『思い出の甘さ ー後編ー』 |
「それは……毒、なのか?」 あれは、ヒュンケルがいくつのことだったか。 だが、あまり彼に馴染んでいた頃ではなかったから、弟子入り間近だったのか。まあ、弟子になった後でもひそかにアバンの命を狙い続け、復讐心を燃やしていたのだから、もしかすると弟子になってから随分経ってからだったかもしれない。 その辺の記憶は明確ではないが、季節が冬だったのは覚えている。 大半の人間には理解しづらいかもしれないが、地下での生活というのは意外なまでに快適だ。 氷室など、特に冷やすために作られたような場所を除けば、地下はほとんどがひんやりとしながらも風もなく、過ごしやすい場所だ。 そのせいか、初めて味わう冬にヒュンケルは随分困惑したものだ。 今思えば八つ当たりにも程があるが、こんなに寒くて嫌なところへと連れてきたのはアバンのせいだとばかりに、文句を言った覚えもある。 もちろん、場所によって寒さがきつい地方や逆に暑さが際立った地方などの差はある。だが、冬というものは基本的に世界全てを覆うものであり、例外は有り得ない。 地下の氷室と違い、離れた場所に移動すれば避けられるようなものではないんですよ、と教えてくれたアバンの言葉を、ヒュンケルはすぐには信じなかった。 いくつかの町や村、揚げ句には山まで旅して歩き、それでも冬の寒さにはほぼ変化がないと身体で実感してからようやく、『冬』というものを納得した。 その授業料は高く付いた。 後で思えば、子供でも上れる様な危険の無い手頃な山ではあったが、冬の山はやはり危険だ。 むしろ、山というのは地上よりも寒く、しかも寒暖差も厳しい。 アバンはヒュンケルを気遣って、治るまではと山小屋に泊まり込み、何くれとなく看病をしてくれた。 今でも、はっきりと覚えている。 差し出されたカップに入っていたのは、紅茶によく似ていたが微妙に違う匂いの温かい液体だった。 不信感を隠そうともしないヒュンケルの問いに、アバンは一瞬だけ軽く目を見張ったものの、すぐに笑顔で言った。 「ええ、毒ですよ」 その返事に、ヒュンケルは思っていた以上に驚いたのを覚えている。 あの頃のヒュンケルは、表面的には彼に逆らってばかりいたものの、本心ではアバンを信用していた。 信頼していた人に裏切られたからこそ、驚きを感じた……ただ、それだけのことだった。しかし、アバンはヒュンケルを驚かせておいてから、すぐに種明かしをしてくれた。 「ただし、あなたではなく、あなたの中で悪さをしている風邪の黴菌を殺すための毒ですけどね。 ユーモアに満ちながらも少し捻ったアバンの説明は、幼いヒュンケルには良く分からなかった。だが、本当の毒ではないとだけは分かったため、恐る恐るそれを飲んでみて――驚いた。 (うまい……!) 甘くて、美味しい飲み物だと思った。 咳のせいで荒れ、渇いた喉を優しく潤してくる素朴な甘みは、いつも飲む紅茶以上に美味しく感じられた。 「どうですか、口に合いますかね?」 だが、ニコニコと笑いながらそう聞いてくるアバンを喜ばせるのが癪で、ヒュンケルはわざと顔をしかめ、それでも一滴も残さず飲み干した。 「飲み終わったのなら、冷えない内にお休みなさい。一眠りすれば、きっと具合もよくなりますから」 その言葉通り、一晩寝た後は風邪などコロリと治っていた。 だが、アバンはこのお茶の作り方は覚えて損はないですよ、なんて言いながら、時折ヒュンケルのためにジンジャー・ティーを入れてくれた。 その後、魔王軍に入ったヒュンケルはジンジャー・ティなど飲む機会はなかった。 正確に言うのならば、飲もうとしなかった、が正しいだろう。もし、本当に飲みたいと思うのであれば、材料を揃えるのはそう難しくはなかったのだから。 ミストバーンとの修行中ならともかく、軍団長になってからはヒュンケルにはかなりの自由が許された。望みのなら、珍しい嗜好品を取り寄せることも許される立場だったのだ、紅茶や生姜を手に入れるなど容易かっただろう。 まあ実際には、食事や嗜好品に関してはまったく拘りを持たないヒュンケルは、食事の手配などは部下に任せっきりだったのだが。 だが、自分でも意外だが、これだけの年月が経っているのにアバンから習った記憶は鮮明だった。 そして、他人のためにいれるお茶と言うものが、これほどまでにいろいろな感情を引き起こすものだとも、知らなかった。 逆の立場――自分の方が反抗的な子供にお茶を振る舞う立場になってから初めて、思い知る。 何気ない風を装いながら、せせこましくも横目で様子を窺うだけで精一杯だ。 「……?!」 一瞬、ポップがそのままお茶を払い捨てるのかとちらりと思ったが、幸いなことにそうはならなかった。 そして、確信する。 もちろん、ポップはそんなことは一言も言いはしない。だが、大切そうに両手でカップを持ち、一口ずつゆっくりとお茶を飲む仕草を見れば、一目瞭然だった。 ヒュンケルがすぐ近くにいることさえ、今のポップは忘れているのかもしれない。 そのせいで、ヒュンケルはいつになくゆっくりとポップを眺めることができた。 心配したように咳き込むこともなく、ゆっくり、ゆっくりとカップを傾けたポップは、とうとう最後まできちんと飲み干した。 それはそれで嬉しいことではあるが、飲み終わった後もポップはどこかぼうっとした様子で、そのまま座り込んだままだ。 「全部、飲んだようだな」 声をかけてからやっと顔を上げたポップは、まるで夢から覚めたばかりのような表情をしていた。 「飲んだなら、冷えない内にもう休め。一眠りすれば、少しは具合もよくなる」 言いながら、ヒュンケルは自分で自分に呆れずにはいられない。 それは、さっきポップにお茶を渡してすぐ背を向けた時と大差のない動機のせいだ。 (やはり、オレではアバンのようにはできないな) 半ば自嘲気味にそう考えながら、ヒュンケルは逃げる様にそこから立ち去った。
呼び掛けられた言葉自体は、夕食前に会った時と大差はないかもしれない。だが、目が合うなり嬉しそうに駆け寄ってきたマァムの表情は、さっきとは大違いだった。 食堂から飛び出してきたマァムは見違えるほど明るい笑顔で、嬉しそうに言った。 「あのね、さっきポップが夕食を全部食べてくれたの!」 マァムが夕食を運びに言った時、ポップは珍しくぐっすりと眠っていたこと。 喉の具合がだいぶ良くなったのか、寝込んで以来始めての食欲旺盛さを見せたこと。 「あなたのおかげなんでしょう? ありがとう、ヒュンケル」 純粋さと信頼に満ちたその目が、ヒュンケルには些か眩しい。 「いや……オレは何もしていない」 ヒュンケルにとって、それは謙遜でさえなく単なる事実だ。 だが、マァムは年に似合わない母親のような寛容な表情で、兄弟子に優しい言葉をかける。 「ううん、やっぱりあなたのおかげよ。だってね、ポップは寝る前にもういっぱいジンジャー・ティーがほしいって言ったのよ」 だから、今、お茶を入れているところなのと続けるマァムの言葉を聞くまでもなく、食堂内からわいわいと賑やかに騒ぐ声が廊下までも聞こえてきた。 「うえっ、からっ?! レ、レオナ〜、これ、ちっともおいしくないよー、舌にぴりっとするし!」 「あ、だめよ、ダイ君、すり下ろした生姜をそのまま食べたりしちゃ! それ、お茶にいれてから飲むらしいわよ」 「あっ、姫様、ポットには直接いれない方が……!」 ヒュンケルでさえ笑いを誘われる微笑ましさが、廊下にいても感じられる。だが、マァムはヒュンケルの手を取って引っ張った。 「ちょうどよかった。ヒュンケルも一緒に飲みましょうよ。お茶はたくさんあるから」 その手を、振り払うのは簡単なことだ。 少しばかり寂しそうな顔をするかもしれないが、それでもマァムは笑顔でそのままヒュンケルを見送ってくれるだろう。 「できたんだねっ! じゃ、おれ、これポップのとこに持って行くね!」 元気なその声と同時に、トレイを持って飛び出してきたダイとゴメちゃんに、ヒュンケルは危うくぶつかられるところだった。 「あ、ごめん、ヒュンケル」 「いや、大丈夫だ。それより、気をつけていけよ」 「うんっ」 と、元気良く答えてほとんど走るようにポップの部屋へと向かうダイは、どうもヒュンケルの注意の意味を理解しているかどうか怪しいものだ。 それがお茶を誘ったことへ対する答えを知って、マァムは笑顔のまま一緒に食堂へと入る。 「あ、ヒュンケルさん! 今、ジンジャーティをいれているところなんですが、お飲みになりますか?」 頷くヒュンケルに、エイミはいそいそとお茶を用意してくれた。 紅茶の豊かな香りに生姜独特の香りが合わさって、心地の良い匂いを作り上げている。 だが、それは成長によるヒュンケルの味覚の変化によって生じた変化だろう。 このジンジャーティーがポップのために入れられたものなら、そのレシピはさっきマァムに教えたもの……つまり、アバン直伝のレシピのままのはずだ。 普段なら紅茶やコーヒーなどをそのまま飲むヒュンケルには、蜂蜜をたっぷりと入れた紅茶は甘すぎるぐらいに甘く感じられる。 「あの……お口に合いませんか?」 ひどく心配そうな口振りで、エイミがそう問い掛ける。その顔はいかにも不安そうだった。 ヒュンケルはただ猫舌で飲むのが遅いだけなのだが、それを知らない者にとっては彼が嫌々と好みに合わない飲み物を飲んでいるように思えても不思議はない。 「いや」 かすかに首を振って、ヒュンケルはその問いを否定する。 だが、その欠点を補って余りある程に、このお茶にはヒュンケルの思い出が詰まっていた。 アバンが幾度となくついでくれた、懐かしい味。 懐かしさというものがこれ程までに食べ物の味を左右するものだと、ヒュンケルは初めて知った。 師が与えてくれ、兄弟弟子とその美味しさを共有することのできる数少ない思い出――ヒュンケルにとって、特別な意味を持つその味が、口に合わないはずがなかった。 「昔からの好物だ」 アバンにはとうとう告げることがなかった本音をさらりとこぼし、ヒュンケルは懐かしい甘さをゆっくりと楽しんだ――。
前に書いた『手のひらの上の温もり』のヒュンケルサイドからのお話です! それと、本人の味覚変動による味の変化ってのも一度書いて見たかったので、書けてなんとなく嬉しいです。 前に料理関係の本で読んだことがあるんですが、昔から馴染んだ味が売りの店や商品こそ、実はこまめにレシピを変えたりしているんだそうです。 昔大好きだったアニメを見ても、懐かしくはあっても子供っぽさや古臭く感じたり、演出に不満を感じたりする様に、人間の感覚というのは変化していくもののようです。
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