『細やかなる餞別 −前編−』 |
最初は、風の仕業としか思わなかった。 その窓は、普段は締めっ放しなのだから。 気候が良ければこんなやたらと豪華すぎてかえって居心地の悪い客室で過ごすより、ベランダにいる方が開放感があるかもしれない。だが、秋も終わりかけたこの時期では、ベランダはくつろぐ場所には向かない。 だが、ポップがいない時間に侍女達がこの部屋の掃除に来ると知っているだけに、深く疑問は抱かなかった。 「……?!」 一瞬の驚きが恐怖に変わるよりも早く、力強い手に引き寄せられた。抵抗しようにも、あまりに素早く、強い力なだけに、逆らいようもなかった。 このまま見知らぬ相手に捕らえられてしまうか、あるいは殺されるのか 混乱が恐怖に変わる前に、囁かれた言葉があった。 「不用心だな。呆れたものだ」 冷たい、淡々とした独特の口調には聞き覚えがあった。 「ラーハルト……?!」 驚いて振り向こうとすると、ポップを捕らえていた手はあっさりと開放してくれた。 「なんだ。今頃、気がついたのか」 むしろ、それが驚きだとばかりに呆れた声を出され、ポップはカチンとくるのを抑えきれない。 「今頃って、こんな不意打ちされて相手が誰だか分かるわけあるかよっ?!」 「気配で分からないのか? ヒュンケルなら、これぐらい気付くぞ」 さらにむかつく返事を淡々と返され、ポップの機嫌はさらに悪化する。 (あんな非常識にも程がある不死身戦士を、一般基準にしてるんじゃねーよっ! いや、ダイや先生だって、それぐらいできそうだけどっ) アバン流刀殺法の極意は、空の技――つまりは、心眼を開いて周囲の気配を察知してこそ、初めて達せられる。 しかし、同じくアバンの使徒とはいえ、ポップは初歩の体術ならともかく、剣の修行などは微塵も受けていない。そんな人間離れした技を身に付けていると思われては、えらい迷惑である。 「普通は隠れている人の気配なんか分からねえし、だいたい、いきなり窓から人がくるなんて思いもしねえよ! おまえ、いったい、どこからきたんだよ?!」 繰り返すが、なにしろここはベンガーナ城の一室。
「あー、やっぱりかよ……っ」 薄々察していたとはいえ、あまりにも予想通りの答えに目眩を感じてポップは頭を抱え込む。 「おい……てめえ、まさかとは思うけど、護衛の人達になんかしたんじゃねえだろうな?」
「愚問だな。別に、何もしてはいない。あんな節穴同然の護衛の目を盗むなど、スライムを倒すよりも簡単だ。 (そもそも、あの護衛はおれが頼んだわけでもねえし! 上から目線で説教じみたセリフを吐くハーフ魔族を前にして、ポップは怒りにうち震えつつもそれをなんとか堪えた。 そんな役にも立たない怒鳴り合いなど、今はしている暇などないのだ。下手に騒げばラーハルトの存在が周囲にばれかねないし、そうなれば大騒動になるのは疑いなしだ。 せっかく、今までいろいろと我慢しまくって留学をなんとか無事に終えたというのに、最後の最後で騒ぎを起こしたくはない。 (この仕返しは、後できっちりしてやるからな……!) と、心に強く決めてから、ポップは端的に要件を切り出した。 「で、結局、何しに来やがったんだよ、てめえは。んな夜中にわざわざここまでくるからには、何か用でもあるんだろうな?」 ラーハルトが用もなく自分に会いにきたなどとは、ポップは一瞬足りとも考えなかった。 単に仲間に会いたくなって不意にやってくる――なんて、可愛げのある男ではないのだ。
愛想もないし、無闇やたらに偉そうではあるが、ラーハルトは律義な男には違いなかった。 それを悟って、今まで不機嫌一直線だったポップの表情が、少しだけ和らいだものになる。 「ああ。おれもそろそろ、おまえを探そうかと思っていたところだよ。準備がやっとできたんだ」 リンガイアから始まって、カール、テラン、ロモス、そしてパプニカ、ベンガーナ。 およそ一年半かけて文字通り世界を一周し、必要な資料を揃えた。その作業の中には、資料を集めるだけでなく古文書を解読し、歴史的事実かどうかと確かめる研究も混じっている。 相当に苦労させられたが、だが、その成果はあった。 昔は嫌っていたローブ形式の衣装だが、利点がないわけではない。 「……古地図か」 すっかりと色の変わった数枚の羊皮紙を見て、ラーハルトは淡々とそう言った。 「ああ。破邪の洞窟よりも古いものばかりだよ」 その情報に、ラーハルトは眉一つ動かさなかった。ただ、地図の内容を刻みつけようとするように、ジッと羊皮紙を見つめているだけだ。 「行く先はこれらの地図の場所だよ。この三つの洞窟と、こっちの遺跡の奥に隠された宝が必要なんだ」 それは、法外な要求としか言い様があるまい。 「移動手段は確保済みか?」 「いいや、一度も行ったことのない場所ばかりだ。まあ、ある程度近くまでならルーラできるけど、それでも山の一つや二つは自力で移動すると思ってくれていい」 「期限は?」 「この冬の最後の新月の晩までに」 その返事を聞いて、ラーハルトが初めて表情を動かした。 何しろ、今は冬の初めだ。 大戦中、アバンが破邪の洞窟一つを攻略するのに三ヵ月をかけた事実を考えれば、想像を絶する苦難が待ち受けているのは確実だ。 「ところで、一つ聞くが……おまえは、この旅に助っ人を頼む気はないのか?」 ラーハルトがそう言うのも、無理もないだろう。 「ねえよ」 洞窟探索には、協力者がいた方が確率があがるのは分かっている。アバンの若い頃の記録を、レオナ達が4人がかりでたった一日で抜いた時のように。 今回の洞窟探索に、仲間の助けを借りるつもりはない。ラーハルトだけを、連れて行くつもりだった。 「なにか、文句でもあるのかよ」 ほとんどケンカでも売るような目付きで自分を睨みつけてくる魔法使いを前にして、ラーハルトの目の鋭さも増す。 「……いいや。不満がないわけでもないが、おまえから持ち掛けてきた話だ。おまえの決断に従おう」 (ちぇっ、いちいちスカした言い方しやがってよ) と、思わなくはなかったものの、曲がりなりにも賛成されて、ポップはホッとした表情になった。 「ところでよ、このことを誰にも言ってないだろうな? 特に、ヒュンケルとかによ」 少し疑う口調で、ポップは念を押す。 「心配するな。奴とは、ちょうど三ヵ月前に別れて以来、会っていない」 「ふうん。で、おまえ、ヒュンケルにいったいなんて言ったんだ?」 今度聞いたのは、疑いや念のためではなく、ただの好奇心という奴だった。
くらり。 「…………そ、それで、ヒュンケルの奴、何か言わなかったのか?」 「『そうか』と言っただけだが」 「〜〜〜〜っ」
「安心しろ、約束通り奴には何も話してはいない」 (いやっ、安心とかそれ以前に、コミュニケーションとかが全然足りてねえよ、てめえらはっ) 心の中で目一杯叫びたい衝動を、ポップはなんとか堪える。 「ま、まあ、いいや。ヒュンケルの奴にバレてねえんならよ」 今回の洞窟探索で、ポップが一番に警戒していたのは兄弟子の存在だ。彼の耳に入っていないのならば、少しは気が楽になる。 「そうか。それで、もう出発できるのか?」 と、ラーハルトが手を伸ばしてくるのを、ポップは呆れた目で見返してしまう。 (そりゃ、こいつなら簡単だろうけどよ……) ラーハルトの実力ならポップを連れていたところで、誰にもバレないようにこっそりと城から抜け出すなど簡単だろう。 だが、城の客間に泊まっていた留学中の宮廷魔道士見習いが忽然と消えたりしたなら、それは大事件だ。 ……まあ、正確に言えば、普通の休廷魔道士見習いが重視されているのでは無く、世界を救った勇者一行の大魔道士だからこそ重要視されているのだが、ポップにはその自覚は無いのだが。 「今は無理だって、さすがに」 とりあえず、ポップとしてはいらぬ騒ぎは引き起こしたくなかった。 「もう一つ、約束があるんだ。だから、それが終わるまでは行けねえよ」 ベンガーナでの留学期間は、正式には2、3日前に終わっている。だが、ベンガーナ王に強引に引き止められているおかげで、少々出立が長引いてしまっていた。 それでも、それだけだったらポップもまだ、断れただろう。 しかも、この手紙を見なかったふりをしたり、ばっくれたりした日にはただでは済まさないからね、との追伸つきだった。 一刻も早く旅立ちたいのは山々だが、レオナを怒らせてまで実行する度胸はポップには無い。 「後、三日待ってくれ。姫さんとの約束さえすませたら、旅に出るから」 そう言って待ち合わせ場所を告げると――ラーハルトは珍しくも奇妙な表情を見せた。 その表情の差は、そう目立つものではない。仲間なら、その差が分かる――その程度のものだ。 だが、それでもぽかんとした表情を見せるなど、このクールを気取った男にしては珍しい。 「なんだよ、変な顔しちゃって」 「いや……おまえ、それでは何の意味も――」 そう言いかけてから、ラーハルトは少し何かを考え込むような顔になり、もっと珍しい顔に変わった。 この男の機嫌のよさそうな笑顔など、ぽかんとした顔以上に見れるものではない。無論、こっちの表情の変化も一般的なレベルから言えば微々たるものというものだろう。 「了解した。それがおまえの決断なら、不満はない。では、三日後だな」 それだけを言い残し、ラーハルトは音も立てずにベランダから庭へと飛び下りる。闇の中に消えるように、彼が去っていくのをポップは無言で見送った――。
長い栗色の髪を綺麗に結い上げ、純白のドレスを身にまとった可憐な姫君。 まだ年若いとは言え、さすがは一国を率いてきた姫と言うべきか。 気品と美しさ、それに名声までも抜かりなく備えた姫に、求婚者が現れないはずがない。 だが、彼女を守るがごとく、常に側に控えているのは白銀の衣装をまとった騎士だった。淡い赤毛を後ろに撫で付け、後ろで括っている騎士は、良く見れば若い娘だった。姫と比べてもまだ、数歳と離れていないだろう。 だが、年齢、性別に関係なく、騎士は騎士だ。 たとえば、騎士を伴った貴婦人にダンスを申し込むのはマナー違反に当たる。この場合は、騎士に対して貴婦人への愛を認めさせる必要がある。 姫の意に反して付きまとう悪い虫を追い払うためには、決闘も辞さない――それでこその、騎士だ。 そのため、強固な箱入り娘やまだ結婚をする気がない娘は、できるだけ身分の高い騎士の後見を望むものだ。 ただの騎士とは、わけが違う。 カール王国の自治領を治める侯爵という、騎士としては最高峰の自由騎士の地位を取得した、騎士マァム。 彼女をしっかりと守るがごとく、片時も離れずに周囲に目を配り続けている。 もっとも前からの仲間であるポップにとっては、彼女達の性格をよ〜く知り抜いているだけに手放しに見とれるべき対象にはならないが。 (さすがというべきか、これなら安心だよな〜) マァムは、前に約束してくれた。 ポップに代わって、レオナを守っていてくれている。 賢者や僧侶は宴席上では中性とみなされるせいか、男扱いされない代わりに、半ば女性扱いされがちである。 女騎士の場合でもそうなってしまうのではないかと半ば心配していたのだが、それは無用な心配だったようだ。 あわよくばレオナに近付こうとする不埒な男などを、マァムは威嚇を込めて睨みつけるだけで撃退していた。 まあ、唯一問題があるとすれば騎士マァムのあの迫力が、女性としての彼女の評判を下げてしまうことぐらいだが――ポップにしてみれば、それはむしろ歓迎できる。 結果として、その二人はパーティ会場で最も華やかに人目を引きつけながらも、社交以上の意味で他人を寄せつけることがない。 そんな風に外交上のパーティでの役割を一通り終えた後になってから、ようやくポップはレオナに近寄る機会に恵まれた。 険しい女騎士の顔とは全く違う、柔らかな笑顔を浮かべて一歩、身を引いた。 「ポップ君! おひさしぶりね、どう、元気にしてたかしら?」 「ああ、おかげさんでね。姫さんやマァムも、元気そうでなにより」 気安い挨拶をしながら、ポップは言葉とは裏腹にレオナの手を恭しく手に取る。最初の頃は慣れなくて照れが先に立ってしまったが、パーティに何度も出るうちに慣れてしまった儀礼の一つとしてしぐさの一つだ。 ベランダへと誘うと、レオナは心得た顔で頷いて見せた。 恋人同士がこっそりと愛を囁く場や、他者と交えずに密談を交わす場所としても利用される。 二人の邪魔をせず、また、誰にも二人の邪魔をさせないとの意思表示だ。 その気楽さからバルコニーの手摺に寄り掛かった姿勢で、ポップはいつもの調子で話しだした。 《続く》 |