『夢の鎮魂 ー前編ー』

 

「脈拍は正常、熱も微熱程度まで下がりました。キアリーをかけた際、微妙に反応が現れることから毒素が体内にまだ残留していると判断しますが、昨日までに比べると明らかに減少しています」

 真面目くさったアポロの診察報告を、ダイはちんぷんかんぶんな表情で、その他の者達は嬉しそうな表情で聞いていた。

 いつも無表情なヒュンケルでさえホッと息をついたのを、密かに彼に注目していたエイミは見逃さなかった。
 そして、そんな自分をちょっぴり恥じずにはいられない。

(私ったら、どうかしているわ。病人の快癒よりも、全然違うことに気を取られるなんて……)

 本来なら、他人の治療に当たるのも賢者の役割の一つだ。特に、三賢者に選ばれた以上、国家にとって重要な要人の治療は、欠かせない職務でもある。
 そんな堅苦しい役割を除外したとしても、主君であるレオナを助けてくれた勇者一行の一員であるポップは、エイミにとって親しみを感じられる相手だ。

 親しい知人の回復は、個人的にも嬉しい。
 だが――それを上回って、ヒュンケルばかりを気にしてしまう心が、エイミの中に生まれていた。

 気がつくと、いつも彼を目で追ってしまう――そんな自分に、エイミは戸惑う。まだ、恋を自覚するまえの乙女の心は複雑だった。
 だが、そんなエイミのわずかな変化に、今はまだ誰も気がつかない。ポップの回復の兆しの方に、誰もが気を取られていた。

「そう、よかった。さすがマトリフ師のお薬ね、威力があるわ。最初見た時は、これ、なんて毒薬かしらって思ったりしたけど」

 さらりと不穏当なことを言うレオナに、正面きって文句を言ったのはまだベッドに横たわっている魔法使いだった。

「そう思ってたんなら、そんなの人に飲ませるなよっ!! あれ、マジでまっずいんだからよ〜」

 その味を知っているダイは同情したように頷くが、実際にマトリフの薬を口にした経験のないレオナはまるっきり他人事だった。

「あら、弟子を心配する師匠からの暖かい心尽くしじゃないのー、そんな風に言ったら罰が当たるわよ。昨日も言った通り、体調が完全に治るまでちゃんと飲まないとね」

 そう言いながらも、レオナも嬉しいのだろう。いささかはしゃぎ気味に喜んでいる。だが、そんなレオナに比べ、ダイはアポロやポップの顔を見比べながら聞いた。

「えっと……それって、ポップがよくなってきた、ってこと?」

「ああ、そうだよ、ダイ君。昨日までは決まって夕方頃になると熱が上がっていたのに、今日はそうじゃないだろう。快方に向かってきた証拠だよ」

 自分よりもずっと年下の勇者を安心させるように、三賢者のリーダーは優しく説いてきかせる。
 だが、ダイの不安そうな表情はまだ晴れなかった。

「でも……ポップ、昨日よりも、ずっと寝てばっかりいるし……」

 不安そうに、ダイはポップのベッドの側にしがみついている。だが、そんな仕草が大袈裟だと言わんばかりに、ポップは笑う。

「バーカ、しょうがねえだろ。薬ってのは、眠くなる成分が混じっているんだよ。師匠の薬は特にそれが強いみたいで、いつもより眠くなるだけだって」

「でも、ポップ、さっきだってなかなか目が覚めなかったじゃないか」

 ポップの具合を診察するために、忙しい三賢者やレオナがそろって見舞いにきたのは、ちょうどお茶の時間頃だった。
 ちょうど、クロコダインやヒュンケルも一緒にきたせいで一行がほぼ勢揃いした形になりかなり賑やかになった。

 しかし、ベッドに横たわったままのポップは、眠ったままですぐには目覚めなかった。アポロが実際に診察を始めてから、ようやく目を覚ましたのだ。

 確かに蘇生以来、ポップが眠る時間はやけに長くなっていたものの、その眠りはごく浅いものだった。眠っているというよりも、うつらうつらしているような感じで、声をかけたり、近くで物音が聞こえるとすぐに起きてきた。

 だが、マトリフの薬を飲み始めて以来、ポップの眠りはずっと深くなった。今もそうだが、近くに人が来てもなかなか起きもしない。
 朝食や昼食の時間に起こせばなんとか目を覚ますものの、薬を飲んだ途端、また眠ってしまう。

 それがダイには心配でたまらないらしい。不安そうな顔をしている小さな勇者に、レオナは優しく、その不安を解きほぐす言葉をかける。

「大丈夫よ、具合が悪くて起きれないわけじゃないから。薬の影響もあって、一時的に眠気が強まっているだけなの。
 体調が戻れば、眠気も弱まるし……自然に、目が覚めている時間の方が長くなるわ」

 マトリフの書いた薬の取り扱い説明にも、その注意が記載されていただけにレオナは特に心配してはいなかった。
 魔法使いや僧侶などは、体調が悪化する程眠りが深くなるという事実も、知っている。
 なまじ多少の医療知識や回復魔法の知識があるだけに、レオナの目にはポップの容体しか見えなかった。
 その上、彼女は忙しすぎた。

「姫様、アポロ、ただ今、リンガイアからの使者が戻ってまいりました。すぐにお目通り願えますか? それにエイミ、あなたはすぐに気球船でオーザムへ飛んでちょうだいな。緊急の連絡を送りたいの」

 走るような足取りでやってきたマリンに促されては、レオナや三賢者はいつまでもここにはいられない。

「それじゃダイ君、それにヒュンケルやクロコダインもポップ君のことをお願いね。本人が嫌がっても、ちゃんと薬を飲ませてちょうだい」

 それだけを言い残してレオナ達が去ってしまうと、部屋に残っているのはポップとダイとヒュンケル、クロコダインだけになった。

「あ〜あ、姫さんっては一言多いんだよな。
 でも、まあ、これでおれがよくなってるって、分かっただろ? もう平気だから、看病もいらないって」

 そう言いながら、ポップはふわぁと大きくあくびをする。

「はは、まだ、寝たりないようだな。なら、もうしばらく休んでいるといい」

 クロコダインに促される形で、ダイもポップを気にしながらも一応部屋の外に出る。だが、廊下に出てもダイはいかにも気になるようにじっとポップのいる部屋の扉を見つめ、動こうとしなかった。

「どうしたんだ、ダイ?」

 ダイのその反応は、ヒュンケルにとっては疑問だった。
 ダイは、基本的に素直で単純な性格の持ち主だ。

 レオナやアポロがポップの無事を保証し、ポップ自身も昨日までより格段に元気そうになったのも見ている。
 それなのに、過剰にポップを心配するのはダイらしくないと言えば、らしくない。

「そうだな。何を、そんなに心配しているんだ?」

 クロコダインも、ダイのいつもとは違う反応が気になるのだろう。わざわざ目線を合わせて屈み込み、問い掛ける。
 ごつくて大きな、だが温かい手を肩に置かれて、ダイはやっと口を開いた。

「………………うん、ポップが……また……夢を、見るんじゃないかと思って」

「夢?」

 それの何が悪いのか、クロコダインもヒュンケルも分からなかった。眠っている時、夢を見るのはごく普通のことだ。
 人により個人差はあるだろうが、夢を見るということはリラックスして眠っているということだろう。

 戦場など危険と背中合わせの場所にいるのならともかく、安全な場所で休息を取るために眠っているのなら、夢を見たとしてもなんの問題もない。

 戦士としての習慣が身に付き過ぎて、夢すらろくに見ないごく短い眠りが当たり前となっているクロコダインやヒュンケルにとっては、夢を見るほど安らかな眠りは一種の憧れでさえある。

 体調を崩しているポップが、夢を見ながら眠る時間が増えて何が悪いのか。いや、それ以前に、なぜダイがポップが夢を見ていると断言できるかが疑問だ。

「どうしてそう思うんだ?」

 疑問をストレートにぶつける兄弟子に、ダイは泣き出しそうな顔になって訴えた。

「だって……ポップ、先生の名前を呼んで、うなされていたんだ……!」






 ダイを誘って城に中庭へと場所を移したヒュンケルとクロコダインは、急かしもせずに耳を傾けていた。まず、小さな勇者の話したいように話させるのがいいだろうと、考えたからだ。
 しょんぼりと座り込んだダイは、ぽつりぽつりと順を追って説明し始めた。

 ことの起こりは、今朝だった。
 朝ご飯が終わると同時に、ダイはポップのところへ押しかけた。
 普段は、一行は大勢で集まって食堂で一緒に食事を取る。だが、寝込んでいるポップだけは、例外だ。

 レオナかアポロが許可を出すまで、ポップは食事も部屋に運ばせるようにとの指示が出ている。
 その食事を運ぶ役目を引き受けているのは、大抵はダイだ。用事がない時は進んでその役目を買ってでているせいで、ポップの食事の回復具合もよく知っている。

 蘇生直後から比べると、ポップの具合は日に日によくなっているし、食欲も少しずつだが増えているのはダイにとっては嬉しいことだった。

「おはよーっ、ポップ! ご飯の時間だよ!」

「ピピピッ、ピピッ!」

 ノックを忘れたダイに代わって、ゴメちゃんが体当たりでポヨポヨとドアに二、三度ぶつかり、ノックをしてくれた。
 だが、部屋から返事はなかった。

 もっとも、ダイはその時はあまり気にしていなかった。
 朝、起こしにいく際、ポップが眠っているのは珍しくなんかない。朝寝坊なポップは、普段の時だってそうそう朝は素直に起きてはくれない。
 ましてや今は調子が悪いせいで、余計に眠いのだとダイは知っている。

 だが、食事と薬だけはきちんと取らなければいけないと言うのが、レオナやマトリフの言いつけだ。
 ポップを起こすため、ダイは返事を待たずに部屋に入った。

「ポップ、おはようってば。今日もいい天気だよ」

 そう言いながら近付きかけて――ダイは、やっと気がついた。
 ポップがうなされていることに。

「……ぃ……だ……めだ……先…生……ッ!!」

 途切れがちで弱々しい言葉だったが、アバンを呼んでいることだけははっきりと分かる。 それを聞いて、ダイは凍りついてしまった。
 頭では、ポップを助けたいと思う。

 だが、勇者とはいえ、他人の夢という見えない存在をどうすればいいのかなんて、分からない。
 単に揺すり起こすだけのことさえできず、呆然としているダイが何かする前に、ポップは自力で夢から目覚めた。

「……それで、ポップはなんて言っていたんだ?」

 クロコダインの問いに、ダイは緩やかに首を振る。

「ううん、なんにも。なんでもないって言ってたし、夢なんか見てなかったって言ったけど。でも、ポップ、いつもそうだから……」

「いつも、と言ったな。ポップは、よくアバンの夢を見ているのか?」

 兄弟子の問いに、ダイは少し迷う。
 それは、はいと答えていいのか、いいえと答えていいのか、迷っているように見えた。考えた揚げ句、ダイは大事なことを打ち明けるように、ぽつりぽつりと話しだした。

「あの……ね……、内緒だよ。先生が死んじゃった時、ポップ、すごく泣いたんだ。おっきな声で、うんと泣いて……。すごく……すごく辛そうで、悲しそうだった……」

 自分の方がよほど辛そうな表情でそう言うダイの言葉は、きっと掛け値無しの真実なのだと、確信できた。
 ヒュンケルもクロコダインも、ポップという少年をよく知っている。

 あんなにも嬉しそうに、懐かしみながらアバンの書を読んでいた魔法使いの少年が、アバンを心から尊敬しているのは疑いようがない。あの感情豊かな少年が、その死を悼まないわけがないだろう。

 妙に意地っ張りで負けん気の強いポップが直接口に出したことはなかったが、彼が心に傷を負っているのを察せない程、ヒュンケル達は鈍くはなかった。

「ポップはすごくショックを受けていたけど……でも、おれが旅立つ時は一緒についてきれくれた。
 だけど、おれ……知っているんだ」

「ピピ……」

 ダイの膝の上で、ゴメちゃんもまた悲しげな声を漏らす。自分もそれを知っているよ、と言わんばかりに――。

「ポップは……昼間は元気で、いつも明るかったけど、夜は……うなされてた。時々、叫んで飛び起きることもあったし。
 そんな時はポップは一人になりたがったり、何時間も眠れないで寝返りを打っていたりしてた」

 ダイの語るポップの姿は、ヒュンケルにとってもクロコダインにとっても、見た記憶のない姿だ。

 だが、旅立ちの時からずっと一緒にいて、今までの旅を共に過ごしてきた親友の言葉は恐ろしい程に説得力がある。
 確かに存在した光景だったのだろうと、すんなりと頭に思い浮かべることができた。

「でも、ポップはいつだって、朝にはいつものポップに戻っていた。
 それに、マァムに出会った頃から、ポップ、だんだんとアバン先生の夢を見なくなってきたみたいで、うなされなくなってきたのに……」

 朝だけではなく、その後の昼寝の時もポップはうなされていたのだと、しょんぼりと告白するダイに、戦士二人は途方に暮れずにはいられなかった。
 戦いの時ならばともかく、こんな時には戦士は無力だ。夢に心を痛めている少年に対しても、また、その少年を心配する子供に対しても、どうしてやることもできない。

 黙っているしかできない自分に嫌気すら感じたヒュンケルだったが、クロコダインは違った。
 巨漢に見合った心の広さを持つ獣王は、落ち込む子供の背を軽く叩く。

「……まあ、あまり気にし過ぎることはないさ。大丈夫、ポップのことだ、すぐに元気になる。
 オレは、そう信じているぞ」

「……うん、そうだよね」

 クロコダインの、武骨ながらも心の籠もった慰めを聞いて、ダイはいつもより弱々しいながらも、やっと笑顔を見せた――。





「ポップ。起きているか?」

 律義にそう呼び掛け、ノックも何回かしてから、ヒュンケルはポップの部屋の扉の前で少し、待った。
 ポップは、あまり礼儀を気にする方ではない。

 よくダイにノックをしないとからかったりはするが、ポップ自身もあまりノックなどをする方ではない。
 そのせいか、ノック無しで突然部屋に誰かが来ても、笑って済ませる。

 ――が、ヒュンケルに対してだけは、例外だった。
 常に兄弟子につっ掛かるきっかけを探しているとしか思えないあの弟弟子は、他の人がするなら平気で許すことでも、ヒュンケルが相手なら容赦してくれない。

 前にきちんとノックをした時も、ポップが入室の許可を出す前に入ってきたとお冠だった。正直、ヒュンケルとしては怒られるのは構わないが、機嫌を損ねたポップに食事や薬を拒否されては困る。

 何しろ、用事のできたダイに、くれぐれも頼むと任されたのだから。
 今、ダイはアポロに呼び出され、ロモスからパプニカにくる際の航海の話を詳細に話しているところだ。

 おそらくは、海上の危険度を確認するための調査の一貫だろう。魔王軍の進撃が始まった後に船旅を経験したダイ達の実体験は、各国との外交をこなしている三賢者にとっては貴重な情報のはずだ。

 マァムが不在の上、ポップが寝込んでいる以上、残る一人に質問をするのは妥当と言えば、妥当だ。とは言え、一番説明下手なダイがその役目を負ったのはアポロとダイ、双方にとって気の毒なことだった。

「うんとね、その時、襲ってきたのはガーゴイルだったよ! 海の向こうからふよふよ飛んできたんだ」

 一生懸命に、元気に答えるダイを前にして、アポロは困り果てたような表情で、それでも辛抱強く笑顔を浮かべていた。

「いや、あのね……。だからダイ君……あの、聞いているのはどの位置まで進んだ時に、怪物の襲撃があったか、と言うことなんだけど。例えば、何日目とか大まかな日付でも構わないから」

「えっとね〜……あっ、そうだ! 朝ご飯にくるみパンが出た日のことだったよ! ポップが半分、おれに分けてくれたんだ」

 お互いに大真面目ながら、どこまでも噛み合わない会話が捗らないのも当たり前だろう。 あれでは当分は、アポロの聞き取りは終わるまい。同時にダイもまた、しばらくは開放されまい。

 そして、ある意味でダイに負けず劣らず、真面目な面のあるヒュンケルは弟弟子からの頼まれごとはおろそかにはできなかった。
 食事を運び、薬を飲ませるという役目なら、誰がやったとしても同じだとは考えない。
 というか、ポップ本人は他の誰が運んできても構わないが、ヒュンケルにそうされるのは嫌だと考えているだろう。
 だが、そうと分かっていても、頼まれたことはきちんと成し遂げなければならないと考えるのが、ヒュンケルらしい点だった。

 だからこそ念を入れてポップの返事を待っているわけだが、全くの無反応だった。
 さて、もう一度ノックをすべきか。だが、このまま返事がくるのを待っていては、せっかくエイミが用意してくれた温かい食事が冷めてしまうだろう。

 多少、ポップが怒られたとしてもいいかと腹をくくり、部屋に入ると――ポップは眠っていた。
 だが、それは安らかな眠りではなかった。

「……う、……せん……い……いや…だ……」

 よく聞き取れない寝言を繰り返しながら、弱々しく首を動かしているポップは、ひどく辛そうに見えた。
 とても黙って見ていられない悲痛な様子に、ヒュンケルは反射的にポップをゆすり起こしていた。

「ポップ!? ポップ、しっかりしろ!」

 幾度か揺すると、さすがに目を覚ましたのかポップがようやく目を開ける。

「あ……」

 空ろな目のまま起き上がろうとしたポップは、頼りなく崩れかかる。それを支えようとしたヒュンケルの手に、思いがけないぐらいの力を込めてポップがしがみついてきた。

(……?)

 それは意外ではあったが、ヒュンケルにとっては悪くない一瞬だった。ポップが、次の一言を言うまでは――。

「ありがと、先生……」

 無意識のように呟いてから、ポップはハッとしたようにヒュンケルを見た。途端に表情を強張らせて、ほとんど突き飛ばすように手を振り払う。

「なっ……なんだよっ、なんでてめえがここにいるんだよっ!?」

 うろたえてそう叫ぶポップを見て、ヒュンケルは自分の失策を今更のように後悔した。 たとえ、悪夢にうなされていたとしても、起こしたりするべきではなかった。ポップが、見た目によらず高いプライドを持っていることはとうの昔に、気付いていた。

 ポップにとって、自分に弱みを見せるのはそれだけで屈辱だろう。しかも、寝起きで心の弱っているポップに、自分とアバンを見間違えさせてしまった――罪悪感を抱きながら、ヒュンケルはできるだけ何事もなかったように振る舞った。

「…………食事を、持ってきた。後で食器を下げにくる」

 本当は、側できちんと食べ終わるまで見守り、薬を飲ませるように頼まれたのだが、今はヒュンケルにもそうできるだけの平常心がなかった。
 食事の乗ったトレーをサイドテーブルにセットすると、ヒュンケルは逃げるように部屋から立ち去った――。






 廊下に出てから、ヒュンケルは改めて後悔を噛み締める。それは、頼まれごとを放棄したから感じる後悔だけではなかった。

(アバンなら……きっと、ポップを落ち着かせてやれたのだろうな)

 悪夢から目覚めたばかりのせいか、さっき、ポップは震えていた。だが、手にしっかりとしがみついた時、ポップの震えは幾分か落ち着いた。
 その理由が、今ならはっきりと分かる。

 悪夢から目覚めたばかりで、意識が朦朧としていたポップはアバンに起こされたと誤解した。
 だからこそ安心したのだ。

 だが、意図的ではなかったにせよ、そんなポップに更にショックを与えてしまったのが悔やまれた。
 あの時、ポップを起こしたのがアバンだったのなら、なんの問題もなかっただろうに――。

 懐かしい師を思い浮かべてから、ヒュンケルは自嘲する。
 他ならぬアバンを失ったからこそ、ポップはあれ程までに悲しんでいるのだ。それをアバンに慰めてほしいなどと思うとは、それこそ本末顛倒な話だ。

 せめて、マァムがいれば――。
 痛切に、そう思う。
 あのしっかりしていて、そのくせ心優しい少女なら、ポップの落ち込みを放っておくはずがない。

 そしてポップも、思いを寄せている少女と過ごすことで、傷ついた心を癒やすことができるだろう。
 だが、そう思う側から、それが無理な願いであることをヒュンケルは理解していた。

 修行をやり直すため、マァムは自分の意思で一行から離れている。彼女がロモスの山奥に行ったらしいとは聞いたが、正確な場所までは誰も知らなかった。

 だいたい、ロモスまで移動できるのは一行の中で唯一ポップだけなのだが、病人の彼に魔法を使わせるわけにはいかない。
 そう考えてから、ヒュンケルは意識せずに溜め息をついていた。

(……まったく、役立たずだな、オレは…………)

 沈んでいるダイも、夢にうなされるポップにも、何も言ってやれないどころか、助けてやる方法すら思いつかないとは。
 せめて、ポップに落ち着く時間だけでも与えてやろうと、ヒュンケルはゆっくりと歩き始めた――。


                                     《続く》

 

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