『魔界での再会 ー前編ー』

  
 

 ――もう一度、会いたい。

 強く、そう思いながらも、幼い竜は心を締めつける自分自身の願いを否定する。

 ――もう、二度と会えない。

 会ってはいけないのだと、幼い竜は自分に言い聞かせる。
 そもそも、会うには距離があり過ぎる相手だ。
 魔界と地上は、遥かに離れた場所にある。そして、その二つの場所を行き来するのには、距離以上の困難が存在する。

 ましてや、幼い竜が再会を望む相手は人間だった。
 まだ、自分が地上にいた頃に出会った友達。
 友達が自分の名前を呼ぶ声を思い出しかけて、幼い竜は慌てて首を横に振る。

 ――願ったりしては、いけない。

 もう、友達に会いたいなどと考えるのは、間違っている。
 友達は、自分とは違って人間だ。
 人間が地上から魔界に来るには、困難以上の問題だ。命を懸けて、奇跡を起こして、それでやっと来れるかどうか  そのぐらいの危険の高さがある。

 しかも、危険はそれだけではない。
 魔界にいる生物は、人間には決して優しくはない。
 弱肉強食の魔界では、人間など最下層の存在だ。たちまち、周囲の魔族や怪物に襲われるのは目に見えている。

 そして、魔界の瘴気は人間にとっては毒だ。即死させるほどの毒素はないかもしれない。だが、少しずつ身体を弱らせ、最終的には死にいたらしめるだろう。
 どう考えたとしても、人間が魔界に来るのは無茶だ。

 それに……その問題を棚上げしたとしても、友達に二度と会うことはできないだろう。 別れ際の、あの顔を幼い竜は忘れたことはない。
 強い怒りと悲しみの混じり合った、あの悲痛な声がまだ耳に残っている。
 だからだろうか――幼い竜は魔界の底で思わずにはいられない。
 
 ――もう一度でいいから、会いたい、と――。

 

 

 

「……?」

 岩に寄りかかって座り、目を閉じる。
 起きているとも、眠っているともつかない休息の時間からダイはすぐさま覚醒した。

(なんだろ?)

 閉ざされた結界が、一瞬、揺らいだ気がした。
 それはほんのわずかな違和感に過ぎなかったが、今までにない気配の変化をダイは敏感に感じ取っていた。

 魔界に落ちて以来、いつの間にか身に染み付いた癖だった。
 魔界では、一瞬の油断が死に繋がる。
 些細な変化であろうと気を緩めず、敏感に感じ取って瞬時に適切な対応を取らねば、生き残れない世界だ。

(……雷、か?)

 厚く覆われた雲を一瞬光らせた輝きは、最初、雷光かと思った。だが、雲に光でくっきりと特定の紋様を描く動きは、雷では有り得ない。
 これがダイやヴェルザーのいる精霊の結界の真上に浮かんだというのなら、未知の敵によるなんらかの攻撃かと少しは身構えただろう。

 だが、魔法陣の位置は少しばかりズレていた。
 もし、その魔法陣の光が真下に降ってきても、結界に隣接はしても直撃はしない位置。その距離感を確認したからこそ、ダイは少し離れた位置に浮かび上がる魔法陣を、一種の余裕を持って眺めやる。

 魔界の澱んだ空に浮かぶ、六芒星を描く魔法陣――それは、ダイが今まで一度も見たことのないものだった。
 だが、それでいて同時に、どこかで見たことがある様な気もする。

 もしかすると竜の騎士の記憶に刻まれた記憶かもしれないと、ダイは思う。
 純粋な竜の騎士ではないダイは、自分の中に眠る竜の騎士の記憶を自在に操ることは出来ない。

 戦いに関する記憶なら、なんとかなる。実戦の最中で無意識に引き出せるものの、それ以外の記憶に関してはそううまくはいかない。

 だから、ダイは僅かにしか持っていない自分自身の魔法の知識を元に、その魔法陣を見上げた。
 ブラスやアバンから習ったことを大雑把にまとめて、善い魔法陣とは五芒星であり、悪い魔法陣は六芒星なのだとダイは認識していた。

 その区分に従うのなら、今、見えている魔法陣は邪悪なものに他ならない。
 だが――ダイ自身の直感は、その魔法陣の光を懐かしいと感じていた。

 魔界の空から地上までを一直線に繋ぐ光の柱は、神々しいといっても過言ではない眩さに満ちている。
 魔界に落ちて以来、こんなにも輝やかしく、こんなにも綺麗な光を見たのはダイは初めてだった。

 そして、光の柱の中に人影が現れる。
 ゆらりと揺らめく様に現れた人間の少年を見た時、ダイはそれをいつもの幻だと思った。 緑色の服を着て、黄色のバンダナをまいた黒髪の人間……そんな幻は、時々、出現する。
 ダイの経験は、それは敵が見せる単なる幻にすぎないと判断している。


 結界内にいる敵は、全てが死者達の魂だ。
 死せる魂達は、もうすでに本来の姿を失っている。死んでから彼らが過ごした長い月日が、肉の器はもちろん、自分自身の姿形の記憶すら薄れさせているのだから。

 数体の霊魂が固まり合って戦いに必要と思われる姿を形取り、襲ってくるにすぎない。 その際、人間の姿をとることは稀ではない。
 それだけでも精神的にきついものがあるが、中には特定の人間に似せる能力を持ったものがいる。

 ダイの記憶を探り、ダイが気を許すであろう知り合いの姿をとることで、少しでも攻撃を弱めさせようとするための罠だ。

 そして、その手段を使ってくるのは、なにも結界内の死者達の専売特許ではない。
 結界の外にいる怪物や魔物達も、よく使ってくる手だ。
 だが、そうと分かっていても、ダイはその幻が現れた時にはいつも目を引かれてしまう。
 

(ああ、今回の偽者はすごく出来がいいや)

 思わず、ダイはその人影が近付いてくるのを見いってしまっていた。
 魔族の化ける人間は、どこかしら不自然になる場合が多い。一番多いのは、肌の色が無意識のうちに青黒くなるミスだろうか。

 他にも耳が尖っているとか、角が生えているなど、魔族ならではのそんな特徴が残っている場合は多かった。
 人間をあまり見慣れていない魔族なら騙されるかもしれないが、地上育ちのダイにとっては些細な違いも大きな違和感として印象に残る。

 だが、今、目の前にいる人影はダイの目から見ても、人間そのものとしか思えなかった。 大人ではないと一目で分かる背丈や、まだ成長途中の細身の体付きは、ダイの記憶に残る『彼』よりはやや大きめな感じはする。

 だが、そのぐらいなら誤差の範囲内だ。
 髪や目の色のみならず、顔立ちや雰囲気は驚く程、『彼』にそっくりだった。頭に巻いた黄色のバンダナや、細部の仕立ては多少違っているものの緑色の魔法衣のイメージも、ダイの中の記憶通りだ。

 ただ、背中に剣を背負っているのが、ダイの目にはいかにも不自然に見えた。ダイの知っている限り、『彼』は剣を持ち歩いた試しなどないのだから。
 その違和感に注目しながら、ダイは結界のすぐ側まできた人影に向かって、声を張り上げた。

「それ以上、近よるな!」

 その声に、人影が一瞬だけ足を止める。もう、ダイと『彼』との間は、数メートルと離れてはいない。
 『彼』が足を止めたのは、まさにぎりぎりの距離だった。

 ヴェルザーを中心にした結界は、数十メートルの半円を描く形で張り巡らされている。 結界自体は目には見えないが、その存在を察知するのは難しくはない。
 魔法があまり得意ではないダイでさえ、感知できる代物だ。注意を払えば、誰にだって分かるだろう。

 特に魔界の生き物にとって、聖なる結界は自分とは正反対の資質を持ち合わせているだけに、近寄りがたいはずだ。
 だが、近付いてきた人影は、結界を嫌がる風でもなくその際に佇んでこちらを見ている。
 間近に見えるその顔や姿に、ダイは動揺を感じずにはいられなかった。普通、『彼』に化けた者は近付けば近付く程、粗が見えてくるものだ。

 だが、今回の『彼』は、近付く程に類似点が目について見える。
 ちょっと驚いたように、まじまじとこちらを見つめる表情を見ていると、胸が痛くなりそうなぐらいだ。

(しっかりしろ、このぐらい……今まで、いくらでもあったじゃないか!)

 折れそうになる心を、ダイは無理やり叱咤する。
 似ている点ではなく、違う点を探すようにダイは目を凝らした。
 その結果、自分と『彼』とがほぼ同じくらいの目線なのに、気がつく。それは、本来なら有り得ない。

 ダイよりも三つ年上の『彼』は、ダイよりも背が高かった。いつだって自分を見下ろし、ダイのチビっぷりをからかってばかりいた『彼』との相違点は、かえってダイをホッとさせた。
 その違いをしっかりと見定めながら、ダイはわざと冷たい声で警告を発した。

「警告する。それ以上、一歩でもこっちに来れば、おまえは結界に弾かれる。それ以上は、近寄らない方がいい」

 淡々とした、突き放した口調。
 その中に本心からの思いを込め、ダイは忠告を投げかける。

 精霊達が張った結界――固く閉ざされたこの狭い世界に、侵入することは不可能だ。ここに入れるのは、太古の力をそのまま残す竜の血族と死せる魂のみ。それ以外の者が、この中に入ることは叶わない。

 ヴェルザーの命を狙って、もしくは人間そのものに見えるダイの命を狙って、結界の中に入ろうとする敵は、今までいくらでもいた。
 だが――この中に入れる者は一人としていなかった。

 昔、アバンがデルムリン島に張ったマホカトールの魔法陣のように、生半可な者が入ろうとすると、弾かれてしまう。
 それでも、無理やりに力を振り絞って中に入ろうとする者や、ダイを騙してを外へ連れ出そうとおびき出そうとする者もたまにはいる。

 それを警戒して、ダイは結界の外に近付く者を追い払うようになった。
 それは、自分自身の身を守るためではない。
 むしろ、近付く者を守るための行為だ。
 この結界の中に魔族が無理に入ろうとすれば、命を落とす。

 実際に結界内に入ろうとして、瀕死に陥った魔族を目の当たりにして以来、ダイはこの結界に近付く者を拒むようになった。
 たとえ敵だろうとも、目の前で誰かが死ぬのを見たくはない。ましてや、『彼』にそっくりの姿形を持った者ならば、なおさらだ。

「命が惜しかったら、ここには来るな! それ以上、近寄るなら……敵と見なす!」

 魔法を放つ姿勢で気迫を高め、脅しつける。実際には、ダイの放つ魔法もまた結界に阻まれて無害になってしまうのだが、脅しのためならばこれで充分だ。
 普通の魔族や怪物なら、これで逃げ出す。
 だが、今、目の前にいる『彼』は怯える様子も見せなかった。

「近寄るな、だぁ? ――これまた、随分とご挨拶だな」

 その声に、耳を疑った。
 その声自体は、ダイの記憶よりもやや低い。だが――あっけらかんとしたその口調や、喋り方……それらは、忘れようにも忘れられないものだった。

「最後の最後で人のことを蹴飛ばしてくれた揚げ句、再会の第一声がそれかよ。やれやれ、そりゃあいくらなんでも薄情すぎるぜ、ダイ」

 ポンポンと元気良くしゃべる声に合わせて、その表情も生き生きと動く。ちょっと拗ねたように膨れながらも、本気で怒っているわけではないのだろう。
 浮かんでいる表情は笑顔といってもいいぐらい、明るく、人懐っこいものだ。

 親しげに自分の名を呼ぶ声に、あの時のことを知っている事実に、ダイは激しく心を揺さぶられる。
 もはや、見た目や口調だけではない。ダイの中の記憶との差異も、問題にはならない。 忘れようもない、この気配。

 目を見張るだけじゃたりなくて、目がこぼれ落ちてしまいそうな勢いで、ダイは目の前にいる『彼』を凝視する。

「なんだよ、おれが誰だか本気で忘れただなんて言うのかよ?」

 思わず、ダイはぶんぶんと首を横に振っていた。
 忘れない。
 忘れたりするはずが、ない。

 たとえ他の誰を忘れようとも、もう一度記憶喪失になろうとも、今、目の前にいる少年だけは忘れるはずがない。
 決して、忘れたりしない。

「……ぁ……」

 すぐ喉元まで込み上げてきた呼び名を、ダイはかろうじて堪える。
 今、その名を呼んでしまっては、きっと耐えられなくなってしまう。すがりついてでも、手放せなくなってしまう。

 それだけはしてはいけないと、ダイは思った。
 今すぐにでも結界の外へ走り出しそうになる自分を抑えるため、ダイはしっかりと自分の身体を抱きしめながら後ずさる。
 震えそうな声を必死に抑え、警告を放つ。

「……来るな……っ! 来ちゃ、だめだ……!」

 本当なら、もっと毅然と言い放ちたかった。
 この魔界の危険を、中でもこの結界の危険を、きちんと教えたいと思った。竜の騎士であるダイでさえ命の危機に晒されるこの結界は、人間には致命的な場所になりかねない。 それを理論立てて伝えれば、考え直してくれるかもしれないと思った。『彼』は、いつだってダイよりもずっと賢くて、状況を見極める力も優れていたのだから。

 だが、魔界という異世界に自ら進んでやってきた『彼』は、ダイの脅しや忠告に耳を貸す様子もなく、大袈裟に肩を竦めてみせる。

「……やれやれ、もしかしたらそんなことを言うんじゃねえかなーとは思っていたけどよ、おまえって相変わらず、頑固だな」

 呆れたような、人をちょっと小馬鹿にしたような、そんなからかう口調でさえ嬉しかった。
 嬉しくて、嬉しくて――それだけに胸が引きちぎれそうな程に、辛い。

「会えたら絶対に一発ぶん殴ってやるって決めてたけど、二、三発追加してやろうかな、まったく」

 懐かしい声音を聞きながら、ダイは振り絞るように拒絶を口にする。

「やめろっ、それ以上、近寄るなっ! ここは、本当に危険なんだっ!!」

 ダイが必死になればなるほど、『彼』は飄々として近寄ってくる。恐れる様子など微塵も見せない足取りは、散歩でもしているかのように軽やかだった。

「そんなの、言われるまでもなく知っているぜ。こいつは、精霊の結界なんだろ? それじゃあ、魔族や怪物には入れっこないだろうな。
 けど、おれには関係ないさ」

 結界のすぐ前で、『彼』がニヤリと笑う。

「おれは正真正銘の人間だ、対魔族用の結界なんざ人間にはなんの意味もない」

 その言葉通り、結界は『彼』を拒まなかった。今まで、無数の怪物や魔物、それに出ようとしたダイ自身を弾いていたのが嘘のように、見えざる拒絶の壁はピクリともしなかった。

 ただ、『彼』が結界を通り過ぎる瞬間、魔法同士が反発するように光となり、その身体を輝かせただけだ。
 奇跡のようなその光景を、見つめていたのはダイだけではなかった。結界内に、新たな侵入者が現れたのを知った瞬間、激しい風が渦巻いた。

 澱みきった空気が、嵐のように荒れ狂う。その合間に聞こえるのは、陰鬱な呻き声とも苦痛の声ともつかぬ音。
 その正体を、ダイは知っていた。

 結界内に存在する、無数の死霊達……復活を求める彼らは蛾が光に惹かれるように、一斉に『彼』を目掛けて群がろうとした。
 小柄な人影を一飲みにせんばかりの多量の邪気が、襲いかかる。
 それを見た瞬間、ダイは声の限りに『彼』の名を叫んでいた――。

「ポップ――――ッ?!」
                                    《続く》
 
 

後編に進む
小説道場に戻る
トップに戻る

inserted by FC2 system