『胸に手を当てて −前編−』

 

 その日の午後、パプニカ王女レオナはことのほかご機嫌麗しかった。
 お気に入りの中庭で、とびっきりのティーセットを用意して過ごす、珍しくも二人っきりのお茶の時間。
 これで機嫌がよくならないはずがない。

(んふふっ、ダイ君と二人っきりなんていつ以来かしら?)

 浮き浮きしながら、レオナはお茶の準備に余念がなかった。
 ダイが地上に戻ってきてからと言うものの、仲間達が常にダイと一緒に居たがるためにレオナは彼と二人だけで過ごす時間はそう多くはなかった。なにしろ他ならぬダイが、何かというとポップを呼びたがるのである。

 まあ、ダイにとってポップは親友であり、特別な絆で結ばれた仲間であることを考えれば、それも無理もないといえば無理もない。
 それにレオナにしてみても三人――ダイとポップとレオナで飲むお茶や食事が、嫌いなわけではない。

 ポップはレオナにとっても大切な仲間であり、この上なく頼りにもしている気のおけない仲だ。まあ、ポップはレオナにとってはいい友人ではあっても、きっぱり恋愛対象外ではあるが。

 お茶の時間に、ダイとポップがそろって顔を出してくるのをレオナは楽しみにしている。明るく陽気で、しかも機転の利いているポップとおしゃべりをするのも、レオナの楽しみの一つだ。

 が、たまには恋する少年と二人っきりの時間を過ごしたい――そうこっそりと願うのも、乙女にとっては無理からぬことではなかろうか。

 しかし、レオナはその願いを誰にも言いはしなかった。
 言ったら最後、叶ってしまうからだ。
 パプニカ王女であるレオナの願いは、ある意味で命令も同然だ。たとえレオナ自身が冗談のつもりで口にしただけでも、家臣達はそうは思うまい。

 主君の意向を果たそうとして、いろいろと手を打ってくる可能性がある。それだけならいいのだが、妙に気を回して話を大袈裟にする可能性があるからこそ、かえって口には出来ないのである。

 たまにはダイと二人でお茶を飲みたいというだけの希望を、ポップが邪魔だと解釈して彼を政治的に追い落としたりするような極端な動きをする過激派が登場したりするかもしれない。

 まあ、これは大袈裟な例えだが、それでもレオナの希望がかなりの確率で強引に――しかも望まぬ形でかなえられてしまうのは間違いない。
 そんな形で権力を施行する気のないレオナにしてみれば、恋愛気分に乏しくとも三人でお茶をするのに不満はなかった。

 しかし、だからといってダイと二人で過ごしたいと思わなかったわけではない。さりとて、自分からそれを望むのはいろいろと引っ掛かりやためらいがあり、気が進まない……そんなレオナにとって、ポップの発言はまさに渡りに船だった。

『なぁ、姫さん。思うんだけどよ、いっつもいつも三人で揃って行動しなくてもいいんじゃねえかな?』

 ふと思い付いたようにそう言い出したのは、ポップ本人だった。

『これからはダイと姫さんだけの時間を、少しずつ増やしてみるってのはどうよ? お邪魔虫は退散するから、お茶や食事なんかは二人で楽しんだらどうだい?』

 恋乙女にとってはそれこそ願ってもない提案に、ポップの姿が一瞬天使に見えてしまったぐらいである。

(ふふふーんっ、ポップ君もたまには気の利くことをしてくれるじゃない♪)

 浮かれて鼻歌を歌いたい気分のレオナの目に、元気いっぱいにかけてくる少年が映る。
「レオナー、ごめん、遅くなって」

「ううん、いいのよ、あたしも今来たところだから」

 恋人同士の待ち合わせの定番の台詞を、レオナはためらうことなく口にする。実際にはいつもよりも念入りにお茶の準備をするレオナは、かなり前から来ていたせいでかなり待っているのだが、そんなことはもちろん馬鹿正直に言う気などない。

 いつものようにレオナの向かいの椅子に座ろうとしたダイは、空席を見てきょとんとした顔になる。

「あれ? ポップは?」

 そう聞かれることなど、想定内である。だからこそレオナは落ち着き払って、予め用意しておいた言い訳を口にした。

「ああ、ポップ君なら、今日はお茶は執務室でとるって言っていたわ。残念だけど、彼、ここしばらくは忙しいらしいのよ」

 そう言うとダイはあからさまにがっかりしたような顔をしたものの、これが終わったら尋ねればいいじゃないとフォローすることですぐに元気を取り戻す。

「そっか、じゃしかたがないね。
 あれ、レオナ、今日のおやつはすごいね! 美味しそうなのが、いっぱいあるや」

 ダイの好みに合わせ、ボリュームたっぷりのおやつをそろえたのが功を奏したらしい。いつもの元気を取り戻し、おやつをぱくつきだしたダイを過ごすお茶の時間を、レオナは存分に楽しんだ。

 おしゃべりなポップと比べるとダイは口数が少ない方だが、レオナの話を熱心に聞いてくれるその態度が好きだ。
 また、ダイの話してくれる素朴な話もレオナは気に入っている。

 今日の授業や宿題は難しかったとか、剣の訓練であったことなど……正直、ダイの会話運びはあまりうまいとは言えないのだが、話す内容そのものよりも一生懸命に話すその態度が可愛らしく見えてしまうのは恋する者の欲目というものか。

「ねえ、レオナ。おれ、聞きたいことがあるんだけど」

 会話が少し途切れた後、ダイが改まった様にそう尋ねてくる目などは、特にたまらなかった。

(あぁんっ、やっぱりダイ君のこの目って可愛いすぎるわっ)

 勇者としてのダイも、いい。凛々しく引き締まり、年の割には大人びた表情を見せるダイだってもちろん好きである。が、こんな風に手放しに子供っぽい純真な目を向けられるのもたまらない。胸をぎゅうっと鷲掴みにする、小動物的な可愛らしさに満ちたこの顔ときたら絶品だ。

 まだ子供っぽさが抜けきれていない今の時期ならではのものだと分かっているだけに、貴重性すら感じてしまう。

「ええ、いいわよ、なんでも聞いて」

 今なら国家機密を聞かれたとしても抵抗せずに答えてしまうかもしれないなどと王女にあるまじきことを思いつつ、レオナは微笑む。
 そんなレオナに対して、ダイは至って真顔のまま、無邪気に爆弾発言をかました。

「おっぱいを触るのって、気持ちいいことなのかな?」





「どう思う、エイミ、マリン!? これって……これって、やっぱり……っ、やっぱりそういうことしたいって意味なんだと思うっ!?」

 やけに勢い込んで真剣にそう問い掛けてくる主君を前にして、エイミとマリンはまずは目を真ん丸くし、それから二人そろって目を見交わせる。

「それ……、本当にダイ君が言ったんですか? ポップ君じゃなくって?」

 と、思わず聞き返してしまう辺りに、三賢者姉妹のダイとポップへの評価が現れているようである。

「間違いないわよ、ダイ君がそう言ったのよっ! いい、あのダイ君がよ!?」

 レオナがここまで力強く保証するからには嘘ではないのだろうが、しかしそれにしても意外な話だとエイミもマリンも思わずにはいられない。

 怪物島育ちで常識が欠如しているダイは、どうもまだ女の子への興味が薄いところがある。同年代の少年ならば、そろそろ女の子を意識し始める頃合いなのだが、ダイときたらいまだにどうにも子供っぽい。

 未来の婚約者候補であるレオナの側に来るよりも、親友のポップと遊んでいる時間の方がずっと長いのだから呆れたものだ。
 そんなダイがいよいよ女の子へと興味を持ちはじめたのだとしたら、それはそれでめでたいことである。

 個人的にダイもレオナも知っている彼女達からみれば、お赤飯を炊いてお祝いしたい気分だ。
 レオナがダイと将来結婚したいと考えているのは、側近である二人はよく承知しているのだから。

 しかし、ダイがまるっきりお子様すぎて、結婚どころかレオナを女の子としてちゃんと意識しているかどうかも怪しい状態では、まだまだこの話を進めるには早すぎる。
 そう思って自粛していた彼女達にとっては、ダイが異性に興味を持ちはじめたのは大いに結構なことである。

 ――が、それはそれで問題がないわけでもなかった。

「それは……おめでたい話ではありますが、ですが姫様、その、婚姻前に軽はずみなことをするのはどうかと思いますわ」

 最年長のマリンが、迷いながらも分別臭い意見を口にする。
 王女と勇者の婚儀には諸手を挙げて賛成だし、王位継承問題を考えればできるなら一刻も早く子供も生まれてほしいとも思うが、その中には欠かせない決まり事というのがある。

 十代で嫁ぐのが珍しくないのが王家の女子の宿命とはいえ、結婚前には純潔が求められるものだ。

 たとえ相手が婚約者であったとしても、婚前交渉は問題になりかねない。政治的な問題を考えれば、まだ若い二人をノーブレーキで突っ走らせる訳にはいかないと思うのは、側近として当然だ。

 が、意外にもと言うべきか、それから真っ向から反対する意見が思わぬところから上がる。

「えー、そうかしら? 私だったら……許しちゃうかも」

「ちょっと、エイミッ、何を言うのよっ!?」

「だってっ、せっかくのチャンスなのよっ!? 相手がその気になった時に出し惜しみして、そのせいで相手があっさりと引いちゃったりしたら、悔やんでも悔やみきれないもの」

 毅然とした口調できっぱりと言い切るエイミは、どう見ても本気としか思えない。姉としては、妹のこの意見は到底聞き捨てならないものであった。

「って、気軽にとんでもないことを言わないでよ、エイミッ!? っていうか、嫁入り前の娘がそんなはしたないことを言っていいと思っているのっ!?」

「はしたないって、姉さんって案外古いのね」

 と、少しばかり挑発的に妹は姉を笑う。
 ほとんど双子に間違われる程に見た目も大差がなく、実質的にも二歳と年が離れていないとはいえ、年齢差を気にするのが女の性(サガ)というものなのか。

「そりゃあ姉さんはアポロって決まった相手がいるからいいでしょうけど、こっちはこれからが勝負なのよ!? しかもライバルは山ほどいるし……っ、もしそんなチャンスがあったら逃せるわけないじゃない!」

「それは焦り過ぎってものでしょ! それにねえ、決まった相手がいるから安心するなんて早いのよ!? だいたいアポロったら優柔不断なところがあるから他の娘にはっきりと言えるタイプじゃないし、それはそれで大変なんだから!」

 なにやらアポロにまで飛び火した不穏な姉妹喧嘩が唐突に勃発する傍ら、レオナはレオナが自分で自分の胸に手を当てて、ブツブツとうわ言の様に呟き続けている。

「……ボリューム……足りないかしら? ああ、でも……ダイ君の好みって……」

 ……いやはや、王女執務室は時ならぬ女子らの喧騒で大わらわであった――。






「情けない話で恐縮なんですが、いったい何が原因なんだか私にもさっぱり分からないだ。心当たりもなくって……」

 と、途方に暮れきった顔で答えるアポロの顔は、気の毒なぐらいにげっそりとやつれきっていた。
 三賢者のトップとして、普段は城の平穏を保つために地味で目立たない作業を一手に引き受け、怠けることなくコツコツ働いている彼にしては珍しいことだった。

「今朝は普通だったのに、先程訪れた時はなんともぎすぎすした微妙な雰囲気で……何があったのかとこっそりとマリンに尋ねても『知らない! 自分の胸に聞いてみれば!?』と、取り付くしまもないんだよ」

 レオナだけでなくエイミ、マリンの様子がおかしい――その話を、ヒュンケルはアポロからこっそりと打ち明けられた。
 こんなことは、ごく珍しい。

 付き合いが長いだけに、アポロはレオナのわがままやエイミやマリン姉妹の喧嘩の仲裁などには慣れている。ダイやポップでさえどうしようもない時でも、アポロが彼女達を執り成してなんとか丸く収めることも少なくはない。
 ……が、そのはずなのに今回ばかりは、彼の手にさえ負えないらしい。

「女の機嫌は変わりやすいとは言うけれど、三人そろいもそろって一気に不機嫌になるだなんてことは今まで一度もなかったのに……。
 しかもいつもならマリンは何があったのか教えてくれるのに、今回はそれもないんだ。それどころか、私のことを妙に冷たい目で見る始末だなんて……」

 苦り切った顔で相談を持ち掛けるアポロの口調は、すでに後半はただの愚痴になりかかっていた。

「そうか。……だが、悪いが、オレにも思い当たることはないな」

 アポロには気の毒とは思うが、正直なところ、こんな話を聞かされてもヒュンケルには何も出来ない。

 たまたま擦れ違った際、アポロの顔色が悪い様に見えたからなんの気なしに挨拶ついでに大丈夫かと尋ねただけなのだが、まさかこんな打ち明け話を聞かされるとは思いも寄らなかった。

 まあ、レオナを初めとしてエイミもマリンも国の中枢に近い重要人物だ、彼女達の機嫌はただの女の子の気紛れとは訳が違う。そうそう気軽に他の人の耳に入れることも出来ないし、それを思えばアポロがヒュンケルに愚痴を言いたくなる気持ちも分かる。

 ヒュンケルは別にアポロとそう親しい訳ではないのだが、レオナの近衛隊隊長と仕事柄、レオナの側近である三賢者のリーダーのアポロと接する機会は少なくはない。
 おまけにヒュンケルならばレオナを初めとした女性達の地も知っていることだし、口も堅い。愚痴をこぼす相手としては、最適だろう。

 そう思ったからこそおとなしく愚痴に耳を傾けていたものの、それ以上を求められてもヒュンケルには何もできやしない。
 だが、アポロはそうは思っていない様子だった。

「ああ、すまない、何もあなたに原因があるだなんて思っていないんだ。ただ、もしかして……姫とダイ君と何かあったのではないかと思ってね」

「ダイと?」

 意外な言葉に、ヒュンケルはかえって疑問が深まる。
 ヒュンケルから見れば、ダイとレオナがケンカをしたとは思いにくい。おおらかで細かいことを気にしないダイは、そもそも自分からケンカをするようなタイプではない。

 レオナだけでなく、ポップがわがままをふっかけたとしてもニコニコして従うような、そんな上になんとかがつくほど素直な性格である。
 もし何か揉め事があったとしても、ダイが折れる形ですんなりと片付くだろう。
 しかし、アポロはやはり沈痛な表情のまま愚痴をこぼす。

「姫やマリン達の様子がおかしくなったのは、姫がダイ君とお茶をした後のことなんだ。たまにはポップ君抜きで、二人っきりでお茶を楽しむという話だったのだが……。そこで何かがあったとは思いにくいし思いたくはないが、しかし、他に原因が思いつかなくてね」





「ダイ。こんなところで何をしているんだ?」

 ダイがいたのは、城の中庭だった。
 そこはどちらかといえばポップが気に入っている場所で、天気のいい時にはよくそこで昼寝をしたり、木陰で本を読んでいる姿を見かける。
 だが、今、ここにいるのはダイ一人だけだった。

「あ、ヒュンケル。小鳥に餌をあげてるんだよ、ポップに頼まれたんだ」

 と、答えながらダイは手にした紙袋からパンくずを取り出し、その辺に撒いてやる。普段から餌づけされているのか、人慣れしている小鳥達は人間を恐れる様子がない。
 実にのどかな光景だった。

(特に様子が変にも見えないが)

 少なくとも、ヒュンケルの目にはダイはいつものダイのままに見える。
 アポロが懸念していた様に、レオナと何かあったようには見えない。小鳥に餌を撒く以上に自分がパンくずをもぐもぐ食べているダイに対して、ヒュンケルは単刀直入に切り込んだ。

「何か、悩みでもあるのか?」

 ド直球だった。
 アポロには、よければそれとなく様子を見てほしいなどと頼まれたが、ヒュンケルは『さりげなく』というのは苦手にしている。
 そしてまた、ダイもまたやたらめったらと真っ直ぐな気性の持ち主だった。

「うん、そうだけど。ヒュンケル、どうして分かったの?」

 拍子抜けするぐらいあっさりと悩んでいる事実を認めるダイに、ヒュンケルはわずかに苦笑する。

「いや、なんとなくそんな気がしてな。……どうだ、ダイ。もしオレでよければ、その悩みを話す気がないか」

 いたって控え目に、ヒュンケルはそう口にする。
 それに対し、ダイは少し考えてから口を開いた。

「あのさ……おっぱいに触るのって、気持ちいいことなのかな?」


                                         《続く》

 

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