『傷のない心』 |
「あ、見て、ポップ、メルル! ここの宿、露天風呂があるみたいよ!」 マァムのその一言が、その日の宿選びの決め手だった。 「本当ですね。それなら、ここがいいかもしれませんね」 温泉の効能書きを見るふりをして店の入り口付近を確かめつつ、メルルも頷く。 今は男一人、女二人の構成とはいえ全員がまだ成人前の年齢では、女性だけの旅と同じ用心をするに越したことはない。 その意味で、この宿屋は合格だった。 大袈裟な文句を並べず、簡単な効能しか書かない点から見てもいかにも誠実そうで、安心して泊まれそうな宿だった。 「えー、ここかよ? ちょっと高いんじゃね? 温泉なんかどこも同じなんだし、もっと手頃な宿でもいいんじゃないのか?」 そのポップの言葉にも、一理ある。 店構えを見ただけで値段の見当ぐらいはつくだろう。安心して泊まれる宿は、その分お値段も張るのは旅に慣れた者にとっては常識だ。 だが、メルルは申し訳ないと思ってもポップには賛成したくはなかった。その気持ちは、運良くマァムも同じだったようだ。 「何言ってるのよ、ポップ! ちゃんと資金はあるんだし、ここにしましょうよ!! ここのところ野宿が続いたんですもの、たまには羽を伸ばしたいわ」 マァムに強く言われると、ポップはそれ以上は反対しない。苦笑しながらも、あっさりと頷いた。 だが、メルルには分かっていた。 旅慣れているだけに、ポップは最低限ラインの宿屋で経費や時間を節約してさっさと先に進みたがる傾向がある。それにまったをかけるためにも、マァムとメルルはことあるごとにいい宿屋に泊まろうと工夫し、理由を付けてはポップを誘うことにしている。 女の子が二人そろって温泉巡りに興味を持ち出したのも、そのせいだ。 それに上質の宿屋は、やはり寝心地も良いし良質の食事も提供してくれる。
「ね、お夕食前に先にお風呂に入らない? 今の時間なら、きっと空いているわよ!」 うきうきとした声で言いながら、マァムは返事も待たずにさっさと荷物を探りだす。 日のある間に少しでも長く歩き先を目指すのが、旅人の常識だ。 それよりは、先に風呂でさっぱりしてからゆっくりしたいと考えるのは自然な発想だ。――が、ポップはあまり乗り気ではない様子だった。 「んー、オレは後でいいよ」 男の子らしいと言うべきか、あるいは面倒臭がり家というべきか、ポップはあまり風呂は好きな方ではないらしい。 両親の躾か、あるいはアバンの教育の成果か、ポップはきちんと身支度は調える方で、余裕があれば風呂にはかかさず入るとはいうものの、それは必要だから仕方無くしている雰囲気だ。 風呂に入っても、ささっと身体を洗ってついでに洗濯を済ませるだけの短時間で終わらせてしまう。 「何言っているの、せっかくの温泉なのよ? い・い・か・ら、先に入りなさい!」 マァムに強く耳を引っ張られ、ポップは大袈裟に呻きながら立ち上がった。 「い、いいてっ、分かった、分かったって! 入るよ、入りゃいいんだろ!?」 「入るだけじゃだめよ、ちゃんとしっかりと肩までつかって暖まってね? 髪も洗った後はちゃんと乾かして! 面倒だからって、濡らしたままでいちゃダメよ!! だいたいポップはこの前だって――」 まるで母親であるかのように細かい文句を言いながらポップをせっついて支度をさせることのできるマァムを、メルルはどこか羨ましく思う。 メルルもマァムと同じように、ポップにゆっくりとお風呂に入ってほしいと思っているはずなのに、彼に強く言うことができない。遠慮なしにポンポンとやり合っているポップとマァムを、メルルはちょっぴり羨みながら見つめていた――。
(なんて……綺麗なのかしら) 心の底から、メルルはそう思わずにはいられなかった。 それぐらいにその身体は、美しく見えた。 ほとんど運動しない飼い猫とは全く違う、野生のネコ科の生き物に似た躍動美の感じられる身体つきだった。 柔らかさと緊張感という相反する要素が見事に調和しているのは、彼女が武闘家だからなのか。 もちろん、まだ16才の彼女はまだ女性として身体が完成している訳ではないだろうが、メルルに比べればずっと成熟しているのは間違いない。 「あの……あんまり、見ないでください。なんだか、恥ずかしいです……」 自分でもじっと彼女を見ていたのに自分勝手とは思うが、彼女に見られるのは恥ずかしくて堪らない。 これから一緒に温泉に入るのに、裸を見られるのが恥ずかしいだなんて矛盾もいいところだ。 メルルがポップとマァムと一緒に……というより、ポップの旅にマァムとメルルが無理やりついていく形での旅が始まってから、もうずいぶん経つ。 だが――感情は理屈などでは割り切れない。 「あ、ごめんなさい。ただ、すっごく綺麗だったから、見とれちゃったの」 その言葉に、メルルは驚かずにはいられない。 「えっ、そんな……っ。私なんかより、マァムさんの方がずっとスタイルがいいのに。羨ましいです……」 本心からの言葉なのに、マァムはそれを全く気にも止めてくれない。 「何言ってるのよ、やぁね、メルルったら! 羨ましいのはこっちの台詞よ」 その言葉に嘘はないのは、すぐに分かった。マァムはひたすら真っ直ぐな女性だ、在り来たりのおせじを適当に口にする人ではない。 「いいえ、そんな。マァムさんはご自分の魅力に気がつかれていないだけで――」 メルルから思えば、それは不思議でたまらないぐらいだ。 衣服にもほぼ無関心だし、汚れるのも厭わずに男性がやるような仕事でも平気でこなしてしまう。 年若い少年少女の三人旅だけに、よからぬ男やナンパ男から声をかけられることも多いのだが、男性からちょっかいをだされる率が高いのは圧倒的にマァムだ。 (それに……ポップさんだって、あなたのことが――) つい思い浮かんだ事実に、胸がちくんと痛む。だが、メルルが傷ついた表情を顔に浮かべるよりも早く、マァムが元気よく誘いをかけてきた。 「さ、それより早く入りましょうよ、せっかくの露天風呂なんだから」
湯に漬かってからのマァムのその呟きには、メルルも全面的に賛成だった。 「そうですね、いいお湯です」 露天風呂は思っていた以上に快適だった。中にはただ外にあるだけで使い勝手の悪い露天風呂や、見晴らしが良すぎてなんだか落ち着かない風呂もあるのだが、ここは違う。 きちんと屋根や風よけにも工夫が施されているし、男湯と女湯の間にはきちんとした仕切りもある。 「疲労回復に向くそうですから、ポップさんもゆっくりと入っているといいんですけど」 「そうね、そうしてくれればいいんだけど、あいつの場合、風呂を面倒がってさっさと上がっちゃうか、じゃなきゃ覗きをするかどっちかだもの。 丁度、メルルが心の中でこっそりと思っていたことをそのまま口にしたようなタイミングでのマァムの文句が、なんだかおかしくなってしまう。 聡明で、他人の本質をずばりと貫くような言葉を発するレオナに対し、マァムの言葉はただの感想に過ぎず、どこまでも素直だ。 「心配しなくても、ポップさんは今日は覗いたりしませんよ」 それは、予知ではない。 『占い師ってのね、恋をするものではないのさ。占う相手に過剰な想いをかければ、どうしても自分の希望や願望に心を乱されて占いを歪めてしまう。 そう教えを諭してくれた祖母の言葉を、忘れたことなどない。だが、優れた占い師でもある祖母の教えを守ることはできなかった。 「そうなの? まあ、メルルが言うのなら、安心だけど」 きょとんとした表情を見せるマァムは、メルルがなぜそこまで確信を持ってそう言えるのか、理解していないのだろう。だがそれにもかかわらず、疑いすらせずにメルルの言葉を受け入れてくれる素直さは眩いまでだった。 自分よりも一つ年上なのに、時々メルルはマァムが自分よりもずっと年下の、まだ恋すら知らない無邪気な少女であるかのような錯覚を抱いてしまう。 「はい、ご安心してくださって大丈夫ですよ」 確信を持ってそう告げながら、メルルはその理由は口にはしなかった。 マァムに対しては遠慮なく振る舞うポップだが、メルルに対してはどことなく遠慮がある……その差に、メルルはとっくに気がついていた。 意識してのものなのか、無意識のものなのかは分からないが、ポップがマァムよりもむしろメルルに対して、常に気を使ってくれているのは事実なのだ。 それに感謝こそすれ、文句を言うのはお門違いだとは分かっている。 そのせいで、マァムに脇腹に残った傷跡を見せてしまったのだから。
傷のことを知った途端、マァムはひどく熱心にそう言った。 「いえ……いいんです」 「どうして? 遠慮しなくても大丈夫よ、メルルの頼みをレオナが聞かないはずないもの。レオナなら絶対、こんな傷ぐらい簡単に治せるわ」 その意見には、メルルも同感だった。 公式の場でのけじめはつけるが、それ以外の場所ではレオナは自分の感情に素直で実行力に富んだ少女だ。 「いえ、本当にいいんです。……というよりも、この傷を消してしまいたくないんです。この傷は――私の、誇りですから」 初めて、ポップのために行動できた。 いつもぐずぐずと一人で悩むしかできない引っ込み思案の自分が、自分でもびっくりするほど勇敢な行動を取れた……そのことが、誇らしかった。 その傷に触れる度に、自分でもやろうと思えばあんなにも大胆なことができるのだと、励まされる。すでに心の支えとさえ言えるその傷は、メルルの中では勲章も同じだった。 「もし、私がポップの立場だったら……きっと、私、あなたの方を選んでいたわ」 (…………!) 虚を突かれ、メルルはしばし呆然としてしまう。 本心からそう思ったからこそ、そう言ってくれたのだろう。 (でも……違うんです) ポップは、どんなに傷ついても立ち直れる強さをもった少年だ。それこそ、心がズタズタになったとしても、彼は戦いを諦めはしない。 その心の強さに、メルルは何よりも心を惹かれた。 だが――マァムは違う。 だからこそ彼女には、傷一つない。 (――本当に、なんて純粋な人) 汚れない新雪のような白さと眩さを思わせるマァムに、メルルは感動せずにはいられない。 メルルのように嫉妬に心を悩ませることも、傷跡にすがりついて心を支えるまでもない心は、きっと、どこまでも汚れなく美しい。 (そんなあなただからこそ、ポップさんはあなたを選んだんです……) そう、言いたいとは思った。 自分の言葉がメルルを傷つけたと知れば、それはマァムに悲しみを与えるだろう。それはメルルとしては避けたかった。 「……ありがとうございます、マァムさん。そのお言葉だけでも、嬉しいですわ」 嬉しさだけで胸を見たし、笑顔でそう告げようとしたメルルの努力はどうやら成功はしたらしい。
『消えない傷』のメルル視点のお話です♪ しかし……いつもいつも、メルル視点のお話はなにやら切ない感じの話になってごめんなさいな気分です。 まあ、それはそれとして、このお風呂話は最初は三人のそれぞれの視点からお風呂でのワンシーンを書く予定のお話でしたが…ポップの部分は思い切ってカットしました。 ヒロイン二人がちょっと切ないこんな会話をしている傍らで、覗きを企んだ揚げ句、失敗してのぼせたりしたポップの話なんぞを書いたら それはそれで台無しになりそうな気がするので、別の機会に別のシチュエーションで書きたいと思っています(笑)
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