『羅針盤は指し示す −前編−』 |
王の手によって、小さな姫の目の前に置かれたのは、三刀のナイフだった。 その話を聞く少女は、まだ幼かった。だが、将来の美貌をすでに感じさせる整った容姿と、聞いた話を適格に吸収しようとする理知の瞳を備えている。 「よく覚えておきなさい、このナイフを持つ資格のある者は、この国の王であろうとする者と――この国を守ろうとする者だけなのだよ」 口調や声音こそは優しかったが、王の顔つきは父親が娘に向けるそれではなかった。相手の資質を見極めようとするかのようにじっと幼い少女を見つめる目には、為政者としての厳しさが感じられる。 王のその態度に、気付いているのか、いないのか。 「これを後継者に譲り渡すに当たって、まずはその心構えを確かめておかねばならない。 姫よ、そなたは王と言う立場を、なんと心得る?」 「はい」 小さな姫は、きちんと姿勢を正し、毅然とした声ではっきりと言った。 「あたし――いえ、私は、王とは羅針盤であるべきだと考えます」 その答えに、王は始めて相好を崩す。王としてではなく、父親としての慈しみを込めて愛娘に微笑みかけた。 「――よい答えだ。そなたならば、さぞや良き王になれるであろう。 父王の許可を得て、小さな姫……パプニカ王女レオナは、パプニカのナイフを受け取った――。 『レオナ、元気かしら? と言っても、レオナのことだから、きっと聞くまでもなく元気で頑張っているわよね。でも最近は寒くなってきたから、どうか無理はしないで……』 内容など、とうに覚えてしまっている手紙を、手に取って眺める。 読む手紙は決まってはいない。 仲間達が送ってくれた消息を知らせる手紙は、レオナの執務室の一番上の引き出しにリボンをかけて丁寧にしまってある。 装飾は見事だが、ペーパーナイフと呼ぶにはいささか実用的すぎるそのナイフは、パプニカ王国に代々伝わる聖なるナイフだ。 かつては三本あったものの、魔王軍との戦いの中で失われてしまい、今はここにある一本しか存在しない。 国家的機密書類よりもよっぽど大切に扱っている手紙を読んでいる最中、不意に吹いてきた風が手の中の便箋を揺らす。 「よっ、姫さん。相変わらず忙しそうだな」 驚いて窓の方に目をやれば、ふわふわと風船の様に浮いている少年の姿が見えた。 が、目の前にいる少年は魔法使いだ。パプニカ城にこっそりとやってくるなど、彼にはたやすいと分かっているだけに、レオナは驚かなかった。 「ポップ君っ!?」 驚くレオナに対して、ポップはひらひらと手を振って「おひさしぶり〜」なんて、軽い調子で笑っている。 「おひさしぶりじゃないわよ、おひさしぶり、じゃっ!? 本当にどれだけ久々だと思っているのよ、まったく! 夜逃げも同然にいきなり出て行ったかと思ったら、連絡もしないでいったい、今までどこに行っていたのよっ!?」 ちょっときつめに文句を言ったのに、ポップは余計に楽しそうに笑うばかりだ。 「まあまあ、悪かったって。連絡しようと思ったけどさ、つい忘れちゃってただけだよ。いつでもルーラできると思うと、油断しちまうよな、全く」 そんな気楽なことを言うポップに、レオナは近付いた。入りやすいようにと、窓を大きくあけたがポップは空に浮かんだままニヤニヤしているだけだ。 「……ポップ君、少し、痩せたんじゃない?」 それは、ほんのわずかばかりの違和感だった。 レオナより一つ年上でもあるし、深窓育ちの姫に比べれば、それなりに筋肉は付いていたし体格だってよかったはずだった。 (それに、顔色もあんまり良くない……のかしら?) 以前に比べれば妙に色白になったように見えるのが、顔色が良くないせいなのか、単に冬になったせいで日焼けが落ちたせいなのか、レオナは判断に迷う。 「えー、んなこたぁねえだろ? そんなの、姫さんがちぃーっとばかり太ったから、そんな風に思うんじゃねえの?」 「まっ!?」 からかわれているだけとは分かっても、つい反応してしまうのは乙女の性か。 「うそ、うそ、姫さんは相変わらずだって」 「もうっ、ポップ君ってば相変わらずなんだから……! 本当に、変わってないのね」 憎まれ口を叩きまくるのに、不思議に憎めない。ポップにはそんな人懐っこさがある。 「安心して、今は休憩中なの。ちょうど、みんなからもらった手紙を見ていたところなのよ。誰かさん以外は、結構筆まめなのよ」 ちくりと皮肉を刺しながらも、レオナとポップは誰からどんな連絡が着たのかと確認がてらに喋りあう。 「ふうん。ところでさ、ヒュンケルの奴からの手紙も来てる?」 「ええ、来たわよ」 「そうか……なら、あいつが今、どこあたりにいるとか、分かるかい?」 おしゃべりの合間に知り合いの消息を聞く、何気ない質問。 「前に手紙が来たのは、結構前だから今の居場所までは分からないわ。もう少し経ったら、パプニカに来るとは聞いたけど」 その答えには、二つの嘘が混じっていた。 魔王軍との戦いの中では、しょっちゅう単独行動を取って行方不明になっていた放浪ぶりが嘘のような変化だった。 その心遣いは、他の仲間達も変わらない。 ことに、ヒュンケルとラーハルトは、その傾向が強い。それこそ報告書のように正確で詳細な移動記録が、一定の時間ごとにとどけられる。 正確な日付はポップに教えなかったが、律義なヒュンケルなら約束した日に正確に来ると分かっている。 もし馬鹿正直に日付を教えたなら、ポップはこのままひょいと旅立って、その日にだけ、それもごく短い時間だけパプニカに来るのではないかという疑い。 だいたい、いまだにポップが室内に入ろうとしてはいない。ほんのちょっと立ち話をしに来ただけと言わんばかりに、軽く距離をおいているのが気に入らなかった。 「どう、ポップ君もそれまでパプニカにいない? ヒュンケルに用があるのなら、下手に動いて擦れ違うよりもその方が効率的だと思うけど」 内心の動揺や不安などおくびにも見せず冷静に駆け引きを仕掛けるなど、王女にとっては日常茶飯事だ。 「ん〜……、ま、それもそうか」 少し迷ってから、ポップはやっと部屋の中に入ってきた。 「じゃ、しばらく居候させてもらうとしますかね。よろしくな、姫さん」
と、パプニカ王国図書室の司書長を務める女性から話しかけられ、レオナは咄嗟に思ってしまった。 (また? 今度は、何をやってくれたのよ、ポップ君ってば!) ここが人前でなければ、お姫様という立場も忘れて舌打ちをしていたかもしれない。 「ええ、実はあの少年が図書室に入り浸っている件について、ちょっと……。確かに図書室内での閲覧は自由ですし、別に本を汚しているわけでもないんですが、いくらなんでも、ああいう読み方はどうかと思うのですが。しかも、午後から閉館時間ぎりぎりまでずっと居続けるのが常ですし。 くどくどと文句を並べ立てる司書長の話を適当に要約して聞きながら、レオナは内心溜め息をつく。 それは、その方が気楽に過ごせるだろうと判断したレオナの厚意だった。 戦争中も城に居続けた兵士達ならばいざ知らず、戦況が悪化する前にほとんどの侍女は暇を出されて避難していたせいもあり、勇者一行について知るはずもない。 城に仕える侍女にとっては、ポップはなぜレオナに客人扱いされているのか分からない、ただの庶民の少年にすぎないのだ。 彼女達が漏らす些細な不満は、レオナの耳にも幾つか届いている。 内心、思うところがないでもなかったが、そのぐらいはまあ、いいだろうとレオナも見逃している。 だが、あまりに不満が強まってくるようならば、一度、本人に釘を刺しておくべきかもしれない。 「分かったわ、ちょうど私もポップ君に用があるところだし、きちんと言っておくわ」 たいした問題でもないし、少し注意すればそれですむだろう……そのぐらいの気軽さで、レオナは軽く請け合った。 「ポップく……」 呼びかけようとした声は、途中でかすれて消えてしまう。 文字通り、山のような本を何冊も何冊も床に直接積み上げ、床に座り込んだままでポップは熱心に本を読みふけっていた。 近寄ってきたレオナにまるで気がつきもせず、本だけに注意を向けているポップは、いつもの彼とは全く違って見えた。 本の管理については一家言を持ち、図書室の中では王族でさえ厳しい注意を下すことのできる女性だが、二の足を踏むのも無理はない。 誰の言葉も、どんな邪魔も受け付けない雰囲気をひしひしと漂わせている。 「あれ? 姫さん?」 一冊の本を読み終わって次の本に移る、ほんのわずかの時間。 「なんだよー、驚かさないでくれよ。で、どうしたんだよ、姫さん。忙しいんじゃなかったのかい?」 明るい口調も、ちょっとおどけたような笑顔も、いつもの彼に他ならない。ついさっきまでの切迫感のかけらも感じられないその落差に少し戸惑いながらも、安心感の方がはるかに強かった。 「ええ、忙しいのよ。実は今日、世界会議があるんだから。で、物は相談なんだけど、ポップ君も参加してくれない?」 「へ?」 と、思いっきり間の抜けた顔を見せるポップに、レオナはてきぱきと畳みかける。 「さっ、そうと決まれば急いでちょうだい。もうすぐ、各国の王達がご到着になる時間なのよ、まずはお出迎えを手伝ってくれない?」 そう言って強引に手を引っ張ると、ポップは慌てふためいた。 「ちょっ、ちょっと、ちょっと、待ってくれよ、おれ、そんな話なんか聞いてないよっ!?」 と、こっそりとレオナは心の中で思う。 それこそポップがパプニカに来る前から世界会議の日取りは決まっていたのだが、レオナは敢えてポップには教えなかった。 「ちょっと、往生際が悪いわよ! いいじゃない、別に少しばかり話し合いに参加するぐらい」 「冗談じゃねえよっ、近所の町内会とか寄り合いなんかじゃねえんだぞっ!? んな、気軽に言われたって、おれ、そんなお偉いさんが揃う所になんか行きたくないよっ」 「あら、なにを言ってるのかしらね、ポップ君ってばどこの国の王様とも知り合いだし、今更遠慮なんて柄じゃないでしょ」 「あのな、おれは姫さんと違って根っからの庶民で、王様とかお偉いさんとかとは関わりたくないんだってば!」 ぎゃあぎゃあと騒ぐポップを強引に引っ張りつつ、レオナは王族だけが知っている抜け道を使って図書室からとある部屋へと近道をする。 「失礼します。お約束していた客人を連れてきましたわ」 レオナの声に扉を開けてくれた男は、にこやかに笑いかけてきた。 「おやおや、客人っていうのはポップだったんですか、驚きましたね。いつからパプニカに来ていたんですか?」 「せ、先生っ!?」 アバンを見て、ポップはひどく驚いたような顔をする。 ポップとアバンを驚かせようと思って、ちょっとした出会いを仕組んでみたのだ。なにしろ、せっかくの世界会議でアバンも参加するのだ、久々に師弟の対面をするのも悪くないだろう。 そのぐらいの軽い悪戯心がレオナの腹積もりであり、同時にちょっとした思いやりだったのだが――。 「ひさしぶりですね、ポップ。元気そう……と言いたいところですが、少し痩せたみたいですね。いけませんね〜、ちゃんとご飯を食べているんですか?」 「えっ、ええっ、もちろんですよ、先生っ! やだなあ、何言ってるんですか、ちゃんと、バッチリ食べてますって!」 「ふーむ、本当ですかぁ? 好き嫌いをしていると、大きくはなれませんよ?」 「せ、先生っ、そんな、ちっちゃい子供に対するようなこと言わなくってもいいじゃないですかー」 一見、微笑ましく聞こえる師弟の会話を聞きながら、レオナはなんとなく変だなと思わずにはいられなかった。 少しばかりつまらないが、人騒がせさや他人を驚かせる技量についてはアバンの方が上なのは納得できる。 ポップの様子が、久々に師に会えて嬉しそうというよりは……戸惑ってあたふたしている様に見えるのだ。 それに何より、世界会議の開始時刻が迫っていることが、疑問を深く考えさせはしなかった。
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