『釣竿を持たぬ太公望 ー後編ー』

 

「ふ……っざけんな、この糞ジジイーっ! なにが文句はないだろうな、だっ、こんなのとんだインチキじゃねぇかよっ!?」

 ぷかぷかと浮かぶ魚の大群のショックから逸早く立ち直り、猛然と文句をつけだしたのはロカだった。
 短気なこの青年は、その淡い赤毛の髪以上に顔を赤く染め、手をぶんぶんと振り回しながら抗議する。

「釣りの勝負に魔法なんか使いやがって、卑怯もいいところだろうが!? 正々堂々と勝負しやがれっ!」

 アバン本人よりもよほど憤慨しながらのその熱烈な抗議を、マトリフはむしろ楽しんでいるかのように聞いていた。
 実に素直で真っ直ぐなこの単細胞の戦士の反応は、マトリフにとっては好都合だった。
「おいおい、よーく思い出してみな。
 勝負の条件を決めた時、道具は自由と決めたはずだぜ?」

 いささか皮肉な口調で釘を刺すと、ロカは一瞬、きょとんと目を丸く見張る。

「あ」

 思いだしたのか、ロカの表情に驚きが浮かぶ。と、そこに付け込むようにマトリフは畳みかけた。

「オレは言ったはずだ。夕暮れまでの間、魚を一匹でも多く手に入れた方が勝ち、だとな。その方法を釣りに限定するだとか、必ず釣竿を使わなきゃいけねえだなんて、一言もいってねえぜ?」

「う、うぅううう〜、この糞ジジイめ〜っ」

 悔しそうに歯ぎしりをしつつも、それでも文句は何とか堪えているところを見ると、この単細胞戦士は小細工や屁理屈など思いもつかない正直者のようだ。

 ロカの後ろでおろおろとロカとアバンを等分に見やっているレイラも、同じことだろう。普通は女性の方が口が達者な者だが、彼女は女の武器である泣き落としをかけようとさえ思わないらしい。

 となれば、やはり問題なのはただ一人――。
 どこか身構えながら視線を向けると、アバンは声を立てて笑った。

「ははは、参りましたねえ。さすがというか、お見事なお手並みです」

 まるで、スポーツマンシップを称える選手のごとく、アバンは爽やかな笑みを浮かべて拍手をしてみせた。
 その態度に、マトリフには意外に感じられた。

「へえ、思っていたよりも潔いじゃないか」

 正直な話、アバンのこの態度はマトリフには予想外だった。さすがにロカのように単純に文句をつけてくるとは思ってはいなかったが、なんらかの反論はしてくるだろうと思っていた。
 しかし、アバンは肩透かしを感じるほどさばさばと、自分の敗北を認める。

「ええ、この勝負は私の負けですよ。
 残念ですが、私にはどんな手段を使ったとしても、夕暮れまでの時間にこれ以上の魚を掴まえることなんてできませんよ。そもそも掴まえようにも、この辺にはすでに魚はいなくなっているでしょうしね」

 海を眺めつつ言うアバンの読みは、正しい。
 マトリフの使った呪文は、振動をよく伝える水中では広範囲に影響を与える。魔法の及ぶ範囲にいた魚はみな気絶しただろうし、辛うじて衝撃に耐えた魚や、異変を感じ取った魚達は逃げ出しただろう。

 アバンがどんなに悪足掻きしても、時間と場所の制限が有る限り彼に勝ち目はあるまい。
 だが、アバンは勝負に挑む気配も見せずに、水面に浮かんだ魚を数匹拾い上げたかと思うと、パンと手を叩いた。
 その途端、残った魚達は目覚めたのか一斉に身を翻して逃げ出した。

「ああっ、勿体ねえっ!!」

 と、思わずのように叫んだロカに、レイラが強い口調で叱りつける。

「馬鹿ねっ、そんなことを言ってる場合じゃないでしょ! 全く、食い意地が張っているんだから!!」

 と、怒鳴った後で人前だと気が付いたのか、ハッとしたようにまたしおらしげな顔に戻るものの、マトリフがそれを見逃すわけはない。
 やはりマトリフが最初に看破した通り、おとなしげな外見の割には気の強い娘らしい。

(あーあ、こりゃあこの戦士のニイちゃん、この娘とくっついたとしたら尻に引かれること間違い無しだな)

 若い男女の先行きを連想し、一瞬だけニヤリとしかけたマトリフだが、その気分に水を差してくれるのはアバンの飄々とした言動だった。

「まあまあ、ロカ。今日の夕食分は確保しましたし、いいじゃないですか。さっ、今日は飛び切り新鮮な魚が入りましたし、少し早いですがこの辺で泊まりましょう。
 支度を手伝ってくださいね」

 そう言いながら、さっさと歩きだすアバンの後を、仲間達が追う。その後ろ姿を見ながら、マトリフは違和感を拭いきれずにいた。

 アバンの仲間である二人はともかく、マトリフだけは気がついていた。
 魚達が一斉に目覚めたのは、偶然ではない。ましてや、アバンが手を叩いた音に驚いたからでもない。彼が手を打った瞬間に発動させた、魔法のせいだ。

 微弱な覚醒魔法を海に向かって広範囲に発動させたその手並みは、使った魔法の種類こそ違えどマトリフがやったことと大差はない。
 つまり――言い換えれば、アバンもまた、マトリフと同じ方法で魚を取ることはできたと密かにアピールしているも同然だ。

 決して負けてはいませんよとばかりに自分の力をアピールする態度とは裏腹に、あっさりと敗北を認めた諦めの良さをどう考えればいいものか。
 アバンの真意を測るかのように、マトリフは彼の背中と、その背後に伸びる影をしばらく見やっていた――。





「……おい、てめえ。こりゃあ、いったい何の嫌がらせだ?」

 暴力的と呼びたくなるような強さで、魚の焼ける香ばしい匂いが立ち込めてくる中、マトリフは不機嫌な口調を隠せなかった。
 その言葉に、アバンは全く心当たりがような済まし顔で、首を傾げて見せる。

「え? 嫌がらせってなんのことでしょう? 私はただ、夕食の支度をしているだけですが」

「その支度を、わざわざなんだってオレんちの前でしていやがるんだって聞いているんだよ!!」

 我慢が利かずに、マトリフはつい怒鳴ってしまう。
 マトリフ的には、全く一生の不覚もいいところだった。アバンの行動について少し考えていた隙に、アバンはさっさと海岸の一角で野宿の準備を進めていた。

 それがまあ、ものの見事にマトリフの居住している洞窟の真ん前だったりするのは、どう考えても作為的としか思えない。
 入り口の前に大きな岩を置いて、わざわざ目立ち難くしている洞窟を見つけだした目の良さにも呆れるが、さらに呆れるのはその態度だ。

 勝手に中に入るようなら不法侵入だと抗議して手加減無しに攻撃してやるが、アバンはそうされるのが分かっているかのように、入り口からは一歩も中には入らない。
 その態度がかえって、マトリフに逃げるという選択肢を選ばせなかった。

 マトリフがその気になれば洞窟に勝手に入られないように魔法で閉ざし、本人は移動呪文を使って世界中どこへでも逃げることもできた。

 それは今まで何回か使ってきた、勧誘よけの方法の一つだ。
 愚直に洞窟の前で座り込みを続けるような頑固者を躱すためなら、マトリフは洞窟を放棄したって構わない。

 特に仕事があるわけでもなく、また、家族もいない気ままさで、マトリフは気分次第で時折数日から数週間の旅にフラリと出かけるのは勧誘抜きにしてもよくあることだ。
 だが、今回ばかりはその手を使いたくはなかった。

 認めるのはいささか悔しいが――このアバンと言う男から目を離せない。目を離した隙に何か企まれるのではないかとか、封印を施した洞窟内に侵入されるのではないかなどと、益体もない考えばかりが頭をよぎる。

 それぐらいならば、洞窟に戻って密かに見張っていた方がまだマシだろうと思った。知らん顔を決め込んで、無視をしていればなんの問題もないだろう……と、思っていたのだが、問題は大アリだった。

 他愛もないことではしゃぐ若い男女の声や、邪魔なことこの上なくも、よりによってマトリフの洞窟のすぐ目の前で始めだした料理風景だけなら無視もできた。
 ただ魚の焼く匂いと多少の煙たさを感じる程度なら、我慢もたやすい。

 が、食欲に強く訴えかけてくる嗅覚を完全に無視するのは、いかに大魔道士と呼ばれるマトリフであっても難しかった。

 しかも単に魚を焼いているだけではない。
 アバンは魚の匂いを香ばしくするために、香草か何かをふんだんに使っているのだろう。
 さらにいうのなら、どうやらアバンは単に焚き火を起こすのではなく、魔法によって熱した石をオーブン替わりにして魚を焼いていたらしい。

 簡単そうなようでいて、それは焚き火以上に難しいことだ。石を充分熱し続けることのできる魔法力が必要なのだから。
 その成果は見事なもので、普通に魚を焼く時のような煙っぽさなど微塵も感じない。代わりにずっと豊潤で、食欲をそそる匂いだけが洞窟内にまで立ち込めている。

 洞窟共通の欠点として、入り口以外に通風孔がないため匂いはなかなか消えず、いつまでも香り続けているのがまた癪に障る。
 とうとう我慢できなくなって文句をつけたのだが、アバンときたらその反応さえも予測済みだと言わんばかりの笑顔で、料理された魚を丸ごと一匹さしだした。

「お裾分けをするには、熱いうちにお渡しできる場所で調理する方が都合がよかったもので。
 タイミングも実にナイスですね、ちょうど今、焼き上がったところなんですよー。
 よろしければ召し上がってください」

 アバンはそう言ったが、パンやサラダだのスープだのまできちんと用意されている辺り、野宿のお裾分けというレベルを超えている。

 アバンやその仲間達と同じだけの量が用意されているし、なによりもこの品揃えの豊富さは並じゃない。料理店に出てきてもおかしくはないと思えるほどのご馳走である。

 にも拘らず、彼らはこれが当たり前とばかりに平然とした顔で木の葉の皿にのせたご馳走にぱくついていた。

(こいつら、たかが野宿のための食事にどんだけ凝った料理を作っていやがるんだ?)

 と、呆気に取られた顔を誤解したのか、アバンはしごく真面目に言い添えた。

「あ、ご懸念なく。
 これは勝負や勧誘とは無関係ですからご安心を。なぁに、ちょっとしたサービスというか、あなたの家の前の場所をお借りしたお詫びとでも思ってください」

(いや、そんな問題じゃねえだろ、これ)

 とは思ったものの、そこを指摘しても面倒になるだけのような気がして、マトリフは賢明にも無言のまま魚を受け取り、一口齧る。

「……うまいな、これ」

 マトリフにしては珍しく、素のままの感想がぽろりとこぼれ落ちる。
 料理は、冗談抜きで絶品だった。
 普通の人以上に旅の経験が豊富で、各地の名物料理やら王宮の料理さえ口にしたことのあるマトリフにとっても、その味は一級品と思える。

「そうですか、ありがとうございます。
 ははは、料理勝負と言っておけばよかったですね、私としてはもっとも得意な分野ですので」

 そう言ってのけるアバンは何の裏表もなく、年相応の無邪気さで屈託なく笑う。

「ふん、おまえさん、勇者なんかよりも料理人でも目指した方がよかったんじゃねえか」
「あー、それも悪くないかもしれませんね」

 皮肉混じりの言葉にも、アバンはびくともしない。
 そして、彼はそれ以上マトリフの勧誘もしなかった。陽気に、だが節度を守ってマトリフの洞窟の先で一晩を過ごし、翌朝、簡単な挨拶だけを残して旅だった――。





 ゆらり、ゆらりと小船は揺れる。
 月明かりの下で一人、沖釣りを楽しむ――普通なら危険極まりないからまずやらないようなそんな贅沢な釣りも、魔法を自在に使えるマトリフにとっては容易く行える。

 望むのなら、魔法の力で明かりを生み出し、真昼のように明るくして魚を引き寄せることもできるし、釣りに飽きればいつでも瞬間移動呪文で帰ることもできる。
 絶対の安全保証があるからこそのんびりと釣りを楽しめるはずだが、マトリフの関心は釣りなどには無かった。

 揺れる浮きを眺めている間も、どうにもアバンのことが気になってしまう。
 力の底が見えない上に、本心が見透かせない不透明な勇者。
 それでいて、開けっ広げで人の気を緩めさせるような雰囲気を持っているのだから不思議なものだ。

 側にいると、つい、うかうかと気を許してしまいそうになる。
 自称や国王やお偉いさんからの推薦つきのも含めて数多くの勇者に誘われた経験のあるマトリフにとっても、勇者アバンは一目置くに値する一風変わった勇者だと認めざるを得ない。

 だからといって仲間入りする気はもちろんなかったが、忘れられない印象の強さを残す勇者であることには間違いない。

(へッ、野郎のことなんざをこんなに気にかけるとは、オレもヤキがまわったものだぜ)

 まとわりつかれれば、うっとおしい。だが、こうも簡単にあっさりと立ち去られると、なにやらかえって裏でもあるのかと気になってしまう。

 だからこそ、マトリフはアバンが旅だったの見送った後、自分も『旅』に出た。瞬間移動魔法を使い、さらには飛翔呪文を使って自宅が割の洞窟を遠く離れて海のど真ん中へと移動した。

 それは、万一の用心のためだ。
 アバンは少しもそんな素振りを見せなかったが、彼が戻ってくる可能性をマトリフは予見していた。

 なにしろ、あれほど高度な魔法をさりげなく使っていた器用な男だ。
 移動呪文の使い手だとすれば、定住の家を知られた時点でいくらでも押しかけてくる可能性がある。

 だからこそ、マトリフは今度こそ旅のつもりで洞窟を出た。アバンが魔王を退治する旅をするのとは逆に、魔王や勇者を避けるための旅だ。
 昨日とは正反対の手段に出たマトリフだったが、それでも予感が無いわけでも無かった――。





「どうです、釣れますか?」

 親しげに話しかけてくる声を、マトリフは今度は無視しなかった。即座に振り返ると、そこには予測通りの人物が立っていた。

 マトリフ一人しかいなかったはずの小船の舳先に、ごく当たり前のようにマントをたなびかせて佇んでいる。
 目が合うと、アバンは穏やかに微笑んだ。

「残念、驚かないんですね。さすがは大魔道士というわけですか」

 驚きが全くなかったわけではないが、捻くれ屋のマトリフは自分の感情を素直に表現するのが苦手だった。
 だからこそ内心の驚きを隠し、いささか皮肉めかせて尋ねる。

「そんなことより、てめえ……昨日は自分の負けだとかいってなかったか?」

 そう尋ねながら、マトリフの口調には刺はない。なぜならマトリフにとって、聞く前から答えは分かっているようなものだった。

「私は負けたらこの先も二度と勧誘しないだとか、すっぱりと諦めるだなんて、一言も言っていませんよ? 
 ただ、あの勝負での負けを認めただけのことです」

 昨日のマトリフの口調を真似ながらさらっとそう言ったかと思うと、アバンは揺れる小船の上で膝を突いて座り込み、姿勢を正した。

「今日は、正攻法でやらせていただきます――お願いします……! どうか、私に力を貸して下さい」

 そう言いながら自分を見据えるアバンの目には、マトリフでさえハッとする気迫があった。
 真正面から人をしっかりと見据えるその目には、真摯な光が宿っている。

「あなたは昨日、世界がどうなろうと興味が無いとおっしゃいましたが、私は大いに興味も関心もあります。
 この世界が魔王によって滅ぼされ、多くの人達が踏みにじられようとしている……それが分かっていて、何もしないなんて我慢できません……!」

 一言、一言に、言うに言われぬ力が込められている。これがあの飄々とした惚けた男と同じ人物かと思うほど、強い光に満ちた目がマトリフを見つめていた。
 その気迫に気圧されるように、マトリフは小さく息を突く。

「フン……だから、自分が魔王を倒そうってか? さすが勇者ってのは心構えが違うぜ」
 しかし、意外にもアバンはその言葉に首を大きく横に振った。

「いいえ。私は自分が勇者だとも、勇者に相応しいだとも思えません。それに……勇者になりたいと思ってもいません」

 今や世界中から勇者と認められているはずの青年は、自分自身が勇者であることを否定する。
 だが、それでいて彼の『勇者』への希望は揺るがなかった。

「ですが、私は勇者を目指す子供達がいるなら、心から応援したいと思っています。
 私が望むのは、子供達が自由に夢を見て、未来に希望を抱ける世界です。しかし、このままでは子供達の未来は閉ざされてしまう……!」

 強い意志の籠もった言葉が、胸を打つ。思いもかけない強さで、胸が揺さぶられる。
 ――それを、人は感動と呼ぶのかもしれない。
 だが、マトリフは素直にそれを表現するのには年を取り過ぎていた。

「未来の勇者、ねえ。……そんな奴が現れるなんて、本気で思っているのかよ?」

「ええ、私は信じています。
 子供達を信じるからこそ、人間は未来へと希望を繋ぐことができる……だからこそきっと、現れますよ。
 勇者に憧れるだけで無く、勇者になろうと思う子供達は、きっといます」

 強い輝きはそのままながら、アバンの目にどこか優しい夢を見るような色合いが混じる。まるで、その眼差しの先に実際にその勇者志望の子供達がいるかのように。
 まだ見ぬ勇者の姿を彷彿とさせるその眼差しに釣られたのか、その視線を追うようにマトリフは自分の後ろを振り返った。

 だが、もちろんマトリフの背後に誰がいるわけでも無い。
 見えるのはただ一面の夜の海と、それを照らしだす下弦の月だけだった。だが、その光景と海を渡る夜風が、マトリフに持ち前の冷静さを取り戻させてくれる。

 アバンの熱意に押されてしまった気持ちに一区切りをつける意味も込めて、マトリフはそのまましばらく月を見やる。
 夜風の心地好さをいっぱいに浴びながら、マトリフは背中を向けたままアバンに話しかけた。

「……昨日はおまえさんが勇者よりも料理人に向いてると思ったがよ、教師の方が向いてるんじゃねえのか?」


 教師の第一条件は、なんと言っても子供達への信頼だ。
 子供の可能性を信じ、認めることこそが、その才能を開化させる基礎となる。
 そうですかねと照れたように呟く声を背に聞きながら、マトリフはふとさっき感じた疑問を口にしてみた。

「そういやぁ……どうやってこの場所が分かったんだ?」

 なにしろこの場所はマトリフ自身でさえはっきりとは知らない場所だし、目印も何もない海のど真ん中だ。

 移動呪文だけでは決して来るのは不可能なはずなのに、それをどうやって成し遂げたのか……魔法使いとして純粋に興味が湧く。
 その問いに対して、アバンは特に隠す気配も無く答えた。

「合流呪文――リリルーラを、ご存じですか?」

 その呪文の名を、もちろんマトリフは知っていた。
 早々に冒険者のパーティに興味を無くしたマトリフ自身は習得する気さえ無かったが、知識は充分にある。

 今ではもう廃れてしまった古代期の魔法の一つで、移動系呪文の傑作と言われている魔法だ。
 迷宮内で外れた仲間と一瞬で合流できるこの魔法の特徴を知っているだけに、マトリフの疑問も大きくなる。

「だが、あれは迷宮でしか効かねえ呪文じゃなかったか? それに、あれは仲間でないと効果はねえはずだが……」

「そうですよ。ですから、あなたが釣りがお好きで助かりましたよ。
 あなたが海にいるかどうかが鍵になりました。海は、世界中どこにでも繋がっている……つまり、海は世界で一番大きな迷宮とは考えられませんか?」

 屁理屈にも等しい持論をぶってみせる勇者に呆れるのは、まだ早かった。ごく当たり前のように、アバンは自信満々に言葉を結ぶ。

「それに――私にとっては、あなたはすでに仲間ですから」

「はァ?」

 思わず呆気に取られたマトリフは、つい振り返ってしまっていた。おかげで、アバンが悪戯っぽく目を輝かせながら笑う顔がよく見える。
 その目はやはり揺るぎなく真っ直ぐに、マトリフを見つめていた。

「ほら、一緒に釣りをしたじゃありませんか。一緒に楽しんで、一緒に同じ食事をとった人は、私にとっては仲間です。
 たとえ、あなた自身がそうは思ってなくてもね」

 波の音だけが、やけに耳につく沈黙の時間はそう長く続かなかった。
 長くないどころか、ほんの束の間の時間――それをおいて、マトリフは爆発するように笑いだした。

「――負けた、負けた! オレの負けだな」

 言うだけでは足りず、膝をピシャンと叩きながら、笑い転げる。これほど笑ったのは何年、いや何十年振りだろうと思いながら、年甲斐も無く笑い転げるのは壮快感があった。 笑い過ぎたせいで息が切れてもなお、クックと笑いながらマトリフは諸手を挙げて降参を認める。

「オリャア、魔王も勇者もどっちも似たようなもんだと思っていたが……どうやら違うらしいな。
 魔王なんかより、勇者の方が遥かにタチが悪いぜ」

 ひどい言われようですね、などというアバンの言葉などもちろん無視する。
 なにしろこの勇者と来たら、一方的に人を仲間だと見込んで無茶な頼みをもちかけ、拒否権すら認めようとしないのだから。しかも問答無用で、すでに仲間だと決め付けてしまっている。

 マトリフがそれを認めるまで、どんなに逃げようが追いかけてくる気も、それだけの手際もあることはすでに立証済みだ。
 しかも、こんなにも無茶なのにどうにも無視できない。やることなすことが奇想天外過ぎて、次の行動の予測もつかず、ついつい目を引かれてしまう。

 これほどタチの悪い勇者など、見たことも聞いたこともない。
 マトリフは巷で噂の魔王などとはもちろん会ったこともないが、会う前からすでに確信があった。

「どちらかをぶっ倒さないと平穏な生活が手に入らないってんなら、やっぱり勇者よりは魔王を倒すって方が筋ってモンだろ。
 多分、そっちの方がおまえさんよりも倒しやすそうだしな」

「買いかぶりだとは思いますが、お世辞だとしても嬉しいお言葉ですね」

 褒めているとはとても思えないマトリフのその言葉だが、アバンはとびきり嬉しいプレゼントをもらった子供のように、手放しの笑顔を浮かべる。

「それにしても……マトリフ、あなたのおかげで、未来の夢が一つ増えましたよ」

「夢?」

「ええ。さっき言ってくださったでしょう、私が教師に向いているって。
 魔王を退治した暁には、勇者の家庭教師なんて名乗ったりするのも楽しそうですね」

(なんだよ、その間抜けな職業は)

 そう思ったものの、マトリフは別に異議は唱えなかった。遠い未来の就職などよりも、今は優先すべきものがある。

「まあ、未来の勇者なんかは後でゆっくり探してくれや。とりあえずは今は……、どんなに詐欺師じみていようがおまえが勇者だ。
 しかたがねえから、てめえに力を貸してやるよ、アバン」

 マトリフの延ばした皺だらけの手を、アバンの張りのある手が、しっかりと握り締める。
「ありがとうございます、マトリフ。
 あなたのような魔法使いが手を貸してくださるとは、心強いですよ」

 月夜の下で、二人の固い握手が交わされる。
 こうして、勇者一行に魔法使いが加わった――。            

              END



《後書き》
 499997hit 記念リクエストの『原作以前:マトリフを口説き落とすアバン先生』でした! 原作にはない部分なだけに、捏造度満載です♪

 ダイがマトリフに協力を要請した時、マトリフはアバンを思い出しているのですが、ダイとアバン先生って共通点があるようでないんですよね〜。
 自分を犠牲にしてでも正義を貫こうとする正義感こそは似ているんですが、それってダイがアバンを真似たというか、アバンから学び取ったもののような気がするんです。

 性格や顔立ちが似ているわけでもないし、マトリフはダイの懇願のどこにアバン先生の面影を見出だしたのかなと思うと、なかなか難しかったです。

 まあ、どっちにしろアバン先生はダイのように素直じゃないし、真っ直ぐに頼む正攻法の他にもいろいろやっていそうだと思って、複数攻撃をしかけてみたりして。
 原作者様がダイを透明感のある勇者と表現していましたのを思いだし、アバン先生は逆に思いっきり不透明な勇者にしてしまいました(笑)

 

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