『忘却の川の渡河 ー前編ー』

 

 部屋に飛び込んだ途端、視線が一斉に自分に集まったことをポップは自覚していなかった。
 焦りを含んだ目で部屋の中を見回し、仲間達の姿を確かめる。

 まず、パッと目を引くのはパプニカ王女たるレオナの姿だ。その側には、三賢者の一人、エイミが控えている。

 クロコダインやヒム、ラーハルトは少し離れた壁際に、暇を持て余すように並んで寄り掛かって立っている。
 そして、ベッドの上に座っている人物を認めて、ポップは少しだけ安堵した。

「ポップ!? どうしてここに? 休暇の間、マトリフおじさんの所へ行っているはずでしょ?」

 その質問を投げ掛けたのはベッドのすぐ側に付き添っていたマァムだったが、その場にいる全員が少なからず抱いた疑問だった。
 ポップにしてみれば、普段はパプニカにいないマァムがここにいることの方を問い質したい。

 だいたい、自分が休暇の間に一言の連絡もなしにパプニカに来ることはないんじゃないかと文句も言いたいが、あえてそれは飲み込んでおく。
 同じことはクロコダイン、ヒム、ラーハルトにも言える。

 彼らがポップになんの連絡もなく、こんな風に不意にやってきた理由は、聞くまでもなく見当がついているのだから。

「ダイに呼ばれたんだよ。あいつが大変だから、治してくれって……!」

 まだ整っていない息を整えながら、ポップは忌ま忌ましそうにベッドの上にいる人物――ヒュンケルを睨みつける。
 ポップが師匠であるマトリフの所に行く時は、大抵は大事な用事がある時だと皆が承知しているせいで、めったなことではそれを邪魔されることはない。

 ダイでさえ、おいてきぼりにされるのでつまらなそうな顔をしながらも、邪魔をしないで見送ってくれる。
 だからついさっき、ダイが瞬間移動呪文で飛んできて、ヒュンケルが大変だと知らされた時は心底びっくりした。

 とっさに頭に浮かんだのは、彼が危篤に陥ったのかという、あまりにも容易に想像できてしまう不吉な予想だった。
 罪の意識ゆえに自分を省みない傾向のあるヒュンケルは、大戦時代から何度となく死にかけてきた。

 今の平和な世の中でも、彼の基本精神は変わってはいない。
 なんらかの事故に巻き込まれ、重傷を負うのは有り得ると思ってしまった。
 ポップは今やパプニカで一番の回復魔法の使い手ではあるが、それには及ばなくともレオナも相当な使い手だ。

 彼女でも治せないような重傷をおってしまってのかと、聞いた瞬間に肝を冷やした。
 だからこそ、慌てふためいて事情もろくに話せないでいるダイから情報を聞き出すより、まず先に動いた方が早いと即座に瞬間移動呪文を唱えた。

 なのに、そこまでして来たというのに、ヒュンケルの様子はいつも通りで、拍子抜けするやら心配させられて腹立たしいやら。
 確かに、頭に包帯を少々巻いてはいるが、たいしたものではない。彼の様子も、憎らしいほどいつも通りで、異変があったようには見えない。

「おい、てめえ、なんだよ? せっかく人が駆けつけたってえのに涼しい面しやがって……!! いったい、何があったって言うんだよ!?」

 心配した反動もあり、いつも以上につっ掛かる口調でそう言いながら、ポップは彼の側に近づいていった。
 そんなポップを、ヒュンケルはしげしげと見つめた揚げ句、呟いた。

「………………分からない」

「はぁあ? 分からないっておまえ、何言ってんだよ? 何があったのかも分からねえわけ?」

「そうじゃない」

 ゆっくりと首を左右に振り、ヒュンケルはあくまで生真面目に言った。

「それも分からないが――おまえが誰かも分からない」

 ふざけているとは程遠い真面目さに、ポップは大きく目を見開いた。
 凍りついたポップに、ヒュンケルはとどめとも言える言葉を言い放った。

「知っているのなら、教えてくれ。オレは……いったい、誰なんだ?」

  







「き……記憶喪失かよ〜っ!? なっ、なんだってこんな厄介なことにっ!?」

 ポップがやっと立ち直ってそう絶叫するまでに、たっぷりと五分の時間はかかっていた。
 いっそ冗談だと、思いたい。
 が、不幸なことに――ヒュンケルはこんな冗談をかますような、気さくな性格ではなかった。

 それに、冗談にしてはこれはいくらなんでも手が込み過ぎているし、みんなの表情も深刻過ぎだ。

「それが分かったら、こっちも苦労はないのよ!」

 逆ギレ気味に叫びつつも、レオナはそれでも事情を説明してはくれた。

「ことの起こりは、昨夜の土砂降りのせいで崖崩れが起きたせいなのよ。ほら、ポップ君も報告書は見たでしょう?」

 少し考え、ポップは頷いた。
 レオナの補佐役として、ほぼ毎日膨大な量の書類を捌いているポップは、その内容は彼女以上によく覚えている。

「町の東の崖の地盤が弱っていたって、あれだろ? でも、避難勧告はちゃんと一週間前に出したはずじゃないか」

「ええ。でも、避難勧告を無視してその場に居続けたご老人が一人、いたの。で、実際に崖崩れが発生しかけてからそれが判明して、近衛隊を救助に派遣したわ。幸いにも老人はすぐに救助できたんだけど、彼の妻の形見を探すために最期までその家に残っていたヒュンケルが、崖崩れに飲まれてしまって……。まあ、幸い無事だったんだけど」

(いや、普通の人なら死ぬぞ、充分)

 と、内心思ったものの、ポップはあえてそれは言葉にしないままにしておいた。
 なにせ怪物や魔物しかいない魔王軍に人間の身で在籍しながら、『不死身』の異名を誇った男だ。

 溶岩の海に飲み込まれて生きていた経歴を持つ男が、土砂崩れに巻き込まれたぐらいで死ぬはずもない。

「…………で、身体は無事だったけど、記憶が無くなってたって言いたいわけ? なんつー厄介な……」

 頭を抱え込みつつ、ほとんど呻くように言いつつも、ポップはまだ諦めてはいなかった。
「で、治す方法とかはないのか?」

 それを聞いた途端、レオナは鼻先に笑いを浮かべ、やけに胸を張って宣言した。

「甘いわね。一通り試したけどにっちもさっちも行かなくなったから、あなたを呼び戻したんじゃないのっ」

「いや、そこ、威張るとこじゃねーだろっ!? だいたい、んな状態の奴を、おれにどうしろっつーんだよっ!?」

 ポップは基本、魔法使いだ。
 確かに賢者と呼べるだけの力は身につけはしたが、それでも攻撃能力に比べれば回復能力の方が劣る。

 まあ、そうは言っても、並の賢者や僧侶をはるかに凌ぐ能力ではあるのだが、ポップ自身は僧侶系の能力や知識は積極的に伸ばしてはいない。
 ただの怪我ならともかく、病気や厄介な症例に対応できるだけの治癒能力はないのだ。

 が、ポップより一歩遅れて戻ってきたダイは、何も疑いを持たない素直さであっけらかんと言う。

「だってポップ、おれの記憶を取り戻してくれたじゃないか」

(もう一度、メガンテしろとでもっ!?)

 確かに実際にそれでダイの記憶喪失は治ったのだが、治療方針としてはとんでもなく間違っている気がする。
 というか、いくらなんでも一生に二度のメガンテを唱えた人間として歴史に名を残したくなんかない。

 そもそも、ヒュンケルの記憶のためになんでそこまで命を張らなきゃならんのか。
 ――などと、あまりに突っ込みたいことが多すぎてかえって言葉に詰まり、絶句してしまっているポップの前で、ヒュンケルは真剣な顔で言った。

「もし、知っているのなら、教えてくれないか。オレはいったい、誰なんだ?」

 冗談の気配などかけらもない真面目さでそう問うヒュンケルに、いち早く応じたのはエイミだった。
 目を疑うような素早さで一気に彼の元に駆け付け、しっかと彼の右手を両手で掴んで、熱っぽい目をひたとヒュンケルに向ける。

「あなたの名前は、ヒュンケル。そう、ヒュンケルは――私の恋人なの」

「いやちょっとお待ちなさいエイミっ!!」

 光の速さで付け込む恋乙女に、王女様は激しくツッコむ。

「記憶の捏造はまずいでしょっ、さすがにっ」

 主君の叱責に、エイミは少しの怯みもせずに熱心に言い返す。

「姫様、でも、彼の過去を思えば、無理に記憶を取り戻すのが幸せとは思えません……!」

 その言葉には、さすがのレオナの口を閉ざす。
 戦火の中で親を亡くし、魔物に育てられ、なおかつその育ての親にも死に別れたという過酷な少年時代。

 正義を憎む余りにアバンに復讐を誓い、魔軍の手先になっていたというとんでもない過去……。
 確かに一口で説明するにはヘビーすぎる過去だ。

(せめて、もっとこう、少しはライトな部分から話せないかしら?)

 そう思い、期待を込めて、レオナは仲間達を振り返る。

「ねえ、何か印象的な修行中のエピソードとかないの?」

 世間ではレオナ自身も含めて、ダイ、ポップ、ヒュンケル、マァム、レオナの五人がアバンの使徒と認識されている。だが、実はレオナが使徒と認められたのは最後の戦いの寸前であり、それまではアバンの弟子は4人っきりだった。

 実際にアバンの教えを受けた彼らは、強い絆を持っているし、互いを思い合う気持ちも強い。
 それだけにいい思い出もあるだろうと期待をしまくったのだが――マァムは困ったように眉を寄せる。

「それが……私達、実は一緒に修行を受けたこと、ないのよ。アバン先生と出会った時期も、バラバラだし……」

 兄弟弟子ではあっても、年も生まれた場所も違い過ぎる彼らは、戦いに巻き込まれるまで互いの存在すら知らなかった。
 共に修行を受けた経験があるのは、ダイとポップぐらいのものだ。

「じゃ……、じゃあ、出会いのエピソードとかは?」

 尋ねると、今度はダイとポップが困ったように呻く。

「う〜?」

 どう言っていいのか分からないのか、ひたすら唸っている勇者様と違い、ポップは軽く咳払いした後、声を潜めてレオナにだけ聞こえるように囁いた。

「あー、あのさ、姫さん。おれ達が初めて会った時って、あいつ……魔王ハドラーの命令でダイを殺しに来た時なんだけど……」

「………………」

 思わず絶句してしまったレオナは、頭を抱え込む。
 ――確かに、かつてヒュンケルが敵だったとは聞いてはいるが、まさかそこまで出会いが悪かったとは知らなかった。
 しばしの沈黙の後、レオナはぽつりと呟いた。

「――この際、一からやり直す人生ってのも、いっそスッキリしてていいかもしれないわね」

「いや、姫さん、それ、切り替え早すぎだろっ! 取りあえず、できるだけの手は打ってみようぜっ!?」

  







「お手上げですな。私は、匙を投げさせてもらいましょうか」

 と、あっさりと問題を投げ捨てたのは、パプニカ城で先代の王の時代から侍医を勤めている医師だった。

「記憶喪失という症例自体がそう多くありませんし、私も文献でしか存じ上げません。それに治った場合も医師の治療によるものよりも、別の原因である場合が多数なのですよ。私から言える治療方針としては、彼の親しい人と過ごす時間を増やしてやり、彼にとって印象深い思い出のある場所へ連れて行くなどしてやる、というぐらいですな」

 侍医が簡単な説明を終え、立ち去るのを待ってから、レオナは一同を見回しながら言った。

「――と、言うことなんだけど、みんなはいいアイデアはあるかしら?」

 ヒュンケルにとって、親しい人間はここにだいたい揃っている。
 といっても、ここにヒュンケル本人とダイだけはいない。
 ヒュンケルがいないのは、さすがに本人を前にして、ああだこうだ相談するのは逆効果だろうと判断したためだ。

 ダイがいないのは、『どーせ、ダイに頭脳労働なんか無理、無理。下手に考えるより、ヒュンケルと一緒に剣の稽古でもした方がよっぽど役に立つ』と、ポップが決め付けたせいだった。

 ダイへの忠義にすべてを注ぎ込んだラーハルトは猛烈な勢いで抗議したものの、肝心要のダイが素直にそれに従ってしまったのでは意味がない。
 むしろ、頭を使う会議に参加しなくてもすんだのを素直に喜んで、ヒュンケルの手を引いて、元気に中庭へ駆けていってしまった。

 おかげでラーハルトは怒りのやり場を失い、憎々しげにポップを睨みつけるにとどまっているが、ポップの方は蛙の面になんとらやで、平気な顔でしらばっくれている。

「親しい人と接するのは、まあ、こうしてみんなを集めたからいいとして、場所は思いつかないぜ?
 マァム、おまえはどこか思い当たる場所とかはないか?」

 ポップの言葉に、皆の視線がいっせいにマァムに集まる。
 やっぱり、こんな時に頼れるのは彼女だろう。ヒュンケルとマァムが単に仲間という枠を超えて、互いに想いを寄せ合っているのは誰もが認めている。

 ポップにしてみれば面白い話ではないが、それは事実として認めざるを得ない。
 生真面目なマァムは、真剣に悩み込んでからゆっくりと発言した。

「うーん。ヒュンケルにとって一番思い出深い場所って言ったら、やっぱり……地底魔城とか?」

 と、あまりに物騒な地名が飛び出してきたのに、思わずツッコんだのはポップだった。
「待てぃっ!? なんで、よりによってそこなんだよっ」

「だって、ヒュンケルはあそこで暮らしていたんでしょ? だったら、色々と思い出とかあるんじゃないかしら?」

 マァムにとっては、家はそれだけで特別な場所だ。ゆえに、思い出深い場所=故郷という図式は迷いもせずに浮かぶ。
 素朴な天然娘ならではの発想に、ポップは頭を抱え込みつつ、反論した。

「いや……それは一応あるかもしれねーけど、悪い思い出とかも同じぐらいか、それ以上ありそうだぜ」

 そこは、ヒュンケルが子供時代に過ごしたというだけの場所ではない。成長し、不死騎士団長の地位を襲名してから与えられた居住地でもある。

 元家出少年のポップにとって、家や故郷がただ懐かしいだけでなくちょっと帰りにくい場所だったように、ヒュンケルにとっての地底魔城も、複雑な思いをはらんだ場所の可能性は高い。

「それに第一、あの城はマグマに飲み込まれてしまっただろう。まあ、地下部分は残っているかもしれんが、それを掘り起こしてまで見学させるのもなあ」

 との、クロコダインの意見もあり、『ヒュンケルを故郷に帰してみよう』作戦は、この時点で廃棄された。

「あのよ、それなら旅の思い出とかはどうだ? おめえら、魔王軍と戦うために結構な旅をしていたって聞いたぜ。
 それなら、そこに一緒に行った連中と行けばいいんじゃねえの?」

 ヒムの提案に、ポップとマァムは困ったような顔で目を見合わせる。

「あ〜、そりゃ、旅はしてたけどさ。でも、そんなに一緒にってわけじゃなかったんだよな」

 勇者一行のメンバーは、結構流動的だった。
 時と場合によって、助っ人がいたり修行のためにいなくなったりと、割にメンバーが入れ替わっていた。

 最初から最後まで、ずっと一緒にいたのはダイとポップぐらいのもので、その他のメンバーは意外と出入りがあった。
 中でも、ヒュンケルは群れるタイプではなかった。

「考えてみりゃ、あいつは偵察だの修行だの言って、単独行動ばっかとっていたんだよな」
「…………そう言われれば、そうだったわよね。こんなことになるなら、団体行動の大切さを先生から習っておいてほしかったわねー」

 溜め息混じりのレオナのぼやきに、ヒムの呆れもひどくなるばかりだ。

「おめーらって、本当にチームワークがいいんだか悪いんだか、分からねえよなー」

「そこはほっとけっつーの! で、他にあいつの思い出が深そうな場所っていったら、後はアバン先生に聞くぐらいしか思いつかないんだけどさ〜。……先生、しばらくは忙しいんだよな」

 時々、外交使節として各国の王宮を尋ねる機会の多いポップは、各国の王族のだいたいのスケジュールも把握している。
 が、運悪くというべきか、カール王国は今は建国記念日間近だ。城をあげてのお祝いの準備のため、大忙しだと分かりきっている。

 尤もどんなに忙しくても、アバンは弟子のためともなれば無理をしてでも時間を空けてくれるだろう。
 それが分かるだけに、頼むのにはためらいがあった。

「そうね……今のところ、そう差し迫った病状とは言いがたいですものね」

 と、中庭を見下ろし、レオナは溜め息をついた。
 そこでは、ダイとヒュンケルが模擬刀での稽古を繰り広げている真っ最中だ。

 その動きは一般人では目で追うのも困難なほど素早いものであり、どうみたって病人には見えやしない。
 話を聞いていなかったら、ヒュンケルは全くの健康体としか見えないだろう。

「記憶を失っても、身体で覚えた技は忘れてはいないようだな」

 ラーハルトの言葉に、全員が納得して深く頷く。

「じゃあ、思い出深い場所は当分諦めて、とりあえずは知り合いとできるだけ話をさせてみる、という方向でいきましょうか」

 いささか面倒になってきたのか、場当たり的にまとめたレオナの結論に誰も反対をしなかったので、会議はそれにて締めくくられた。

  






 それから二日後――。
 ヒュンケルの記憶喪失に真っ先に痺れを切らしたのは、ポップだった。
 なにしろ、記憶を取り戻させるためにという名目でヒュンケルの側には常に誰かがいて、話しかけるようにと配慮されていた。


 それだけなら、問題がない。
 が、その側にいる誰かが、マァムであることが多かったのが、ポップ的には大問題だった。

 何しろ、マァムは面倒見がよくて親切だ。
 ヒュンケルを心配して、なにくれとなく世話を焼く……その行為が恋心というよりは同情に近い博愛精神だろうとは、誰の目にも明らかだった。

 ――たった一人、ポップを除いては。
 普段は観察力も洞察力も人一倍の癖に、ことマァムに関しては冷静さも判断力も失ってしまうようだ。

 ヒュンケルとマァムが、まるで恋人のようにいつも一緒にいる図――その光景を平然と見流せるほど、ポップは心が広くはない。
 我慢できずに、ヒュンケルの手を引っ張って強引に城の外へと連れ出したわけだ。

「それでポップ、なんで川なわけ?」

 と、聞いたのはヒュンケルではなくダイだった。

「いや、なんでってのはおれのセリフだろ、ダイ。なんでおまえまでついてきてんだよ?」

 ポップにしてみればそれは素朴な疑問だったのだが、そう聞かれたダイは珍しく、むくれたような表情を見せた。

「なんだよ、おれが来ちゃダメなの?」

 ポップは、ただ今のところ休暇中だ。
 元々、休暇の間はマトリフの所に数日滞在する予定だったのが、ヒュンケルの記憶喪失で変更になったのだ。

 だが、せっかくの休暇中なのに、マァムやヒュンケルを気にしてばかりいるポップは、ダイにほとんど構ってくれない。

 下手をすると普段よりもないがしろにされているような扱いはひどく寂しいものだし、ダイにとっては正直面白くない。
 だが、ダイのその細やかな心理は、ポップにはまるで通じてはいなかった。

「別にダメってこたぁねえけどよ」

 ポップにしてみれば、ダイを拒むつもりも理由もない。だが、ダイが自分の後をついてきたがる理由までは全然分かっちゃいなかった。

「でも、つまんねんだろ。こんなとこ来たって」

 ポップがヒュンケルを引っ張ってきたのは、ただの川だ。
 城から一番近くにある川だが、いささか流れは速いせいで泳ぐのには不向きだし、今一つ景観だって良くない。

 単に散歩に来るには少し遠い場所だし、第一、ポップは今まで一度もこんな場所に来たことすらなかったはずだ。
 トベルーラで上空に飛び上がり、一番近い川に向かって強引にヒュンケルを連れてきたのだ。

 ヒュンケル本人が来たいと行ったわけでもなし、なんでポップがここに彼を連れてきたのか大いに疑問である。
 ポップ本人すら、ここが『つまらない場所』と言っているのだから、なおさらだ。
 ダイとしては、ますます首を傾げてしまう。

「だから、なんで川なわけ?」

「ん? なんか、こいつが思い出すかと思ってさ。どうよ、思い当たることとかないか?」
 と、声をかけてもヒュンケルからは返事は戻らなかった。

「ヒュンケル?」

 不穏な気配を感じて、ダイは思わず兄弟子の名を呼んだ。
 記憶を失っても、ヒュンケルはある意味でずっとヒュンケルだった。
 自分に接する相手に対して遠慮しているかのように、必要最小限の言葉しか言わず、黙々と過ごしているのが常だった。

 だが、今、ヒュンケルは明らかに様子が違っていた。
 川を凝視しているヒュンケルは、目付きからして違う。
 まるで親の敵を目前にしたかのように、やたら険しい顔をして川を見つめているヒュンケルから、今までの淡々とした雰囲気が消えていた。

 かつて、魔王軍にいた頃……ダイ達と敵対していた頃に放っていた殺気じみた空気を感じる。

(よく分かんないけど、これってまずいんじゃ……)

 ダイの戦士としての勘が、ひしひしと危険を告げる。
 今のヒュンケルの間合いに入るのは、竜の騎士であるダイとてためらいを感じずにはいられない。

 だが、基本が魔法使いであるポップは、ヒュンケルのそんな様子に気がついた様子もない。
 いつも通りの態度で、呑気に彼に話しかけている。

「どーよ? なんか、思い出すことはないか?」

 剣呑な空気を全く読めていないポップを、今のヒュンケルの側に置いておくのは危ないんじゃないかとの危惧が、ダイの中に生まれる。
 だが、ダイがそう考えた時は、もう遅かった。

「…………ぅ……ぉおおお――っ!! アバンッ、死ねっ!」

 突如、獣のような唸り声をあげたヒュンケルは、いきなりポップに向かって襲いかかった。
 全くの不意打ちとだったこともあり、ポップはそれを躱せなかった。

 ……まあ、ポップの反射神経では、正直、警戒していたからといってその攻撃を躱せたかどうか、微妙なところだが。
 幸いにもと言うべきか、ヒュンケルは丸腰だった。

 殴りかかると言うよりも、全身をフルに使ってタックルをするような勢いで突っ込んでいく捨て身の突進攻撃は、もし相手が彼よりも大きい相手――クロコダインが誰かだったなら有効だったろう。

 が、ヒュンケルよりもずっと小柄で細身のポップに対しては、無駄なまでに勢いが強すぎた。
 相手を突き飛ばすどころか、突進の勢いでポップとヒュンケルはもつれ合うように川に落ちる。

「うわぁあっ!?」

「わーっ、ポップッ!? ヒュンケルーッ!?」

 悲鳴と共に上がった水飛沫を見て、慌ててダイも川に飛び込んだ――。


                                                  《続く》
  

 

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