『おやつの時間 ー前編ー』

 


「……くっ……っ」

 眉間に深い皺を刻んだ彼は、苦悩を滲ませた声を漏らす。
 そう――彼は、まさに今、葛藤の最中にいた。
 大袈裟に言うのなら、愛か、義理か。
 その二つのどちらかを迫られる決断を迫られ、苦悩をしないわけがない。

 彼の脳裏に浮かぶのは、淡い赤毛の少女の笑顔だった。伸びやかな健康美に恵まれた闊達な少女――彼女以上に大切な女性など、彼にはいない。

 だが、それと同時に彼を悩ませるのは師匠の言いつけだった。
 いささか偏屈で変わり者ではあるし、普段はあまり口にしたりはしないが、師匠の存在は彼にとってはあまりにも大きなものだ。

 大袈裟に言うのであれば、人生を変えるきっかけをくれた人だ。自分に人生の指標を指し示してくれた老人は、師匠に呼ぶと相応しいと思っているし、心から尊敬もしている。 それだけに、師の命令に背くことになるこの誘惑に悩まずにはいられない。

 愛か、義理か。
 最愛の少女か、敬慕する師匠か。
 どちらも捨てがたい選択であるがゆえに、彼の心の中の秤は狂おしいまでに揺れ動く。
 だが、彼はどんな苦悩に打ち勝つ勇気と、決して揺らぐことのない強い意志を持っていた。

「……………………だ、だめだっ!! そんなことはできない!」

 苦悩しながらも決然と彼はそう言い放ったが、相手は声を立てない笑いを浮かべる。
 彼の苦悩も、葛藤の末にその答えを出すことさえも見透かしたかのような笑みを浮かべ、相手は手にした『もの』をひけらかす。

「ふぅん。なら、『これ』が、欲しくない、と?」

 すぐ目の前に差し出された『もの』を目の前にして、彼は無意識にごくりと生唾を飲み込んでいた。

 ――欲しくないわけがない。
 それこそは、彼にとっては至上の価値を持つ宝に等しいのだから。控え目に言っても、喉から手が出る程に欲しかった。

 しかし……それでもなお、彼は不屈の意思を持って、目の前にいる相手を睨みつける。 もし、この話を持ち掛けてきたのが別の誰かだったら、彼ももう少しは柔軟な対応ができたかもしれない。
 しかし、この相手ばかりは特別だった。

 彼の本気の葛藤を、まるで見せ物を楽しむように面白がってニヤニヤしているこの相手ばかりには、素直になれはしない。
 むしろ、より一層の反感を込めて叫ぶ。

「見くびるなっ! どんな甘言にだって、屈するものか……! ボクは……っ、決して、悪魔の誘惑には乗らないっ!」

 英雄談に登場する主人公のごとく格好よく叫びながら、彼がびしっと指差した先にいるのは、緑の衣を着た魔法使いの少年だった。

「だーれが、悪魔だ、誰が。人聞きの悪いこと、言ってるじゃねえよ。
 だいたい、これってそんなに悩むような問題じゃないだろ? ただ、ちょっとおやつを分けてやるから、少しばかりおしゃべりしようぜって言ってるだけじゃないか」

 と、手にしたバスケットを軽く揺さぶりながら悪役の魔法使い――ではなく、ポップは意図的に軽い口調で言う。
 だが、言っているポップ自身が一番よーく承知していた……自分が、詐欺師にも等しい誘いをしていることを。

「だからっ、それはだめだって言っているだろうが! 老師様からの直々にお達しを受けたんだ、絶対におまえに魔界の話を聞かせるなってな!!」

 心底悔しそうにバスケットを睨みつつもまだ頑固にそう言い張るチウに――と言うよりも、その背後にいるはずのブロキーナ老師を思って、ポップは内心溜め息をつかずにはいられない。

(やれやれ、老師も徹底してくれたもんだぜ。やっぱり師匠やアバン先生の仲間だよな〜、抜け目がないや)







 魔界に関する情報――ポップが求めるものは、それだ。
 ダイが魔界にいるとずいぶん前から睨んでいるポップにとっては、魔界の情報は喉から手が出る程欲しい。

 だが、魔界についての資料など皆無に等しい。ポップが調べられるような範囲の文献では、魔界の話などおとぎ話にも等しい信憑性の低い噂しか手に入らなかった。

 そして、実際に魔界について何を知っていそうな人物――ロン・ベルクやラーハルト、マトリフ、アバンは結託しているとしか思えない程、魔界に関しては誰もが口を噤んでいる。

 性格によって言葉巧みにごかましたり、ぶっきらぼうに黙り込んだりと方向性は違うものの、一貫してポップには教えてくれようとしない点では共通している。
 しかも、どうやらそれにはブロキーナも一枚噛んでいるらしい。

 少し前からポップが目をつけているのは、獣王遊撃隊隊員13号と14号――鬼小僧の兄弟だ。バーンとの最後の戦いで、ザボエラが用意した特製の魔法の筒の中から出現した彼らは、敵陣の唯一の生き残りだ。

 他の怪物達は全員死ぬか、味方であったはずのザボエラにとどめを刺され、超魔ゾンビの材料になるという無残な最後を迎えたが、13号と14号だけはチウに助けられ、生き延びた。

 大戦後、正式にチウの獣王遊撃隊の新メンバーとして加わり、今はデルムリン島で呑気に楽しく暮らしている真っ最中である。
 人間の子供ほどの大きさで、なおかつ性格的にも子供っぽい彼らはあっという間に遊撃隊のメンバーに馴染んだ。

 そのせいでつい忘れそうになるが、彼らは地上生まれの他の怪物達と違い、魔界からやってきた。
 つまり、魔界の知識を多少であれ、有しているのである。

 それに気がついて以来、ポップは彼らから魔界の話を聞き出そうと躍起になっている。だが、それがいつもいつも失敗するのは、自称二代目獣王……即ち、チウのせいだった。 見た目が珍妙かつ、実力はへっぽこ、さらには頭の悪さではスライム以下……まあ、大体勇者ダイとためを張れる程度と言っていいだろう。

 ものの見事に三拍子そろったチウだが、彼は器の大きさでは抜きんでている。
 自分の実力も顧みず高い理想を掲げ、尊大な態度を貫く大ネズミを、部下達は至って尊敬しているのである(ただし、一部の例外はあるが)

 ポップにとって都合の悪いことに、他の獣王遊撃隊のメンバーと同じく鬼小僧達も、隊長であるチウをやたらと尊敬し絶対服従を誓っている。
 そのせいでいくら頼もうと脅そうと褒美で釣ろうと、鬼小僧達は頑として魔界のことをポップに教えようとはしない。

 隊長の命令だからと言い張る彼らを懐柔するため、ポップはやりたくはないがチウを説得してみることにした。
 しかし、チウはチウで、ブロキーナの命令だからとそんな話は許可できないと言い張り、一向に話は進まないのである。

 ある意味で鬼小僧らよりも手強いチウに手を焼くポップだが、だからこそ彼は今日、『切り札』を手にデルムリン島までやってきたのである。

「ふーん、じゃあ、これ……本気でいらないのかよ? 見ろよ、こんなに美味そうなのに」
 そう言いながら、ポップはバスケットの蓋を開けた。

「…………っ」

 興味のないふりを装おうとも、チウの目がギラリと光ってバスケットを捕らえる。
 クッキングペーパーに包まれ、こんがりとしたきつね色に焼かれた大きめのアップルパイがそこにはあった。

 リンゴとシナモンが合わさった甘い香りが、ふわりと漂う。
 ポップの猫撫で声以上に、蓋を開けたバスケットから感じ取れる匂いは、甘くチウを誘う。ポップにでさえ分かる匂いなのだ、動物系怪物であるチウにとってはもっとはっきりと分かるに決まっている。

 実際、バスケットを開ける前からポップとチウの回りには遊撃隊のメンバーのほとんどが集まってきて、興味津々にこちらに注目している。
 ごくりとチウが生唾を飲み込んだのを確認しながら、ポップは言葉巧みに彼を脅しにかかる。

「あーあ、マァムが聞いたらがっかりするだろうな。せっかく作ったアップルパイを食べもしないでいらないって、おまえが言ったなんて聞いたらよ」

「うっ、うう……っ!?」

 只でさえ皺のよっていた眉間に、これまで以上に大きな皺が寄せられ、チウの苦悩をストレートに伝える。
 ポップが今まで言ったどんな脅しの言葉や、牽制のためにはなった魔法よりも、この脅しはチウの急所を貫いたらしい。

 その気持ちは、ポップにも理解できる。
 意中の娘が作った、手作りの料理――片思いに胸を焦がす男にとって、これ以上の宝があるだろうか。

 他の怪物達が単に食欲からたらたらとよだれをこぼしている以上に、チウこそが一番強くこのアップルパイを欲しているはずだ。
 しかも、この断りがマァムを傷つけ、悲しませると思えば尚更だ。

 ――まあ、正直な話、ポップが余計なことを言わなければチウがマァムのアップルパイを拒んだなんて事情が伝わるわけもないのだが、単純なチウにはそうは考えられない。
 すでに彼の脳内では、このアップルパイはマァムがチウのために愛情を込めて作られたに違いないというイメージが刻まれていた。

 いつもの武闘着姿の凛々しい彼女も素敵だが、いかにも女の子らしくエプロンドレスなんかを着ちゃっている図が、チウの脳裏に浮かぶ。

『うふっ、これを食べたらあの人は喜んでくれるかしら?』

 愛妻料理に興じる新妻のごとく、頬を赤らめて染めつつせっせとアップルパイを作っているマァムのかいがいしい姿を、チウはまるで目の前で見ているかのようにくっきりと思い浮かべることができた。

(ああっ、マァムさんがっ、ボクのためにっ)

 ――いやはや、実に幸せな大ネズミだった。
 うっとりとした表情で脳内妄想に浸るチウに対して、ポップはここぞとばかりに囁きかける。

「せっかくのマァムの手作りを、無下にするのも悪いだろ? それに……別に、老師の言いつけに逆らえって言っているわけじゃないって。魔界への行き方を教えろ、とまでは言わないよ。
 ただちょーっとばかり、魔界がどんなところか教えてくれりゃ、それでいいんだ。ただの世間話みたいなもんだって、それぐらいなら別に構わないだろ?」

 再び、チウが苦悩の声を漏らすが、それはさっきまでとは明らかに違っていた。

「う、うむむむぅ〜……っ。
 そ、そうだな……マァムさんの気持ちを踏みにじるだなんて、ボクにはできないし、それに、行き方ならともかく魔界の話だけだっていうのなら……」

「そうそう、それだけでいいって。それに細かく何もかも話せなんて言わないよ、ほんの5分ぐらいでいい」

 調子よく、ポップは頷いた。
 実際、魔界への出入りの方法なんて最初から聞く気もなかった。
 ポップが調べた範囲でさえ、魔界への出入りは簡単なことではないのは調べはついている。

 高位の魔族か怪物でなければできないだろうと、もうとっくに予測はついていた。言っては悪いが、鬼小僧のような低レベル怪物ではザボエラの力が無ければ絶対に地上になどこられなかっただろう。

 そんな連中に魔界への行き方を聞いたところで、時間の無駄というものだ。ポップが聞き出したいことは、もっと別なことだ――。

「ホ、ホントだなっ!? じゃあ……5分だけだけなら、許可してやろう」

 尊大に、だがとうとうチウが屈伏したのを見て、ポップはニヤリとした笑みを浮かべた――。







「あのよ、おまえらに聞きたいんだけどさ、魔界には太陽が無いんだろ? それって、どんな感じなんだ? 地上の夜みたいに、いつも真っ暗なのか?」

 ポップの投げ掛けた質問に、二匹の鬼小僧達はちょっと顔を見合わせてからチウの方を見やる。
 砂時計を前に睨み付けているチウは、それに対して鷹揚に頷いて見せた。

「いいぞ、その魔法使いに教えてやれ」

 それに安心したのか、鬼小僧達は今までのかたくなさが嘘の様におしゃべりし始めた。
「隊長が言うから、答えてやるぞっー」

「ケケケッ、太陽がないから真っ暗だと思うなんて、おまえ、魔界素人だな。太陽は無くても、魔界にも昼と夜があるんだぞっ」

「そうそう。魔界も昼はぼんやりと仄明るいんだ。えーとそうだな……こっちの世界の、お月さまのある夜よりも、ちょい明るいぐらいに」

「へえー。じゃあ、夜は真っ暗になるのか?」

「ああ、夜はな。でも、夜になると、夜だけ光って見える木とか湖があるから、お星さまぐらいの光はあるぜっ!」

「へー、そうだったんだ」

 と、素直に感心して見せるポップに気をよくしたのか、鬼小僧達は聞いても無いことまでぺらぺらと話しはじめる。

「まあ、おまえら人間にはそれでも薄暗く感じるだろうけど、おれ逹魔物にはそれぐらいの光があれば十分なんだぜっ」

「……ま、おまえらって夜目がきくもんな。
 それじゃあその木や湖っては、魔界のどこにでもあるのか?」

 ポップの質問に、鬼小僧達は何がおかしいのかドッと笑いだす。

「どこにでもってわけ、あるもんかー。だいたい魔界では地上と違って木は少ないし、それにどこって言っても、あいつら、動くもん、どこらにあるかなんて分かるもんかー」

「はぁ? 動く?」

 予想外の答えに目を丸くするポップだが、鬼小僧達はあたりまえのことのように堂々と答えた。

「あったりまえじゃん、木は動くぜ。地上にだって、ウドラーとかいるだろ。
 ま、全部が全部あれほど動きが活発じゃないけどさ」

「うん、動かない木もたまに生えるけど、そーゆー木は枯れ木みたいで元気がないし、光だって弱い。
 どっちかというと、動く木の方が多いぜっ」

「昼はじっとしているけど、夜になったら栄養のある土を求めてじりじり動くんだぜっ。だから、森が移動するなんて魔界じゃしょっちゅうなんだ」

「そうだよなー、特に雨が降る時は木は一斉に逃げ出すし」

「え? ま、待て待て待て、なんで木が雨から逃げるんだよ?」

 思わず突っ込んでしまったポップに、鬼小僧達はなぜそう聞かれるのか分からないとばかりにきょとんとする。

「なんでって、あたりまえじゃん。木なんだもの」

「そうだよなー、雨に当たったら枯れちゃうし」

「はあ? 雨で、木が枯れる?」

 理解できない一言に、今度はポップがきょとんとする番だった。
 当然のことながら、地上では雨が降れば植物は生き生きと鮮やかな緑色を増す。だが、魔界は地上とはまるで違うらしかった。

「あ、そっか。地上の雨は飲み水がふってくるもんなー、魔界じゃ考えられないぜっ」

「魔界の雨は、弱い酸や毒が混じってるんだ。
 すぐに分かる程強くないけど、長く雨に当たっていると皮膚がひりひりしてくるし、積み重なれば身体にも影響が出てくるぜっ」

「まあ、地上と違って、魔界では雨ってあんまり降らないけどさ。
 でも、たまーに降るから、弱い生き物は雨を嫌って雨の当たらないところに隠れるんだぜっ」

「……ぜんっぜん常識が違うんだな、魔界って。じゃあ、聞くけどよ、湖ってのも地上とは違うのか?」

「違うに決まってんだろーっ、魔界の湖は油断できないぜっ。なんせ、ただの水だけじゃなくって、酸の湖や毒の湖がごろごろあるもんっ!」

「うん、特に飲める水の湧く湖は、すっげー少ないぜっ。大きな飲める湖は貴重だから、大抵近くに町や村ができるんだっ。
 でも毒や酸の湖なら、そんなに珍しくないぞっ」

「――おい、そろそろ時間だぞ。もういいだろう?」

 砂時計が落ちきるのと同時に、チウがそう口を挟んでくる。

「えー、もう終わりかよ? ま、聞きたいことは聞けたからいーけどさ」

 名残惜しげに会話を打ち切ったポップに対して、チウはもどかしそうに両手を伸ばす。
「さあ、こっちは約束を果たしたぞ! おまえもちゃんと約束を守れよ」

「へいへい。ほれよ」

 と、ポップはバスケットごとアップルパイをチウに渡した。
                              


                                     《続く》

 

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