『忘却の川の渡河 ー後編ー』

  

「うぉおお――っ!」

 吠えるような声と共に、ヒュンケルはアバンに切りかかる。
 その剣は、本物だった。
 師弟の決闘に対して、アバンたっての希望で実戦で使われる真剣が使用されていた。

 ヒュンケルが普段愛用しているような近衛騎士としての剣や、ましてやここぞという時しか使用しないロン・ベルク特製の剣と違って、それは量産品の鋼の剣にすぎない。
 だが、いくら普段よりもレベルの低い武器とはいえ、刃を落としていない真剣ならば、万一の時は大怪我は免れないだろう。

 にも拘わらず、ヒュンケルは師匠に向かって振るう剣になんの遠慮もなかったし、アバンもまた、恐れる様子も見せない。
 足をわずかに後ろにずらし、身体を寸前で捻ることでアバンは空を切り裂く剣を躱す。

 それは、見ている方が息が詰まるような攻防だった。
 いきり立ち、大振りに剣を振り回すヒュンケルに対して、アバンは剣を持つ手をだらりと垂らしているだけだ。

 だが、アバンは剣を使わずに体術だけで、ヒュンケルの攻撃を身軽に躱す。
 その動きは、まるで羽毛のようだった。
 激しい風に舞う一枚の羽のように、掴みどころなく敵の猛攻を躱していく。

 ヒュンケルの攻撃を完全に見切っているからこそ出来る防御方法に対する反応は、きっぱり二つ分かれた。
 ラーハルトを初めとする剣や武術の達人達などにとっては、自分達も同様の防御が出来るだけに、さしたる驚きや恐怖はない。

 ゆえに玄人好みの楽しいショーとして、余裕たっぷりに見物に徹している。
 だが、武術の心得がない一般の見物人としては、これほどハラハラする防御方法もないだろう。

 なにしろ、一方的にヒュンケルがアバンを攻めているようにしか見えないのだから。
 特にポップなどはアバンやヒュンケルの一挙一動を見て、いちいち顔色を変えずにはいられない。

 なまじ多少の護身術の心得程度はあるだけに、アバンがいかにギリギリに身を躱しているか見えてしまうのが彼の不幸だった。
 いっそ、まるっきりのど素人であるレオナやエイミの方が、まだ気楽に見物できていると言っていい。

 いちいち顔色を変えるポップと比べると、ダイは落ち着き払ったものだ。しかし、どうにも不思議そうな顔をして首を傾げる。

「ん〜? なんかさー、変な戦い方だね」

「そりゃあ、丸ごと変だよっ! ったく、先生ってばいつものことだけよ、いったい何を考えて生きてるんだか……っ」

 と、師を掴まえて遠慮無しにボヤくポップに対して、ダイは生真面目に首を振る。

「違うよ、変なのはヒュンケルの方だよ。だって、ヒュンケル、全然実力をだしてないんだもん」

 記憶を失ったとしても、ヒュンケルの実力に何の遜色のないことは、実際に手合わせしたダイが一番よく知っている。
 どうやら彼の場合、身体で覚えた技は記憶喪失ぐらいでは消えなかったらしい。

 だが、ダイと稽古した時に比べ、今のヒュンケルの動きは明らかに無茶だった。いちいち動作に無駄が多く、ほとんど捨て身のような勢いで相手の懐に飛び込もうとしている。

「で、アバン先生はなんか、初心者向けの稽古しているみたいな動きだよね。ほら、デルムリン島で一日目にやった時みたいに」

 言われてから、ポップもようやく思い出す。
 確かに、まるっきりの初心者を相手に稽古をつける時、アバンは避けをメインにしながら稽古をつけることが多い。

 逃げ回る相手をなんとか掴まえようと奮起させ、動きの素早さや先読み能力を養うための稽古。
 ポップ自身も受けたことのある、アバンの稽古方法の一つだ。

「どうしました、ヒュンケル。そんなものが、あなたの全力ですか?」

 余裕たっぷりにそう言いながら笑顔を見せるアバンに、ヒュンケルは吠えるように叫ぶ。

「ふざけるなっ! なんでまともに打ち合わないんだっ!?」

「やれやれ、それはこちらのセリフなんですけどね、ヒュンケル。
 反撃されるのを目的に、無謀に相手に斬りかかるだけの捨て身な剣なんて、私は教えた覚えがありませんよ?」

 アバンのその言葉を聞いた途端、ヒュンケルは血相を変えて叫ぶ。

「だっ、だまれっ!! だまれっ、だまれぇっ!」

 無茶苦茶に剣を振り回し、ひたすら同じ言葉を叫ぶヒュンケルの激昂ぶりは、図星をつかれたからこそのものだった。
 怒りに駆られ、感情に振り回された剣を避けるのは、先ほどまで以上に簡単なことだろう。

 だが、アバンは自分に切りかかるヒュンケルに対して、待ち受けるようにその場に立っているだけだった。
 避けさえしないアバンに、周囲で見ている者の息を飲む音が重なる。

 が――悲劇は、起こらなかった。
 アバンの胴を撫で斬るかと思われたヒュンケルの剣は、ギリギリのところで止められている。
 それに誰よりも戸惑い、驚いているのは、他ならぬヒュンケル自身だった。

「……なぜ、よけないんだ!?」

 まるで責めるような口調で詰問するヒュンケルに対して、アバンの口調はどこまでも穏やかだった。

「なぜ、あなたは斬らなかったんですか?」

「そんなの……分かるもんか!」

 どこまでも反抗的にそう怒鳴る弟子に、アバンは優しく、だがはっきりとした口調で言ってのける。

「私にはその理由は分かっていますよ、ヒュンケル。そして、あなたも本当は分かっているはずです」


  







 あの日、ヒュンケルが真に望んだのは、アバンを殺すことでは無い。
 アバンを仇と信じ込んだまま彼の弟子となったものの、ヒュンケルの心がずっと変わらなかったわけではない。

 時間をかけたアバンとの旅が、細かな生活の積み重ねが、ただの憎しみ以上の感情をヒュンケルに与えた。
 父、バルトスに対して感じていた様に、ヒュンケルはいつしかアバンに親しみを感じていた。

 アバンの根気のよい愛情は、長い時間をかけて、頑ななヒュンケルの心にもゆっくりと染み込んでいた。
 雨水が長い年月の間に硬い岩にも染み込み、穴を穿つように、アバンの教えはヒュンケルにも確かに伝わったのだ。

 だが、それはヒュンケルにとっては喜びでは無く、戸惑いや罪悪感を誘うものだった。
 幼いヒュンケルは、あまりにも純粋だった。
 父を失った悲しみから癒やされることさえ、幼いヒュンケルは自分に許さなかった。

 父を慕うあまり、父を殺した男に気を許すのは罪だと、強く思い込んでしまった。
 この喪失感を埋めるためには、復讐をやりとげなければならない――その強迫観念にがんじがらめになった子供は、自己の矛盾に耐えきれず、破滅を望んだ。

 アバンを殺すことよりも、反り打ちにされるのを望んで、無謀にも斬りかかった。
 その攻撃に、子供離れした鋭さが宿っていたのがヒュンケルの不幸だった。さらに、アバンの余裕の無さを誘ったのが足場の悪さだった。

 そうでなければ、ヒュンケルの攻撃をああもまともに対応してしまうことはなかっただろう。
 アバンとて、ヒュンケルが心に傷を抱えていたのは承知していたのだから。

 胸に秘めた爆弾を、いつか炸裂させることは充分に予測していたのだ。
 その爆発が起こるのであれば、アバンは危険を承知で受け止めてやるつもりだった。
 だが、あの日に、ヒュンケルが剣を振るってきたのが不運だった。

 あの日の前日、雨さえ降っていなければ。
 川が増水していなければ、ヒュンケルがあんなに早く流されることはなかっただろう。

 ヒュンケルの目覚ましい成長ぶりが嬉しくて、卒業のしるしを与えたのがあの日でさえなければ。
 もし、ヒュンケルがアバンに決闘を挑んだのがあんな川の側でさえなければ――。

 細やかに重なってしまい、結果的に大きな悲劇を呼び込んだ、不運。
 それはアバンがもう少し、注意深くヒュンケルに接していれば避けられたかもしれない過ちだった。

 だからこそ、あの日のことはアバンの後悔でもあった。
 そして、あの日に言ってやりたいと望んでいた言葉を、アバンは十数年もの間、抱え込むことになった。

 だが、やっとそれを弟子に言うことができる日がきたようだ。
 ゆっくりと、諭すようにアバンはヒュンケルに向かって語りかける。

「復讐なんて、必要ないんですよ、ヒュンケル」

 バルトスが望み、ヒュンケルが望んだから、アバンは子供に剣を教えた。
 だが、アバンがヒュンケルに本当に教えたかったのは、そんなことでは無かった。

「あなたのお父さん――バルトスさんは、仇打ちなど望んでいませんでしたよ。
 望んでいたのは、あなたの幸福です」

 その言葉を聞いた衝撃は、さっきまで以上に大きかったようだ。ヒュンケルは何度となく瞬きを繰り返す。

「……父さん……が?」

「ええ。バルトスさんは、あなたの幸福を望んでいました。私は、それをあなたに伝えるために、あなたを弟子にしたんですよ」

「おれの……幸福を?」

「ええ。誰もが幸福を望む権利はありますし、それを追いかけるために生きるものですよ。心から欲する夢や人を追って、それを手に入れるために、ね。
 あなたも、そうしていいんです。
 もう、自分で自分を縛るのはやめて――自由になっていんですよ、ヒュンケル」


   






 ガランと、重い音を立てて剣が地に落ちる。
 それを信じられないものを見る目で見つめたのは、剣を落としたヒュンケル自身だった。迷う様に、ヒュンケルは何度も自分の手と、地に落ちた剣を見つめる。
 剣を拾おうとしてか、手が何度か伸びかけたものの、その手は結局は伸ばされなかった。
「……自由に、なって、いいのか?」

 途方に暮れた様に、ヒュンケルが呟く。
 姿形は、青年――だが、そこに浮かぶ表情は頼りないほどに幼く、素直なものだった。迷子になった稚い子供のような顔をして、ヒュンケルは答えを恐れるように、ためらいがちに聞く。

「…………おれは……幸せを、のぞんでいいのか?」

 弟子のためらいに、アバンは優しく背を押した。

「ええ。幸せに、おなりなさい」

「…………っ」

 引きつる様な声を喉の奥であげ、小さな子供の頃のままに、ヒュンケルがアバンに抱きついた。

 すぐ近くにいる者にしか聞き取れないぐらい小さな声で、ヒュンケルが謝ったのをアバンは聞き逃さなかった。
 そして、ヒュンケルはそのまま気絶する様に眠りに落ちた――。

   






 気がつくと、ヒュンケルは川の前に立っていた。
 それは、彼にとっては時折見る悪夢だった。
 ヒュンケルとアバンの運命を大きく狂わせた、流れの速い川。

 それは、運命を分かつ川。
 ずっと、アバンとヒュンケルの心を蝕んでいた、暗く、流れの速い川。
 師弟の心と立場を遠く引き裂いた、渡るに渡れない運命の川だった。

 だが――もはや、それはただの川だ。
 悪夢の源としてではなく、気楽に眺め、その細流に耳を傾けることが出来る。
 自分一人ではどうしても渡れなかった川を、ようやく渡ることができたのだと、ヒュンケルは漠然と感じ取っていた――。

   






「…………な〜んか、納得いかねえ」

 目一杯不機嫌そうな顔をして、そう言ってのける魔法使いの少年に対して、武闘家の少女はたしなめる様に言う。

「もう、ポップったら。何を言っているのよ、大団円じゃないの」

 まあ、公平に見れば、マァムの言い分の方が正しいだろう。
 決闘後、昏々と眠ったヒュンケルは、数時間後にはあっさりと目覚めた。
 それこそいつもの朝と同じように、しごくあっさりと。しかも、起きると同時に記憶も復活していた。

「……なんで、こんな所にいるんだ、ポップ。夜更かしとは感心しないぞ」

 それが、目覚めた彼の第一声だった。
 念のため、仲間達は交替で看病にあたっていたのだが、たまたまヒュンケルが目覚めた時に当番に当たっていたポップにしてみれば、腹立たしいことこの上ない。

 ついさっきまで幼児化していたくせに、散々気を揉ませた挙げ句あっさりと元に戻っただけでも許しがたいのに、戻るなり兄ぶったこの言い草。
 その場で、最大火力のメラゾーマを打ち込んでやろうかと思ったものだ。

 だが、そんなポップの気も知らず、ヒュンケルは憎らしいぐらい簡単に、いつもの彼に戻っていた。

「いや、あいにくここ数日の記憶はさっぱりと覚えていない」

 ヒュンケルの記憶は、崖崩れに巻き込まれ時点で止まったままだった。
 それから数日が過ぎていると聞いて多少は驚いてはいるようだが、特に不審にも思わずあっさりと受け入れてしまっている。

「それは、記憶喪失の場合には珍しくない症例ですな。記憶の復活と同時に、逆に記憶を失っていた間のできごとを忘れるのは、よくあることですよ。
 まあ、数日の記憶欠如ならなんの問題も無いでしょう」

 治療には一切役に立たなかったものの、ことあるごとに呼び出されては医療用語の解説を務めていた侍医は、さらさらとカルテに何かを書き留めていく。

「……おいおい。結局、そのカルテって意味あったのかよ?」

 と、部屋の隅っこでヒムが突っ込むのも素知らぬ顔をして、侍医は気が済むようにカルテを書き上げてから、部屋を辞去する。
 幸か不幸か、ヒュンケルは何も覚えてはいない。

 が、無意識に抱え込んでいたはずの心の重荷が消えたのは確からしい。
 過去十数年以上に亘って抱き続けていた後悔を解消できたせいか、ヒュンケルは非常にさっぱりとした顔をしていた。

 彼やアバンのことを思えば、きっと最良の結末なのだろう。
 ――が、ポップとしては、何やら不満やら文句やら納得しきれないしこりが残りはするが。

「ちえっ、せめて記憶喪失中の記憶でも残っているのなら、からかい倒してやれるのによ〜っ」

 ぶつくさとそうボヤくポップに比べると、ダイはいたって無邪気なものだった。

「ヒュンケル、何にも覚えてないの? おれも記憶を失っていた時は、その前のことは思い出せなかったけどさ、ほんのちょっぴりだけ『なんとなくあった』ことだけは思い出せたことあるよ」

 記憶喪失の先輩であるダイの言葉を聞いて、ヒュンケルは素直に目を閉じ、何かを思い出そうとする素振りをみせる。
 そして、目を開けて呟いた。

「そう言えば……一つだけ、思い出せたことがある」

「え、なに、なに?」

 と、身を乗り出すダイや仲間達に向かって、ヒュンケルはごく真面目に言った。

「川だ」

 その言葉に、ポップの表情がわずかに曇る。
 師弟を引き裂いた、川の存在――間接的だがそれを知っているポップには、それが特別な意味の言葉として聞こえた。

 なまじ、ヒュンケルの記憶を刺激しようと川に連れて行ったのが自分なだけに、ちょっとばかり申し訳なさや後ろめたさを感じずにはいられない。

(まだ、アバン先生とかへのこだわりがあるのかな……?)

 だがポップの危惧とは裏腹に、ヒュンケルが目を向けた相手は、アバンではなくポップだった。

「ぼんやりとだが、覚えている。ポップが川で溺れて、もがいているのを見た記憶があるんだが……」

 答えを求める様に自分を見つめる兄弟子を、しばし呆然と見返した後――ポップは思いっきり怒鳴りつけた。

「おめえって奴は、なんでそこだけ覚えているんだよっ!? ンな、どーでもいいことだけ、覚えてんじゃねえっ! つーか、忘れてろっ、むしろっ」

「あーっ、そう言えばおれも忘れてたっ! ポップ、溺れた後、ぜんぜん休んでないじゃないか!? ね、大丈夫? 気分とか悪くない?」

 と、ダイが心配そうにポップにまとわりつきだしたのをきっかけに、周囲の注目がヒュンケルからポップへと集まる。

「おやおや、そんな話は聞いてませんでしたよ。ポップ、具合はどうなんですか? なんなら診察してあげましょうか、どうも顔色があまり優れないみたいですしね」

「あっ、アバン先生、それはいいですわね、是非お願いしますわ! どうせ、溺れた件を差し引いたって、ポップ君ってば不摂生とか無茶ばっかりするんですもの」

「姫さんまで、なに余計なこと言い出すんだよーっ!?」

 などと、ポップを中心に大騒動が勃発したせいで、ヒュンケルはもう一つ思い出しかけたことを、口にする機会を失ってしまう。
 それはひどくぼんやりとしていて、夢のようにあやふやな記憶だった。

(ポップのおかげで、大切なことを思い出せたような気がするんだが……)

 何を思い出せたかも、ポップがその思い出にどう関与したのかも、分からない。イメージだけを残して、起きると同時に忘れてしまう夢のように、その辺はあやふやだ。
 だが、ポップがきっかけで、助けられたような気がする。

 できるならその礼を言いたかったのだが……この有様では言うのも難しいだろう。そもそも、今、下手に声を掛けたのなら、なおさらポップを怒らせるだけだろうと思うだけの分別は、ヒュンケルにもあった。

(……まあ、別に言う必要もないか)

 あやふやな記憶のまま礼を言う代わりに、いつか別の形で、その恩に相当するものをポップに返せばいいだろう。
 ヒュンケルはそう考え、もう一つの思い出を自分の中だけに沈め込んだ――。

 


                                      END


《後書き》
 やっと書けました、ベタな記憶喪失ネタと思わせておいて、実際には師弟の川に関するお話ですっ。
 ヒュンケルとアバンの川に対するわだかまりってのは、前から好きなテーマであちこちでちらほらと何回も書いているんですが、一度、決着をつけてみたかったんです。


 ヒュンケルは復讐を諦め、アバンはヒュンケルを許して受け入れる……本来なら、ヒュンケルが魔王軍に入らずにそうなるのが理想の形だったと思うんですよね。
 今となっては意味がないとはいえ、一度はそういうシーンを書いてみたかったので、記憶喪失の中でですがやってみましたv
 
 

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