『地に埋める想い』 |
聖バレンタイン・デー。 それだけにバレンタイン・デーが近付くと、年頃の少年達はそわそわと落ち着きを無くし、少女達は胸をときめかせて手製の菓子作りに精を出す。
それは、バレンタイン・デーを一週間後に控えた日のこと。 普段は自然に背に流している黒髪を、後ろで軽く結っているのは料理の邪魔にならないようにという心遣いだ。 この作業を手際よくこなすことで、口どけが良く光沢の優れたチョコレートを作り上げることができる。 温度が高すぎても、低すぎてもいけない。また、十分にチョコを溶かすために攪拌は欠かせないが、空気を含ませすぎてもいけない。 その手つきは、そう手慣れているとは言いがたかった。そこそこ器用にこなしているものの、何度も本を確認しながら行う手際は熟練者とは程遠い。 そもそも、メルルはチョコレートその物に慣れていない。 食べることさえ稀な高級菓子を、自分の手で加工するだなんてメルルは考えたこともない。 意中の男の子に、チョコレートで作った菓子を贈って自分の恋心を伝える――女の子として聖バレンタイン・デーの逸話は知っていても、とても実行する気はなかったし、そうしたいと思う相手もいなかったから。 だが、今年は違う。 意中の相手が、それどころではないのを知っていたから。 どこまでも基本に忠実に、レシピ通りに。 臆病なまでに細心に、手本から外れないように気を使いつつ料理する自分に苦笑を感じないでもない。 子供の頃に両親を亡くし、祖母に引き取られてあちこちを旅しながら育ったメルルは、そもそもあまり料理をする機会はなかった。 良く言えば、素朴な料理。 習った通りにしか作ることができないし、自分なりの工夫を施すのにためらいを感じてしまうのだ。 もちろん、工夫を凝らしたお洒落な料理よりも、昔からよくあるメニューのお約束の味を好む者は多い。特に、おふくろの味に憧れを感じる男には、むしろ受けのいい料理だろう。 だが、正直に言えば、メルルは自分の料理はあまり好きではなかった。 (これで……いいのかしら?) 不安そうに目を瞬かせ、メルルは型に入れて冷ましているチョコレートを眺めやる。調理としての手順は、すべて終えた。後は、固まるのを待つだけだ。 だが、それは楽しい不安でもあった。 思い浮かべるのは、もちろん思い人の姿。緑色の服のよく似合う、魔法使いの少年だ。 彼に、このチョコレートを渡したらどんな顔をするか――考えるだけで胸がドキドキする。 『え? これ……チョコレート? メルルが作ったのか?』 意外そうな顔をするかもしれない。 いや、それとも他人の恋愛ごとにはびっくりするぐらい敏感な人だからちゃんと知っていて、逆に意識しまくっている可能性もありそうだ。 そんな風に照れている彼は、きっと可愛いだろう。内緒だが、同い年の彼が時々ひどく子供っぽく感じられる時がある。 『美味そうだなぁ、一つ食べてもいい?』 照れ隠しと、作り手への思いやりからそう言う姿を、メルルは簡単に想像することができた。 『すっげー、美味いな、これ。ありがとうな、メルル』 もし、それがそれほどの出来でなかったとしても、きっと彼はそう言うだろう。だが、できるならメルルは彼の自然な笑顔を見たかった。 他愛もない想像で心を暖めている間に、チョコレートはゆっくりと冷えていき、やがて完璧に仕上がった。 ハート型のものを作るには技術の面でも心情的な面でも少しばかり勇気が足りなかったため、メルルが作ったチョコレートはただの丸い形にすぎない。 仕上がったばかりのチョコレートをしばらく笑顔で見つめていたメルルだが、それは長くは続かなかった。 あれほどの熱意を持って作ったチョコレートをテーブルの端に置き、メルルは片付けものを始めた。 それに、汚れた物は時間が経てば立つ程落としにくくなる。そう思うからこそ、メルルはせっせと洗い物を片付けていく。 「ふうん。いい匂いだと思ったら、チョコレートだったのか」 洗い物に専念していたメルルは、突然聞こえてきた声にびっくりして振り向いた。 「悪いね、驚かせて。一応、声はかけたんだけど」 気さくにそう笑う青年に、メルルは慌てて平気ですと小さく答えて首を振る。 それだけに、テランの王女になったばかりのメルルにとってあまり接点がない相手ではあるが、公的には彼はメルルの兄になる。 「ちょっと小腹がすいてね。あ、気を遣わないでいいよ、勝手に捜すから」 勝手に食料を捜して戸棚などを覗き込む姿は、王子というよりは普通の青年だ。 侍女に命じて軽食を運ばせるより、自分で動く方が気楽なのかもしれないとメルルは思う。 「それなら、よかったらそのチョコでも召し上がってください」 薦めると、ドライは意外そうな顔をしてメルルを見返す。 「いいのかい? このチョコは、特定の人にあげるためのものなんだろう?」 その問いを、メルルは平然と受け止める。 だが、メルルは首を横に振る。 「いいんです。どうせお渡しするつもりはありませんでしたから」
そんなことは、分かっている。 ダイを捜そうと必死になっているポップの姿を、メルルはずっと見つめてきた。その手助けをしたいと思いこそすれ、邪魔などしたくはない。 自己満足のためだけに作った、もらわれる当てのないチョコレート。 ――だが、それだけに、できてしまえばそこで夢は終わる。 「ふぅん……まあ、キミが望むならそうすればいいけど。でも、せっかく作ったんだし、もったいないんじゃないの?」 じっとチョコレートを見ていたドライは、そのままの姿勢で目を閉じる。彼がそうやって目を閉じていた時間は、そう長くはなかった。 「……キミは、美しい思い出が欲しいかい?」 ドライは少しばかり皮肉な笑みを浮かべ、メルルの返事も待たずに言葉を続けた。 「ボクには、見えるよ。一つは、キミが作ったチョコレートを想い人が美味しそうに食べる未来が。 じっとチョコレートを見つめながら、ドライは厳かと言っていい口調で未来を語る。たかがお菓子に対しての予言とはとても思えない程に真面目な口調で、占い師は見えない未来の光景を教えてくれた。 「この二つの未来への道が、ボクには見えるよ。 その時、初めてドライの目がメルルに向けられる。 「選ぶといい。 そう告げる時のドライの目に、メルルは少しばかり怯まずにはいられない。 「まあ、どっちを選ぶのかはキミの自由だよ。じゃ、グッドラック」 それだけを言い残し、ドライは戦利品のクッキーの袋を手にして去っていく。呆然とそれを見送った後で、やっとメルルは思い出していた。 普通、占い師が未来を見る時は、もっとも実現する可能性の高い未来を見るものだ。 未来への助言と呼ぶには、不親切だと言われる所以だ。 メルルもドライの占いを実際に聞くのはこれが初めてだったが、軽い口調ながらもどこか思いやりの感じられる言葉だったとメルルは思う。 彼が口を出さなければ、メルルはこのチョコレートを新しく家族になったテラン王族に贈って終わりにしただろう。 もしかしたら、ポップへこのチョコレートを渡すことができるかもしれない――それは、メルルにとって大きな誘惑だった。 ポップは今、旅の真っ最中だ。 ヒュンケルやラーハルト、ヒムにクロコダインと組んで装備を整えて旅だったポップが今ごろどこにいるのか……それはメルルも知らない。 ポップは、冬の最後の新月の日に儀式を行いたいと言っていた。だが、どうもその準備のための日程はかなりギリギリのものらしい。 その時には、バレンタイン・デーなどとっくに終わっている。 なぜならポップが予定を早めて帰還すると言うことは、その冒険が不首尾に終わるということだからだ。 (私は……もう、テラン王女なんだわ) ポップの助けになるために、メルルは王族になる決心をした。そのおかげで、メルルは実際に儀式でポップに力を貸すことができる。 王族としての特権を、メルルは充分に享受している。 一国の王女の行動には、常に注目と責任が付きまとう。未婚の王女が他国の重要人物に個人的なプレゼントを贈ったという事実は、後々ポップにとって迷惑になるかもしれないと思うと、むしろ怖かった。 それを思えば――メルルが選ぶべき道は、このチョコレートを土に返すことなのかもしれない。 神に捧げられた供物は、一定の期間を置いてから処分される。チョコレートなどの保存の効く食料ならば、およそ数ヵ月後といったところだろうか。 供物といえば聞こえはいいが、要するに神殿に供えられた後、捨てられるということだ。竜の神への供物は人間に下げ渡されることなく、火に投じられるか土に埋められるのが通例だ。 それもいいかもしれないと、メルルは思う。 『……キミは、美しい思い出が欲しいかい?』 フッとドライの言葉が脳裏を過ぎったが、今度はメルルは迷わなかった。 (もう、十分にいただきましたもの) ポップはいつだって、メルルに勇気をくれた。ポップと過ごした時間は、メルルにとっては輝かんばかりの思い出として深く刻まれている。 『…ご……、ごめんよ、メルル……。おっ……おれは……、マァムが好きなんだよおおっ!!』 淡い赤毛の慈愛に満ちた少女。ポップが心を寄せている人への告白を思い出しながら、メルルはチョコレートを小さな籠へと移した。 神殿は、交代制で常に必ず人がいるはずだ。ならば、明日を待たずに今夜中にでもこのチョコレートを奉納してしまいたかった。 実らない想いならば、地に返すのが自然というものだろう。 この次に会った時には忘れずに礼を言っておかなければと、メルルは心に留めておく。そして、メルルは想いを込めたチョコレートを眠らせるために神殿に向かった――。 《後書き》 バランタイン・デーと言えば、今まではギャグな話ばかりかいてばかりいたので、たまにはシリアス乙女チックで! ちょっと切なめのバレンタイン・デー話を書きたいなと思って、メルルからポップへチョコを手作る話を書いてみたんですが……なんか、予想以上に切ない気がっ?!
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