『ナイスコンビネーション』

 

 周囲に見えるのは、敵だけだった。
 見渡す限りに存在する怪物は、全てが敵だ。
 満月の下、視界は夜とは思えないほど良好だった。だが、夜であるがゆえに、怪物達の姿は昼間よりも陰影を濃くして見え、不気味さを増していた。

 猛り、今にも襲いかかってきそうな雰囲気を漂わせる敵に囲まれているというのに、ヒュンケルの心には微塵の恐れもない。
 敵が、襲ってこないというわけではない。実際に今までに何度となく、敵の攻撃を受けている。だが、それを退けるのはたやすかった。

 手を出してくる者をきつめにあしらい、威嚇することで敵を怯ませ、とどめることができる。
 それは、危うい均衡だった。

 少しでも隙を見せれば、怪物達は襲ってくるに違いない。戦いにおいて、技量以上に重要なのは物量だ。
 圧倒的な大軍の前では、戦わずに趨勢が決まる。

 もし、敵がリーダーを持ち、多少の犠牲も厭わずに攻撃を仕掛けてきたのなら、達人の技を持っていようがなんだろうが関係がない。
 だが、幸いなことにここにいる怪物達は、リーダーなど持たぬ烏合の衆だ。

 個々に敵を倒すことだけを考え、他者に出し抜かれることだけを警戒している怪物達は、自分達の優勢に気がつかない。
 いかに大勢いようとも、彼らにとっては関係ない。自分一人のみが、目の前にいる人間を殺すことが重要なのだ。

 各自が自分のことしか考えないのであれば、いかに数が多くともそれは少数対大多数の戦いにはならない。

 変形であっても、一対一の戦いにすぎない。だからこそこれだけの大差がありながら、威嚇が有効なのである。
 そして、威嚇が有効となる条件はもう一つあった。

 ――トン。

 背中に軽いものが当たった感触があったが、その正体をヒュンケルは確かめなかった。 戦いにおいて、敵から目を逸らすのは死を意味する。それは決定的な隙であり、敵に襲いかかられるきっかけになるのだから。

 だからこそ、戦いにおいて背後を突かれるのはなんとしても避けるべきだ。しかし、今、この場に限ってはヒュンケルは自分の背中は心配などしてはいなかった。
 なぜなら、ヒュンケルの背中には隙一つない。

 世界で最高の魔法使いが、そこにはいる。
 数多くの敵を前にして、背中合わせに立つ仲間の存在こそが最大の強み。
 ポップの存在を背中に感じているからこそ、ヒュンケルは背後は一切見なかった。

「よォ。ちょっと、眩しくなるぜ」

 まるっきり緊張感のない声が、背中から聞こえる。
 ごく当たり前のことを話すかのような気軽な口調は、戦場ではひどく不釣り合いだ。戦いの場では、普段よりも緊張するのが当たり前だ。

 敵に対する気構えのせいで、普段よりも無口になったり、あるいは逆に攻撃的と言うか好戦的になる者は珍しくない。
 だが、ポップはまるっきりいつものままだった。
 状況を分かっていないから、そんな場違いな態度を取っているのではない。

 自分達の不利さを十分に把握した上で、それでも平然と振る舞う胆力が彼にあるだけの話。
 だから、その言葉はヒュンケルにとってはふてぶてしいまでに頼もしく聞こえる。
 だからこそ、ヒュンケルは一言だけ言った。――全幅の信頼を込めて。

「ああ。好きにしろ」

 まるでその返答を待っていたかのように、爆音と物凄い光や熱が背後から襲ってきた。 恐らくは複数の怪物が一斉に呪文を放ったのだろう、それはまさに最大閃熱呪文に匹敵する魔法だった。
 だが、ヒュンケルは触れれば黒焦げになるに違いない魔法を、恐れさえしなかった。

 そんな必要などない――ポップにとっては、そんなものはそよ風も同じことだ。呪文を唱えた気配もないのに、背後から広がる魔法の光が綺麗に二つに分かれ、自分達をすり抜けて広がっていくのが見えた。

 その光景を見て、ヒュンケルは背中を振り返れないのを残念に思う。
 敵を確かめるために振り向く必要はないが、ポップが魔法を使うところを見るためになら、不利を承知でも振り向きたいものだ。

 およそ魔法使いとは思えないほど若く、お調子者のポップだが、彼が魔法を使う姿は必見に値する。
 信じられないぐらい強大な魔法をやすやすと操る姿は、魔法にはまるっきり縁のないヒュンケルの目でさえ引きつける。

 だが、非常に残念ではあるが、今は自分の好奇心のためだけに見物に興じる時間はない。 魔法の余波を嫌い、ヒュンケルの目前にいた敵が慌ててそれを避けるのを見逃す訳にはいかない。

 剣を振るってさらに敵を退がらせ、代わりに自分が先へと進む。その際も、後ろを見る必要などはない。
 ヒュンケルの進みに合わせて、ポップもついてくるのだから。

 逆に、ポップが先に進んでも、ヒュンケルは何も言われずともそれに合わせる。言葉さえ必要ない――二人の目的地は、すでに向かっている。
 ダイと聖母竜の眠っている、湖を目指す。
 その目的のために、ポップとヒュンケルは再びこの小島に戻ってきた。

 宿屋で休養を取ったポップは、静養の甲斐があってかすぐに熱は下がった。さすがに満月までそう日にちがなかったから完全に体調が復活したとは言えないかもしれないが、それでも戦える程度の力は取り戻した。

 そして、今日、満月の夜に小島に戻り、背中合わせに戦いながら湖の岸を目指していた。 今度は、前の時のように大技をぶっ放して湖までの花道を開く必要はない。すでに、湖の岸には安全圏が存在している。

 ポップが作り上げた破邪呪文の魔法陣は、未だに光を失わず、近寄る魔物を退けている。そこまで辿り着く……それだけで、いい。

 ――トン。

 一度は離れ、少し寒さを感じたヒュンケルの背中に、再び軽い手応えが戻ってくる。一度、軽くぶつかった後はほんのわずかの距離を置いて、そこにとどまっている背中の存在を暖かいもののように感じながら、ヒュンケルは不敵に笑う。

 ヒュンケルは、ポップの背中を守る。
 そして、ポップはヒュンケルの背中を守る。
 顔も合わせないままでいるのに、こんなに身近に感じられる存在もない。
 ある意味で世界で最も遠く、同時に世界で最も近くに居る関係。

 背中合わせで戦いながら、ヒュンケルは思う。言えばポップは怒るだろうが……なかなかいいコンビネーションじゃないか、と――。

 


「着いたぜ、ヒュンケル」

 光輝く魔法陣まで辿り着いたポップが、どこかホッとしたような声をだす。
 安全圏である魔法陣まで来て、安堵を感じるのも当然だろう。だが、これからがまた、一仕事だ。

 聖母竜と話すため、ポップはまた湖に潜るだろう。その間ヒュンケルがこの場を確保するのはいいとしても、やっと風邪が治ったばかりのポップに水に潜る行為が苦にならないかどうか……ヒュンケルにはそれが心配だった。
 だが、ポップが支度を整えるよりも早く、意外な声が聞こえてきた。

『……その必要はありません』

 美しく凛とした声は、耳に聞こえるというよりは、心の中に直接響き渡った。
 ハッとして湖を覗き込むと、水底からゆっくりと大きな泡が浮かび上がってくるのが見える。

 水面ぎりぎりまで浮かび上がってきたその泡を見て、ヒュンケルは初めて自分の目で聖母竜の姿を目の当たりにした。
 神々しくも優しい雰囲気をたたえた竜……さらに竜の腕に抱かれた球にダイの姿が見える。

「ダイッ?!」

 それを見た途端、湖に飛び込もうとしたポップの腕を、ヒュンケルは辛うじて引き止めた。
 相手から湖面に上がってきたというのに、ポップの方が飛び込んでは意味がない。

 止められたことよりも、腕を掴まれたのが不満とばかりにポップが顔をしかめるが、聖母竜が再び語りかけ始めると彼の意識はそちらに集中された。

『よかった……約束通り満月のこの夜に来てくれたのですね、人の子よ。
 あなたの助けを、私に貸していただけますか? この子を助けるために――』

 聖母竜の手が、優しく自分の抱く球を抱え直す。
 もちろん、その問い掛けに対するポップの答えは決まっていた。

「ああ、もちろんだぜ! ダイを助けるためなら、おれ、なんでもするよ!
 ダイは生きているんだろ?!」

『もちろんです。
 あの日……あなた達が大魔王バーンを倒すという奇跡を起こしたあの日に奇跡は起こった』

 そこまで語った聖母竜は、ゆっくりと瞬きをする。

『いえ……そうではありませんね。多分、奇跡はその前から……この子が、竜の騎士と人間の間に生まれた時から起こっていたに違いありません。
 それぐらい、私とこの子が生き延びたのは、奇跡的なことなのですよ。
 長い話になりますが、どうか聞いてください』

 

 


 奇跡がどこから始まったのか、それを問うのは難しいことだ。なぜなら勇者一行の旅の全てが奇跡的なことであり、驚嘆に値するものなのだから。
 だが、その中で敢えて奇跡のはじまりを指摘するのであれば、バランばかりでなく、聖母竜の意思や記憶がダイの中に残ったことだろうと、彼女は語った。

 バーンとの初めての対決の後、ダイは一度死んだ。
 それを感じ取った聖母竜は、ダイを迎えに行った。死んだ我が子を抱き留め、その魂を自分の中で眠らせる――それは聖母竜にとって、何回、何十回となく繰り返してきたことだった。

 ただ一つ違ったのは、今回の眠りが二度と目覚めないものになると言うことだけだった。 最後の竜の騎士と共に、聖母竜は永遠の眠りに就く予定だった。大魔王バーンの力を思えば、もはや竜の騎士とて勝てはしない。
 なにより、聖母竜はもう弱り切っていた。

 それを思い直させたのは、正統なる最後の竜の騎士、バランの言葉だった。
 愛しい我が子が、自分の子の生存を望んで訴える懇願。
 それを、聞き入れない母がこの世にいるだろうか?

 聖母竜は自分の本能や自我を眠らせ、自分の命をダイに貸すという形で深い眠りに就いていた。
 そうすればダイは自分の意思で、聖母竜の与えた命を自分の命として、生きられる。

 ダイに合わせて命を与えるせいで、聖母竜本来の長寿は望めないだろうが、それでも人間並みの寿命にはなるだろう。
 死にも等しい眠りに就いた聖母竜は、一切の特殊能力が使えなくなるし、ダイが死ねば同時に完全に死ぬことになるが、それは構わなかった。

 我が子を救うためなら命を惜しまないのが、母親というものだ。
 だが、ダイが純血の竜の騎士ではなく人間の血を引いていたことが、思わぬ効果をもたらした。

 本来ならば、聖母竜と竜の騎士の魂は完全に同化する。だからこそ、聖母竜は竜の騎士の魂を一度自分の中に戻し、再びこの世に生み出すことが可能なのだ。
 元が同じものだから当然といえば当然だが、ダイの場合は普通の竜の騎士のように完全なる魂の同化が行われなかった。

 ダイは、自分自身の意志で竜の紋章の位置を操れる。
 それは言い換えれば、竜の騎士の記憶や力を自在にできる……つまり、望めば自分の中から竜の要素を排除もできると言うこと。

 その気になれば、聖母竜に力を返すことも、彼にはできるのだ。
 バランの記憶が別人格としてダイの残ったのが、いい例だ。
 完全に同化させたつもりだったのに、聖母竜の意思は別人格として、ダイの中に残った。


 その意思が生命の最大の危機――黒の核晶が爆発する際に、強まったのだ。まさにその際、無意識にダイは自分の中から聖母竜の力と自我を切り離した。
 ダイは意識していなくても、その行為こそが生き延びるのに最適だと、竜の騎士の記憶が告げたのだ。

 ダイには逃げようもなかった最悪の爆破も、空間を渡る能力を持った聖母竜にとっては切り抜けることは可能だった――。

 

 


『ダイを守り、爆破から辛うじて逃れたものの、決して無傷には済みませんでした。だからこそ傷を癒す必要があった。
 だけど、その手段はもはや人間界には存在しませんでした』

 聖母竜が回復するために取れる手段は、大きく分けて二つ。
 天界へ行くか、それとも魔界に行くか、だ。
 確実な回復のためならば天界へ行くのが最適だが、神々によって生み出された聖母竜でさえ天界へ行くのはたやすいことではない。

 魔界に行く方が、ずっと簡単だ。
 傷ついた竜を癒すための水――それが魔界には存在する。
 だが、その数はとても少ない。

 その上、爆破直後の聖母竜にはとても魔界へ行くだけの力はなかった。だからこそ聖母竜は危険を承知していながら、裏技を使用した。
 傷ついた竜を癒す水……それは、時折人間界にも発生する。

 有名なのは、アルキード王国近くの岬のものだが、カールにもごく小さな場所があった。ただ、アルキードのものと違い、泉という程大きくはなかった。
 せいぜいが、ちっぽけな水溜まりサイズ。喉の渇いた動物でさえ見過ごしてしまいそうな程小さな湧き水にすぎなかったため、今まで誰にも気付かれなかった。

 そのままでは使えないので、聖母竜の力で無理やり魔界へと繋げ、強引に湖を作ったのだ。おかげで、聖母竜もダイも命は取り留めた。
 だが、その代償は小さくはなかった。
 そのせいでごく小さいものとは言え、人間界と魔界を繋ぐ『穴』ができてしまった。

 

 


『「穴」と言う表現が適当なのか、私には分かりませんが、そのようなものと理解してくれて結構です。
 これがある限り、私が望む望まないとは無関係に、無制限に魔界の生き物達をこの世界へ召喚してしまう。
 今、あなた達の目の前にいる怪物は、そうやってこの地上に来てしまったのです』

「これ、全部が?」

 思わずのように聞き返したポップに対して、聖母竜は水の中で深々と長い首を折って、謝罪した。

『……謝って済むことではありませんが、申し訳ありません。
 私がここにいる限り、怪物達は増え続ける。今はここにとどまっているとはいえ、もっと増えれば怪物達は必ずや人間を襲うでしょう。
 その前に穴を塞ぎ、私は天界へと帰ります。時が満ち、条件の整った今夜ならば、天界へと移動できますから』

 その言葉を聞いてハッとしたのは、ヒュンケルだけではなかった。ポップが血相を変えて、食ってかかるような勢いで問いかける。

「……ダイはっ?! あんたがそうしたら、ダイはどうなるんだよっ!」

「落ち着け、ポップ」

「うるせえ、これが落ち着いていられるかよっ?! ダイも連れて行っちまうのかよっ?!」


 泣き叫ばんばかりの勢いで聞くポップには、分かっているのだろう。
 天界とは、人間界とは異なる世界。
 神々に近い存在である聖母竜でさえ行くのが困難だと言う世界へ、ダイがもし連れて行かれたとしたら、ポップにはもう追いかけていく術はない。

 これが、今生の別れになるかもしれない――その不安から叫ぶポップに、聖母竜は優しい声をかける。

『心を静めてください、人の子よ。
 確かに最強の竜の騎士であるこの子を連れて天界へ行くのが、聖母竜としての……いえ、竜の騎士の産みの親としての役割かもしれません。
 ですが、私は母なのです』

 静かな、だが強い視線が、水の中からポップを見つめる。

『この子の望みが、私には分かる。
 地上が好きだと。地上に住む人間達が好きだから、ここにいたいと。
 我が子の、心の底からの望みです。たとえ自分の役割に反するとしても、母として、私はこの子の望みを叶えてあげたい……!』

 異形の姿であっても、直接血が繋がってはいなくても、それはまさに母の姿だった。

『ですから、私はあなたに呼びかけた。あなたがほんのわずかでも、竜の騎士の血を飲んだのは、幸運でした。
 そうでなければ、私の声はあなたに届かなかったでしょうから。
 そして、あなたが自分の意思で、ここに来てくれたのを嬉しく思います。あなたならば、この子を助けられるでしょうから』

「おれ……が?」

『ええ。あなたなら、眠ってしまったこの子を起こせる――私は、そう確信しています』


 奇跡を成し遂げた代償か、ダイはあれ以来ずっと眠ったままだった。
 それは、竜族には珍しい反応ではない。精神や身体が深く傷ついた竜は、冬眠にも似た深い眠りに就くことはしばしばある。時には数百年もの間眠って過ごすのも、珍しいとは言えない。

 人間の姿と心は持っていても、竜の騎士の本能は竜に近い。
 瀕死に陥った上に、聖母竜でさえ成し遂げられない奇跡を行ったダイが深い眠りに就いても、何の不思議もなかった。

 聖母竜にとっては、ダイの眠りはたいした問題ではない。
 彼が自然に目覚めるまでゆっくりと待てる寿命が、彼女にはある。天界でダイと共に眠るのが、聖母竜にとってはもっとも無難な選択肢だ。

 だが、ダイにとってはどうだろうか?
 人間として育ち、人間を愛して、地上で生きたいと願うダイが、安らかな眠りを保証されるとはいえ天界で過ごす時間を喜ぶとは、聖母竜には思えなかった。

 人間の寿命は、短い。
 ダイが戻ってくる前に、間違いなく彼の仲間達は寿命が尽きるだろう。たとえ天寿を全うしたとしても、とても足りはしまい。

 ダイにとっては瞬きの一瞬の眠りの後、彼を待つ者は誰もいない地上を見る羽目になる……それが、彼のためになるとは聖母竜にはとても思えなかった。
 だからと言って、今、ダイを手放す訳にはいかなかった。

 今も、聖母竜とダイは半ば繋がった状態なのだから。
 爆破のあの瞬間、外見や能力的には分離したものの、さすがに全てをきちんと分けるだけの時間はなかった。

 今のダイは、言うなれば胎児のようなものだ。卵に入った雛を、自然に孵るのを待たずに無理やり殻を破って外に出しても生きてはいけないように、今のダイも完全に聖母竜から切り離されなければ、生存できない。

『この子は、生まれ直す必要があるのです。
 竜の騎士としての使命を全うした褒美として、私はこの子が望むのなら人間として地上に返してあげたい……。
 そして、竜の騎士の力は私の中に戻し、私は天界に帰って傷がいえるまで何百年も眠る選択を選びたいと思っています』

 それは、聖母竜が完全な力を持っているのならばたやすいことのはずだった。
 だが、今の不完全な聖母竜の力では、それができない。
 今、それを成し遂げたいと思うのなら、だが、それにはダイの協力と意志が不可欠なのだ。

 そんなに大層な力は、いらないのだ。もはや、準備は整っている。母鳥が嘴で卵の殻にひびを入れ割れやすくするように、聖母竜もダイが生まれるための準備はすでに整えきった。

 後はただダイが目覚め、ここから出たいと望むだけでいい。それだけで、ダイは人間として生を得ることができる。

 なのにダイはどうしても目覚めることなく、深い眠りについてしまったままで、いくら呼び掛けても目覚めることはない。困った聖母竜が思いついた手段が、誰かにダイを起こしてもらう方法だった――。

 

 


「……そんなの、おれなんかにできる……のかよ?」

 戸惑ったように、ポップが何度もまばたきを繰り返す。
 彼が怯むのも、無理はない。

 聖母竜は、神の眷属だ。人間には及びもつかない力を持ち、竜の騎士と最も深い繋がりを持つ生命体――そんな彼女にさえできないことをやれと言われたのなら、ヒュンケルとて二の足を踏むだろう。

 だが、ポップがやるというのなら、心配など無用だ。ヒュンケルはぶっきらぼうに急かした。

「ポップ。早く呼びかけろ。怪物達も、いつまでもおとなしくはしていない」

 魔法陣の縁ぎりぎりで剣を振るいながら、ヒュンケルは言う。湖の岸にしゃがみ込んで、聖母竜に話しかけているポップと違い、ヒュンケルはずっと油断なく魔法陣の外を見張っていた。

 破邪呪文の効力によりこの中にまで侵入しできなくとも、炎や飛び道具までは防げない。 聖母竜だけに気を取られ、魔法陣ぎりぎりから湖の上へと身を乗り出しかけているポップを狙う怪物を威嚇し、飛び道具を払うのはヒュンケルの役目だった。

『ええ、お願いします。
 この子が目覚めなければ……私は、この子と一緒に天界へ戻るしかありません。それはこの子にとっても、あなたにとっても、望まないことでしょう?』

 聖母竜のその言葉が、決め手になったらしい。ポップは大きく身を乗り出し、叫ぶ。

「ダイッ! ダイ、聞こえるか?! おれだよ、ポップだよ!」

 母なる竜の腕の中、球の中で目を閉じているダイは、その呼び声にもびくりとも動かなかった。
 それに焦れるように、ポップの声に焦りが混じる。

「なんだよ、聞こえないのかよ?! 起きろよ、おいっ! おれのこといっつも寝坊だのなんだの言って、起こしまくっていやがった癖に自分の方が寝過ごしてるんじゃねえよ!
 起きろったら、ダイ!」

 必死さを増し、切迫感を増しながらポップはなおも叫ぶ。身を乗り出し過ぎて、湖に落ちるんじゃないかと冷や冷やするぐらいだが、ヒュンケルには手を出す余裕がなかった。 運悪く、炎を吐くのを得意とする怪物が魔法陣の近くに集まってしまった。炎を切り裂く海波斬を連発し、ポップに炎が届かないように守るだけで精一杯だ。

「聞こえてるんだろ……っ?! おれの声が聞こえないなんて、言うなよな! おまえ、ハドラーが来た時だって、聞こえてただろ! おれは毒のせいで声もだせなかったのに、それでもおまえは、おれが呼ぶ声が聞こえたって言ったじゃないか!」

 まるで反応を見せないダイに向かって叫ぶポップの声が、泣き出しそうなものに変わっていく。
 この呼び掛けが失敗すれば、ダイを取り戻せないと分かっているがゆえに、ポップは必死だった。

「ダイ、聞いてるのか?!
 返事をしろよ! せめて、目を開けろよ! くそ…っ、ダイの大バカヤロォオ――ッ!」
 

 呼び掛けや、言葉の細部は違っているかもしれない。
 だが、黒の核晶の爆破の現場にいたヒュンケルには、ポップの声があの時のポップの絶叫に重なって聞こえた。

 胸を貫く絶叫に、ヒュンケルは気を取られ過ぎたのかもしれない。ポップに忍び寄っていた怪物……テンタクルスの存在に、気がつかなかったのだから。
 湖の中を静かに泳いで忍び寄った大きなイカの姿をした怪物は、触手のような足を延ばして魔法陣から乗り出したポップの身体に巻き付いた。

「ひゃ……っ?!」

「ポップ!」

 もし、ヒュンケルの体調が完全だったのなら。
 ポップが悲鳴を上げた時にはすでに怪物の足を切り飛ばし、ついで彼を抱き寄せて安全圏に引き戻していただろう。

 だが、いくら回復魔法で治療しているとはいえ、完治していない今のヒュンケルには以前の踏み込みの早さはなかった。
 一歩の出遅れは、戦場では敵の先手を許す重大な過失になる。

 必死で手を伸ばすヒュンケルの目の前で、ポップは湖に引き込まれた。細い手がもがくように空を掻き、あえなく沈む様を見てヒュンケルの心が凍りつく。
 自分の方が湖に引きずり込まれたとしても、これ以上の寒さや恐怖は感じなかったに違いない。

 間を置かず、飛び込もうとしたヒュンケルだが――その時、水飛沫をあげて湖から飛び出してきた者がいた。

 水に濡れても、元気良くぼさぼさに跳ねまくった癖毛。小柄ながらもがっちりとした体格の少年は、自分よりも背の高い少年をしっかりと抱きかかえたまま真上へと飛び上がる。 ジャンプなどでは説明できない跳躍は、明らかに魔法の力によるものだ。

 見慣れた、そして心の底から見たいと思っていた光景を目の前にして、ヒュンケルは思わず呟いていた。

「ダイ……ッ、ポップ……」

 だが、本人にさえ聞こえないような小声は、上にいる二人の耳には届かなかっただろう。 空に飛び上がった勇者は、彼の魔法使いに向かって心配そうに声をかけていた。

「ポップ、大丈夫?」

「バ…ッカヤロ、大丈夫じゃなかったのは、てめえだろ?! 手間をかけさせんなよ、本気で心配しちまったじゃねえか!」

 泣いているのか、怒っているのか分からないようなくしゃくしゃの顔で言い返すポップだが、抑えきれない喜びが彼の声を弾ませている。

「うん、心配かけてごめん、ポップ。でも、助けてくれてありがとう……ポップの声、聞こえていたよ。だから、おれ、帰ってこれたんだ……!」

 ダイの声にも、喜びが溢れている。
 だが、のんびりと再会の感動に浸るにはまだ早かった。

『これで、ダイは助かりました。では、次はこの湖ごと、魔界への穴を塞ぎます。
 協力していただけますか、全ての怪物をこの湖へ落としてください。彼らを、彼らが生まれた地へと返します』

 聖母竜がそう言った途端、湖が光を放ちながら大きく渦巻きだす。水を張った風呂桶の栓を抜いた時のように、螺旋の渦を巻きながらどこか、奥底へと吸い込まれていく。
 それと同時に、湖自体がじわじわと縮みだしていく。湖の縁際にいた怪物達は、その光る水に飲み込まれた瞬間、フッと姿を消した。

 それを見た怪物達は、一斉に湖から遠ざかろうとする。だが、ヒュンケルはもちろん、ダイもポップもそれを見逃す気はなかった。

「よっしゃ、いこうぜ、ダイ!」

「うん! あ、でも、おれ、武器を持ってないや」

 ダイの剣はもちろん、パプニカのナイフも持っていないことに気がついたのか、困ったように自分の手を見ているダイに、ヒュンケルは自分の使っていた剣を放り投げる。

「使え。オレには、予備のナイフがある」

 ポップと一緒に地面にふんわりと着地する途中で剣を受け取った勇者は、いかにも彼らしい笑顔で礼を言う。

「ありがと、ヒュンケル!」

 地面に足が着いた途端、ダイとポップは同時に同じ方向に向かって走り出していた。
 これまでとは段違いに、生き生きと活躍し始めたポップの元気の良さや笑顔を見て、ヒュンケルは思う。

(……自惚れていたものだな)

 さっき、ポップと背中合わせで戦っていた時に感じたことを思い出しながら、ヒュンケルは勇者とその魔法使いの戦いに目をやる。
 ダイとポップは、ポップとヒュンケルのようにくっつけかねない程近付いて背中合わせで戦っているわけではない。

 隣り合って戦うダイとポップの間の距離は、さっきのポップとヒュンケルのそれよりも開いている。
 だが、そんなのは問題になりさえしなかった。

「ほらよっ、ダイ!」

「うん!!」

 背中を合わせずとも、目を見交わさなくとも、ダイもポップも相手の動きを完全に見切っていた。
 ポップが放つ援護魔法は、ダイを巻き込みかねないぐらい間近を通るのに、ダイにはかすりもしない。

 また、ダイもポップに向かう怪物の攻撃を一度足りとも見逃しはしない。魔法に集中するポップの妨げにならないよう、片っ端から吹っ飛ばしている。
 てんでバラバラに動いているようでいて、まるで打ち合わせや練習を重ねたかのようにぴったりとした動きを見せる二人の戦いっぷりは、見事の一言に尽きる。

 だからこそ、ヒュンケルは思わずにいられない。
 あの二人こそ、ナイスコンビネーションと呼ぶのに相応しいのだ、と。
 少しばかり寂しい気がするが――だが、それ以上の喜びと安堵感が、ヒュンケルの胸に込み上げてくる。

 弟弟子を助けることは、どうしてもこれだけは成し遂げたいとヒュンケルが心に決めていたことだ。
 ポップもダイも本来の相棒の元に戻った……それが、ヒュンケルにはひどく嬉しかった――。

 

 


『ありがとう、人の子よ。これで心残りがなくなりました』

 宙に浮かんだ聖母竜がそう礼を告げたのは、それからしばらく経ってからのことだった。 怪物達を湖に追い返すなど、勇者一行の主力三人がそろえばたやすいことだ。満月が傾く前に、ことは済んでいた。

『そして、ダイ。竜の騎士の使命から開放され、あなたはこれからは人間として地上で生きなさい』

 ダイを見つめる聖母竜の目は、母のそれだった。だからこそ、母を知らないダイには戸惑いの方が大きいのだろう。
 だが、それでもダイは感謝の気持ちを伝えようとしていた。

「……あの、……なんて言っていいか、分かんないいけど、あ、ありがとう……!」

 不器用ながら一生懸命告げられた我が子の礼ほど、母親を喜ばせるものはない。慈悲深い眼差しを投げかけた後、聖母竜は翼を大きく広げる。

『私は、天で眠ります。
 私が再び目覚めることがあるのなら、それは竜の騎士がまた必要とされる時でしょう。 願わくば……この眠りが二度と妨げられぬものであることを、祈っています――』

 飛び上がった、のではない。
 翼を広げた聖母竜はその姿のまま、光の粒子となって溶けるように消え失せ、昇天していく。
 それは、神の涙であるゴメちゃんの消滅に似た光景だった。

 もはや湖など跡形もなくなった場所で、聖母竜はキラキラと輝きながら天へと昇っていく。
 その光景を、ダイ達は息を飲んで見つめていた――。

 

 


 こうして聖母竜は天へ還り、勇者が地上に戻ってきた。
 再び、勇者とその魔法使いは、並び立つ。
 勇者の魔法使いが成し遂げた奇跡……ずっと彼を見つめてきた無口な戦士は、やはり無言のまま、夢にまで見た光景が現実になった瞬間を見つめていた――。
                                     END



《後書き》

『大勢の敵に囲まれた時に、二人が背中合わせになって相手を威嚇する…みたいなシーンが好きなんです。
あと、精神的に背中合わせなコンビとか。当人はコンビなんて認めていないとか。そういう萌』

 この素敵なお題を製作されたrewrite の管理人様がこのお題について書かれた一文を、そのまま引用させていただきました。
 この説明文こそが、初のお題挑戦への勇気をもたらしてくれたと言っても、過言ではありませんっ。

 この説明文を見て、頭の中にパッとポップとヒュンケルが浮かびました♪ ポップとヒュンケルって、ダイとポップとはまた違った意味で名コンビですよ〜。
 ダイ大のその後を考える時、一つのストーリーではなく分岐するいくつかの可能性として考えるのが大好きなんですが、このシリーズもその一つです。

 メインルートとはまた違った形で、ポップがヒュンケルと旅をしながらダイを助ける……一度は書いてみたかったシチュエーションなんです。
 お題に合わせてポップの旅立ちから始めて、ダイの救出まで、全部通して書くことができて大満足です♪ 応援してくださった方々、本当にありがとうございましたv

 これで、このシリーズは終了です。……一応は(笑)
 まあ、筆者は一度書いた話に書き足したくなったり、別人の視点からのおまけ話をつけたしたりするのが好きという癖があります。もしかしたら不意に、このシリーズの設定での話を書きたくなるかもしれませんので、その時はよろしくお願いします。

 

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