『忘却の川の渡河 ー後編ー』 |
「うぉおお――っ!」 吠えるような声と共に、ヒュンケルはアバンに切りかかる。 ヒュンケルが普段愛用しているような近衛騎士としての剣や、ましてやここぞという時しか使用しないロン・ベルク特製の剣と違って、それは量産品の鋼の剣にすぎない。 にも拘わらず、ヒュンケルは師匠に向かって振るう剣になんの遠慮もなかったし、アバンもまた、恐れる様子も見せない。 それは、見ている方が息が詰まるような攻防だった。 だが、アバンは剣を使わずに体術だけで、ヒュンケルの攻撃を身軽に躱す。 ヒュンケルの攻撃を完全に見切っているからこそ出来る防御方法に対する反応は、きっぱり二つ分かれた。 ゆえに玄人好みの楽しいショーとして、余裕たっぷりに見物に徹している。 なにしろ、一方的にヒュンケルがアバンを攻めているようにしか見えないのだから。 なまじ多少の護身術の心得程度はあるだけに、アバンがいかにギリギリに身を躱しているか見えてしまうのが彼の不幸だった。 いちいち顔色を変えるポップと比べると、ダイは落ち着き払ったものだ。しかし、どうにも不思議そうな顔をして首を傾げる。 「ん〜? なんかさー、変な戦い方だね」 「そりゃあ、丸ごと変だよっ! ったく、先生ってばいつものことだけよ、いったい何を考えて生きてるんだか……っ」 と、師を掴まえて遠慮無しにボヤくポップに対して、ダイは生真面目に首を振る。 「違うよ、変なのはヒュンケルの方だよ。だって、ヒュンケル、全然実力をだしてないんだもん」 記憶を失ったとしても、ヒュンケルの実力に何の遜色のないことは、実際に手合わせしたダイが一番よく知っている。 だが、ダイと稽古した時に比べ、今のヒュンケルの動きは明らかに無茶だった。いちいち動作に無駄が多く、ほとんど捨て身のような勢いで相手の懐に飛び込もうとしている。 「で、アバン先生はなんか、初心者向けの稽古しているみたいな動きだよね。ほら、デルムリン島で一日目にやった時みたいに」 言われてから、ポップもようやく思い出す。 逃げ回る相手をなんとか掴まえようと奮起させ、動きの素早さや先読み能力を養うための稽古。 「どうしました、ヒュンケル。そんなものが、あなたの全力ですか?」 余裕たっぷりにそう言いながら笑顔を見せるアバンに、ヒュンケルは吠えるように叫ぶ。 「ふざけるなっ! なんでまともに打ち合わないんだっ!?」 「やれやれ、それはこちらのセリフなんですけどね、ヒュンケル。 アバンのその言葉を聞いた途端、ヒュンケルは血相を変えて叫ぶ。 「だっ、だまれっ!! だまれっ、だまれぇっ!」 無茶苦茶に剣を振り回し、ひたすら同じ言葉を叫ぶヒュンケルの激昂ぶりは、図星をつかれたからこそのものだった。 だが、アバンは自分に切りかかるヒュンケルに対して、待ち受けるようにその場に立っているだけだった。 が――悲劇は、起こらなかった。 「……なぜ、よけないんだ!?」 まるで責めるような口調で詰問するヒュンケルに対して、アバンの口調はどこまでも穏やかだった。 「なぜ、あなたは斬らなかったんですか?」 「そんなの……分かるもんか!」 どこまでも反抗的にそう怒鳴る弟子に、アバンは優しく、だがはっきりとした口調で言ってのける。 「私にはその理由は分かっていますよ、ヒュンケル。そして、あなたも本当は分かっているはずです」
時間をかけたアバンとの旅が、細かな生活の積み重ねが、ただの憎しみ以上の感情をヒュンケルに与えた。 アバンの根気のよい愛情は、長い時間をかけて、頑ななヒュンケルの心にもゆっくりと染み込んでいた。 だが、それはヒュンケルにとっては喜びでは無く、戸惑いや罪悪感を誘うものだった。 父を慕うあまり、父を殺した男に気を許すのは罪だと、強く思い込んでしまった。 アバンを殺すことよりも、反り打ちにされるのを望んで、無謀にも斬りかかった。 そうでなければ、ヒュンケルの攻撃をああもまともに対応してしまうことはなかっただろう。 胸に秘めた爆弾を、いつか炸裂させることは充分に予測していたのだ。 あの日の前日、雨さえ降っていなければ。 ヒュンケルの目覚ましい成長ぶりが嬉しくて、卒業のしるしを与えたのがあの日でさえなければ。 細やかに重なってしまい、結果的に大きな悲劇を呼び込んだ、不運。 だからこそ、あの日のことはアバンの後悔でもあった。 だが、やっとそれを弟子に言うことができる日がきたようだ。 「復讐なんて、必要ないんですよ、ヒュンケル」 バルトスが望み、ヒュンケルが望んだから、アバンは子供に剣を教えた。 「あなたのお父さん――バルトスさんは、仇打ちなど望んでいませんでしたよ。 その言葉を聞いた衝撃は、さっきまで以上に大きかったようだ。ヒュンケルは何度となく瞬きを繰り返す。 「……父さん……が?」 「ええ。バルトスさんは、あなたの幸福を望んでいました。私は、それをあなたに伝えるために、あなたを弟子にしたんですよ」 「おれの……幸福を?」 「ええ。誰もが幸福を望む権利はありますし、それを追いかけるために生きるものですよ。心から欲する夢や人を追って、それを手に入れるために、ね。
途方に暮れた様に、ヒュンケルが呟く。 「…………おれは……幸せを、のぞんでいいのか?」 弟子のためらいに、アバンは優しく背を押した。 「ええ。幸せに、おなりなさい」 「…………っ」 引きつる様な声を喉の奥であげ、小さな子供の頃のままに、ヒュンケルがアバンに抱きついた。 すぐ近くにいる者にしか聞き取れないぐらい小さな声で、ヒュンケルが謝ったのをアバンは聞き逃さなかった。
気がつくと、ヒュンケルは川の前に立っていた。 それは、運命を分かつ川。 だが――もはや、それはただの川だ。
「…………な〜んか、納得いかねえ」 目一杯不機嫌そうな顔をして、そう言ってのける魔法使いの少年に対して、武闘家の少女はたしなめる様に言う。 「もう、ポップったら。何を言っているのよ、大団円じゃないの」 まあ、公平に見れば、マァムの言い分の方が正しいだろう。 「……なんで、こんな所にいるんだ、ポップ。夜更かしとは感心しないぞ」 それが、目覚めた彼の第一声だった。 ついさっきまで幼児化していたくせに、散々気を揉ませた挙げ句あっさりと元に戻っただけでも許しがたいのに、戻るなり兄ぶったこの言い草。 だが、そんなポップの気も知らず、ヒュンケルは憎らしいぐらい簡単に、いつもの彼に戻っていた。 「いや、あいにくここ数日の記憶はさっぱりと覚えていない」 ヒュンケルの記憶は、崖崩れに巻き込まれ時点で止まったままだった。 「それは、記憶喪失の場合には珍しくない症例ですな。記憶の復活と同時に、逆に記憶を失っていた間のできごとを忘れるのは、よくあることですよ。 治療には一切役に立たなかったものの、ことあるごとに呼び出されては医療用語の解説を務めていた侍医は、さらさらとカルテに何かを書き留めていく。 「……おいおい。結局、そのカルテって意味あったのかよ?」 と、部屋の隅っこでヒムが突っ込むのも素知らぬ顔をして、侍医は気が済むようにカルテを書き上げてから、部屋を辞去する。 が、無意識に抱え込んでいたはずの心の重荷が消えたのは確からしい。 彼やアバンのことを思えば、きっと最良の結末なのだろう。 「ちえっ、せめて記憶喪失中の記憶でも残っているのなら、からかい倒してやれるのによ〜っ」 ぶつくさとそうボヤくポップに比べると、ダイはいたって無邪気なものだった。 「ヒュンケル、何にも覚えてないの? おれも記憶を失っていた時は、その前のことは思い出せなかったけどさ、ほんのちょっぴりだけ『なんとなくあった』ことだけは思い出せたことあるよ」 記憶喪失の先輩であるダイの言葉を聞いて、ヒュンケルは素直に目を閉じ、何かを思い出そうとする素振りをみせる。 「そう言えば……一つだけ、思い出せたことがある」 「え、なに、なに?」 と、身を乗り出すダイや仲間達に向かって、ヒュンケルはごく真面目に言った。 「川だ」 その言葉に、ポップの表情がわずかに曇る。 なまじ、ヒュンケルの記憶を刺激しようと川に連れて行ったのが自分なだけに、ちょっとばかり申し訳なさや後ろめたさを感じずにはいられない。 (まだ、アバン先生とかへのこだわりがあるのかな……?) だがポップの危惧とは裏腹に、ヒュンケルが目を向けた相手は、アバンではなくポップだった。 「ぼんやりとだが、覚えている。ポップが川で溺れて、もがいているのを見た記憶があるんだが……」 答えを求める様に自分を見つめる兄弟子を、しばし呆然と見返した後――ポップは思いっきり怒鳴りつけた。 「おめえって奴は、なんでそこだけ覚えているんだよっ!? ンな、どーでもいいことだけ、覚えてんじゃねえっ! つーか、忘れてろっ、むしろっ」 「あーっ、そう言えばおれも忘れてたっ! ポップ、溺れた後、ぜんぜん休んでないじゃないか!? ね、大丈夫? 気分とか悪くない?」 と、ダイが心配そうにポップにまとわりつきだしたのをきっかけに、周囲の注目がヒュンケルからポップへと集まる。 「おやおや、そんな話は聞いてませんでしたよ。ポップ、具合はどうなんですか? なんなら診察してあげましょうか、どうも顔色があまり優れないみたいですしね」 「あっ、アバン先生、それはいいですわね、是非お願いしますわ! どうせ、溺れた件を差し引いたって、ポップ君ってば不摂生とか無茶ばっかりするんですもの」 「姫さんまで、なに余計なこと言い出すんだよーっ!?」 などと、ポップを中心に大騒動が勃発したせいで、ヒュンケルはもう一つ思い出しかけたことを、口にする機会を失ってしまう。 (ポップのおかげで、大切なことを思い出せたような気がするんだが……) 何を思い出せたかも、ポップがその思い出にどう関与したのかも、分からない。イメージだけを残して、起きると同時に忘れてしまう夢のように、その辺はあやふやだ。 できるならその礼を言いたかったのだが……この有様では言うのも難しいだろう。そもそも、今、下手に声を掛けたのなら、なおさらポップを怒らせるだけだろうと思うだけの分別は、ヒュンケルにもあった。 (……まあ、別に言う必要もないか) あやふやな記憶のまま礼を言う代わりに、いつか別の形で、その恩に相当するものをポップに返せばいいだろう。
《後書き》
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