで見えていないのかもしれない――いささか都合のいい考えだが、ダイはそうであって欲しいと思う。
 逃げたポップを追って、彼がやってくるようなことにならなければいい。

 この平和な村が、故郷の村と同じようにバーンの被害に被るかと思うと、申し訳なさに身が竦みそうになる。
 だからこそダイは、ポップと会って以来、極力ポップの側にいるようにしてきた。

 村に出入りしようとしている鬼の気配に神経を尖らせ、いつ起こってもおかしくない戦いに備えている。
 だが、それは今のところ全くの無駄で終わっている。
 そのせいか、ダイは段々とその考えが正しいような気がしてきた。

 厳重に封印されたはずのダイ達の村の中にさえ入り込んできた男が、いくら結界があるとはいえこの村に近寄る気配が無い理由も、それならば納得が行く。
 つまり、この村にいさえすれば、ポップは安全に暮らすことができるのだ。

「いいかい、ポップ。怪我が完全に治るまで、この村から出ちゃだめだよ。いつか、この村を出て故郷に帰る時は、一緒に帰ろう」

 ポップに向かってそう言うダイは、気がつかなかった。
 それは、かそけき音。
 集中しなければ消えてしまう、儚い音色。
 聞こえるか聞こえないかの音で、鳴り続ける鈴の音色に――。
                                 《続く》
 
 
 

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