『釣竿を持たぬ太公望 ー前編ー』

 

「どうです、釣れますか?」

 親しげに話しかけてくる声は、ちゃんと聞こえていた。
 が、老人は振り返らなかった。
 その理由は一つ――ただ、面倒臭かったからだ。

 声の主に聞き覚えは無かった。というよりも、そもそも老人には自分に話しかけてくる相手など、思いつきさえしない。
 わざわざ知り合いのいそうな地を避け、人もめったにこないような海岸の洞窟に住み着いてから早十数年が経つ。

 近所など最初っから存在さえしないし、買い物でさえ移動呪文を使用して近場の町には決して行かないという徹底して人を避ける生活を送ってきた。

 数少ないであろう知り合い達も老人がこんな所にいるだなんて想像すらつかないだろうし、また、老人の方も下手をすれば数十年近くも連絡を絶ったままの知り合いの居場所などは分からない。

 偶然の再会なら拒む気はしないが、人間嫌いの彼としてみれば、知り合いでもない相手には関わる気さえない。

 それでも海辺で釣りをしていると、ごく稀にだが声を掛けてくる人間がいないでもない。同じ趣味の愛好家ということで親しみを感じるのか、釣人に声を掛けたがる人種というのはいるものなのである。

「へえ……大物狙いなんですね。それになかなか年期の入ったいい釣竿ですし。もしよろしかったら、見せてもらってもいいでしょうか」

 その声も、老人は無視する。
 少しでも釣りに詳しければ、老人の持つ竿や仕掛けが大物用だとは一目で分かるだろう。そして、普通の釣人なら自分の道具を褒められて悪い気はしないし、蘊蓄を語りたがるものだ。

 相手からこんな話を降られれば、まず十中八九の釣人は自慢げに自分の竿と話を披露するだろう。
 だが、老人は趣味を他人と共有する気はなかった。

 そんな義理も無いし、愛想を売る気も無い。下手に返事をすれば延々話しかけられ、邪魔をされることもあるので、無言で通す方が楽だと経験上知っている。

「おい、もしかして聞こえてねえんじゃねえのか、このジジイ? ボケているか、耳が遠くなってんじゃね?」

 後方からそんなボソッとした囁き声や、それをシッとたしなめる声が聞こえる。声を掛けてきた男の声とは明らかに別人の声だったが、彼はやはり振り向かなかった。
 気配で数人が来たことは察していたし、老いぼれ呼ばわりされたぐらいで腹を立てるほど若くはない。

 むしろ、耳の不自由な老人を相手にしても仕方が無いと思ってさっさと立ち去ってくれと思ったが、話しかけてくる方の男は諦めが悪かった。

「大物釣りがお好きなら、もっと大物を釣ってみたいとは思いませんか?」

 朗らかな響きの声は、かなり若い。
 声の張りといい口調と言い、少年とまではいかないが、ようやく青年になったばかりだろうかと思いながら、老人は海の波に揺れる浮きだけを見つめ続ける。

 普通の神経をもった人間なら、親しげに話しかけ続けたとしてもここまで徹底して無視されれば、そろそろ弱気になってくるものである。
 だが、声を掛けてくる青年の明るさは微塵も揺るがなかった。それどころか、とっておきの悪戯を仕掛けてくるような陽気さで言ってのける。

「たとえば……『魔王』を釣ってみたいなんて私が言ったら、あなたはどう思いますか?」

「……んん!?」

 誓って、振り向く気など無かった。だか、あまりにも突拍子も無い言葉につい、ガードが緩んでしまったらしい。
 思わず振り向いてしまった不覚を嘆く前に、目のあった青年がにっこりと笑う。

「やっと振り向いてくれましたね。初めまして、私はアバン。
 アバン=デ=ジニュアールと言います」

 予想通り、そこにいたのは若い男……まだ青年になったばかりと思える17、8才ほどの戦士だった。

 その少し後ろに、同じ年頃の男女が一組いるのも老人は見逃さなかった。片方は青年と同じく戦士らしく、同じ鎧をまとっている。女の方は僧侶なのか、飾り気のない僧侶服を着ていた。

 しかし、老人ぐらい世慣れていれば、野暮ったい僧侶服に隠されていようとも関係ない。彼女の起伏に富んだ体付きを見通すぐらい、朝飯前だ。

(ふむふむ、バストは88……いや、もしかすると90はあるかな。
 やれやれもったいないこったぜ、あの若さと美貌で神に仕える道を選ぶとはよ)

 ちらりとそう思ったものの、老人は珍しくも女性よりも目前にいる青年へと注意を向ける。
 シンプルだが実用性の高さが伺える、簡素の鎧にマントを羽織った姿は城に仕える兵士特有の正装だ。

 博学なマトリフは、その造りから青年がカール王国騎士団のものだと一目で見抜く。
 いかにも貴族風な名乗りに相応しく、どこか線の細さを感じさせる長髪の美青年ではある。……まあ、男には興味のない老人にしてみれば、野郎の顔の造作などどうでもいいことではあるが。

 顔立ちそのものよりも、気になるのは青年が浮かべているドヤ顔の方だ。
 一見、いかにも素直そうな好青年としか見えないのだが、その表情こそが老人の勘に引っ掛かってならない。

 なにやら一筋縄では行かない曲者を相手にしているような、そんな予感がひしひしと込み上げてくる。
 そして、その勘は間違ってはいなかった。

「探しましたよ、あなたが大魔道士マトリフですね。お会いできるのを楽しみにしていました」

 これ以上無いぐらい得意げな顔で、確信ありげに呼びかけてくるアバンに、老人――マトリフは音を立てて舌打ちをする。

(やられたぜ……! ったく、こんな若造にしてやられるとはな)

 長い間隠し続け、今となっては世間から忘れられかけたであろう『大魔道士マトリフ』の正体を、ものの見事に見抜かれてしまった。

 その悔しさに、マトリフは普段から決して愛想がいいとは言えない顔に、さらに苦虫を押し殺したような表情を浮かべる。
 だが、アバンと名乗った青年はなおもにこやかに話を続けた。

「あ、紹介が遅れてすみませんね。こちらにいるのは、私の仲間です。
 彼は、戦士のロカ」

 その言葉にざっと一歩を踏み出し、ぐいっと力の籠もった目でマトリフを睨んだのは、赤毛の若い兵士だった。
 おそらくはアバンと変わらない年頃だろうが、彼よりはいかつい顔立ちと筋肉質な体付きのおかげか、いかにも戦士という印象を与える青年だ。

 感情を隠そうともせず、じっと睨む目はやけに勝ち気そうで、ついでにいうのなら相当に気が短そうである。

「彼女は、僧侶のレイラ」

 その言葉に、僧侶の娘は丁寧に一礼する。
 黒髪のいかにも純朴そうな顔立ちの僧侶の娘もまた、アバン達とどっこいの年齢だろう。温和な目のせいで一見おとなしそうに見えるが、きゅっと引き締まった口許や意外としっかりとした眉に気の強さが見え隠れしている。

(Dだな)

 胸を見てそうチラッと思いはしたが、マトリフはそれを口にはしなかった。その代わりに、できる限り素っ気なく突き放す。

「……知らんな。人違いだ」

「おや、そうなんですか?」

 びっくりしたと言わんばかりに見開かれた目は、どことなくわざとらしい。大袈裟な芝居を観客以上に演技者自身が楽しんでいる、素人役者の雰囲気が漂っている。

「私はあなたこそが大魔道士マトリフだと、確信したところですけど。
 まあ、でもそれはたいした問題ではないですけどね。
 あなたが大魔道士だろうとそうでなかろうと関わらず、私は『あなた』を勧誘したいと思っていますから」

 さらりとマトリフの正体を流して、すかさず本題に持って行く手並みにマトリフは顔をしかめずにはいられない。

「交渉、だぁ?」

(この野郎、やっぱりただものじゃねえな)

 明白な証拠でもない限り、正体を追及する論議は水掛け論になるだけだ。
 それならのらりくらりと違うと言い続けて、相手が根負けするのを待てばいい。
 大魔道士の名声を欲し、マトリフを勧誘に来る者は今までもいくらでもいた。だが彼らが欲するのは百の魔法を操る最高級の魔法使いであり、正体不明の老人ではない。

 そのため、ほとんどの交渉人はマトリフが本物かどうか確かめようと、言質を取ろうとするのが普通だった。
 マトリフに言わせれば、そんなに馬鹿馬鹿しい上にほぼ意味のない確認作業だ。交渉の前に、すでに面倒な交渉をしなければいけないようなものである。

 マトリフが本物かどうかを確認することだけに拘り、どうしてもそれを認めようとしない相手に苛立ち、冷静さを失う者は多い。上手くすれば、それだけで腹を立てて立ち去ってくれる可能性が高い。

 だが、アバンと名乗ったこの若者には、そんな手は効きそうもない。
 マトリフが本物かどうか確認する手順などすっ飛ばし、さっさと交渉に入るつもりのようだ。

「ええ。実はですね、私は魔王ハドラーを倒すために旅をしているんです」

 いとも楽しげに自分の旅の目的を暴露する若者に、マトリフはしばし呆気に取られてしまう。
 だが、驚愕という程の驚きにはならなかった。

 人里離れた場所でひっそりと住んでいる割には、マトリフは世間の噂には詳しい方だ。たまに遠くの町へと買い出しに行く際、聞くともなしに噂話も仕入れるのが習慣である。どうやら魔王が現れたらしいという噂を、マトリフはとっくの昔に知っていた。そして、その噂と前後して流れだした勇者の噂もだ。

 聞くところによれば、カール王国最強の騎士が勇者として魔王退治の旅に出たと聞いた。噂によれば、その騎士はまだ若い青年だとは聞いてはいたが――。

「ふーん。じゃあ、おまえが巷で噂の勇者様ってわけか」

 いささかの皮肉を込めた呼び掛けに、連れのロカやレイラがムッとしたような表情を見せる。
 その反応は、マトリフの予想の範疇だった。

 仮にも勇者と名乗る者が礼を尽くして訪れたのなら、普通の人は歓迎する。自分達を助けるために魔王と戦ってくれる存在に対して、好意と応援の意思を示そうとするものなのだ。
 一国の王でさえ、勇者には無条件に面会を許可して話を聞くのが通例だ。

 そんな対応に慣れている勇者一行にとって、勇者になんの経緯を示さない態度は非常な失礼として写るだろう。
 そのまま腹を立てて立ち去ってくれればいいと思ったのだが、仲間達はともかく肝心のアバンはびくともしない。

「まあ、そう呼んでくださる方もいますね」

 自ら名乗りもせず、かと言って否定もしない言い方に、マトリフはわずかに彼を見直した。
 自ら勇者などと名乗る者など、マトリフは決して信用しない。なにしろ、本来『勇者』というのは職業ではない。

 世界を救うという偉業を達成した人間に対する尊称だ。なのに、自ら救世主とばかりに最初から勇者と名乗るような輩など、信用できるはずもないというのがマトリフの持論だ。
 しかし、勇者を名乗らないことに多少の好感は抱いたとしても、魔王を退治するために旅をしていると言った若造を信用する気も、マトリフにはなかった。

「で? おめえは魔王を倒せるって自信があるのかよ?」

 この質問にYESと答えるようなら、マトリフはその時点でアバンを見限っただろう。 どんな戦いであれ、勝負はやってみなければ分からない。どんな卓越した達人であっても負けることは有り得る。

 だが、自意識過剰な若者は恐いもの知らずだ。自分こそは勝つという根拠のない自信を持つ自称『勇者』に、マトリフは今まで何人も会ったことがあった。
 そんな馬鹿な若者なら、相手にする価値もない。
 しかし、アバンは笑顔のまま首を横に振った。

「まさか。そんな自信があるのなら、私はわざわざ仲間を求めたりしませんよ。とっとと一人で魔王を倒しています。
 ですが、残念ながら私にはそれだけの力が無い……だからこそ、協力してくれる仲間が必要なんです」

 そこで一度言葉を切ると、アバンはその手をマトリフに差し出してきた。

「どうです、仲間になっていただけませんか?」

 その言葉に対して、マトリフはどう答えるかすでに決めていた。

「やなこった」

 素っ気なく、取り付く島もない一言。より、相手を小馬鹿にしていると思わせるために、話の途中から完全に背を向け、鼻をほじって見せるのも忘れない。

「オレは世界がどうなろうと興味がねえし、わざわざ力を貸すなんて面倒なことなんざ御免だね。
 魔王も勇者も、どっちもどうでもいいってことは変わらねえよ」

 多少の誇張はあるが、それはマトリフの本心だ。だが、その言葉を聞いて、アバン以上にアバンの仲間達が血相を変える。

「そんなっ!? なんということをおっしゃるんですか!! このまま魔王を放置すれば、多くの人が苦しむのですよ!? それをどうでもいいだなんて……!」

 とんでもないとばかりに声を張り上げたのは、勇者ではなく僧侶の娘だった。神の愛を絶対と信じる女僧侶は、ひどく熱心にマトリフに正義を訴えかける。

「考えてもみてください! その中にはあなたの大切な人もいるかもしれないんですよ!? それなのに、なにもしないでいいんですか!?」

 レイラの唱える正義を、マトリフは冷笑を浮かべつつ聞いていた。
 若い娘らしく、理性よりも感情に訴え掛ける正論は、マトリフには青臭いものにしか聞こえない。

「いいさ。大事な人なんて代物はもうとっくの昔に、死んじまったからよ」

「え……!?」

 途端に、レイラの表情に罪悪感じみた色合いが浮かぶ。
 その反応は、マトリフにとっては予想通りだった。
 いくら僧侶とはいえ、この若さだ。まだ人の死に接した経験も、身近な人の死に傷ついた者を救った経験もないと見切ったマトリフの見立ては、確かだった。

 死という絶対的な現実を突き付けられ、いままで理想と信じていた正義に揺るぎを感じてしまった僧侶は、もはやただの若い娘だ。
 とどめを刺すのは、たやすかった。

「だからさっき言っただろう、世界になど興味はない、と。オレには今更、守りたいものなんざねえからな。
 戦う理由など、オレにはねえ」

 きつい言葉に、レイラがしょんぼりと黙り込む。が、その代わりに受けて立つとばかりに、ロカが憤慨もあらわに叫ぶ。

「なんだと、この臆病者めっ! てめえ、さっきからなんだかんだ言って、戦いが怖いだけじゃねえのか!?」

 分かりやすすぎる挑発の言葉など、マトリフには鼻先だけで笑い飛ばせる。まだ若く、血気盛んな男であれば、自分が臆病者と思われるのはこの世で最低最悪の出来事であり、それを回避するためにならどんな無茶もやらかすだろう。

 だが、マトリフがそんな意地や男の見栄に意味などないと悟ってから、随分と経つ。戦いを絶対と信じる若い戦士の言葉など、僧侶以上に攻略しやすい。

「ああ、怖いね」

「な……っ!?」

 さらりと挑発を肯定する老人を前にして、ロカが絶句する様子をマトリフは存分に楽しんでいた。
 戦いを恐れず、臆病者と呼ばれることの方を恐れる――若い男には有り勝ちの信仰だ。ロカにとっては、レイラの信じる神の教え以上の真理なのだろう。

 それを平気で覆す男がいるなんて、想像すらもしていなかったらしい。そんな狭い了見しか持たない若い戦士にも、マトリフは容赦しなかった。

「いいか、戦いを恐れない奴が勇敢なわけじゃねえ。戦いを恐れないってことは、死を恐れないのと同じこと――つまり、ただの自殺志願者も同然なんだよ。
 自ら死を望む奴に、どんな未来を望めるってんだ?
 戦いを恐れないなんて言う奴は、大嘘つきか、ただの馬鹿野郎だ」

 その言葉に、ロカは反論しなかった。顔を真っ赤にする程に興奮しているところを見れば、ロカにとってこの理屈が気に入らないものなのは間違いない。
 だが、それにも関わらず、ロカはマトリフの指摘の正しさを認めたのだろう。しかし、感情では納得しきれていない。

 それにも関わらず反論を必死に堪えている辺りに、この若い兵士の生真面目さや馬鹿正直さが伺える。
 その真っ直ぐさには好感を抱くが、マトリフはその感情を表に出さないまま容赦なく突き放す。

「向こうから魔王が来るってんなら、仕方がないからお相手ぐらいはするさ。
 だが、自分の身に降り懸かった火の粉ぐらいは払うが、自分から火の中に飛び込むほど耄碌しちゃいねえよ。
 おまえらが進んで火に突っ込むのは勝手だが、オレには関係がねえこった」

 その言葉に対し、ロカは憤慨の、レイラは困惑じみた表情を浮かべたまま沈黙する。それそれ自分が正義と信じる言葉を尽くして説得したのに、断られてしまった――その事実に、当惑しているのだろう。

 失敗した時の次の手段すら、彼らは考えてはいなかったらしい。失望を隠しもせずに立ちすくんでいるロカやレイラは、もう終わったも同然だ。

(ふん、他愛もねえな)

 そう思いながらも、マトリフの気にかかるのは二人の後方に控える青年の方だった。
 仲間達の落胆に比べ、アバンは微塵もがっかりした様子を見せない。まるでここまでは予測通りと言わんばかりの、落ち着き払った表情だ。

 そんなアバンの場違いなまでの落ち着きぶりは、マトリフにとっては逆に不安要素となる。

 洞察力に長けたマトリフは、相手の些細な言動から本音を読み取るのを得意としている。心を隠す術を知らない若者の思考などは、容易に見透かせる。
 だが、このアバンと言う若者は並の青年とは訳が違うようだ。言動にとらえどころがなく、真意が掴めない。

(いったい、なにを企んでやがる……?)

 老魔道士の疑惑をよそに、勇者とは名乗らなかった勇者は、静かな微笑みとは裏腹に挑発的に目を輝かせながら、その場に佇んでいた――。
 


                                     《続く》

 

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